聖 書 講 読 会

日本、軽井沢にて


(以下の文章は逐語的な記録ではなく、
基幹的な思想と講解のあらすじをとりまとめたものです。)


緒  言

 この一連の聖書講読会を始めるにあたり、次の三つの質問に対する聖書からの答えを尋ね求めましょう:
 1.神はイエス・キリストの体をなす人々のために何を(WHAT)なさろうとしておられたのでしょうか。『(神は)凡ての事を御意の思慮(おもんばかり)のままに行ひたまふ』(エペソ1章11節)
 2.神はいつ(WHEN)教会がその御目的を実現するように定められたのでしょうか。
 3.神はどのようにして(HOW)その御目的が実現されるように定められたのでしょうか。
 こうした探求が重要なのは、次の事実によります。すなわち、確かに知識を超えた体験というものも時にはあるかも知れませんが、それでもなお神の順序は『知識によって──信仰をとおして──体験に至る』だからです。
 聖書全巻に通底するものは、人間を罪とそのすべての結果から救済するという、明白に啓示された神の御目的です。私共の間にある見解の相違は、私共がみな認めているこの御目的の事実性に関する対立ではなく、『いつ』そして『いかにして』に関する相違であるはずです。
 罪が人間生活の中に無秩序を来らせたその順序に目を向けることは有益でありましょう。罪ははじめに人間の神の前における地位と権利を損ないました。そして神に対する人間の正しい関係を混乱させ破壊することにより、罪は人間の品性の中に荒廃を生み出しました。このすべての最終的な結末は肉体の死でありました。贖いは、ちょうどこの順序に従って人間を取り扱います。はじめに神は人間の地位を立て直したまいます。第二に神は人間の品性を修復したまいます。そして第三に、神は肉体を贖いたまいます。神の救いとは実にこの三重性──義認、聖化、肉体の贖い(ロマ8章23節)──を具現するものなのです。



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