はじめに『あめなるよろこび こよなき愛を』で始まる讃美歌8番(日基讃美歌352番)が歌われ、そのあと神を待ち望む時がおかれました。そしてオースティン氏が祈りを導かれました。
出席者に対してほかのすべての関心事を捨ててこの諸集会のために心を備えるように求められたあと、バックストン氏は ロマ書6章 を朗読され、以下のように語られました。
──神は私共に仰せられます、「あなたに全き祝福を与える前に、わたしはまずあなたの内なる罪を取り扱わねばなりません」と。神の救いは心の内なる罪を取り扱うものです。もし家の貯水槽が汚れていて故障しておりますと、そこからは少しばかりの水とその汚れが出て来るのみであります。この場合にあなたがなさなければならないことは、貯水池からもっと多くの水を引いてくることではありません。貯水槽をきれいに掃除することであります。そう致しますと水はいくらでも出て参ります。皆様は御自分から活ける生命の水が流れ出していないことに気付きましたか、または少しの汚い水しか出ていないことに気付きましたか。そうでありますならば貯水槽の掃除が必要です。この章は、神が心を潔めることがおできになること、また実際にそうなしたもう事を説明いたします。あなたが純潔で聖い生命を生きるために、罪との関係が明確に断たれねばなりません。罪が取り扱われます時には、生命を一新する力が顕れます。
この章には三つの肝要なる言葉がございます。第一は『十字架につけられたる』(6節)です。皆様はイエスがあなたの罪を負って木に懸けられたことを知った時のことを御記憶でありましょう。私共はそこに、十字架上のイエスの死によって、罪の事実のみならず罪の力も除かれていることを見ます。あなたは古き自己がキリストと偕に十字架につけられていることを見ることができます。何と栄光ある自由でしょうか。
第二の大切なる言葉は『思ふべし』(11節)であります。ここで神は『想像すべし』と命ぜられているのではありません。『断定すべし』と仰せられているのです。あなたは確かに死んだものと断定するのです。遺産の相続人は自分自身を相続人であると断定いたします。そうしますと法律はその人の判断を支持いたします。そうしますと相続人にはそのことが真実であることが現実の経験となります。ここにあなたのための栄光ある遺産があります。あなたは御自身を罪に対して死んだものと断定することができます。そういたしますと単純な信仰の裁定により、十字架はそのあるがままの力を充全に発揮いたします。
第三の大切なる言葉は『己を神に獻げよ』(13節)です。このことは毎日の経験であるはずです。神に己を献げ、その御目的のために用いていただきなさい。
それでは『すべての事なし得るなり』で始まる讃美歌136番を歌いましょう。
──祈りの後、バックストン師は出エジプト記14章30〜31節を読まれました。
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30 斯ヱホバこの日イスラエルをエジプト人の手より救ひたまへり イスラエルはエジプト人が海邊に死をるを見たり 31 イスラエルまたヱホバがエジプト人に爲たまひし大なる事(わざ)を見たり 是に於て民ヱホバを畏れヱホバとその僕モーセを信じたり
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そして次のように続けられました。
──イスラエルの人々は海辺のエジプト人たちが死んでいるのを見ました。これはロマ書6章に対応する旧約聖書中の表象であり寓話であります。イスラエルの人々はかつて一度救われました。エジプト人に対する審きが行われている間、彼らは小羊の血によって救われました──単に救われただけではありません。また自由をも得ました。奴隷から解放され、神の群となるべく呼び出されました。この状態はロマ書6章と対応しております。またルカ1章74〜75節をもご覧なさい。『我らを仇の手より救ひ‥‥‥』この時より彼らは自由を得、外に出て神と偕に歩むことができるようになりました。このことはパロのあらゆる力に対する真の死です。それにより私共が安息と自由を得ることのできる死に入るためのバプテスマであります。
空を舞う蝶はこのことの見事な実例であります。蝶ははじめ卵です。子どもの間はイモムシです。そしてサナギが作られます。サナギは死のように見えますが、そこから美しい蝶となって現れます。けれども中には復活の生命のあずかることのできないイモムシもあります。サナギの間に腐敗してしまうのです。一匹の寄生虫が、蝶となるべき虫の体を食べます。外部から見ますと他のサナギと変わりません。しかしサナギが復活の栄光のうちに蝶となるべき日が参りますと、サナギの中は空っぽであります。ただ寄生虫のみが中におります。これは恐るべきほどに厳粛なる寓話であります。神はあなたが聖なる者となること、地を這うような生活ではなく翼をもって空を舞う生涯を送ることを望みたまいます。しかし如何に多くの生命が、罪と世にその生命を蝕まれているために、復活の生命にあずかれずにおることでしょうか。神が私共に語りかけ、内なる罪の怖ろしさを示したまいますように。神は内なる人に目を留めたまいます。私共は人の熱心さや聖書の知識などに目を向けるかも知れませんが、神は心に目を留めたまいます。神に感謝なさい、神は私共が復活の生命を生きることができるようにしてくださいます。
新約聖書においてカルバリの勝利に言及しているほとんどの箇所では、私共がそれによって潔められ聖なる者とせられることを語っております。すなわち罪に対して死に、白き衣を着て神と偕に歩むべく出で行くことであります。このことは主イエスの切なる御要求であり、力ある執り成しの祈りの重荷であります。彼はそのために常に祈りたまいますが、それに対して心を固くする者があります。あなたがたの中には、すべての罪から救われることを望んだことのない方がありませんか。日本の人々は私共に、心の潔めについての個人的な体験からの単純な証を求めております。私共が確かにそれを彼らに示すことができますことを祈ります。ただいまお読みしました出エジプト記の章は、私共は如何にすればそれができますかを示します。
最初の一歩は祈禱であります。9, 10節において、敵がいかに私共を追い詰めて私共が叫びを上げざるを得なくなるかを見ます。『此の死の體より我を救はん者は誰ぞ』と。神の約束は頓挫したかのように見えます。イスラエルの人々は、この書の6章6節や7章4節に記されているようには、その敵の手から解放されなかったかのようです。正面には海、背後には敵が迫ります。両側は断崖です──あなたの信仰はこれまでにこのような場所にさしかかったことがございますでしょう。敗北以外の何も見えません。この時に上がった心を引き裂くような叫び声は、何世紀も後になってもことさらに言及されました(ネヘミヤ記9章9節)。あなたがうなだれて顔を伏せ、もし神があなたを内的腐敗から救って下さらないなら先に進むことができませんと神に申し上げた時のことを、あなたは覚えておいでです。
第二の階段は13節です。『静かに立て(Stand still=欽定訳)』。信仰の立場です。パロに目を留めてはなりません──彼よりも強い御方があります──カルバリの主であります。主は救うことができます。静かに立ちて主の救を見なさい。神は神に依り頼む者を囲みたまいます。その庇護となり(19節)光となりたまいます(20節)。あなたが命懸けの信仰によって立ちます時、神はあなたと敵との間に立ちたまいます。
第三の階段は信仰の行為です。15節に神は『進みゆかしめよ』と命ぜられます。信仰は単に固く立つのみではありません。神が約束されたことを求めて、必要とならば海に向かって真っ直ぐに進み行きます。即ち死に合う真のバプテスマへと進み行きます(ロマ書6章3節)。あなたはその用意ができていましょうか。約束を前にして迷ってはなりません。神の手にそれを求めなさい。神は海の中を通ってあなたを甦りの岸辺に連れ行きたまいます。あなたはそこで溺れ死んだ敵を、十字架につけられた古き人を目にすることができます。信仰の一歩を踏み出しなさい。他のことは神がなしたまいます。
第四の階段は経験です。出エジプト記15章を御覧なさい。勝利の歌があなたの口にあります。古き人が十字架につけられていることをあなたが知りますならば、あなたは自由とせられます。そのことにイスラエル人が喜び躍っているのを不思議に思いますか。聖なる喜悦ではありませんか。この歌声に加わったことがございますか。この天的な解放をあなたはもう知っていますか。それは永久的な解放です──10節をご覧なさい、敵は鉛のごとく沈みました。そしてこれは神にとっては何でもないことです。10節を見ますとこれは息の一吹きに過ぎません。あなたの持っているすべて、あなたがそうであるところのものすべてを、死の海に沈めなさい。完全に明け渡しなさい。こうすることであなたは新しき生涯に引き入れられます。最近のことですが、或るアイルランド人のローマ・カトリックの司祭が改宗いたしました。彼はそれまでの教会を去って福音派の教会に加わることを希望して、こんな手段を用いました。彼は僧服を脱いでシャノン川の土手に置き、川に飛び込んで向こう岸に泳ぎ渡りました。そこには彼は平信徒の着る服一式を匿してありました。人々は彼が溺れたものと思いました。彼は聖職者の式服をあとに残していまや川を渡り、新たなる生涯へと入りました。これは神があなたがたに求めていることであります。古き生涯をあとに残して飛び込み、今より新しき生涯、聖なる潔い生涯を歩み出すことです。
──この後、祈禱と短い集会が続きました。
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