『キリスト・イエスにあってきよめられ、聖徒として召されたあなたがたへ。』
『あなたがたは神によって召され、御子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに、はいらせていただいたのである。』(コリント前書一章二、九節)
コリント前書一章二節の一部と九節の一部とは、今晩、私共の学ぶべき二つの箇所であります。『聖徒として召された』、また『召され、御子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに、はいらせて』と。すなわち私共は召されて聖徒となり、また召されてキリストの交わりに入っている。クリスチャンの召しとは、かくのごときものであります。兄弟姉妹よ、神様は、いつも世より霊魂を召し出して、聖徒をつくろうとしておいでなさる。彼の聖徒というものに対するあこがれ(yearning)は、聖書の第一ページから表れております。すなわち、『われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り』(創世記一・二十六)と。神はご自身の御像に象って人を造りたまいました。そして、聖徒に対するこのあこがれは、旧約全書を通じて表されており、ついには、かの恐ろしい十字架の叫びとなり、さらに、終わりに至って、かの聖書の最後の祝福、『主イエスの恵みが、一同の者(聖徒)と共にあるように』(黙示録二十二・二十一)となっておるのであります。
神は、何故聖徒を求められるのでありましょうか。九節はそれを説明しております。すなわち私共を聖徒として、キリストの交わりに入らしめたいがためであります。交際、仲間となること、これは新約における大文字で、これには二つの意味があります。第一は相互の信頼、および、愛情の交換をすることで、これは交通、または交わりという言葉にその意味が表れております。これについては昨日の午後申し上げました。第二は、奉仕の中に交わる、仲間となるということで、参与する、あるいは共に与るなどという言葉の中にその意味が表されておるのであります。今晩申し上げたいのはこの後者についてであります。
『あなたがたは神によって召され、御子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに、はいらせていただいたのである』と、これは御奉仕に参与することでありますが、主はこの世に、大いなる働きをなしておられる。そしてその働きに、私共を参与せしめんとしておられるのであります。しかも、これに参与し得るは、ただ聖徒のみ。いま暫く、彼のお働きについて学ぶことに致します。
まず主のお働きは四重であります。すなわち、預言者、祭司、救い主、および王としてのお働きであります。しかも、主はこれらのお働きに、私共を参与せしめんとしたもう。大いなる特権、また栄誉の至りでなければなりません。かつては憫れな罪人であった者が、こんな特権に参与し得るとは、実に深い神の恩恵でなければなりません。あなたの召されている召命は、実に大したものであります。しかもそれは神よりのものです。あなたはこれを尊重し、これに耳を傾けるべき筈であります。しかしてこの召しに従順ならんことを私は望みます。パウロも同じ召しを受けました。そして、『わたしは天よりの啓示にそむかず』(使徒行伝二十六・十九)と申しました。兄弟姉妹よ、あなたも心を定めて、この天の示しに背かぬように、この言葉が、あなたの心の中深く落ち込むことを祈るものであります。
さて、主はまずご自身の民を預言者となしたく思し召したもう。預言者とは何か。未来を告げる者、そんな意味もありましょうが、実際は神からの使命を持っている者、使命のために神から遣わされ、使命の聖言を持つところの者の謂いであります。彼は使命の中に自ら溶け込んでいます。その使命は、雷のように凄まじい勢いのあるものもありましょう。そよそよと吹く風のごとく優しい言葉であるものもありましょう。或いは、エゼキエルのように、激しい警戒の言葉か、エレミヤのように、魅惑的な、人の心を捕らえずにはおかぬ態のものか、それとも、イザヤのように、人に霊感を注ぎかける言葉でありましょうか。またそれは一人に対する神の使命であるかも知れません。または一集会、一教会、ないしは一国家に対する使命であることもありましょう。いずれの場合にしても、それは神の使命の言葉なのであります。預言者とは、黙して神よりの御言を受け、そうしてはそれを告げ知らせるために出で来るところの者であります。神はあなたを、また私をかくのごとき預言者、聖言を託するに足る預言者たらしめんとしていたもう。この世はいかに預言者を要することでありましょう。神の御胸の中には封じられ足る聖言の、いかに多くあることでありましょう。またそれを宣べ伝えるに適わしい聖徒のいかに数少ないことでありましょうか。昔、モーセは、ヨシュアが二人の青年の預言しおるを見て妬みを起し、これを訴えました時、我はすべての者の預言するに至らんことを願うと申しました(民数記十一・二十九)。これこそ真に、主のご要求であります。主は一人一人が預言者となることを待っておられるのであります。
第二のお働きは祭司としてのそれであります。神はあなたを預言者としての職にまで召していたもうと同時に、また祭司としての職にまで召していたまいます。そしてこの祭司職の中には、三つのことが含まれておる。犠牲、祷告、および祝福であります。第一の犠牲は如何なる意味でありますか。これは主がなしたもうた犠牲そのままを要求してのものではありません。ヨハネの所謂、『主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである』(第一ヨハネ三・十六)とは、主イエスのごとく私共もまた、罪を贖うために犠牲となるべきだというのではありません。主は私共のために全き救贖を成就したもうたから、もはやそれに足らぬところはありません。ただこの主の犠牲に倣ってなすべき私共の犠牲とは、神と人とのための愛の奉仕であります。死に至るまで尽くすことです。あなたの心臓の血を、キリストと兄弟らとのために、全部灑ぎ出すことであります。
第二の祷告については、今晩は申し上げない。いつか語るように導かれるかも知れませんが、第三の問題は祝福であります。祭司は祷告すると共に、また、神の祝福をそのままに民の上に齎すところのものであります。民数記六章の終わりの方を見ると、そこには祭司のなすべき祝福の祈りが示されております。
『願わくは主があなたを祝福し、
あなたを守られるように。
願わくは主がみ顔をもってあなたを照らし、
あなたを恵まれるように。
願わくは主がみ顔をあなたに向け、
あなたに平安を賜るように。』
こういう麗しい祝福を民の上に齎すのが祭司の職でありました。しかも、これと同じことがあなたの職の一つであります。もしあなたが何処へ往っても神の祝福を蒔き散らすことができたとしたならば、真に幸福なことではありませんか。しかして、神の祝福を蒔き散らす聖徒の前には、如何なる偏見も、反対も、無頓着も留まることはできません。しかも祝福を蒔き散らすということは、無言のうちに、ただ、落涙することかも知れません。または握手することだけ、或いはほんの数言の短い言葉だけであるかも知れません。そんなごく些細なことを通して現れるものであります。このことについて、二、三のお話を致しましょう。
かつて、英国に大リバイバルの起こったことがあります。その中に大聖徒がいた、ジョン・フレッチャーであります。或る時、彼は貧しい一客を朝食に招きましたが、その時、その客の述懐はこうでありました。『ジョン・フレッチャーと朝食を共にすることは、ちょうど、聖餐に与るようであった』と。ここに祝福の力を見出すことができます。
また私の一人の友人は、その叔父さんについて語りました。その叔父さんは牧師でありましたが、或る時、その牧している教会の一会員に不幸があった。聖徒である牧師は、そのことを聞いて、お見舞いした。彼は部屋に導かれて座ったまま、一言も言葉を発しなかった。彼の頬には涙が伝わり、彼の口唇はわななき、その心は祈祷に満たされていた。かくて彼は、三十分ばかりの後、やはり無言のままで、立ち去ったのであります。後に、その不幸に遇った寡婦は言う、『多くの信者の方が慰めに来て下さいましたが、一番大きい慰藉は、無言の聖徒を通してでありました』と。すなわちそこでは、沈黙が第一の祝福を齎したのであります。
私はもう一つのことを話したい。御奉仕に与ろうと準備していた一人の人を知っております。彼は主イエスを信ずる単純な信仰をもって、アメリカの或るカレッジに入学したが、暫くの間に、疑惑の霊に捕らえられて、喜びを失ってしまっていた。そのころ彼は二人の友人と山登りに出掛けて、土曜日にはその麓へ着いた。小さい時からの仕込みで、日曜日には教会に出席せずにはおられなかった。しかしこの麓の町には、たった一つのメソジスト教会のほか、自分の所属の長老派教会は探したがなかった。その当時は、長老派の会員がメソジスト教会に行くのは異端のごとく思われていた頃であったが、彼は日曜日の夜の集会に出席した。その夜は証会でありました。一人一人、立って証をした。しかし彼にはすべてがいかにも形式的であるようにしか感じられなかった中に、終わりの頃、一人の黒人の女が立って、非常に謙遜な態度と麗しい輝きとをもって、『私は五十年の間主を識って参りましたが、この間、彼は一度も私を失望せしめたことがありません』と言って腰を下ろした。『この時に』、私の友人は私に囁いて言う、『私は心中に太陽の光を仰ぐがごとくに感じました。そしてそれ以来、それを持続いたしております。しかし黒人の彼女はそれを知らないでしょう』と。
おお兄弟姉妹よ、このようにごく短い二言、三言の言葉をもって、しかも私共の気付かない言葉を通して、かく驚くべきことがなされる。皆様、私共は銘々に大いなる召しがあるのです。私共の周囲には多くの霊がある、これに神の祝福を齎すということは何と大きなお務めではありませんか。
第三のお働き、それは救い主としての働きであります。すなわち主は人々を救うというご自身の働きの中にあなたの参加を望んでいらっしゃるのであります。天使は清い、また私共よりも強かろう。しかし人々を救うという働きは、私共恩寵によって救われたる罪人にのみ委ねられたる特権であります。しかして聖徒は実際においてその同僚の救い手なのです。魂のために熱中している者は誰ですか。信者だという者が劇場通いをするものでしょうか。またダンスにばかり夢中になるものでしょうか。かかる類の信者が魂に向かう熱情を持っていましょうか。魂を追い求めて止まない信者、それはどんな信者でありますか。それは主ご自身の霊によってバプタイズせられている男、女である。あなたは魂に向かう熱情を持たずとも、一教会の会員にはなれましょう。また教役者ともなれましょう。また魂に向かう熱情を持たなくとも、説教者として立つこともできよう。宣教師となることもできよう。しかし魂に向かう熱情なくしてあなたは、聖徒となることはできない。主が殊に若い男女たちに魂に向かう熱情を与えたまわんことを。これは大いなることであります。『多くの人を義に導く者は、星のようになって永遠にいたるでしょう。』(ダニエル十二・三)おお神はこの御奉仕においても、あなたを召していたもうのであります。
第四、王としてのお働き。私は昨夜、皆さんに主の名によって、『主を王とせよ』と申し上げた。しかして多くの人が彼を王とし奉ったことと信じます。しからばあなたが彼を王とし奉った瞬間、彼はまた、あなたを王となしたもうたのであります。彼は、あなたを王と呼ぶことを求めたまいます。神はあなたに家庭を与えていたまいますか。また、子供を与えていなさいますか。もし家庭が与えられ、子供が与えられているならば、主はあなたが、彼に代わって、それを治めることを望んでおられる。あなたは王として、また女王として、その家庭に在って、主に代わって、愛をもってこれを治めんことを望んでおられるのであります。私は一人の若い軍人を知っております。彼は聖徒です。彼は宗教については別に喋々しなかった。また実際その必要もなかった。彼は忠実に軍務に服しました。或る時、幾人かの同僚士官が輪を作っていろいろ語り合っていたが、話がだんだん穢らわしくなり、恥ずべき事柄に進んで行った時、その青年士官は何気なく近づいて行ってその仲間に入りました。すると話はぱったり止んでしまった。彼らが言うのに、『彼が入ってはこんな話はできない』と。これは彼が王であったことを証明しております。彼の感化が他の士官に及んでいたのです。王というのはこんな意味であります。あなたも王である、また女王である。従ってあなたの行くところ、そこは談話も潔められ、醜い、汚れた事柄も姿を消すべき筈であります。
以上述べ来ったように、主のお働きは、預言者として、祭司として、救い主として、また、王としてのお働きであります。殊にこの王としてのお働きは、すべての働き中、最上のものであります。私は皆さんが預言者たることを願う。また祭司たることも、救い主たることも願いますが、殊に彼のために王となることを願うものであります。神、願わくは皆様を扶けて皆様が如何なる召命にまで召されおるかを、確実に悟らしめたまわんことを。主はご自身のお働きに私共を参与者たらしめんとて私共を召したもうた。しかして参与者となる条件は、聖徒となることであります。もし私共が聖徒となることを好まなければ、彼と共に働くことはできません。主は皆様一人一人を聖徒とすることを願いたもう。彼は聖徒より聖徒をつくりたもうのではない。罪人より聖徒をつくりたもうのであります。故に、あなたから、また私から、聖徒はつくり出されるのであります。彼はまた、仰せたもう、『我にすべてを任せよ、余事は我が善きようにする』と。また、『おまえは、我をしてしかなさしめるか』と。『どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。‥‥‥あなたがたを召されたかたは真実であられるから、このことをして下さるであろう。』(テサロニケ前書五・二十三、二十四抄)おお兄弟姉妹よ、神はあなたを聖徒とせんがために召したもう。しかも召したもう者は真実なる御方である。あなたはこの召命に従われるか。彼にその機会を与えますか。どうか『主よ、私はそういたします。あなたは私を聖徒とならしめんがために召したまいます。あなたにはそれができます。私は自らをあなたに託します。どうかあなたのお働きの参与者たらしめんがために、今晩、ただいま、私を聖徒として下さい』とお祈りしたい。わたしは南アフリカにおったことがある。或る時、少年少女のために集会を開いた。その時多くの少年少女が自分を主に捧げたことであるが、その中に八つになる子供がいた。彼は家に帰って、『私は今日イエスさまに心を捧げました』と母親に語った。母親はこれを聞いて非常に喜んだ。実はこの子供が生まれた時から、そのために祈っていたのでありました。そこで母親は子供に、『坊や、それでは神様に感謝しましょうね』と、二人が跪いた。そして、単純に祈った。彼の祈った言葉はこうである、『主よ、あなたは私が私の心を捧げたことをご存じです。それですから私を一番良いように造り上げて下さい』と。兄弟姉妹よ、主にあなたの全部を捧げなさい。そして最上最高のものたらしめたまえと祈ろうではありませんか。アーメン、しかあらんことを。