第 三  霊魂の安息



 『わたしは言います、「どうか、はとのように翼をもちたいものだ。そうすればわたしは飛び去って安きを得るであろう。」』(詩篇五十五・六)
 『すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。』(マタイ十一・二十八)

 今晩は皆様の思想を聖書の二つの聖言に導きとうございます。第一は詩篇五十五篇六節、第二はマタイ伝十一章二十八節であります。主イエスは『重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとに来なさい』と仰せたまいました。どうかこの第二の聖言と第一の詩篇のとに注意致したい。一は少しの平安もない人間の心の叫びであり、二はその叫びに対する主イエスのお答えと見ることができます。
 さて、今は平安のない時代であります。人の心は平安を求めて叫んでおります。今は活動の時代であります。人々は忙しく駆け回っている。そうしてはその中に疲労しきっております。今は快楽の時代です。彼らは日に夜を継いで快楽を追い求め、享楽の限りを尽くしております。しかしこの世の楽しみは人々を倦み疲れさせるのみであります。彼らは様々の方面に、実は、平安を求めているのです。しかし平安を与える者は主のみ。主イエスの他に平安を与え得る者は何もありません。世の楽しみも地上の成功も平安を与えない。私は平安がほしい、私に翼があればよい、さらばいずこにか飛び往きてこれを獲ようものをとは、世人一般を代表してのこの詩篇記者の心持ちであります。
 しかるにここに一つの招きがあります。『わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう』とは主イエス・キリストの招待であります。平安を得ていないすべての人への呼び掛けであります。主は傍らに立っていらっしゃる。しかして罪の中に、楽しみの中に、権力の中に、しかも平安なくしてさまようすべての人々に優しく声をかけて、我に来れ、さらば我安息を与えんと招いていたもうのであります。兄弟姉妹よ、もしあなたが耳を傾けるならばあなたは今晩その聖声を聞くことができます。今晩、しばらくこの安息について語りましょう。この安息に三つの方面があります。第一は主の上に安息すること、第二は主の中に安息すること、しかして第三は、主と共に安息することであります。まず主の上に安息するという思想について考えてみたい。
 主の上に安息すること、これはちょうど家がその土台の上に建てられているさまであります。もしその土台が悪ければその上にある家は危険です。主はかの山上の垂訓において、二人の建築家とその二軒の家について譬えを語りたまいました。二人の建築家が思いを凝らし、金を用い、時を費やして各々家を建てた。双方とも外観は立派に、少しの差のあるようにも見えなかった。しかるに、或る時、暴風が襲って二つの家を撃った。そしてここに非常な差が現れた。すなわち一つは倒れ、一つは毅然として風雨を凌いで立ち残った。何故でありましょう。一つは砂の上に建てられ、他は磐の上に、磐を土台として建てられたからであります。すなわちこの二つの家の倒れるも倒れざるも、一にその土台に原因したのであります。
 主の上に安息するということは、平安の礎をイエス・キリストとすることであります。しかもこれは皆様が安息すべき唯一の礎であります。もしあなたがその望みを教会の上に、信仰箇条に、宗教的儀礼の上に、ないしは信仰の働きの上に立てていなさるならば、やがて早晩験しに堪えぬ時が来るでありましょう。しかし、主イエスの上に、主の贖罪の聖業の上に立っているならば、如何なる地震、風雨の試練にも覆されることはない。主キリストこそは私共の永久の礎であります。
 数年前のことでありました。一人の信者が急病にかかりました。取るものも取りあえず駆けつけた牧師は、既に死の影の漂う危篤の病人を見て驚き、見舞いの挨拶を述べました。『こんなに急に病気に罹りなさって‥‥‥』と。その時『沈む(sinking)』という言葉を使われたのでありますが、病人は牧師の言うことが腑に落ちぬ面持ちなので、もう一度同じ言葉を繰り返しますと、『危篤に陥る(sinking)と仰いますか』と病人は淋しい笑いを浮かべながら、『先生、磐を貫いて沈んだ人を見たことがありますか、またそんな人のあったことをお聞きになったことがありますか。水の中では沈むこともありましょう。砂の中でも滅入ることがあるかも知れません。しかし主を頌めよ、私は私のために死んで下さった主の千歳の巌の上に立っていますから、こんな時にも決して沈むことはありません』と答えたそうであります。私共は、ただ主イエス・キリストという土台の上にのみ立つべきであります。私共の望みは十字架に架けられたまいし彼の中にのみあります。彼こそは悩んでおられるあなたの心中に安息を与え得る御方です。いま彼を受け入れなさい。いま彼を信頼しなさい。そしてかくお叫びなさい、『私は罪人です。しかし主よ、あなたは私の罪を負うてくださいました。私の負債をあなたは償却なしてくださいました。私は一切をあなたにお任せ致します』と。しからば、救いは忽ちにあなたの心中に入って参ります。そしてあなたは主の上に安息することができるのであります。
 第二は主の中に安息することであります。これは土台の上に立つのでなく、住居人が家の中に住むように、主の中に安んずることであります。これは安息という点からは更に深い経験であります。それはどんな意味でありましょうか。主の臨在を現実に意識することによって、より深い安息が私共の霊魂の中に入ってくることであります。主のご自身の民に対しての臨在の約束は次の聖言によって示されております。『わが臨在、汝と共に往くべし』(出エジプト記三十三・十四英訳)、『わたしはあなたの前に行って』(イザヤ書四十五・二)、『イスラエルの神はあなたがたのしんがりとなられるからだ』(イザヤ書五十二・十二)、『山々がエルサレムを囲んでいるように、主は今からとこしえにその民を囲まれる』(詩篇百二十五・二)、『わしがその巣のひなを呼び起こし、その子の上に舞いかけり、その羽をひろげて彼らをのせ、そのつばさの上にこれを負うように、主はただひとりで彼を導かれて』(申命記三十二・十一)、『とこしえにいます神はあなたのすみかであり、下には永遠の腕がある』(申命記三十三・二十七)。何という驚くべき臨在の約束でありましょうか。共に、前に、後ろに、周囲に、上に、しかして下に、前後左右上下、ぐるり八方ご自身もて取り囲みくださる御約束であります。これは真理であり、事実であり、しかもあなたのため、私のためのものであります。
 私はこれについて教えられた教訓を思い出します。御聖霊は種々な教訓を与えたもう御方ですが、直接彼より受けた教訓はなかなか忘れられません。どこでどんな風に何を教えられたか、誰でも常に記憶致しております。或る年の十一月、アイルランドの南の方で集会を持った時のことであります。アイルランドの十一月といえば荒れ月でありますが、ある夜恐ろしい嵐が起こりました。翌朝、朝食のために下の部屋へ下りて参りますと、風は吹き荒んでいる。雨は篠つくばかり、樹の枝はあちらに撓み、こちらに折れ、葉は吹きちぎられて宙に飛び舞う、実に嵐そのものであります。ふと部屋の中に気がつくとこれはまた何たる穏やかさでありましょうか。テーブルの上には食事の準備も整っている。ストーブには火が赤い。外と内とは何たる相違でありましょう。戸外は荒れ狂う暴風雨であるが、室内は平和そのものであります。何故ですか。それは申すまでもなく、嵐と私共との間にこの家があるからです。この家にして大丈夫である限り、嵐はいかに猛るとも、私共はこの家の中にあって平安であります。ふとその時、心の中に声が致しました。『幼子よ、ここにおまえの学ぶべきことがある。私はおまえを全く嵐のない世界に連れて行くとは約束しない。またおまえには決して嵐は吹き寄せないとも約束はすまい。おまえにもやはり嵐は起こるであろう。しかしその時には、嵐とおまえとの間に私が入ってやる。おまえは私に在って平安であることができる』と。こののち間もなく主はこのご教訓を現実にしてくださいました。かの欧州大戦のみぎり、ある朝、英国陸軍省からの一通の電報は、私共の家庭に大暴風を巻き起こしました。かねて従軍中の長男が戦死したとの知らせです。家内は椅子に泣き伏しています。二人の妹は床の上に打ち倒れて泣き入っておる。私は打ち震う手に電報を持ったまま無言にその中に立ちつくしたが、忽ち一瞬にして主は私共とこの嵐との間にお立ちくださいました。言うことのできない平安が私共に与えられて参りました。
 どういうわけで多くの信者は今一段深い霊魂の安息を経験しないのでありましょうか。それは多くの信者は主の上に安んずることを知っているが、主の中に安息することを知らないからであります。主の中に安息するに妨げとなるものが四つある。今それを簡単にお話し致しましょう。
 まず第一は疑惑であります。もし疑惑を心に入れるならば、安息を追い出すのであります。同時に誘惑をも迎え入れることになります。あなたが真に信頼しているならば、疑いは起こらない。したがって疑いより起こる様々の誘惑に打ち勝つことができます。疑わせようとする誘いと、何か他の恐ろしい罪を犯させようとする誘いとを同様に取り扱いなさい。
 第二は失望であります。サタンはあなたに失望させようとして働いてくる。あなたの子供等のさまを見せたり、あなたの祈祷の長く答えられないことを思わせたり、その他あらゆる誘惑をもってあなたに失望させようと謀ってきます。私はどの集会にも悪魔が私を失望させようと誘ってくるのを感ずる。その理由は、ムーディ師の言われたように、神はうなだれたる霊魂を用いたもうことができない。また失望は疑惑の半ばである。悪魔があなたを失望させることに成功したならば、疑わせることはたやすいことであります。失望に対する一切の誘いを、何か他の恐ろしい罪に対する誘いのごとくに扱いなさい。
 第三の妨げは屈託であります。地上現在の事柄にあまりに捕らわれ、心身共に細心にこれに屈託しすぎることであります。これは多く男子に当て嵌まることでしょう。しかしご婦人達にもかなり思い煩いに心を占領されておる者もある。アイルランドの一人の信者で事業を持っている者がありました。だんだんそれに成功し、支店なども設けてかなり手広く続けていた。私は一日、彼と打ち解けて語り合ったことがありますが、彼は言う、『事業がいつでも私の考えを占めている。私は事業のことを忘れることができません。寝れば事業のことを夢に見、醒めれば事業のことを考えます。教会に行っても半ばは事業のことが念頭にあり、跪いて祈ろうとしてもなお念頭を去りません』と。そこで私は彼に言いました。『君は主が君になさしめようとしている以上に働いている。そのまま続けるならば、君は事業のために自らを亡ぼしてしまうであろう』と。しかし彼はそれを聴かなかった。そしてますます事業に成功したが、後二年ならずして彼は墓場の人となりました。すなわち彼はあまりにも事業に屈託して自らを亡ぼしてしまったのであります。この集会の皆様の中に、かかる人のなからんことを望みます。
 次は第四の妨げです。これは今まで申し上げたこととは非常に性質の異なったものであります。すなわちお互いの生涯に起こる様々な神秘を解釈しようとする努力であります。私共の生涯には解せないことが多い。神様はどうしてかかることを許したもうのであろうかと訝らざるを得ぬことどもの多いことであります。しかしそれを強いて解こうとする努力は主の中にある安息を妨げ、その中から私共を引き出してしまう曲者であります。アイルランドに一人の医師がありました。彼は敬虔深い人であった。また貧しい者には無料で診察し投薬したほどの同情に富んだ人でありました。或る日、停車場へ行く途中、心臓麻痺でこの世を去ってしまいました。それを知った彼の町の人々はこぞって彼の死を悼んだ。私も悲しんだ一人であります。次の週、私は同じ教会員である一人の病人の姉妹を訪ねました。彼女は件の医師を識り、その世話を受けていた一人でありますが、私に向かって、『どうしてこんなことになったのでしょうか。あの人はこの町のすべての人になくてならない大切な人であり、私はあってもなくてもよい役に立たぬ人間ですのに、どうして私は生き残って彼は死んだのでありましょうか。私は彼に代わって死んだ方がよかったのに。どういうわけで神様はかかることを許したまいますか』と申します。私は答えました、『答えは一つ、主ご自身の聖言です、「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」』と。私共は今は解らない。知る光を持っていない。知る方法もない。今のところ知ることは不可能である。しかしやがては知ることができましょう。
 私は若い時、自分の生涯の計画を立てたことがある。が、父は賛成してくれなかった。もし理由を説明してくれたら得心もできたであったろうが、教えてくれなかったから、私は父が私の願いの道を往かして下さらないことに対して父を恨んだ、酷い父だと思ったのであります。しかし、その後追々成長して、今は異なった立場からその問題を観察しまた考慮することができてみる時に、もしあの時、私が自分の道を辿っていたならば、今頃は身も魂も破滅であったことを知ることができています。お互いは子供です。幼子です。時には酷い天の父と思いますか。しかし兄姉よ、やがて一切を、知られるごとく知る時が参ります。その時至るまでは、神秘は神に委ねて、主の中にある安息を破られたくないものであります。
 さて最後に主と共に安息することでありますが、今は主の上に安息し、また、主の中に安息致しております。しかしかの時には、主と共に安息するのであります。ヘブル書の記者は、『こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである』(四・九)と言っております。私共が現在において持つ安息は貴いものではありますが、最後のものではなく、完全なものでもありません。罪のこの世に完全なる安息はありません。それはかの世においてであります。私はたびたび旅行し、世界を巡っております。しかしまだ船に馴れません。その船の中でも豊かなる憩いを頂きます時、実にそれは喜びでありますが、しかしそれは家に帰ってゆっくりと休むようなわけには行きません。現在この世においての安息は、ちょうどこの船中の休息のようなものでありましょう。今は航海中です。やがて航海は終わって家に着きます。私共の真のホームはここではない。かしこである。一日一日私共はホームに近づきつつあるのです。嵐は私共の天に着くまで追って来るものではありません。どこかで全く静まってしまいます。私は数年前に南米へ行ったことがあります。その時、ブラジルの海岸で酷い時化に出会って、私は病気になってしまいました。船は夜の間に一つの港に入りました。そこは世界にも名だたる美しい大きい港で、幅は半哩もあり入るに従って瓶の口のように細くなっている。船は夜の間にそこに入りました。翌朝、陽は赫々と輝いていた。そして海は全く穏やかであった。しかし外はと見れば、外海はまだ荒れ狂っているのでありました。私共が天のホームに着く時もちょうどこんな有様でありましょう。嵐はいつまでもついては来ない。私共はやがて、永久に、主と共にその平安に入ることでありましょう。『こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。』
 愛する兄弟姉妹よ、皆様の中にまだ救われておらぬ方があるならば、きょう救われなさい。罪の中には決して平安は見出されない。主は今宵あなたにこの平安を提供していたもう。わたしのもとに来なさい、あなたがたを休ませてあげようと。『主よ、私はあなたに参ります。私の真心をあなたの贖いの中に入れ込みます。主よ、ただいまお救い下さるためにあなたに信頼致します』と申し上げなさい。
 またもし、皆様の中に堕落したお方がおりますか。かつては恩恵の中にいた。しかし今は落ち込んでいる。さまよっている。さらばやはり主にお近づきなさい。そしてかく申し上げなさい、『主よ、今ひとたびお頼り致します。安息はかき破られました。みじめさは旧に倍しています。主よ、あなたのほかに行くところはありません。主よ、いま受け入れて下さい。立ち帰って参りました』と。さらば主はお約束のごとく今宵あなたを恢復なしたまいます。今お帰りなさい。
 最後に、愛するクリスチャン達よ、この世においての深い主の安息を知っておいでですか。主はこれを与えたく思し召したもう。しかしてあなたの霊魂をご自身の中に閉じこめたく、嵐の時にも、その間に立ちたまわんと招きたもう。主は今晩あなたを招いております。おまえは私の中に隠れよ、わが裡に宿りおれよと。『主よ、しか致します。ただいま致します。どうぞ受け入れて下さい。今あなたを信じます。』これがあなたの祈りにてあらしめなさい。彼に信頼する瞬間、その瞬間、主は平安を与え、あなたの霊魂に安息を与えたまいます。祈りましょう。



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