第 九  盈満の人ピリポ



 『そして信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ、それからピリポ』(使徒行伝六章五節上)

 使徒行伝六章五節は、使徒たちによって選ばれた七名の役員の名を挙げております。その中に、ピリポという人がおる。この午後、皆様にお話し致したいのは、このピリポについてであります。それはこのピリポという人は、ステパノやパウロのように、抜きん出た技倆の人ではなく、極めて平凡な、普通の人であったように思われ、この点、私共お互いに近い、親しみの覚えられる人物であるからであります。彼の賜物はありふれたものであったかも知れない。しかし後は聖霊に満たされておりました。ゆえに教会はこれを認めて彼に信頼し、神もまたこれを認めて、彼を用いたもうたのであります。神は平凡な人を通してよく非凡なることを行いたもう。私共も賜物においてはステパノやパウロのごとくにはなり得ないかも知れません。しかしピリポのごとく、聖霊に満たされることはできます。私共は御霊に満たされていたこのピリポについて教えられたいものであります。
 まず、彼を支配していた熱情について考えてみたい。一体、熱心というものは、神を知らない者でも持っています。富を得んがために熱心である。名誉や地位、また快楽を得んがために熱中する。また誰にでも、その人を支配している熱情があります。たとえば、強烈な飲酒欲に支配せられておる者があり、また、復讐心に支配せられている者もある。しかしピリポの中にあって、彼を支配していた熱情はそんなものではなかった。潔く、気高い、神の投じたもうた天来の熱情であったのであります。彼の熱情は霊魂を捕らえて離さない、これに主イエスを語らなければ止むことを得ない体のものでありました。また、彼は恩恵に対する熱情、戦いに対する熱情、聖きに対する熱情、主ご自身に対する熱情、またいかにしてもこの主を他に顕したいとの熱情を持っておりました。しかしてこれらすべては、彼が聖霊に満たされているところから来たところのものであったのであります。皆様も、もし聖霊に満たされるならば、ピリポと同じ熱情を持つことができます。私はかくあらんことを願って止みません。
 その次に、彼の勇気について考えてみたい。彼は自らの持ち場として、困難な場所を選びました。彼は人種を異にし、宗教を異にするサマリヤを選んだのであります(八・五)。神に対して熱心なるユダヤ人はサマリヤを通過することを好まなかった。汚れると考えたからであります。潔癖なユダヤ人はサマリヤ人から、一滴の水さえ飲ませてもらおうとは思わなかった。かく彼らは互いに、苦々しき感情を持ち合っていたのであります。ピリポは、こんな相互間の憎しみをよく知り、それがまた、働きの妨害となろうことも知らないのではありませんでした。しかも、なお彼はサマリヤを選んだ。もちろん、これは神が彼のためになしたもうたことではあるが、そもそも神は、英雄を要する場所へ怯懦者を遣わしたもう御方ではない。しかも神の選びには恩寵が伴い、働きには能力が伴う。ピリポは楽な容易いところへとは注文しなかった。神の選びのところ、よしそこは何処であろうともお従いしようと、欣然、また敢然、サマリヤに進んで行った次第であります。私共はこのことによって、ピリポの中にあった勇気を知ることができます。彼はすべての憎しみを知っていた。かしこで誰一人歓迎してくれる者のないことも解っている。嘲笑にも遭うだろう。まかり間違えば、殺されるかも知れない。覚悟の上である。それらは彼の勇気を挫くことはできなかった。彼がエルサレムからサマリヤに下る途中、恐らくは、口にハレルヤが絶えなかったことでありましょう。この勇気は、生来のものではない。彼が聖霊によって与えられたるもの、聖霊によって満たされたる人の聖霊による勇気であります。兄弟姉妹よ、あなたも聖霊に満たされるならば、これと同じ勇気に満たされることができます。
 第三に私共は、この勇気に満たされた彼の信仰を見たい。これは彼が選ばれた理由の一つであります。彼は聖霊に満たされ、また、信仰に満たされていました。信仰に満たされるとはどんなことか。これは、第一に、神に全く信頼し切っているということ、しかして、同時に、神が全く信頼していたもうということであります。彼の信仰の一方面は、彼が救贖の福音を徹底的に信じていたことであります。彼はサマリヤの人の苦々しい憎しみを知っていた。しかし、彼の携え行く福音はそれよりも力強いことを知っていた。彼はこの福音が、人種の差別も国境も超越する力あるものであることを知っていた。そして、神の力はすべての平民にまでも及ぶべく、しかもそれは、我ら人類に共通の要求であることを知っていた。彼は罪の恐るべき事実の何処にもあること、しかも、その罪よりの救いこそは何処にても必要なることなども知っていた。彼は、また、人間共通の叫びは神を求めることであり、これは、何処にも見出される普遍的人心の欲求にして、福音とは、その叫びに対する神の応答なることを知っていたのである。兄弟姉妹よ、私はこれを若い信者の方、特に伝道者たる方々に申し上げたい。人は決して所謂新しい福音を要求しているのではない。古い、昔ながらの福音、カルバリの血潮の流れとペンテコステの御霊の能力とを有するこの福音をこそ求めているのです。これには灼熱的な能力がある。これこそは万人が求めて止まない神よりの純正なる福音であります。おお兄弟姉妹、それを信じなさい。これを宣べ伝えなさい。私共には新しい福音は必要がない。古い福音こそ完全である。ピリポはこの福音を信じた。実に、聖霊に満たされたる人は、この昔ながらの古き純なる福音を信ずる信仰に満たされるのであります。
 次に、聖霊に満たされていたピリポの謙遜について考えてみたい。これについて、聖書は二つの麗しい記事を提供しております。その一つは、彼が教会から最も卑しい職務を与えられたことであります。彼は新しい教会の土台を据えるために遣わされはしなかった。また、聖潔の説教をする役目にありつきもしなかった。彼の職務は一番低く、また、一番卑しいと思われている賄い係でありました。料理を吟味する役目です。これはごく低い職であったかは知れないが、しかし、決して容易な務めではありませんでした。そこに集まっていたやもめらは天使たちではない。また、聖徒たちでもなかったようです。彼らを御するはなかなか至難の業でありました。呟く人というものは、いつも、取り扱いの難しいものでありますから。彼は賄いについての呟きを聞きもした。しかし忍んでこれを扱った。彼らが何を言っても耳を傾けて聞いてやり、いつも微笑をもって彼らに接したでしょう。かくて、いつしか、その呟きも止んでしまったと思います。彼は、ごく低いと思われる務めを受けて、見事に役目を果たしたのであります。これは彼の聖霊によって与えられたる謙遜の一つの現れでありました。
 もう一つの例は、ペテロとヨハネがサマリヤへ行った時のことであります(八・十四)。ピリポは彼に第一位を占めさせて、自分は喜んで第二位を取りました。ちょうどその時、サマリヤには大リバイバルが起こっていた。しかも、その中心、その導火線はピリポその人である。彼はかしこで大いに用いられ、今や、誰一人、ピリポを知らぬ者なく、ピリポの説教とあらば聞こうという人がたくさんにいた。その時に、ペテロとヨハネはサマリヤに来たのでありますが、ピリポは彼らに第一位を与えて自分は第二位についたのであります。私は、かつて宣教師であった一人の友人を知っています。彼は暫く北国に伝道していたが、そこは四六時、雪に閉ざされた寒い国です。鉄道も馬車も馬もなく、唯一の交通機関は橇でありました。それは小さいボート様のもので、犬がこれを曳くのであります。友人はその橇を、いつも、十二匹の犬に曳かせました。二列に揃って曳くのではなく、一列に並んで曳いてゆきます。一番先頭に立つ犬は、いわば指導者格で、なかなか賢く、そのため、何度命拾いしたか解らぬそうでありました。突然、吹雪が襲ってくる。太陽も見えない。月も星も見ることができない。全く咫尺を弁じ得ないという時、犬に一切を任せると、犬は一直線に家路を辿って、無事にホームに帰り着くそうであります。或る時のことです。友人がその橇に乗って旅行していると、真っ先に立った犬が何かいたずらをした。友人はどうしてもその犬を罰しなければならなかったそうですが、鞭打つようなことはしなかった。どうしたかと言うと、その犬を先頭から外して二番にし、二番の犬を先頭に立てて旅行を続けた。ところが件の犬は橇を曳かないという。また、食物をやっても食べもしない。横になったまま三日目にはとうとう死んでしまったそうであります。犬らしいことよと笑いなさるか。私は、神の働き人にして、この犬のような振る舞いをするのを見たことがあります。私の教会にもそんな人があった。教会で、第一位にしておけばよく働く。集会も欠かさない。献金もよくする。しかしその地位から動かされた時に、全く働かなくなってしまいました。兄弟姉妹よ、神の働きにおいて、第一位を占めようと欲するのは肉に属けるものです。サマリヤにおいて、リバイバルの導火線となって用いられたピリポは喜んで第二位に着きました。これは彼の聖霊による謙遜でありまして、私共もかかる謙遜を持ちたいものであります。
 彼、ピリポについて学ぶべきもう一つのことは彼の従順であります。かのリバイバルは続いている。彼も続いて用いられている。そこへ神からのメッセージが来ました。サマリヤを離れなければならないことであります(八・二十六)。ペテロとヨハネも去ってしまった。サマリヤに起された新しい信者は誰が看、起こりつつあるリバイバルは誰が続けるか。今は甚だ大切なる時ではないか。今、自分がサマリヤを発ってしまえば、今までの働きはどうなるか。このリバイバルは誰によって起されたか。その自分に今ここを去れとは。ピリポはこんな反問を敢えてしたでしょうか。神があなたを新しいところへ遣わしたもう時、決して、古いところを忘れたもうたのではありません。
 また、神がピリポに行けと命じたもうたところは如何なるところでしたか。もし、エルサレムへ行けということであれば、それは家へ帰れることです。家に向かってする旅路であれば、足も軽く、心も浮き立つというも当然かも知れない。ピリポの宿っていたところはエルサレムでした。そこには友人もおれば、家族もおって楽しいところである。しかし、神のメッセージはエルサレムではなかった。荒野でありました。誰もいない所、涙を流して罪を悔いている者もなければ、ハレルヤを叫んで神を讃美している人もない。見る所ただ一面の砂原、砂のほか何ものもない砂漠であったのであります。しかも神は、何故かしこに行くべきか、彼にその理由を示したまわなかったから、彼はそのわけを知る由もなかった。しかし彼は、欣然これにお従い申しました。すなわち自分の大いに用いられているサマリヤから砂漠に、しかも、その理由も知らず、また敢えて尋ねようともせず、しかも、即座にこのご命令にお従い致したのであります。おお兄弟姉妹よ、何たる服従、何たる従順でありましょう。あなたも聖霊に満たされているならばこのように従順であることができるのです。私共も、神に対して、かく従順でありとうございます。
 次に、もう一つの彼の姿を見たい。これはそれより数年後のことであります。彼は、今シリアに住んでいる。彼の家庭について、二つのことが聖書に載っております。すなわち、彼に四人の娘があり、みな処女であり、みな聖霊に満たされていると一箇所には記されております(二十一・九)。そこには、彼女らの母については一言も書いてない。思うに、既に天に召されていたのでありましょう。しかし、その母親も、おそらく聖霊に満たされていた人であると思う。四人の聖霊に満たされた娘たちを後に残して逝くということは、並大抵のことではありません。私はお集まりの母たる方々に申し上げたい。家庭を形造るものは母親です。家庭の聖、不聖は母親に因る。私は一つの家庭を知っています。そこでは、父は神を知らない人であったが、母なる人は聖霊に満たされた人であった。その家庭の子女らは母親の感化を受け、母に見倣った。もう一つの家庭では、父は聖徒であったが、母親は世的なクリスチャンであった。娘らは母に従いました。おお皆様よ、家庭の善悪は母親の責任であります。私は私のために清い家庭を作って下さった母親に感謝しております。また、今、子供等のために、同じような家庭を作っていてくれる妻に感謝するものであります。
 ピリポの家庭についてもう一つのことが記されております。パウロと弟子たちは、シリアの彼の家庭へ行きました(二十一・八)。また、アガポスという預言者も、シリアに行ってピリポの家庭を訪れている(二十一・十一)。彼の家庭は霊的の磁石でありました。霊的の交わりを求める者は彼の家を訪れた。罪に、病に、また、重荷に悩んで、祈祷を要した者は彼の家へ行きました。彼の家庭は聖霊に満たされたる家庭、恵みの家、渇ける心が豊かに満たされるを得る場所だったのであります。私は、私の生涯について起こった一つのことを申し上げたい。これは私が主のために獲た多くの勝利中、最大なるものの一つで、私の家庭において起こったことであります。或る土曜日のことでありました。その週は非常に忙しい週間であったために、聖日の御用の準備ができなかった。当時、私は、学生のための大きな教会を牧していたので、かなり準備の責任が重くありました。私はその土曜日の朝、神の前に静まって祈り考えた。今日は面会謝絶で明日の準備をしようと。そこで、かく妻に話して書斎に入りました。平生、よくいろいろの事をもって人々が来訪されたからであります。少し経つと玄関でノックする者がある。妻が出て見ると、全く見知らない人です。そして、インウード氏はいますかと尋ねられた。妻は、おると答えた。彼は、お目にかかれましょうかと聞く。妻は、言われていたままに、多忙なためそれは難しかろうと答えると、何とも言えぬ絶望の色を顔に表したそうである。その様子を見て妻は、これには何か仔細があろうと、私のところへ来て、全く見知らぬ人が来て、何か仔細があるらしい。ちょっとでも会ってやるわけには行くまいかと言う。そんな失望の中におられるようならば、とにかく、会おうということになって、妻は彼を導き入れました。私も下へ降りて行った。私は彼の面を見るなり、何とも言えぬ惨めさを感じた。彼は何年か前に一度、私の説教を聞いたことがあったそうであるが、ここ数週間、悶々の日を送ってきて、ついにその朝、自殺を決心し、近くの湖へと歩を運ぶ途中、私の表札を見たものでありました。これは御霊の導きであったと思います。彼は言う、インウード氏に会うことができるだろうか。もしできたら、助けを得られるかも知れないと感じて、ついに戸を叩きましたと。私はまず彼を聖言に導いた。共に祈った。私は衷心、彼のために重荷を感じて彼のために神を捕らえました。主は彼の魂に自由を与え、解き放ちを与えたもうて、彼は見事に救われた。そして自殺を思いとどまったのであります。彼が会いたいと言った時、もし私が否と答えたら、彼は死んでしまっていたことでしょう。ああ私は彼を導いて下さったことを、よくも会うようにして下さったことを、主に感謝しました。常に主に献げられている家庭の多くあらんことを! その家庭は想像以上に、主に用いられるのであります。
 最後に、もう一つの思想を申し上げて終わりましょう。神はピリポに、ご自分の表の中に、高い位置を与えたまいました。それに三つのことがあります。第一は、大臣の車に、同乗したことである(八・三十一)。彼はそれまでは、そんなものに乗ったことがない。総理大臣の車に乗せられたということは、彼にとっては、名誉なことでありました。彼はそれに同乗している時を有用に用いました。私は日本の首相がどんな御方であるかは知らない。けれども、もしここに見えて一緒に乗ろうと仰って下さったら、私は名誉に感じます。大国民の政府の首相であるからであります。ピリポはもう一回乗りました。それは御霊の車でありました。一、二分間の間、御霊の車に乗せられて彼はアゾトに引き去られました(八・三十九、四十)。聖書を調べる時に、新約中にこの車に乗った者が三人ある。パウロとヨハネとそしてこの平信徒伝道者であるピリポとであります。彼の乗せられたことが、もう一度あります。そしてそれは最後でした。これは使徒行伝には記されてはおりませんが、シリアの彼の家で起こったことであります。王ご自身の御者が彼の賤が屋を訪れました。そしてその中に入れと仰った。彼は入った。その瞬間、彼の頭には栄光の冠が冠せられた。そして彼は、永遠に主と偕なるために、高く、高く、いよいよ高く引き上げられるのでありました。
 以上の事柄は、聖霊の盈満が彼に齎した結果でありました。これは、また、聖霊に満たされることによって、私共一人一人に実験せしめられ得る事実であります。聖霊はあなたを捕らえたく思し召したもう。そのために、あなたの全部を占領せんと欲していたまいます。あなたは、聖霊をしてあなたの全部を占領せしめ、支配せしめ奉りますか。おお兄弟姉妹よ、ただ今あなたの全部を献げなさい。そして彼のご占領を願いなさい。あなたは、そういう決心をするために、次の集会を待ちなさるな! 御聖霊は、今、かくなしたまいます。かくなしたまえと願いなさい。かくなしたもうように、一切を献げなさい。しからば、ただ今、この時が、あなたにとって、ペンテコステである次第です。かくあらんことを! 主、今、かくなしたまえ。祈りましょう。



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