第 八  リバイバルについて



 『アハブは食い飲みするために上っていった。しかしエリヤはカルメルの頂に登り、地に伏して顔をひざの間に入れていたが、彼はしもべに言った、「上っていって海の方を見なさい」。彼は上っていって、見て、「何もありません」と言ったので、エリヤは「もう一度行きなさい」と言って七度に及んだ。七度目にしもべは言った、「海から人の手ほどの小さな雲が起っています」。エリヤは言った、「上っていって、『雨にとどめられないように車を整えて下れ』とアハブに言いなさい」。すると間もなく、雲と風が起り、空が黒くなって大雨が降ってきた。アハブは車に乗ってエズレルへ行った。』(列王紀上十八・四十二〜四十五)

 皆様、今晩は、リバイバルについてお伝え致したい。キリストの教会は、リバイバルに負うところ甚大であります。リバイバルの時には、多くの人々が、キリストの御許に聚められ、教会に加えられます。リバイバルは大いなる恩恵の時であります。定めし皆様もそれに多く負うところがあることでありましょう。
 今までを見るに、あまり多くの説教なくしてリバイバルの起こった例はあります。また全然、教会の組織なくして起こったこともある。しかし、多くの祈祷なくしてリバイバルのかつて起こった例がありません。今晩はリバイバルのための祈祷への召命であります。ついては、皆様を、かの雨を求めたエリヤの祈りへお導き致したい。これはリバイバルの祈りの一つの雛形であるからであります。ここで預言者が雨のために祈ったと同じように、今も私共がリバイバルのために祈るならば、祈祷は確かに答えられて、リバイバルは起こる次第であります。今この祈祷の中にあるいくつかの型を見ることに致しましょう。
 第一に、これは従順なる魂の祈祷であります。エリヤは地に伏して、その顔をひざの間に入れていた。これは彼の従順を現しています。彼はかねて、神のなせと命じたもうところを悉く行って参りました。神の命令はかなり困難なものでありました。しかし彼は、徹頭徹尾、従って参りました。神は彼に、身をアハブに現せと仰せたまいました。これは彼にとっては実に苦しいことであったけれども、彼はこの命令に従ったのであります。そして、彼らに向かい、その宗教に向かって、厳粛なる吟味を致したのであります。その顛末は聖書に記されておりますが、かくて彼はバールの預言者らを嘲り、破れた祭壇を繕い、その上に新しき燔祭を献げ、祈祷をなして神の応答を待ったのであります。これらはすべて彼がいかに従順であったかを語っております。すべての筋道を尽くして、今や彼は、嶺頂に、かく俟ち望んだのでありますが、もし、少しの不従順でもあったならば、彼はどうしてこの山に登り来ることができましょうか。神は不従順なる者の祈祷に答えたまわないでしょう。私共もリバイバルを求めますか。それを成就せんがために神はあなたに何か求められるかも知れない。敵に会えと仰るか、罪を告白せよと命ずるか。彼の命じなさることがたとえ何であっても、まずそれに従ってなしたるのち、跪いて祈るべきで、これが第一になすべきことであります。
 その次は、従順なる魂の祈りであるばかりでなく、全く献身したる魂の祈りであります。エリヤは第二の祭壇を築いて燔祭を献げました。これは神に献身していることを示すもので、彼はこれによって彼自身を新しく神の前に献げたのであります。あなたがあなた自身を全く神に献げ尽くした時、あなたの祈りは新しきものとなり、あなたはその霊魂を全くこれに打ち込んでしまうことができます。しかる時、その祈りには新しい力が加えられるのであります。兄弟姉妹よ、あなたは全く献げたる者としてリバイバルのために祈ることができますか。わたしは、そんな人が必ずここにあることを信じます。
 数年前にインドに起こったことをお話し致しましょう。かしこに私の親しい友がいます。彼はかしこで大いに用いられた者であります。今はもう老人です。彼は一時、インドを去りましたが、天に召される前に、今一度インドを訪れたいと言っていました。その祈りは聴かれて、彼は再びインドの人となりました。或る時、こういう集会を開いて、イエスに全部を献げよと説教した後、証会を持って、証言のある者はするようにと勧めますと、一人の者が立ち上がりました。かねて聖徒として知られていた人です。彼は布頭巾を被っていたが、それを頭から少し持ち上げて、『このものの包んでいる一切が悉く主イエスのものです』と語った。兄弟姉妹、あなたもかく言うことができますか。そのために祈りますか。その時、リバイバルに対する力は新しくせられるのであります。
 第三に注意すべきことは、この祈祷は、燃えている魂の祈りであるということであります。燔祭は、彼にとっては新しい献身の行為でありますが、神の火が降ったということもまた一つの徴であります。燔祭は献身の徴、この火はペンテコステの徴であります。すなわち、火が彼を捕らえた、神の火が彼の魂の中に燃え込んだということを示しているのです。どうかこのことを深く考えていただきたい。あなたの魂には火がつけられておりますか。衷なるもの悉くが神に向かって燃ゆるものでありますか。どうかペンテコステの火に燃えてリバイバルのために祈りとうございます。
 この祈祷にもう一つの方面があります。すなわち重荷を感じている魂の祈りです。エリヤの魂の中には重荷がありました。彼は第一、艱み苦しんでいる民のさまを見た。何処を見ても、三年間の旱魃のため、苦しんでおる者ばかりである。人も獣も草木も枯れ死につつある。この様を見た時に、エリヤの心は痛みました。しかし彼の心には、更にそれ以上の重荷があった。すなわち民の信仰状態、その罪の有様であります。彼らは特別の憐憫を蒙ってエジプトより救い出され、神の恩恵に浴する神の民でありながら、今は神に背き、心は汚され、身をバールに献げているという始末である。エリヤはこの状態にこそ、より大いなる重荷を感じ、この重荷の圧迫は彼の祈りとなったのであります。兄弟姉妹よ、私共は、民のため、国のため、神の前に平伏してリバイバルを祈る必要がないでしょうか。教会内の重立つ人々である役員たちは何をしていますか。彼らの様子を見る時、リバイバルを叫ばざるを得ましょうか。ああ私共はこの祈りの重荷を負わせられなければならない。またすべて堕ちている人々を見る時いかがですか。あなたは心も痛めずに平気で過ごされますか。また既に救われている信者の家庭において、未だ救われない子供等を見ていかがですか。あなたはこれらのことに関して考えますか。涙を流したことがありますか。もしないとすれば、自らのために泣いてリバイバルを求むべきではありませんか。これらのことを考える時、リバイバルのための重荷はなければならない筈であります。私は神に全く献げた魂のために感謝する。しかし彼らはみな、全く献げ切っているだろうか。魂に向かう熱情を持っているであろうか。聖に対して強烈なる熱情を有しているであろうか。クリスチャンを標榜する皆様よ、信者としての標準は保たれておりましょうか。ああ神より来るリバイバル! しかり、リバイバルは焦眉の緊急問題であります。
 日本には、数年の間、キリスト教に関する印刷物が配布されております。これは数百万の未信者に読まれているわけであります。また、まだ信じないが、主につける幾分の知識を持っているという人々にも読まれておりましょう。かかる人々を、いかにして生ける主との真の接触ある魂とすることができましょうか。リバイバルを要します。私はまたこんなことを聞きました。日本には、隠れて神に奉仕している弟子たちが多くあると。隠れたる者が多くあるということは、誠に喜ばしいことであるが、しかし、それらのひそかな弟子たちが、みな公の弟子となったならば、その幸いはまた格別でありましょう。彼らを励ますものはリバイバルであります。
 次にまた、日本にある数千万の未信者を思っていただきたい。彼らは永遠の破滅に向かって歩を運びつつある。しかも、これら不信の人々といえども、やはりあなたが贖われたと同様、贖われているものではありませんか。彼らが生命なく、純潔なく、罪の中に世渡りしつつある様を見ては、私共はリバイバルの必要を痛切に感ぜずにはおられないのであります。
 エリヤの祈りにはもう一つの方面があります。それは謙った魂の祈りであります。民の罪を負うて神の前に自らを低くして祈っております。
 最後にこれは信仰ある魂の祈りです。第一に、エリヤは、神は祈祷に答えたもうと信じた。そして大胆に、神に奇蹟を求めました。彼は、神は不可能をなしたもう、奇蹟を行い得たもうと信じたのです。また彼は、神は約束を果たしたもうと信じました。そして、神の約束を捕らえた。彼は一つの手をもって神の力を握り、一つの手をもって神の約束を握った。そして神にすがりついたのである。『神はなし得たもう』、それは『彼がかく語りたもうたから』。『神はなしたもう』と信ずる、それは『神がかく約束したもうたから』。ここに神を動かす秘訣がありました。おお皆様よ、一つの手をもって神の力におつかまりなさい。そしてもう一つの手をもって神の約束を握りなさい。神は嘘を言いたまわない。神は真実なる者に在したまいます。
 エリヤの信仰を別の方面から学ぶことができる。それは、彼は祈ると共に見守っていた。信仰の期待です。答えを、今来るか、今来るかと見守った。しかもそれは何処でであったか。カルメル山の嶺頂においてであった。その祈祷は山麓においてはできなかったか。しかり山麓においてもできたであろう。それならば、エリヤは、どうして山の頂に登ったか。一つの理由は、誰もいないところ、ただ神と二人のみおるところ、これは大いなる信仰の助けであります。もう一つの主な理由は、カルメル山は聳え立つ岩山であるから、海を見渡す眺望に便でありました。雨が現れるとすると、現れるや否やまず第一に、かしこにおいてその最初の影を見ることができた。これは必ず来るとの彼の信仰のしからしめたところである。ここで暫く彼の信仰を見よう。彼は答えの来ぬ時にも失望をしなかった。それは必ず来ると信じていたからであります。どうか、彼の信仰と、彼のしもべの信仰とを比較してみたい。エリヤはそのしもべに、上っていって海の方を望めと命じた。しもべは上って見たが、何も見えぬという。もう一度見て来いと言う。また行ったが帰ってきて、何も見えぬという。何遍行ったって、何で見える筈があるものかと、心の中では呟いていたかも知れない。エリヤはしもべに、おまえは何も見えぬと言うが、見えるまで見張っておれと命じた。これは信仰から来ています。かくてしもべは、七度も見に行った。そして七度目に帰って来て、『人の手ほどの小さな雲が起っています』と報告した。『手ほどの、ごく僅かな雲が見えます。しかし、それだけしか見えません。あんなものが見えたって、何になりますか。或いは雨がちょっぴり降るかも知れない。しかしあんな僅かな雲ではだめでしょう』、これはしもべの見方であったのです。しかしエリヤはこの雲を何と見たのでしょう。彼は信仰の人でした。信仰は、ものを大きくして見るレンズを持っている。疑いが、ただ、雨の一滴をしか見ない時に、信仰は沛然たる大雨を見ています。しもべがちょうど人の手ほどの僅かの雲が見えたと言った時に、エリヤはアハブに告げて雨にかからぬようにせよと言えとしもべに命じました。しもべは、雨など降る様子もない、ただ、手ほどの雲が見えただけであるのに、車の用意などして、もし降らなかったらどうするであろうと、彼はこんなことを考えていたことでしょう。また、これは冒険だ、危険だ、もう少し様子を見てからにしてはどうか、雲がもっと大きくなるかどうか、今のところ手ほどの雲である。もう少し広がってからでも遅くはあるまい。こんな風にも考えていたかも知れない。兄弟姉妹よ、信仰には『もし』という字を入れる余地がありません。エリヤは神は確かに与えたもうと信じた。神は彼の信仰をご覧なさった。神は祈っている魂を馬鹿にはなさらない。やがてエリヤの祈りは聴かれた。洪水はやって来た。すべての要求は満たされた。神はけちな御方ではない。我らの願うところ、思うところにさえいたく優った量において与えたもうが常です。かくエリヤに答えたもうた神は、今も同じ神であります。どうかリバイバルのために祈りなさい。私共もエリヤの信仰もて祈るならば、必ず答えられるのであります。私は皆様が、リバイバルに対して大いなる渇望を持っておられることを信ずる。リバイバルはいま来りつつあります。どうかこれがために祈りなさい。神の側の用意は整っています。そして私共の信仰もて叫び求めることを待っている。神はここにそれを与えたまいたい。今、与えたまわんことを。祈りましょう。



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