第 六  信 仰 の 鍵



 『わたしは信頼して恐れることはない。』(イザヤ書十二章二節)

 数年前、私はロンドンにおったことがあります。ある日、妻と共に、かしこにある一つの塔へ見物に参りましたが、その中に、特に人の注意を惹く一室がありました。それは冠の宝玉室と呼ばれる、宝玉に充ちた部屋で、私共はその部屋のあちこちを眺め廻りましたが、実にあらゆる種類の、珍貴な宝玉が聚められてありました。それらはみな冠の装飾用のもので、その価格も大したものであると聞かされました。私共はそこで非常な富を見たわけであります。しかしそれらの宝玉は、皆それぞれ硝子の蓋の付いた箱の中に収められ、錠が下ろされてありました。ゆえにかかる富を見ながらも、私共はその部屋を出て来る時は、入って行った時と同じ貧しい身で出て来たのであります。
 さてこの午後は、王の富について語りたいと思います。私は、昨晩、イエスを王とせよと申し上げた。定めし多くの方々はイエスを王とせられ、或いは新しい、或いは更に堅い主との契約に入られしことと存じます。今日は、この私共の王の富を、まず申し上げましょう。
 聖書を開く時、私共はその中に多くの宝玉の蔵せられておるのを見るのであります。実に聖書は宝玉室であります。しかし私共の王は英国の王とは異なります。英国の王は一つ一つの宝玉を見ることを許されるが、それを外に持ち出すことは許さない。ところが私共の王はその宝玉を見るのみならず、それを私共のものとすることを許し、身に着けることを許したもうのであります。そこには如何なる宝玉がありますか。たとえば、『既に与えられたる罪の赦し』のごとき宝玉、『潔められたる良心』という宝玉、『満足せしめられたる心』、『変貌せられたる霊』、『勝利する生涯』、『祈祷の能力』、『霊魂に向かう熱情』、『すべての聖徒に対する愛』、また『謙遜』、等々。これらはほんの一部分に過ぎない。私共の王は、私共にこの宝玉の分け前を与えんとしておられます。この分け前に与ることに関して少しく述べましょう。
 私共の王のこの貴い宝玉にも鍵が掛けられております。もちろん、条件の付いていない恩恵もある。主も、『天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである』と仰せられた。これは無条件の恩恵です。また全世界が贖われることも無条件の恵みであります。或いは、また、聖霊の働き下さることも無条件の恩恵です。もし私共が願わなければ聖霊が働きたまわぬとすればどんなであろうか。私共の方から求めるというようなことは決して起こらないでしょう。かく幾多無条件の恩恵はあるが、しかし、キリスト者として自ら実験してわがものとなす恩恵には、悉く一定の条件が付いているのであります。従って、私共がその条件を果たさなければその恩恵は私共のものとはならない。すなわち、私共の王の宝玉室にも錠前が下ろされているのであります。しかしてそれを開く鍵が一つある。しかもただ一つだけであります。鍵はいろいろありましょう。そしてそれらをもってそれぞれ他のものを開くことができましょう。しかしこの宝玉室の扉を開くことはできません。また、私共のもがきも、犠牲も、奮闘もこれを開くことはできない。これを開く鍵はただ一つ、すなわち信仰であります。神の約束は錠前であって、それを開く鍵は信仰なのであります。
 しからば信仰とは如何なるものですか。これは聖書における大いなるものの一つで、これには広い意味があります。しかし、先刻読んだ聖言からその意味を見出すことができます。ところで、信仰は常に三つのものを備えております。第一は、その約束は自分に対する神の約束であると信ずる。第二、その約束を実現していただくために、自らを神に全く託する。第三には、神は必ず自分を約束通りにして下さると信ずることであります。神は誠実なる御方、決して約束を破りたまわない。ただ約束だけでも充分であります。私共は感ずるから信ずるのではない。私共の可能は神の約束に大して関係のあるものではなく、また私共の感情が神の約束を或いは強固にし、或いは薄弱にするものではありません。私はただ信ずるのである。神は私をお約束通りにして下さると。たとえばここに聖潔を求める人があるとする。彼は聖言の約束の一つを取り、聖書のその場所を開く‥‥‥私はそんな階段を取りました‥‥‥そして申し上げる、『神様、これは私に対するあなたのお約束であることを信じます。そしてあなたがお約束通りに実現して下さるために、私自身をあなたにお託し致します。また神様、私はあなたが必ずそうして下さることを信じます。なぜならば、あなたがそう仰ったからであります』と。皆様、これは約束を握り捕らえる信仰であります。
 次に、この信仰と私共の意志との関係を申し上げるならば、信仰は自らの意志の働きであります。私は木曜の夜、特に意志の力について申し上げた。信ずるためにも意志を働かせなければなりません。最後には『信じます!』、『信頼致します!!』と断乎たる態度に出なければならぬ時がありましょう。たとえば書斎で聖書を調べています。そして或る約束を発見致します。これを自分のものにしたい心がむらむらと起こってくる。その時、サタンはやって来る、そして囁く、その約束はおまえのものではないぞと。しかし、その囁きの声に惑わされてはなりません。『わたしは何がなんでも信頼する。神様、あなたは私に約束して下さったのです。私は信じます。依り頼みます』と、私共の断乎たる意志を働かす時に、私共はいつでも勝利を獲ることができるのであります。サタンは信仰がいかに大切なものであるかを知っている。私共よりもよく知っている。ですから疑わせようとして様々な誘いを致します。しかし、信仰を握りなさい。その時、勝利は私共のものであります。
 さて、この鍵によって宝玉室の扉を開くことについて申し上げたい。一体、鍵の効用を知るためには。鍵をその穴に差し入れてみるほかありません。それでその錠前が開けば、その鍵は役立つものであるわけです。私は、数ヶ月前、英国で、或る一つの集会に出席致しました。その時、小さい鞄を持って参りましたが、開いて品物を取り出そうとすると、鍵がない。どうしてよいか解らない。当惑していると、たくさんの鍵を持った人がやって来ました。験して見よと言うので一つ一つ当て嵌めてみましたが、大きいのは大きすぎて入らない、小さいのは小さすぎて役に立たない。いろいろ骨を折ったが、どれ一つとして合うのがありません。最後に一つ残りました。一見、小さすぎるようでしたが、やってみようと差し入れてみますと、どうでしょう、とうとう錠は開きました! それがちょうど適当だったのです。たくさんあった鍵の中で、たった一つが役に立った。多くの鍵の中で、どれが一番良いかと言えば、もちろん、その役立った一つです。兄弟姉妹よ、どうかこの鍵を実際的に験すことを忘れないで頂きたい。もし神を信ずる信仰がどんなものであるかを知りたいならば、信じてご覧なさい。昔の人は言った、最も良く開く鍵が最も良い鍵であると。信仰の何たるかを識る人は、最も良く神を信じている人です。更に、この鍵の使用に関して申し上げましょう。
 或る人はこの鍵を使用することを忘れております。私は、曾て、アイルランドのベルファストで牧師をしておりました。かしこは非常に雨の多い所で、いつも傘か雨衣を持たないでは外出のできない所です。ある日、好い天気に見えたので雨具を持たずに外出しますと、帰る頃、降り出して参りました。歩を早めて帰って来ましたが、雨はますます降りしきります。漸く家について戸を叩いたが誰も出て来ません。いくら叩いても来ない。とうとうアイルランドの所謂雷ノックをやったが、それでも誰も出て来ません。大声で叫びました。庭にいても聞こえたほどでしょう。それでも誰も戸を開けてくれません。この間に、もう、いい加減に濡れてしまいました。その時、偶然、私は独語した、何だポケットに鍵があるじゃないか! 何という馬鹿者だ。鍵のあることを忘れている。そして見事にびしょぬれになってしまった。おお兄弟姉妹よ、お互いは銘々の鍵を使用することを忘れてはいないだろうか。もしあなたが真に神の子であるならば、あなたには鍵があるはずです。しかし或る方は鍵をすっかり忘れている。そして世の患いに苦しめられている。また或る者は時々それを用いる。または特別の時だけ用いる。たとえば、ヨハネの言っている言葉、『その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる』、これは私共に対する神様の約束であります。あなたは罪を潔めていただくためには信頼しました。しかし他のことには案外そうでないかも知れない。或いはまた他の聖言の一つの部分には信頼するが、他の部分には信頼しないということがありはしないか。また或る時は頼り、或る時は頼らない。すなわち間歇的な信頼をしていないだろうか。おお兄弟姉妹、神はあなたがこの信仰の鍵を常習的に用いなさることを望んでおいでなさるのであります。この鍵はどこへ往っても必要です。如何なることにも用いるべきです。皆様が豊かに富める者であるか否かは、この鍵を用いるか否かによって定まります。クリスチャンの霊的貧富の差は、教育の程度や、この世の富によって生ずるものではありません。一切を信頼して習慣的にこの鍵を用いるか否かによるのです。どうかこの鍵を常に使用し損ねることのないように、必要に応じて直ちに用いられんことを。
 私はまたこういう風に言い換えてみたい。これは私の実験です。聖霊が私の心に臨んだとする。そして小さい疑い、恐れ、己などというものを指して、『幼子よ、それらは罪であるぞよ』と囁きたもうたとする。そんな時にはどういたしますか。そんな時に私共は、『主よ、そうです。どうか取り除いて下さい、一切をお委ねいたします。どうか貴い血潮により潔めて下さい』と願うべきです。かく信頼するその瞬間、潔められます。そして神との間の親しき交わりは、何ものにも阻害せられることなく継続することができるのであります。また私共は、救いを受けるために、時を待っていてはいけません。御聖霊によって示されるその瞬間、信頼しなければなりません。
 次に申し上げたいことは、あなたはこの鍵を、あなたの感情の干潮の時に用いなければならないということであります。私はアイルランドにいた時のことを思い出します。かしこでは恩恵の感情が満潮のように押し寄せてきた。有馬の聖会においてもそれを感じた。足尾の集会においてもそうでありました。ハレルヤと叫び、歓喜の高浪が押し寄せてきた。すべての人の純真な喜びを見たからです。しかし皆様、満潮があるということはその反面に干潮のある証拠です。聖い喜びに満たされて、感情が上下している間に誘惑がやってくる。この週には非常に喜んでいる。もうその歓喜が絶頂に達している。そして次の週にはその歓喜を失っている。サタンがやって来て、おまえは何も得ていないではないかと囁く。或いは先週得たものを今は失っているじゃないかとも言おう。悪魔はいかにもほんとうらしいことを言っては疑わせようとするのです。しかし大切なのはその時です。私共は、私共の感情の静まりかえったその時にこそこの鍵を用いなければなりません。私は数年前、この経験を味わわされました。今それを詳しく語っている時ではありませんが、私共が神の喜びに満たされていない時は、サタンの囁きに惑わされ易い時です。けれどもその時は疑う時ではない。『私は何も感じません。けれども、神様、あなたは変わりたまいません。あなたの力は同じです。あなたの愛も同じです。あなたの恩恵も同じです。私はあなたを信じます』と、感情の静まっているその時、この鍵を用いてかく叫びたい。そこに勝利があるのであります。
 また、皆様はどうかこの鍵を暗黒の中において用いて下さい。暗黒は主の息子、娘の中へもやって参ります。どうかその時に、この鍵を用いることを忘れないで頂きとうございます。暗黒と言っても、堕落した暗黒の意味ではありません。太陽が落ちてしまった。月も出ない。星も見えない。暗黒のほか何もないというような時が、神の子供にも、時としてはやって来るものです。その暗黒の中には悪魔は吼える獅子のごとく猛り狂う。そしてかく叫ぶでしょう。ここは何という暗い所だろう、こんな中にいるおまえは、神の子でありはしない。もしおまえが神の子ならば、神はおまえをこんな暗黒の中にはお入れなさらないだろうと。この囁きに耳を傾けてはなりません。これに誘惑されて失敗する人のいかに多いことであるか、私はたびたび見させられました。私も数年間この暗黒の中にいたことがある。すべての望みの光は消え失せた。全くの暗黒です。私は神の方に向かいました。そして、イザヤ書の中からこの御言を見出しました。『あなたがたのうち、だれが主を恐れ、そのしもべの声に聞き従うのか。暗やみの中を歩き、光を持たない者は』と。これは私のことだと思いますうちに、次の句が力強く臨みました。『主の御名に信頼し、自分の神に拠り頼め』(イザヤ五十章十節・新改訳)と。まさに私に対するメッセージでありました。その後、なお数ヶ月暗黒の中にありましたが、私はただただ神の上に堅く固着致しておりました。そのうちに、主は私をその暗黒の中から引き出したまいました。私は学生のための大きい教会を受け持っておりましたが、その次の日曜日、主は私にその経験を語れと命じたまいました。しかしサタンはやって来て囁く、彼らのそんな聖言を語ったところで何になるか、当て嵌まらないだろうと。時が経てば経つほど、彼は激しく囁いてきました。私はついに部屋に退いて祈りました。主よ、この聖言を受け入れる者は一人もないとサタンは囁きます。けれどもあなたはこの聖言を語れと命じたまいました。ついては一つの願いがあります。どうかこのメッセージの必要な者を一人でも送って下さいと。
 やがて講壇に立っていると、一人の人が手紙を持って参りました。いつものように祈祷を求めて来たのであろうと思って開いてみると、短くこう書いてある、『私の霊魂は恐ろしい暗黒の中におります。一言でも助言を与えて、こんな暗黒の中におる者を導いて下さいませんか』と。ああ皆様、これは祈りの答えでありました。また日曜の夜、大学の門の傍らで路傍説教をしておりますと、一人の人がやって来ました。それは或る田舎の医師で、かねて名を存じておりました。彼が私のところに参りまして言うのに、『私は恐ろしい暗黒の中に二ヶ年もおりました。サタンは来っておまえは神の子ではないと幾たびか囁きました。私は今日、御教会へ参りましたが、神は私から暗黒を全く取り除いて下さいました。今は私の霊魂は赫々と輝く御光の中におります』と。その後、木曜日に、また一人の学生から手紙が参りました。『私はこの前の日曜日、あなたの教会へ参りました。そして、七ヶ月間の暗黒が取り除かれました』と。その時、神様は私に囁いて下さいました。『幼子よ、今こそおまえは知ったであろう。一切は暗黒の中におったおまえを通して暗黒の中におる人々を救うためであった』と。私は神様が私を暗黒の中へ導きたもうたことを感謝致しました。おお兄弟姉妹よ、暗黒の中にあって鍵を用いることを忘れなさるな。雲はすべてのものを隠してしまう。月も見えない、星もない。けれども主イエスのみは隠すことができないのです。主に対する信仰の鍵を使用致しましょう。
 終わりに当たって一つのお話しを致したい。何年か前のことでありました。一人のアメリカの婦人がペルシャへ伝道に遣わされました。かしこにおける何年かの奉仕は、ついに彼女から健康を奪ってしまいましたが、或る時、小さい部屋で集会を致しておりますと、暑さは増し、婦人信者たちはその部屋一杯に坐っておるし、彼女は疲れて喪心せんばかりになりました。思わず姿勢も崩れて、そばにいた一信者の方へもたれかかって行きますと、今日は先生はお疲れだなと見て取った件の婦人信者は、それとなしに、その逞しい体躯を近づけて教師の支えとなろうと致しました。向こうから力の入ってくるのを感じた婦人教師は、自分があまり倚りすぎたかと思ったのでしょう、そっと身を引きました。その時その信者は教師の耳に口を当てて静かに申しました、『先生、もしも私を愛するならば、もっと私に寄りかかって下さい!』この宣教師はその後間もなくアメリカへ帰らなければなりませんでした。健康を害して、幾度か激しい苦痛を経験しなければなりませんでしたが、病床にあって、見舞いの人々に証して言うのに、『「もしも私を愛するならば、もっと私に寄りかかれ」とは、今はかのペルシャ婦人の言葉としてではなく、愛するイエスの御口ずからなる御言葉として私の耳に聞こえております』と。『私を愛するならば、もっと私に寄りかかれ』、おお兄弟姉妹よ、これはまた皆様に対する御言葉です。皆様は彼を愛しましょう。それは愛すべきほど充分な愛ではないかも知れない。しかし幾分にても主を愛しない者はありますまい。主はあなたに『おまえが私を愛するならば、私に寄りかかれ』と仰っている。皆様はこれに対して、どうお答えするか。『私は信頼して恐れることはない』と答え奉りたい。今、かくなし奉るように、祈りましょう。



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