第4課 神の目的の実現──ロマ書8章



  1 この故に今やキリスト・イエスに在る者は罪に定めらるることなし。 2 キリスト・イエスに在る生命の御靈の法(のり)は、なんぢを罪と死との法より解放(ときはな)したればなり。 3 肉によりて弱くなれる律法(おきて)の成し能はぬ所を神は成し給へり、卽ち己の子を罪ある肉の形にて罪のために遣し、肉に於て罪を定めたまへり。 4 これ肉に從はず、靈に從ひて步む我らの中に律法の義の完うせられん爲なり。 5 肉にしたがふ者は肉の事をおもひ、靈にしたがふ者は靈の事をおもふ。 6 肉の念(おもひ)は死なり、靈の念は生命なり、平安なり。 7 肉の念は神に逆(さか)ふ、それは神の律法に服はず、否したがふこと能はず、 8 また肉に居る者は神を悅ばすこと能はざるなり。 9 然れど神の御靈なんぢらの中に宿り給はば、汝らは肉に居らで靈に居らん、キリストの御靈なき者はキリストに屬する者にあらず。 10 若しキリスト汝らに在さば體は罪によりて死にたる者なれど靈は義によりて生命に在らん。 11 若しイエスを死人の中より甦へらせ給ひし者の御靈なんぢらの中に宿り給はば、キリスト・イエスを死人の中より甦へらせ給ひし者は、汝らの中に宿りたまふ御靈によりて汝らの死ぬべき體をも活し給はん。
  12 されば兄弟よ、われらは負債(おひめ)あれど、肉に負ふ者ならねば、肉に從ひて活くべきにあらず。 13 汝等もし肉に從ひて活きなば、死なん。もし靈によりて體の行爲(おこなひ)を殺さば活くべし。 14 すべて神の御靈に導かるる者は、これ神の子なり。 15 汝らは再び懼を懷くために僕たる靈を受けしにあらず、子とせられたる者の靈を受けたり、之によりて我らはアバ父と呼ぶなり。 16 御靈みづから我らの靈とともに我らが神の子たるを證(あかし)す。 17 もし子たらば世嗣たらん、神の嗣子(よつぎ)にしてキリストと共に世嗣たるなり。これはキリストとともに榮光を受けん爲に、その苦難(くるしみ)をも共に受くるに因る。
  18 われ思ふに、今の時の苦難は、われらの上に顯れんとする榮光にくらぶるに足らず。 19 それ造られたる者は切に慕ひて神の子たちの現れんことを待つ。 20 造られたるものの虛無(むなしき)に服せしは、己が願によるにあらず、服せしめ給ひし者によるなり。 21 然れどなほ造られたる者にも滅亡(ほろび)の僕たる狀より解かれて、神の子たちの光榮の自由に入る望は存(のこ)れり。 22 我らは知る、すべて造られたるものの今に至るまで共に嘆き、ともに苦しむことを。 23 然のみならず、御靈の初の實をもつ我らも自ら心のうちに嘆きて子とせられんこと、即ちおのが體の贖はれんことを待つなり。 24 我らは望によりて救はれたり、眼に見ゆる望は望にあらず、人その見るところを爭でなほ望まんや。 25 我等もし其の見ぬところを望まば、忍耐をもて之を待たん。
  26 斯のごとく御靈も我らの弱を助けたまふ。我らは如何に祈るべきかを知らざれども、御靈みづから言ひ難き歎をもて執成し給ふ。 27 また人の心を極めたまふ者は御靈の念をも知りたまふ。御靈は神の御意に適ひて聖徒のために執成し給へばなり。 28 神を愛する者、すなはち御旨によりて召されたる者の爲には、凡てのこと相働きて益となるを我らは知る。 29 神は預(あらか)じめ知りたまふ者を御子の像(かたち)に象らせんと預じめ定め給へり。これ多くの兄弟のうちに、御子を嫡子たらせんが爲なり。 30 又その預じめ定めたる者を召し、召したる者を義とし、義としたる者には光榮を得させ給ふ。
  31 然れば此等の事につきて何をか言はん、神もし我らの味方ならば、誰か我らに敵せんや。 32 己の御子を惜まずして我ら衆(すべて)のために付し給ひし者は、などか之にそへて萬物(ばんもつ)を我らに賜はざらんや。 33 誰か神の選び給へる者を訴へん、神は之を義とし給ふ。 34 誰か之を罪に定めん、死にて甦へり給ひしキリスト・イエスは神の右に在して、我らの爲に執成し給ふなり。 35 我等をキリストの愛より離れしむる者は誰ぞ、患難(なやみ)か、苦難(くるしみ)か、迫害か、飢か、裸か、危險(あやふき)か、劍か。 36 錄して『汝のために我らは、終日、殺されて屠らるべき羊の如きものと爲られたり』とあるが如し。 37 然れど凡てこれらの事の中にありても、我らを愛したまふ者に賴り、勝ち得て餘あり。 38 われ確(かた)く信ず、死も生命も、御使も、權威ある者も、今ある者も後あらん者も、力ある者も、 39 高きも深きも、此の他の造られたるものも、我らの主キリスト・イエスにある神の愛より、我らを離れしむるを得ざることを。

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 この8章の30節を見ますと、神があらかじめ知られ、召され、義とされた教会の上に、すでに品性的栄光が置かれていることを見ます。『光榮を得させ給ふ』のです。『得させ給はん』ではありません。この書簡の中には実にはっきりした順序が見られます。はじめに私共はまだ回心していない、罪の宣告のもとにある人間を見ます(1〜3章)。次に神に対する人間の義としてのイエスを見ます。次に義とされた人間を見ます。しかしなお罪は人間のうちにとどまり、人間はこれと戦いますが、敗北を完全に意識するに至ります。次に私共は人間の聖化として、イエスを再び見ます。そして守り主としての聖霊を見ます。はじめに贖いの血潮、次に灑がれるきよめの血潮、そして聖霊であります。この章ではこの書簡の教理的部分の中で最初に聖霊に言及されます。もっともこれが聖霊の最初の御業というわけではありません。憶えておくべき大切な事として、私共がイエスの血潮をこの二重の面、すなわち第一に罪の赦し、次にきよめという面において当て嵌めた後でなければ、聖霊の満たしは訪れません。今この8章に『靈の念(おもひ)は生命なり、平安なり』(6節)とあるのを見ます。人は7章の戦いが終わり、イエス・キリストにある神の方法に降伏いたしましたなら、罪の咎めなき状態に入ります。私共は今日、私共の心に罪の咎めはないと言うことができますか。
 今日私共が目を留めておきたいことは、
  第一 私共の実情
  第二 現在における神の恵み
  第三 未来における神の恵み
であります。罪の咎めは感情を呼び起こすかも知れませんし、呼び起こさないかも知れません。犯罪人はもはや咎めの感覚を通り越しているかも知れません。しかし判事が判決文を読み上げますと、犯罪人はあたかも咎めを感じているかのように、罪の咎めのもとに参ります。

その1 神の言葉はあなたを罪としますか?

 もし罪の咎めの感覚が少しでもありましたら、それはあなたが神の恵みのうちに完全に入っていない証拠であります。エペソ5章3〜7節をご覧なさい。ここに私共は神が何のゆえに世を罪としたもうかを見ます。そしてこれらの事柄について欺かれてはならないという心に響く警告、神が審こうとしていたもう者たちに與(くみ)する者となってはならないという勧告を見ます。ここに書かれている事柄の多くを私共はすぐに忘れ去ります。しかし『もろもろの汚穢(けがれ)』(3節)という言葉を読みます時に、これは私共の心をどう打ちますか。また『肉の慾のために備すな』(ローマ13章14節)という節は幾度私共の心に罪の咎めを来らせましたことでしょう。私共の生活の中に、私共が知っていてなお幾度もそれに支配されているところの汚れはありませんか。さらにエペソ5章18節をお読みなさい、『酒に醉ふな‥‥‥寧ろ御靈にて滿され』。このことが教えますのは啻に飲酒のことよりもはるかに深うございます。このことは確かに、神にある喜びを魂から奪いますところのあらゆる種類の肉体的、精神的、霊的酩酊をすべて含みます。ウェスレー夫人はその子ジョンに、あなたから神にある喜びを奪うものは何であれ罪ですと教えました。
 『を盡して主なる汝の神を愛すべし』とあるのを思い起しましょう。ただ神の言葉だけではありません、神のご人格をであります。この数日、感情の高まりよりもはるかにまさって知識の光があります。神はあなたから肉体の奉仕を求めたもうように、精神の服従を求めたまいます。私の精神の服従──私が理解し得ないところで信じること──を神が受けるまで、私が神の愛を現実のものとして認められたことはありません。

その2 他の人の生活はあなたを罪としますか?

 イエスの生涯はしばしば他の人を罪に定めませんでしたか。また私共が他の人の聖霊に満たされた生き方に出会う時、私共は罪の咎めから感ぜずにおられましょうか。

その3 あなた自身の心があなたを罪としますか?

 ヤコブ3章10〜14節をご覧なさい。『されど汝等もし心のうちに苦き妬と黨派心とを懷かば、誇るな、眞理に悖りて僞るな』。人を汚す洪水は心の中から出て参ります。この泉は潔められねばなりません。そしてそれはただ血潮によってのみ可能です。

I. 罪の咎めの無い状態の実現に至るには──ロマ書8章1節

 『キリスト・イエスに在る者は罪に定めらるることなし』。
 第一に、あなた自身の業をおやめなさい。『既に神の休に入りたる者は‥‥‥己が業を休めり』 (ヘブル4章10節)。7章では戦いに次ぐ戦いでした。『私は、自分で』。それをおやめなさい。そして神の救いとしてのイエスに目を向けなさい。
 第二に、正直でありなさい。ヨハネ一書3章19節には『われらの心われらを責むるとも、神の前に心を安んずべし。神は我らの心よりも大にして一切のことを知り給へばなり』とあります。罪を告白して探っていただくために、十字架のところで神にお出会いなさい。知っていることをすべて告白して、神に心を探っていただきなさい。パウロはコリント前書4章4節に私共が持つべき正しい心の態度を示します。私は人々の手による審きが罪の咎めを来らせることを認めるべきではありませんが、また自分でやましいところがなくてもそれに安んずべきでもありません。パウロは言います。『我は‥‥‥人の審判(さばき)によりて審かるることを最(いと)小き事とし、また自らも己を審かず。我みづから責むべき所あるを覺えねど、之に由りて義とせらるる事なければなり。我を審きたまふは主なり』。
 詩139篇におけるダビデも同じ思想を持っております。その最初の節では、彼は神がすでに彼を探り、知っておられるという思いに圧倒されています。しかしこのことを完全に意識するようになると、彼は人がとりうる唯一の健全な姿勢は神の恵みによる告白と信仰の姿勢であることを認めます。かくて23節に至って彼は叫びます。『神よねがはくは我をさぐりてわが心をしり 我をこゝろみてわがもろもろの思念(おもひ)をしりたまへ ねがはくは我によこしまなる途(みち)のありやなしやを見て われを永遠(とこしへ)のみちに導きたまへ』。これは私共が持つべき神に対する信頼です。『神は我らの心よりも大にして』(ヨハネ一書3章20節)。より大いなるゆえに審きたまいます。それのみでなく、より大いなるゆえに赦し、助けを与えたまいます。
 『その罪を‥‥‥認(いひあ)らはして之を離るゝ者は憐憫(あはれみ)をうけん(見出さん=英改譯)』(箴言28章13節)。これは単に罪を認めるだけにとどまりません。多くの人がアカンのように捕らえられたときに罪を認めましょう、しかし罪を離れ、そこから潔められることを願ってこれを告白することを致しません。ほかの誰もがすでに心を痛めつつ意識している事柄が私共の衷にもあるということを言い表すだけのために、たくさんの証会が行われます。しかしこういったものは告白ではありません。
 はじめになすべきことのひとつは、自分の悲惨さを真実に知るということです。口先ではしばしばそれを知っていると申します。しかしそれを嘆きません。このことを知るまでは、私共のために十字架のうちに備えられているものを見ることも、正しく受け入れることも、自分のものとすることもできません。イエスが教会に対して次のように言われたのは訝しいことですか。『目藥を買ひて汝の目に塗り、見ることを得よ』(黙示録3章18節)。

II. いかにしてこの状態を保つか

 『キリスト・イエスに在りて肉に依らず靈によりて步める者は罪に定めらるることなし』(1節・英欽定訳)。『靈の念は生命なり、平安なり』(6節)。このことについては私共の主が用いられたこの言葉以上に的確な言葉はありません。『我に居れ』(ヨハネ15章4節)。ヨハネ一書3章24節では、この言葉は次のように表現されます。『神の誡命(いましめ)を守る者は神に居り』。しかし最初の一歩は彼に居ることを開始することです。ここで教理が必要になります。『キリスト・イエスに属する者は肉とともに其の情と慾とを十字架につけたり』(ガラテヤ5章24節)。彼に居ることの前に、十字架がなければなりません。私共の生活の中で、神のみこころから離れていると神が示したもうたものは何であれ、十字架のところで聖言に従って処置していただかねばなりません。私共が自分の必要を知るようになるために、神は必ず私共の内なる罪をして何らかの形をとって顕れさせたまいます。このときに明確に私共はこの罪を神の約束と備えに従って取り扱いとうございます。
 この経験を保つことは時間を要します。また、一般的には合法とみなされていても聖霊に満たされた生活にあっては優先されるべきではない諸般の事柄から分離することを要します。
 神の御前に心に罪の咎めがないというこの経験に到達しました結果は四重であります。律法の義はこのようにして満たされ、キリスト者の完成でありますところの愛は実現します。──このような生活の歩みに不確かさはありません、聖霊がその歩みを導き守りたまいます。そのときに魂は、変容のために神に定められたところに至ります。この時点まで、私共は知識と愛とにおいて成長して参りました。しかし魂の変容が始まりますと輝かしい影響が顕れます。覆いを取りのけられた顔で見上げつつ、私共は同じ貌に栄光から栄光へと変容されます。そしてついには私共は奉仕においてイエスのようになります。私共の主イエスの栄光は品性だけではありません。奉仕の性格にも及びます。9章においてパウロは、ちょうどキリストが私共のために父なる神から離されたまいましたように、パウロもまたその兄弟のためにキリストから離されるのを厭わないと言っているのを見ます。奉仕におけるイエスの最高の似姿です。

III. 結論

 この身分はいかなるものであっていかにしてそこに達するのかにつきまして誤りなきように致しましょう。それは神の御前における個人的な保証です。神の条件をすべて満たして、約束の聖言を純真な信仰によって受け取り、イエス・キリストの十字架において神の成し遂げられたことを信じなさい。『己を罪につきては死にたるもの、神につきては‥‥‥活きたる者と思ふべし』(ロマ書6章11節)そして信仰にあって明証を待ち望みなさい。
 これはあなたを人間による告発からは解放しません。しかし神による告発から解放します。そして私共はこの神とかかわらねばなりません。私共の主イエスご自身も、その動機と行為に対する人間による告発を避けませんでした。しかしキリスト者の完成は神と人とに対する愛に満たされた心です。これがありますならばあなたの平和を乱すことは誰にもできません。



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