第5課 神の教えを飾る──テトス2章9〜14節



  9 奴隷には己が主人に服ひ、凡ての事において之を喜ばせ、之に言ひ逆はず、 10 物を盗まず、反つて全き忠信を顯すべきことを勸めよ。これ凡ての事において我らの救主なる神の敎を飾らん爲なり。 11 凡ての人に救を得さする神の恩惠(めぐみ)は既に顯れて、 12 不敬虔と世の慾とを棄てて、謹愼(つゝしみ)と正義(たゞしき)と敬虔とをもて此の世を過し、 13 幸福(さいはひ)なる望、すなはち大なる神、われらの救主イエス・キリストの榮光の顯現(あらはれ)を待つべきを我らに敎ふ。 14 キリストは我等のために己を與へたまへり。是われらを諸般(もろもろ)の不法より贖ひ出して、善き業に熱心なる特選の民を己がために潔めんとてなり。

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 勧告をなすべきときが来ているように思います。はじめに、なお逡巡している方々にです。次に、十字架のもとで神に出会い、聖言に従い彼に己を明け渡しました方々にです。

I. 十字架のもとで神に会うことを逡巡している方々に

 この諸集会において心を刺され、罪の自覚によって心を裂かれた方もあるかも知れません。神が働かれていると思います。これは神の御業であることをあなたがたが知り、またその中に恵みの目的があることを知るに至ることを望みます。ヘブル12章10,11節を思い起しなさい。神は私共を愛したまいます。そして愛したもうがゆえに私共と論いたまいます。神は私共を神の聖潔にあずかる者としようと、私共の利益のために鍛錬を与え続けていたまいます。ホセア5章11節〜6章3節のすばらしい教訓を思い出しませんか。『エフライムは甘んじて人のさだめたるところ(むなしきこと=改譯聖書脚註)に從ひあゆむがゆゑに鞫(さばき)をうけて虐げられ壓(おさへ)られん』(11節)。そのとき神は言いたまいます。『我ふたゝびわが處にかへりゆき彼らがその罪をくいてひたすらわが面をたづね求むるまで其處にをらん』(15節)。そして勧告の言葉が続きます。『來れ われらヱホバにかへるべし ヱホバわれらを抓劈(かきさき)たまひたれどもまた醫すことをなし 我儕をうち給ひたれどもまたその傷をつゝむことを爲したまふ可ればなり』(6章1節)。どうぞこの言葉を今日の私自身のための言葉として心に受け入れとうございます。新しい契約の基礎には偉大な真理があります。『我もその不義を憐み』(ヘブル8章12節)。神はその限りない愛のゆえに、私共の魂に対するそのご誠実を曲げたまいません。
 今日の箇所に、『我らの救主なる神』(10節)の言葉を見ます。これは私共の外面にある律法上の事実以上のものです。私共のうちにおける現在の経験です。『救を得さする神の恩惠は既に顯れて』(11節)──『キリストは我等のために己を與へたまへり。是われらを諸般の不法より贖ひ出して‥‥‥特選の(己のものとなさんと=英改譯)民を己がために潔めんとてなり』(14節)。『贖い出し──潔め──ご自身のものとする』。彼はあなたの中に彼の魂が生まれようとする産みの苦しみをもたらしていますか。彼はあなたの贖い主、潔め主、内住の主でありたまいますか。
 あなたがたのための神の言葉はこれです。「十字架のイエスに目を留めなさい。彼が十字架に釘けられたそのご目的をあなたがすべて認識するまで」。刺され傷を負った魂よ、神に堅くお従いなさい。聖言に従って神を求めなさい。神がイエス・キリストをとおして私共に約束したもうたこと、及び神が言いたもうことはすべて、十字架において神の独り子の死によって成し遂げられているのですから、信仰によってそれを手に入れ、それが完全に実現されるために神のもとにとどまりなさい。

II. すでに赦され潔められている方々に

 勧告の言葉はこれです。『これ凡ての事において我らの救主なる神の敎を飾らん爲なり』(10節)。神が私共を罪科からばかりでなく罪の力から救う救い主であられることを信じかつ言い表す私共は、このことの真実性を体現し、このことに『適ひて步』まねばなりません(エペソ4章1節等)。今日の箇所の言葉で言えば私共は『神の敎を飾』らねばなりません。教えを飾るとは、ある聖書の真理の価値を増し加えるということではなく、本来的に価値を持っている真理に益となるように自分自身が飾りとなるということです。この勧告を注意深く読みますと、それが奴隷をつなぎ止めるために言われていることを知って驚かれるでしょう。そうです、飾るべき場所は、神の恵みが私共を見出す場所です。私共は人々が敗北したその場所で勝利を顕すことによって、人々に教えの正しさを納得させるのです。このすべては、このことが私共にとって信仰箇条であるのかそれとも経験であるのか、また形式であるのか生命であるのかにかかっています。聖霊の御力のうちに生きる生活は他の人々の中に渇望を起させます。神は教会にこう言いたまいます。『私はあなたをとおして、人間的には敗北であるその場所で完全な救いを示そう』。真夜中の監獄の中でパウロとシラスが神にあって喜びますと、その看守は、彼らの信仰の現実性と彼らの神の現実の力に気付くようになります。聖霊による父なる神とイエス・キリストとの交わりが、人が自然の成り行き──時代の必然──世の習慣を超えて、またそれに反して生きることを可能にするという事実を、私共は立証するべきであります。
 これが可能であることは、インドにおいて老人のバラモンが私に語った小さな物語が示します。彼はすでに回心してイエス・キリストに従っておりましたが、ある日、彼はまだ回心していない友人数人とボンベイにおりました。彼らがある通りを渡っておりましたとき、その一人が一人の男を指し示して言いました、『ほら、イエス・キリストが歩いている。』バラモンは彼らが彼の主を貶めようとしていると思いましてその言葉に心が傷み、『どうか私を傷つけないでくれ』と言いました。『私はイエスを愛している。彼は私にとってほんとうに現実のお方だ。』相手は答えました。『あなたを傷つけるつもりはなかった。困らせるようなことを言おうとしたのではない。あの男は聖書が我々に語っているイエス・キリストの生涯のように生きているのだ。』その男とはジョージ・ボーウェンでした。
 私のクリスチャン生涯の初期に別の例があります。父が牧会しておりました教会の会員に、子どもの頃に事故にあって以来五十年以上も床に臥したままの一人の聖い婦人がありました。彼女は父に、この年月の間中、痛みから完全に解放されたことは一度もありませんと語りました。しかし私共が彼女に会いに参りますと、その小さな部屋には人にイエス・キリストのご臨在を感じさせる雰囲気がありました。そして彼女の口からイエスに対する信仰と信頼のかくも甘い言葉が流れ出している間中、その白く痩せた顔からは神の光が輝いておりました。そうです、彼女は神の教えを飾りまして、ついに彼女を知るすべての人々が神ここに在したもうと言うまでに至りました。
 私共は価値を増し加えることはできませんが、その益となるように飾りとなることはできます。しかし反対に『不義をもて眞理(まこと)を阻む』(ロマ1章18節)人を目にするのはなんと悲しむべきことでしょう、彼は自分の生き方によって、自分が信じると言い表している真理を辱めます。
 注意してください。今日の箇所の聖言は贖い──聖化所有──支配に限られるのではありません。12節によれば、神の恵みが現れたのは私共が『不敬虔と世の慾とを棄てて』神の教えを飾るためでもあります。ヨハネは同じ真理を『光のうちを步め』(ヨハネ一書1章7節)という言葉で言います。光は三つの仕方で私共のところに来ます。イエスの生涯、聖書の言葉、聖霊による内的覚醒です。
 特に強調を要する点はここです。おそらくあなたがきよい心を神に求めましたときに、神は罪が或る一つのことをとおして姿を現すのを許したまいました。あなたはこのことに立ち向かいました。それをめぐり戦いがありました。そして十字架のもとであなたはきよめられました。聖霊が保証として来りたまいました。今やあなたは十字架から新しい生涯、「聖霊に従う」──「神に結ばれた」生涯に入ります。神に結ばれるとは、聖言の中の神のご命令を聖霊によって守るということです。教会におけるほかの人々との協同的な関係において、また個人的行動の万般において、あなたは神に従おうと致します。聖霊は今あなたを導いて、あなたの生活を神に対するあなたの愛に適合させたまいます。この時あなたはその生活の中に、この新しい経験に合わせて建て直さなければならない物事が多くあることを見いだします。神が私共から要求したもう一事は、神が教えたもうままにこの建て直しを私共がなすことであります。それは型に従ってなされねばなりません。その型とは、イエス、聖書、聖霊です。イエス・キリストは過酷な監督者ではありません。しかし神は私共がより豊かに実を結ぶように私共を潔めたまいます。光の中の歩みますならば、私共があらかじめ心を決めておかなければなりませんことは、神が示されるかぎりの建て直しを実行することです。『靈の念は生命なり、平安なり』(ロマ8章6節)。この点において、罪の咎めを去った心を持っていると明言する人々を多くの者が裁きます。私共は他の人々の中に、神がそれをもって人を罪に定めたもうところの事柄を多く認めるでしょう。私共は他の人々をこの標準で裁きます。自分がそれをもって他の人を裁くところの標準に照らして、自らに疚しさを覚えない人は幸いです。もっとも、他の誰かがこうしたことを認めましても、私がそれをしているという証拠になりません。神がそれについて私を取り扱いたもうまでは、罪の咎めはありません。しかし自己欺瞞があってはなりません。聖霊に満たされた生活は、光の中を歩むことによってのみならず、光に向かって進みゆくことによっても必ず顕されるべきです。このようにする人々にのみこの真理は当て嵌まります。イエスの御人格、神の聖言、聖霊の交わりを離れて聖潔はありません。
 私共が救われたのは善き業をなした故ではなく、善き業をなすためです。聖潔の生涯は極めて実際的です。この生涯が始まった後、それが保たれるために、極めて単純で明確ないくつかの段階もあります。ペテロ後書1章5〜7節に聖潔の生涯の段階を見ます。改訂訳によりますと、『かかる大義に從ひ、勵み勉めて‥‥‥加えよ』──
 第一に、信仰の立場を確保しなさい。聖書にある神のすべての御経綸を知って、あなた自身と世と悪魔に対立して、神とともに神の側に立ちなさい。間違えても決して、神が既にあなたになさった事柄に対して背を向けてはなりません。神がその御力を示したもうまで、神がすでにあなたに与えられている基礎の上に留まりなさい。
 第二に、信仰に勇気を加えなさい。神の御目的のためにイエス・キリストに忠実であろうとする、困難に打ち克つ勇気をです。イエス・キリストは日本と中国を私共に任せたまいます。私共は戦闘に加わっているのです。私共は神によって、彼の心にあるこの偉大なご計画へと召されました。勇敢な兵士となり神をお喜ばせしたいなら、私共は世とすべて神の御目的に反するものから分離しなければなりません。
 作戦行動中にある軍の司令官が、前線から離れた部署にいる部下の将校たちがダンスを楽しんでいることを耳にしました。司令官は突然その部屋に現れまして、軽蔑を含む声で「前線で戦友たちが戦死しているときに、あなたがたはよくダンスなどして遊んでいられるものだ」と言って、彼らを収監しました。その後、司令官は彼らを最も孤立した部署に送り出しました。
 イエス・キリストは、自発的なものでないかぎりはいかなる奉仕もお受けになりません。しかし彼は、聖霊の厳かな御要求を身に感じて聖霊の召しに応ずる者に必ず冠を授けたまいます。彼が人々を救い、また私共に彼のお手伝いができる時間は短いのです。願わくは私共の時間、私共の財産、私共の力がみな彼のものとならんことを。
 私共が新しい契約による燔祭を、それも獣ではなく、私共自身の身体による燔祭を献げるに至りますように。十字架において聖霊の御力によってなされたこのような聖別の結果は、栄光ある活動に満ちた、実り豊かな生涯でありましょう。また勝利と栄光に満ちた天の御国への凱旋です。
 しかしあなたは尋ねます、「もし堕落してしまったらいかになすべきですか」。あなたが自分の堕落や不従順に気がつきましたら、直ちに、それを十字架の神のもとに持ち来り、その血潮の下に置きなさい。

III. 聖潔の生涯における三つの助け

 教えを飾る生活を維持するために三つの偉大な助けがあります。そのうちの二つはテトス書のこの箇所に見られます。残りのひとつはヘブル書に見られます。
 第一は記憶です。第二は信仰です。第三は希望です。または十字架、御座、再臨です。私共は十字架のイエスをつぶさに見なければなりません。また御座のイエスに目を注がねばなりません。そして再臨のイエスを待ち望まなければなりません。神の恵みは既に顕れました(11節)、そして『榮光の顯現(あらはれ)を待つべきを我らに敎ふ』(13節)。これら二つの間に、イエスが私共のために御座についておられる現在の奇蹟の時という洞察があります。
 イエスが再び現れたもうとのこの望みの力はいかばかりでしょうか。『凡て主による此の希望(のぞみ)を懷く者は、その淸きがごとく己を潔くす』(ヨハネ一書3章3節)。このように彼を待ち望むことは無為ではありません。『キリストも‥‥‥復(また)罪を負ふことなく、己を待望む者に再び現れて救を得させ給ふべし』(ヘブル9章28節)。この箇所の思想に関して不明確さはあり得ません。罪は彼が来りたまいます前に処置されねばなりません。いかに多くの人々が、死の時には潔められるであろうからと言って、品性における罪の処置というこの問題を死の時まで先延ばしにしていることでありましょうか。多くの人々が死の時に潔められるであろうという真理は認めましょう。しかし死によって潔められるのではありません。ところで死がやって来ないとすれば、いかが致しますか。イエスが先に来りたまいましたらどうですか。確かに、永遠の救いのための備えはそこにもありましょう。しかしそれによって失われます報いはいかばかりでしょうか。
 この祝福された希望、イエスがすぐにでも帰り来りたもうという希望が、生活の中でどれほどの働きをなすことでしょうか。一人の若い娘さんの話を致しましょう。彼女は船乗りの若者と愛を誓いました。ある日、若者は湾を出航して長い航海に旅立ちましたが、彼が帰った日には結婚しようと彼らは約束していました。出航の日、彼女は崖に登って立ち、船のマストが見えなくなるまで、その恋人に手を振り続け、船上にも手を振り答える姿がありました。彼女は自分の仕事に戻りましたが、夜ごと朝ごとに丘に立ち、彼が去っていった方向を見渡しておりました。ある日、船が乗組員もろとも行方不明になったと伝える者がありました。しかし彼女は、夜が明けて日の昇る時刻になると丘に登って海を見渡し、番をして待ち望むことを続けました。友達が参りまして、彼はもう帰っては来ないであろうと告げ、彼の代わりに他の人を探してはどうかと忠告しました。しかし彼女は答えます、「いいえ、私は愛を誓いました。ほかの方であってはなりません。」幾週、幾月も過ぎましたある日、彼女は疲れを覚えつつも丘に登り、海を見渡しておりますと、船が湾に入って参りました。マストの上には合図を送る人影があります。彼でした。彼は戻りまして、彼女が誓った愛に誠実なる者であることを知りました。私共と愛する主にあってもそのようでありますように。
 感謝の思いがあなたを動かすようになるまで、十字架の主を心に覚えなさい。確信を強めていただくために、御座の主に依り頼みなさい。責任と準備において手抜かりがありませんように、再び来りたもう主を待ち望みなさい。
 私共は怒り、苛立ち、あがき、争いをやめようではありませんか。神とその聖言の衷に留まり、御霊の力と導きによって歩もうではありませんか。



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