夕べの集会──火曜日

B.F. バックストン師



 初めに『ひとたびは死にし身も』で始まる讃美歌538番(日基讃美歌532番)が歌われました。祈禱が献げられ、続いて『救主よ信仰をもてわれ汝に触れん』で始まる讃美歌104番が歌われました。
 それからバックストン師はヘブル書3, 4章より語られました。

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【第三章】  1 されば共に天の召を蒙れる聖なる兄弟よ、我らが言ひあらはす信仰の使徒たり大祭司たるイエスを思ひ見よ。 2 彼の己を立て給ひし者に忠實なるは、モーセが神の全家に忠實なりしが如し。 3 家を造る者の家より勝りて尊ばるる如く、彼もモーセに勝りて大なる榮光を受くるに相應しき者とせられ給へり。 4 家は凡て之を造る者あり、萬の物を造り給ひし者は神なり。 5 モーセは後に語り傳へられんと爲ることの證をせんために、僕として神の全家に忠實なりしが、 6 キリストは子として神の家を忠實に掌どり給へり。我等もし確信と希望(のぞみ)の誇とを終まで堅く保たば、神の家なり。 7 この故に聖靈の言ひ給ふごとく『今日なんぢら神の聲を聞かば、 8 その怒を惹きし時のごとく、荒野の甞試(こゝろみ)の日のごとく、心を頑固(かたくな)にする勿れ。 9 彼處にて汝らの先祖たちは我を試みて驗し、かつ四十年の間、わが業を見たり。 10 この故に我この代の人を憤ほりて云へり「彼らは常に心迷ひ、わが途を知らざりき」と。 11 われ怒をもて「彼らは我が休に入るべからず」と誓へり』 12 兄弟よ、心せよ、恐らくは汝等のうち活ける神を離れんとする不信仰の惡しき心を懷く者あらん。 13 汝等のうち誰も罪の誘惑(まどはし)によりて頑固にならぬやう、今日と稱ふる間(うち)に日々互に相勸めよ。 14 もし始の確信を終まで堅く保たば、我らはキリストに與かる者となるなり。 15 それ『今日なんぢら神の聲を聞かば、その怒を惹きし時のごとく、心を頑固にする勿れ』と云へり。 16 然れば聞きてなほ怒を惹きし者は誰なるか、モーセによりてエジプトを出でし凡ての人にあらずや。 17 また四十年のあひだ、神は誰に對して憤ほり給ひしか、罪を犯してその死屍(しかばね)を荒野に横たへし人々にあらずや。 18 又かれらは我が安息(やすみ)に入るべからずとは、誰に對して誓ひ給ひしか、不從順なる者にあらずや。 19 之によりて見れば、彼らの入ること能はざりしは、不信仰によりてなり。
【第四章】  1 然れば我ら懼るべし、その安息に入るべき約束はなほ遺れども、恐らくは汝らの中これに達せざる者あらん。 2 そは彼等のごとく我らも善き音信(おとづれ)を傳へられたり、然れど彼らには聞きし所の言益なかりき。聞くもの之に信仰をまじへざりしに因る。 3 われら信じたる者は、かの休に入ることを得るなり。『われ怒をもて「彼らは、わが休に入るべからず」と誓へり』と云ひ給ひしが如し。されど世の創より御業は既に成れるなり。 4 或篇に七日めに就きて斯く云へり『七日めに神その凡ての業を休みたまへり』と。 5 また茲に『かれらは、我が休に入るべからず』と云へり。 6 然れば之に入るべき者なほ在り、曩に善き音信を傳へられし者らは、不從順によりて入ることを得ざりしなれば、 7 久しきを經てのち復(また)、日を定めダビデによりて『今日』と言ひ給ふ。曩に記したるが如し。曰く『今日なんぢら神の聲を聞かば、心を頑固にする勿れ』 8 若しヨシュア既に休を彼らに得しめしならば、神はその後、ほかの日につきて語り給はざりしならん。 9 然れば神の民の爲になほ安息は遺れり。 10 既に神の休に入りたる者は、神のその業を休み給ひしごとく、己が業を休めり。 11 されば我等はこの休に入らんことを努むべし、是かの不從順の例にならひて誰も堕つることなからん爲なり。 12 神の言は生命あり、能力(ちから)あり、兩刃の劍よりも利くして、精神と靈魂(たましひ)、關節(ふしぶし)と骨髓を透して之を割ち、心の念(おもひ)と志望(こゝろざし)とを驗すなり。 13 また造られたる物に一つとして神の前に顯れぬはなし、萬の物は我らが係れる神の目のまへに裸にて露るるなり。
  14 我等には、もろもろの天を通り給ひし偉(おほい)なる大祭司、神の子イエスあり。然れば我らが言ひあらはす信仰を堅く保つべし。 15 我らの大祭司は我らの弱(よわき)を思ひ遣ること能はぬ者にあらず、罪を外にして凡ての事、われらと等しく試みられ給へり。 16 この故に我らは憐憫(あはれみ)を受けんが爲、また機(をり)に合ふ助となる惠を得んがために、憚らずして惠の御座に來るべし。

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 ──イスラエルの人々の物語は、私共の救いに対応する非常に優れた寓話です。エジプトからの救出とカナンへの入植は私共のための教訓に満ちております。紅海の通過とヨルダン川の徒渉の物語のもつ霊的な意味はロマ書6章に書かれてあります──すなわち罪に対して死に、生命に入ることです。紅海の経験では過去の生涯に対する死が強調され、ヨルダン川徒渉では生命に入ること、それも豊かな生涯に入ることが明らかに示されています。ヘブル書3, 4章においてパウロは人々を全き救いの一層高い経験に引き入れとうございます。そのために彼はイスラエルの人々の物語に立ち帰ります。
 ヘブル書4章1節には『恐らくは』とあります。ここには私共が恐れなければならない事柄がございます。或る約束が残っており、その背後に神がおられます。『我ら懼るべし‥‥‥恐らくは汝らの中これに達せざる者あらん』。「このことは大切なることではない。我々はいずれにせよ天国に行けるのだから」と申してはなりません。あなたがたが聖霊の力という全き嗣業に入るか入らないかは大切な問題であります。私はここにお集まりの熱心な宣教師の幾人かがそこに入り損なうことがないかと恐れます。私共は神の休みに入ることができるのです。休みは完全なる救いの栄光あるしるしです。聖霊のバプテスマは真の安息を意味します。それは内在する罪から解き放たれ、敵の力から解き放たれて、神のうちに安らう安息であります。なぜならば私共は聖霊と一つにされるからです。

──祈りの時ののち、バックストン師はヨシュア記3章17節を読まれました。

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  17 即ちヱホバの契約の櫃(はこ)を舁(かけ)る祭司等(さいしたち)ヨルダンの中の乾ける地に堅く立をりてイスラエル人みな乾ける地を涉りゆき遂に民ことごとくヨルダンを濟(わた)りつくせり

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 ──『民ことごとくヨルダンを濟りつくせり』。幸いなる表現です。この言葉は4章1節にも11節にも出て参ります。神は霊魂を今すぐに約束の地に導き入れとうございます。ヨルダンを渉り、全き祝福へ、一人ひとりのペンテコステへと導き入れとうございます。ここにお集まりの幾人かの方はまだ渉っておられないかも知れません。あなたがたはこの祝福について多くのことを知っております。ちょうどイスラエルの人々も約束の地についてよく知っておりました。彼らは間者の証言を聞き、またその持ち帰った果物を見ました。あなたがたはまたピスガの高嶺からはるかにその地を望み見たことがあるかも知れません。けれどもそれでは十分ではありません。あなたがたの心はこのように叫びませんか、『願くは我をして涉りゆかしめヨルダンの彼旁(かなた)なる美地美山(よきちよきやま)を見ることを得させたまへ』と(申命記3章25節)。
 これは彼らの経験において新しい時代の始まりです。彼らはエジプトより救われました。また神により導かれ、教えられ、守られてありました。そこでこのように言うこともできたかも知れません、「これ以上何が必要でしょうか、わたしたちは救われた民ではありませんか」と。私共の不信仰の心もこのように申します、「神様は私のためにもうこれほど多くのことをなしたまいました。聖霊のバプテスマなど必要なものですか」と。けれどもイスラエルの人々はそのようには申しません。もう奴隷でないという事実だけでは満足いたしません。それ以上のことを求めました。約束の地は彼らがエジプトを出発した時以来の希望でありました。あなたがたの主張もこのようであるべきです、「潔めは私のためです。力は私のためです。聖霊のバプテスマは私のために備えられてあります。神は私が今すぐに涉ってそれを継承するように招いておられます」と。神はここで祝福するための道を備えておいでです。その独り子の花嫁となるべき人に、結婚の贈り物を、聖霊の賜物を用意しておられます。そこには賜物の最初の実りがあります。その第一は安息です。イスラエルの人々が四十年間荒野を彷徨っていたように、あなたもこれまで迷っておいでですか。御自分が海外宣教師となるために献身された日のことを憶えておいででしょう。その時からこれまでに、今回のような聖会で心を熱くすることはあるにせよ、次第に熱が冷めてしまったのではありませんか。約束の地に入るということは、あなたがたにとって安息であります。昇り降りして彷徨うようなことではありません。
 第二は、あなたが御自分の領分を手に入れることです。あなたがこれまでに神から受けましたことはまだ大したものではないかも知れません。あなたは「私は罪に死んでいます。自分が聖化されていることを知っています。自分が聖霊のバプテスマを受けたことを知っています」ということが出来ません。神はあなたを平和と義と喜悦に満ちた地に導き入れたまいます。『充ち足れるよろこび』(詩16篇11節)とはペンテコステを表します。神はここにおられる御銘々のためにそれを用意したまいました。
 第三は、神が栄光をお受けになることです。神の聖名の栄光のために神はイスラエルの人々をカナンの地に導き入れたまいました。一つの民のために神がなしたもうことができることを万民に知らしめるためでした。神は同じことを私共のためにすることを望みたまいます。神が栄光をお受けになるため、また神のおできになることを他の人々にも知らしめるためであります。
 スコットランドの長老主義者であったドナルド・カーギルは三、四年の間、生命の危険にさらされながらスコットランドを巡回伝道いたしました。その間クレヴァハウスの領主によって拘束されなかったのは驚くべき事です。物事を安易に考える別の牧師は彼について申しました。「彼があんなに労苦を負うのは何の意味があるのかね。彼は天国に行けるさ。でも我々もそうだ。彼は我々以上のものを受けるわけではないのに。」ドナルド・カーギルはその意見を聞き、申しました。「それは違う。我々は彼ら以上のものを持つのだ。神は我々により地上で栄光をお受けになる。それは我々が単に天国に行くということ以上のことなのだ。」神はあなたの証言を求められます。あなたの奉仕によって神があなたにおいて栄光をお受けになることを求められます。それはあなたがリバイバルの火の燃え上がる中心となるためです。あなたから火が燃え広がり、いつまでも燃え続けるためです。あなたはそのことが実現するために聖霊を受け入れませんか。あなたはもうこのような幸いの地に全く渉り行きましたか。
 ストラスブールのジョン・タウラーは或る平信徒から、完全なる生涯について説教をしてくれるように頼まれました。タウラーははじめ断りましたが、後に承諾して、二十四の項目からなる説教を致しました。礼拝の後でその平信徒は、タウラーが他の人々の前で語ったことを自分自身では経験しているのかどうか尋ねました。タウラーは経験していないことを告白しました。「それでは」とその兄弟は申しました、「あなたはパリサイ人ではありませんか。」タウラーは最後にはそれを認めて申しました、「私はどうすればよいのだろうか」と。その答えはこうです。「あなたが説教したことの内容を真に知るようになるまで神を求めなさい。」あなたがたの中には御自分の経験を越えた説教をなさる方がございます。あなたが説教なさることを手にお入れなさい。私共銘々の前に栄光ある地が開かれております。神は今一度その民をその地の境界まで導きたまいました。変わることのない神の恵みはなんと幸いでしょうか。神はかつてもあなたを地の境まで導きたまいましたが、あなたは不信仰の道を通って引き返しました。いま再びあなたは地の境におります。『汝ら身を潔めよ ヱホバ明日なんぢらの中に妙なる事(わざ)を行ひたまふべし』(ヨシュア記3章5節)。神が霊魂を荒廃と暗黒の中から救い出し乳と蜜の流れる地に導き入れたもうことは真に奇蹟です。この奇蹟を神は私共の間に働かせたまいとうございます。ちょうど主が目の見えなかった者に視力を与え、耳の聞こえなかった者に聴力を与えたまいましたように、いま主はここにある霊魂に奇蹟をなそうと臨みたまいますのに、あなたがたは「そのようなことは不可能です」と申して神を妨げませんか、私はそれを恐れます。神はあなたの霊魂に神の業をなしたまいたく準備を整えておられます。
 あなたはその神の業を保つことができませんと申しますか。『活神(いけるかみ)なんぢらの中に在し‥‥‥たまふべきを左の事によりてなんぢら知るべし』(ヨシュア記3章10節)。神があなたと偕に在すことをあなたに知らしめたまいます。そのことはあなたの能力によるのではありません。『活ける神』が働きたまいます。神はあなたの敵があなたにとって強すぎることを承知していたまいますから、あなたを救い出すと約束したまいます。あなたがたがその地を占領できるように、敵を追い払うべく準備を整えていたもう神に目をお留めなさい。神の賜う祝福は、いつまでもとどまる聖別を獲得するということです。
 どのようにしてその地に入りましょうか。イスラエルの人々に道はないように見えました。しかし神が『契約の櫃を舁き民に先だちて濟れ』と命ぜられると、道ができました。あなたは仰いますか、「それは私のためではありません。私はヨルダンを渉ることはできません」と。友よ、主イエスが先だちて進みたまいました。主の足はすでに冷たい水の中にあります。あなたのため、また私のために、主は叫びたまいました、『なんぢの波なんぢの猛浪(おほなみ)ことごとくわが上をこえゆけり』と(詩42篇7節)。主は現実の死、霊的暗黒の中へと進み行かれました。そこでは聖父の御顔も隠されてありました。主は死に降りたまいましたが、また再び上げられたまいました。ペンテコステはカルバリを通して参ります。主を通して道が開かれました。主の死はいまや私共のためです。カルバリによって今でも私共は罪に対して死に、神に対して生きることができます。イエスは今なお死の地に立ち、道を保ちたまいます。御自分を罪に対しては死にたる者とお認めなさい。そうすれば直ちにあなたはその地に入ることができます。川から引き上げられた十二の石は、恵みにより民が既に新しい生涯に入ることができたことを証しいたします。ヨルダンの底にとどめられた十二の石のように過去を御血の下に置き去りなさい。そうすれば聖霊の御力により新しき生涯を歩むことができます。兄弟よ、あなたがエジプトを出てこのかた願い求めて来たすべてに対して今晩道が開かれております。ヨルダンを全く渉り、復活の生涯へとお入りなさいませんか。そして信仰によって進み行き、神の満ち足れる富をお受けなさいませんか。

 ──祈禱が献げられた後、『奇蹟のみわざに我たちすくむ』で始まる讃美歌244番が歌われ、集会は閉じられました。



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