15 なんぢ眞理の言を正しく敎へ、恥づる所なき勞動人(はたらきびと)となりて神の前に練達せる者とならんことを勵め。 16 また妄りなる虛しき物語を避けよ。斯る者はますます不敬虔に進み、 17 その言は脱疽のごとく腐れひろがるべし、ヒメナオとピレトとは斯のごとき者の中にあり。 18 彼らは眞理より外れ、復活(よみがへり)ははや過ぎたりと云ひて或る人々の信仰を覆へすなり。 19 されど神の据ゑ給へる堅き基は立てり、之に印あり、記して曰ふ『主おのれの者を知り給ふ』また『凡て主の名を稱ふる者は不義を離るべし』と。 20 大なる家の中には金銀の器あるのみならず、木また土の器もあり、貴きに用ふるものあり、また賤しきに用ふるものあり、 21 人もし賤しきものを離れて自己(みづから)を潔よくせば、貴きに用ひらるる器となり、淨められて主の用に適ひ、凡ての善き業に備へらるべし。 22 汝わかき時の慾を避け、主を淸き心にて呼び求むる者とともに義と信仰と愛と平和とを追求めよ。 23 愚なる無學の議論を棄てよ、これより分爭の起るを知ればなり。 24 主の僕は爭ふべからず、凡ての人に優しく能く敎へ忍ぶことをなし、 25 逆ふ者をば柔和をもて戒むべし、神あるひは彼らに悔改むる心を賜ひて眞理を悟らせ給はん。 26 彼らは一度は悪魔に囚れたれど、醒めてその羂(わな)をのがれ神の御意を行ふに至らん。
【第三章】 1 されど汝これを知れ、末の世に苦しき時きたらん。 2 人々おのれを愛する者・金を愛する者・誇るもの・高ぶる者・罵るもの・父母に逆ふもの・恩を忘るる者・潔からぬ者、 3 無情なる者・怨を解かぬ者・譏る者・節制なき者・殘刻なる者・善を好まぬ者、 4 友を賣る者・放縱(ほしいまゝ)なる者・傲慢なる者・神よりも快樂(けらく)を愛する者、 5 敬虔の貌をとりてその德を捨つる者とならん、斯る類の者を避けよ。 6 彼らの中には人の家に潜り入りて愚なる女を擄(とりこ)にする者あり、斯くせらるる女は罪を積み重ねて各樣(さまざま)の慾に引かれ、 7 常に學べども眞理を知る知識に至ること能はず。 8 彼の者らはヤンネとヤンブレとがモーセに逆ひし如く、眞理に逆ふもの、心の腐れたる者、また信仰につきて棄てられたる者なり。 9 されど此の上になほ進むこと能はじ、そはかの二人のごとく彼らの愚なる事も亦すべての人に顯るべければなり。 10 汝は我が敎誨(をしへ)・品行・志望(こゝろざし)・信仰・寬容・愛・忍耐・迫害、および苦難(くるしみ)を知り、 11 またアンテオケ、イコニオム、ルステラにて起りし事、わが如何なる迫害を忍びしかを知る。主は凡てこれらの中より我を救ひ出したまへり。 12 凡そキリスト・イエスに在りて敬虔をもて一生を過さんと欲する者は迫害を受くべし。 13 惡しき人と人を欺く者とは、ますます惡にすすみ、人を惑し、また人に惑されん。 14 然れど汝は學びて確信したる所に常に居れ。なんぢ誰より之を學びしかを知り、 15 また幼き時より聖なる書(ふみ)を識りし事を知ればなり。この書はキリスト・イエスを信ずる信仰によりて救に至らしむる智慧を汝に與へ得るなり。 16 聖書はみな神の感動によるものにして敎誨と譴責(いましめ)と矯正と義を薫陶するとに益あり。 17 これ神の人の全くなりて、諸般(もろもろ)の善き業に備を全うせん爲なり。
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これまでの諸集会の間にあなたがたの心の中に二つの深い願いが来ましたことを疑いません。私にも同じ願いがあります。ひとつはきよい生涯を生きるということ、もう一つは有益な生涯を生きるということです。この二つのことはイエスの生涯のうちに実現し、その品性的栄光を構成しています。今日私は、この二つの願いの成就のために聖書がどのようにかかわるのかをお話しするように導かれております。主題を二つの部分に分けましょう。第一に、聖書を研究する動機です。第二に、聖書研究の方法です。
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A.──きよい心を保つために
私共は神が私共に語られた聖言を通して潔くあります。言い換えますと、私共は神が定められた条件に従って神と出会い、その聖言を信じましたことによって心の潔めを受けました。しかしまた聖言によって潔きを保たねばなりません。私共は光のうちを歩み、光のうちへ進み入り、また光を指して進まねばなりません。ダビデは問います。『わかき人はなにによりてかその道をきよめん』(詩119篇9節)。すなわちいかにして汚れより守るかということです。『聖言にしたがひて愼むのほかぞなき』。前回の聖書講読におきまして私共は助けとなる三つの確固とした事柄を申し上げました。十字架、御座、冠であります。十字架の主を心に覚え(Looking upon)、御座にある主に目を注ぎ(Looking unto)、再臨の主の戴冠を待ち望むこと(Looking for)です。
しかしすぐに疑問が起こります。「このこと(Looking)はイメージを主観的に創り出すようなことですか。それは単なる想像でありましょうか。」いいえ。聖書の中で私共はイエスをこれらすべての関係において見ます。聖書全巻はこれら三つの関係にあるイエスであります。創世記から黙示録まで、私共はこれら三つの面からイエスを見上げることができます。旧約聖書に示される型の中にイエスを見出しました時、それは私にとって何とすばらしい啓示でありましたことでしょうか。その時まで、私は旧約聖書の中に何か私に関わることがあるとは思えませんでした。しかしある日、私の教会に若い牧師が参りましてモーセ五書の講解を行いました。彼は夜ごと単純にその物語を語り、その多くの箇所を取り上げました。ある晩は創世記、次の晩は出エジプト記という具合です。彼がレビ記について語った晩までは、私はそこに何も見ませんでした。しかしその晩、私は初めてこの書の美しさを知りました。彼は次のような場面を描きました。一人の男が罪を犯したため、彼の家の囲いから一匹の子羊を取らねばなりません。それは子供たちの遊び相手でしたが、彼はそれを連れ去って祭司のもとに参ります。彼は子羊の頭に手を置き、子羊が彼の罪を負って死ぬのを見なければなりませんでした。その時そこで、私は神が十字架の意味を型によって、神のものである人々に教えたもう方法を知りました。そしてその時からその書は私にとって新しい書物、また活ける書物となりました。それ以降、私は預言、約束、型の中にイエスを見るようになりました。恥辱と死の中にありたもうイエスを見ました。聖父と共に栄光のうちにありたもうイエスを見ました。ご自身の栄光のうちに彼を拒んだ者たちのところに再び来たもうイエスを見ました。
詩篇のうちにはイエスの御心の内面を見ました。ほかのところでは知ることのできないもの、ダビデの苦難を通して表されたイエスのお気持ちを知りました。預言書では、私は神の立場からイエスを見ました。福音書では、イエスのうちに私共が彼を求める理由になるようないかなる美しさも認め得ない時に彼に御出会いした時のようにイエスを見ました。さらに書簡に進みますと、偉大な初期の使徒たちが神の御心と御目的を開示する様子を見ました。新約の預言的部分には、ひとたび拒まれたもうた栄光の王が必ず勝利を得たもうことを見ました。
これが聖書を研究する第一の動機です。あなた自身の魂をきよく保つ力をイエスに求めることです。
B.──成熟に達するために
きよさと成熟とは同じではありません。きよさとは、聖霊をとおして品性において神と一つであることです。成熟とは、啓示によるキリストの知識において神と一つであることです。
ペテロ前書2章2節にこの成熟の動機が言い表されているのを見ます。『靈の(聖言の=欽定訳)眞の乳を慕へ、之により育ちて救に至らん爲なり』。エペソ4章でも成熟という思想に基づいて教会における奉仕の働きを説き、それが信仰と神の子を知る知識とにおける一致であるとしています。さらにパウロはコリント後書6章12節で、コリントの信徒たちが『狹くせらるるは‥‥‥己が心に因るなり(己が内臓においてなり=欽定訳)』と語っています。すなわち吸収同化の場においてということです。彼らの生活は肉的で未熟でした。イエスにある神の御目的を知りもしないし感謝もしなかったからです。
聖書は知恵に至る近道です。人間の生活と魂についての知識に関しては、聖書はちょうど人間による知識の探求がすべて終わる所から始まります。しかしそれに限られるのではなく、聖書は神が人間を取り扱いたもう方法と人間を造られた御目的との啓示であり、また人間の将来についての神の聖意の啓示です。聖書は、憐れみにより人間があずかるべく招かれている偉大な恵みの諸事実の啓示です。また聖書はこれらの事実を、人間が受け入れるかどうかにかかわらずいずれ明らかになる神の御意志のうちにあるものとして宣言します。
C.──奉仕のための準備として
『これ神の人の‥‥‥備を全うせん爲なり』(テモテ後書3章17節)。神が私共を用いられるかどうかは、何よりも私共のきよさにかかっています。このことは2章20,21節に見られるとおりです。『人もし賤しきものを離れて自己(みづから)を潔よくせば、貴きに用ひらるる器となり』。この箇所が意味していることは、貴きに用いられるべき人の選びには恣意性が一切なく、神に対する、神の真理に対する、また神の聖意に対する、私共自身の態度によって決まるのだということです。また第二に、それは神についての、また神の方法と目的についての、私共の知識にかかっています。そして第三に、それは神の計画と方法に対する私共の献身のあり方にかかっています。 私共の生涯とイエスの生涯との間には一致があります。ヨハネ10章36節に『父の潔め別ちて世に遣し給ひし者』という注目すべき言葉があります。これと併せて、イエスがピラトの前で彼ご自身について言いたもうたすばらしい言葉をご覧なさい。『我は之がために生れ、之がために世に來れり、即ち眞理につきて證せん爲なり』(ヨハネ18章37節)。 今この言葉に、私共に対するイエスの言葉を併せて御覧なさい。『父の我を遣し給へるごとく、我も亦なんぢらを遣す』(ヨハネ20章21節)。すなわち私共は、第一に真理を通して聖別され、第二に真理のために聖別され、第三に真理と共に遣わされるべきなのです。 イエスが私共と同じ人間の性質を取りたまいました時も、イエスは永遠の御霊の御守りの裡にありたまいましたから、父なる神はイエスを完全に信任いたしました。そのイエスはなお肉体にある私共に全き信任を置きたまいます。しかし私共も同様に永遠の御霊の御守りの裡にあるべきはずです。私共はキリストの測り知れない富を宣べ伝えるために遣わされました。ここにこそ確かに聖書研究のための動機があります。なぜなら、聖書の御言葉において真理が顕されており、その真理は過去、現在、未来にわたって主イエスの御栄光にかかわるものであることが顕されていることを、私共は見出すからです。
D.──自分の教えについて審きを受くべき事
『神の前に鍊達せる(認證せられたる=欽定訳)者とならんことを勵め』(15節)。ヤコブ3章1節『なんぢら多く敎師となるな。敎師たる我らの更に嚴しき審判(さばき)を受くることを、汝ら知ればなり』。パウロはコリント前書3章11節において、教師はみな、イエス・キリストについて自分が語る言葉、十字架の上に自分が建てる教理を前にして立つことになることを指摘しております。真理に忠実でないことを説教しますよりは、全く何も説教致しません方が無限に勝ります。私共がイエスについて語って参りましたことを前にしてイエスにお目にかかります時、どのような火がそこにありましょうか。
神が私を呼び醒まして私がキリストの審きの場に立たなければなりませんことを思い起させたまいました時、私はこのことについて目を開かれました。私自身が審かれて追い出される事はありませんが、しかし私の奉仕の生活と、キリストの御名において語ったこと、なしたことは審きを受けます。その日私は焚き火を致しまして、私自身の考えや自分で学んだ思想をもとに書かれた説教の原稿をみな焼き捨てました。私共はキリストのご臨在の光の前に堪えうる建物を、私共のキリスト経験の上に建て上げたいものであります。このことをなすためには、聖書を知らねばなりません。
E.──結果の故に
コリント後書2章14節に、私共はキリストを知る知識の上に三つの結果が与えられてありますことを見ます。
1.あなたがた自身に
『神は‥‥‥我らを執へて凱旋し』。イエス・キリストを知る知識は神にとってこの世の何物にもまさって高価なものです。その生涯において行く先々にキリストを知る知識を運び行きます者は、神にその人のために力ある者となりたもう機会を与え奉ることになります。旧約聖書には『ヱホバは全世界を徧く見そなはし己にむかひて心を全うする者のために力を顯したまふ』(歴代志略下16章9節)とあります。新約聖書の啓示はこれを補って申します──神は、その生涯がキリストを知る知識に満たされている者のために力をあらわされると。
2.他の人々に
『(キリストを知る知識の馨は)生命より出づる馨となりて生命に至らしむ』。私共が考えていることではなく、神がその独り子について語りもうたことを聞くことをどれほど人々が待ち望んでおりますか、そのことに私共が気付くことができましたらと思います。この真理は人々を分けます。キリストを知る知識に忠実であり、またそれを伝道することに忠実な人は、結果を懼れる必要はありません。また私共も同じことに忠実でありますならば、その結果如何を心配するには及びません。テモテ前書4章16節には『此等のことに怠るな(別訳:敎にとどまれ)、斯くなして己と聽く者とを救ふべし』とあります。
3.神に
『(キリストを知る知識の馨は)神に對してキリストの香ばしき馨なり』。彼の十字架については私に理解でないことがたくさんあります。キリストが私共のために罪となりたもうたとはどういうことですか、私には理解することができません。ここには他の何物にもまさる奥義があります。それは神の愛の奥義です。その愛する独り子が人間のために苦しみたもうのを神が傍に立ちて見守りたまいましたとは! 宇宙にある他のいかなるものにもまさって慈しみたもう御子が人間の憎悪と醜い悪意を忍びたもう様子を神が見守りたまいましたとは。人間が御子の顔に唾し拳にて撃つを神が許したまいましたとは。御子がかの道をよろめきつつ昇り、力尽きてその十字架の重みの下にくずおれるのを神が見守りたまいましたとは。そして死の丘を登り、その上に立ちたまいましたことを、そして粗暴な男たちが粗削りの十字架の上に愛したもう御子を投げ倒しましたことを、その手足を刺し通して大釘を打ち込み、十字架を持ち上げ、肉の引き裂かれる鈍いいやな音と共に地面の杭穴の中にそれを立てましたことを、そしてそこに宙づりに架けられて人々の見せ物となりたまいました御子を、神が見守りたまいましたとは。そうです、これはあらゆる奥義の中の最たるものです。聖書はなおかつその事全体の目的を明かします。ここに神はこの恵みの奇蹟を成し遂げたもうた神ご自身の心にある愛とイエスの心にある愛とを顕したまいます。御子の愛を伝えるこの物語ほど神の心に大切なるものはありません。このことが分かりますと、私はお返しとして神を喜ばせ奉ることを切望致します。神にとって喜びとなるほどに、この救いに対する満ちあふれる讃美が私の生活からわき上がりますことを切望致します。ここに聖書の学びのためのもう一つの至高の動機があります。この知識が私共の生活から神に対する甘い香りとして立ち上りますように。まことに私共はパウロがエペソ書1章において言い表していることを望むべきであります。『讚むべきかな、我らの主イエス・キリストの父なる神、かれはキリストに由りて靈のもろもろの祝福をもて天の處にて我らを祝し』。
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最初で最優先のことは、研究しようと決心することです。研究をするかどうかが、いかに研究するかよりも先だつのは当然です。前者は霊です。後者は方法です。霊を殺すような方法もあります。霊を支え、強めるような方法を探さねばなりません。大学で、聖書をある厳密な方法で研究しようとする時間がありましたことをよく覚えております。しかし、ほどなく私はその授業に出席する意欲を失っていきました。そしてその時間に勤しむべきはるかに大切なことをほかに見出しました。
第一 聖霊の明確な導きのもとに
私共に対する御霊の第一の役割をもう個人的に経験なさいましたか。イエスはこの点について曖昧さを残したまいません。ヨハネ16章13節『然れど彼すなはち眞理の御靈きたらん時、なんぢらを導きて眞理をことごとく悟らしめん。かれ己より語るにあらず、凡そ聞くところの事を語り、かつ來らんとする事どもを汝らに示さん。彼はわが榮光を顯さん、それは我がものを受けて汝らに示すべければなり』。
この職務をなす者として聖霊を受け入れなさいましたか。もし私共がこれを致しますならば、私共自身の認識や解釈の大半が無益なものとなりましょう。聖霊を受けようと致しませんならば、新約聖書の預言を受ける事は出来ません。聖霊なしに預言を正しく理解することはできません(ペテロ後書1章19,20節)。
この点に関して重要な意義をもつ二つの節があります。それはヨハネ一書2章20節と27節に見られます。『汝らは聖なる者より油を注がれたれば、凡ての事を知る』『なんぢらの衷には、主より注がれたる油とどまる故に、人の汝らに物を敎ふる要なし』。
ほかのすべての人から自立して聖書から真理を獲得できるようになるまでは、キリスト信者は聖霊にある神の力と備えとを一度も経験致しませんことは明らかであります。このことは、他の人々をとおして受ける神の恵みに無頓着であるべきだということを少しも意味しません。他の人々をとおして受ける神の証を軽視したり無視すべきだということを少しも意味しません。このことが意味しますのは、私共に与えられているところの物事についての個人的な証を、聖書と聖霊によって経験するべきであるということです。『顯露(あらは)されたる事は我らと我らの子孫に屬し』(申命記29章29節)。『それ人のことは己が中にある靈のほかに誰か知る人あらん、斯のごとく神のことは神の御靈のほかに知る者なし』(コリント前書2章11節)。『然れど我らには神これを御靈によりて顯し給へり』(同10節)。
肉体が聖書にあるその嗣業に達するのはいつなのでしょうか。繰り返しになりますが、キリストの教師は、他の人々を彼自身から自立した者となしますまでは、その職務の目的を満たしません。ここで失敗する人が何と多いことでしょうか。私共は私共自身を中心として、或いは何らかの解釈の体系を中心として、そのまわりに教会を建て上げるために、この国に(あるいは他のどこにであれ)来たのではありません。そうではなく、イエス・キリストを中心として建て上げるためでした。
どなたでも A. J. ゴードン博士の生涯と働きの物語を読みますならば必ずこのことの例証を見ることができます。彼の伝道の初期においては、彼はその偉大な働きの中心でした。彼の偉大な人格と超人的な知性を中心として、その周囲にその教会の働きと生活が回っておりました。しかしイエスが彼に幻を与えたまいました時、そして彼がそれまでお会いしたことのない一人の御方、まさに中心であられるべき御一方が真ん中におられるのを見ました時、そこに変化が訪れました。その時から、博士は彼自身のまわりに教会生活を立て上げることの代わりに、そのすばらしいお方を中心として指し示すことを始めました。ますます多くの人々に彼はイエスが真の中心でありたもうことを認めさせました。その傍ら、彼はなお深く十字架の蔭に引き下がり、ついにある日、彼は静かに去ってキリストと共にある身となりました。残された教会はイエスを中心として集められていたため、その後何年もの間、主なる聖霊と共にあってその直接の導きのもとにあらゆる多様な活動を続けました。
そのように私共もキリストのまわりに人々を集めねばなりません。私共自身のまわりではありません。教理のまわりでもありません。形ある教会のまわりでもありません。『我もその中に在るなり』(マタイ18章20節)と言いたもうた御方のまわりにです。そしてこのことをなすために、私共は自分の個人的な幻を知り、それを説教せねばなりません。
第二 聖書を研究しなさい、聖書についてではなく
御言葉それ自身をしてあなたの思索と研究の第一の対象としなさい。
第三 聖書を全体として研究しなさい
このところでいかに多くのものが失われていることでしょう。ある真実な意味において、個々の書物や書簡はそれ自身で完結しています。しかしまた同じように真実な意味において、それだけで完結している書物はありません。ここには全体を貫徹する目的と意図とが織り込まれてあります。これらは全体を知った時に初めて完全に学ぶことができます。部分から部分への正しい関係を理解するために、このより大きな方法が必要になります。初めに聖書を全体として学ぶべきであります。次に、各書物をそれぞれ全体として学びます。そして次に個々の思想や部分をそれ全体として学びます。
あなたは聖書のうちのどこまでを所有されましたか。それはちょうど、あなたが知力を尽くし、信仰を当て嵌めることによってあなた自身のものとしたところまでです。私の旧知の友人がかつてオーストラリアの牧師にこの質問を致しました。すると答えは、彼はヨハネ伝と詩篇と一つか二つの使徒書簡を好むとのことでした。何と自分から制限を課してしまっていることでしょうか。私は大人になるまで、ロッキー山脈の麓の平原と大斜面で育ちました。地平線が途切れることなくめぐっているのを見慣れておりました。ある日、私はあの壮大なヤーキス天文台を訪問する機会を得ました。その大きな建物の中に入った時、私は視界を遮断する巨大なドームによって圧迫されているように感じました。それから私は狭い覗き窓をとおして青空を見ることができました。何ものにも遮られない大空を見慣れていた私の心はこのような制限が気に入りませんでした。このすべてのものが取り除けられればいいのにと思いました。しかしまたそれに価値があることも私は認めました。何と多くの人々が、ひらけたところに出ないまま、終生、自分の狭い教派的な覗き窓からのみ真理を見ていることでしょうか。このように見た真理が必ずしも全体に照らして不真実だというわけではありません。しかしまず最初に、神が私共の上に張られた大空全体を仰ぎ見ようではありませんか。それからでもその部分を研究することはできます。
今は私は三つの要求についてだけ述べましょう。
A.──聖別せよ
これは単なる感情の構えを意味するのではありません。聖霊の御力のうちに目的を明確に形造ることです。それは犠牲を意味します。過去を現在のために犠牲にすることであり、また現在を未来のために犠牲にすることであります。未来において最大の実を結ぶ正しい方法を習得するためには、現在を代償としなければならないことがあります。私共のうちいかに多くの者が現在において人の気に入る働きをなすことに熱心になるあまり、正しい方法を見失っていることでしょうか。最後に千倍の実を結ぶに至る正しい方法を得るためには、現在を代償として要求されることがあります。
私共は、どんなことがあろうとも神のお考えを思い、神のご目的とご計画を知り、神の方法にお従いするという、明確な意志を持って神のみもとに参らねばなりません。確かに私共は再三にわたってこのことのために自分自身を聖別いたしましたでしょう。しかし私は敢えてお勧めします。今日、この点において、永続的な犠牲がなされねばなりません。永遠の御霊の御力による犠牲がなされねばなりません。幾たびも私共は祭壇に犠牲の獣を献げることを決意し、実行いたしました。しかし獣は飛び上がり走り去ってしまいました。今日私共はダビデの言うとおりを行おうではありませんか。『繩をもて祭壇の角にいけにへをつなげ』(詩118篇27節)。このことは時間を要求します。また私共が正当な権利と考える物事までも献げることを要求します。しかし世界が御言葉をほんとうに必要としていることを私共が心に感じ、また奉仕のための私共の時間が実に短いことを認めます時には、自己修練や道楽のための時間を確保することは、それ自体としては無害な仕方で行われる場合でも、容認しがたいものでありましょう。
B.──集中せよ
神は成功の約束された方法として、一つのことを強調したもうのみでした。それは瞑想することです。これは、私共のほとんどの者の間ですでに失われた技術の一つです。私共はこのことの他にあまりに多くのなすべきことがあります。しかしこのことの上には神の封印があります。このことに神の御約束が付いております。これはイスラエルの男たちの中でも最も多忙な二人に対する神の御約束です。一人は偉大な軍事作戦を遂行中の将軍であります。彼はこう言うこともできましたでしょう。『だが私は作戦を立てなければならない、戦闘を指揮しなければならない、作戦が成功するために無数の指令を送らなければならない』と。しかしこのヨシュアに対する神の言葉はこうでした。『この律法(おきて)の書(ふみ)を汝の口より離すべからず 夜も晝もこれを念ひて其中に錄したる所をことごとく守りて行へ 然ば汝の途(みち)福利(さいはひ)を得 汝かならず勝利を得べし』(ヨシュア記1章8節)。
同じように、偉大な兵士でありイスラエルの王でもあったダビデに対しても『深く思へ』と命ぜられました。あなた自身の心を強め、あなたをして他の人々にとっての慰め手となすのは、神の御思いです。あなたの思いではありません。
C.──継続せよ
すでに申しましたように、初めに全体、次に部分であります。そうすればほどなく光が逐次に輝き始めます。ちょうど広大な山岳地帯において曙光が山頂を次々に照らし出すようにです。
判断を差し控えなさい。理解できない箇所には疑問符を記し、聖意ならば神が聖言の隠された意味を開示して下さるようにお願い申し上げましたのち、先を続けなさい。神はあなたにお答えを時間のうちには与えたまいませんでも、永遠のうちに与えたまいましょう。永遠のうちに聖書はあるからです。しかし継続的に読むことの最も偉大な価値を見ますのは、あなたが最初から最後まで読み通します時に、神はある部分から他の部分へと照りわたる不思議な光を与えたもうことです。懐疑を抱く者にならないで、無知を認める者になりなさい。『私は解りません』と言うことを恐れてはいけません。しかしほかのすべてにもまして、純真になってひとり神と聖書と偕なる時を得、あなたに真理を示す機会を神に献げ奉りなさい。
リンカーン大統領がある日、聖書を読んでおりました時に、ひとりの秘書官が部屋に入って参りました。彼は不信者でした。『おや、リンカーンさん、そんな本をお読みのわけはありませんよね』と彼は尋ねました。『いや、読んでいるのだよ』と大統領は答えました。『しかしあなたはそれを信じておいでではありませんよね。』『いや、信じているとも』と大統領は答えました。『でもたぶんあなたはそれを理解できないのではありませんか。』『もちろん』とリンカーンは答えました、『全部を理解できるわけではない。だが理解できないところに来た時は、ちょうど魚を食べている時に魚の骨を扱うようにするのだ。骨はお皿の端に置いておいて、魚は食べる。骨があるからといって魚を食べるのをやめたりはしない。』
神の恵みの讃美に私自身の個人的経験を付け加えるべきでしょう。これが皆さんがいっそう聖書を知ることの助けになればと思います。
私が牧師になりましたころ、説教を作ることを始めまして、聖書は教科書として必要であることに気が付きました。けれどもしばしば私は聖書を単なる素材としてのみ使いました。その当時の説教といえば、ちょうど水溜から汲み上げるようなものでした。それも水のあまり入っていない水溜からです。ときどき器は水なしで、聞くに堪えない空しい音とともに上がって参ります。そのころ私はスポルジョン師が『水を甕に滿せ』の中で語っていることを読みましたが、彼が何を言っているのか解りませんでした。それで私はもっと聖書について研究しなければならないと判断しました。その頃、あの若い牧師が来て、旧約聖書のさまざまな型の中に顕れる主を私に最初に示してくれました。その後、インドに行く召命を受けました。インドに着いてから、私はキリストを知る知識の中に私自身の生命が欠けているということに気付くようになりました。ある夜、私は突然眠りから覚めて、自分が死につつあるという明白な意識に捕らわれました。死の時の厳粛な意識が私の上に臨み、私は恐れひるみました。自分はまだ御国に行く準備ができていないと感じました。恐れなければならない他のすべての理由にもまして、私の主について聖書が語ることを知らないままでそこへ行くことがいかに恥ずべきことであるかという思いが臨みました。その時の怠慢と失敗の念はいかばかりでしたでしょう。その時その場で私は神に私を生かしておいて下さるようにお願いしました。そしてもし時間と聖霊の導きを賜るなら、必ず表紙から裏表紙まで聖書を学び、その幸いな啓示を知り尽くすことを神に約束しました。神は祈りを聞かれ、翌朝私は起きて、犠牲を祭壇に結びました。私の生活全体がこの新しい展望の光のもとに再調整される必要があるという事実に私は向き合い、そしてそれを始めました。初めに私は聖書に関する書物を脇へしまわなければならないことを知りました。つまり、聖書が私自身の心を新たにするままにのみ、人々のためのメッセージを聖書から引き出すようにしなければならないということです。初めのうち、そのようにすることによって貧弱な説教になってしまうことをしばしば感じましたが、また私自身が水で渇きを癒される感覚があることにも気が付きました。それからは、神が私に示したもうたことを語り続けるにつれ、それが以前のように私を渇いたままにとどめてはおかないことを見出しました。ちょうど活ける水の川が流れ出る泉のまわりのように、私自身の心は緑豊かに変えられました。それから、私の時間と楽しみとが取り扱われなければなりませんでした。
私は聖書を全体をとおして読むことを始めました。しかしほどなく、それは無味乾燥であると思いました。そこで、私は神が望まれ、また喜びたもうと今でも確信していることを行いました。それが無味乾燥であると神に告げたのです。以前の私はしばしばそれを他の人に告げたことがありました。しかし今は神に告げました。そして詩篇19篇に立ち帰り、聖言についてダビデが何と言わなければならなかったかを読みました。これを蜜にくらぶるも蜂のすの滴瀝(したゝり)にくらぶるもいやまさりて甘しとありました。私は神に、私にとってはそうではありませんと告げました。口に味覚を備えられた神が、私の生活にみことばの味わいを加えて下さることを願いました。こうして私は正直に神と語り合い、神は聞かれ、それを私に与えたまいました。それからは日ごとに聖書がますます甘くなっていきました。なぜなら、日ごとに私は聖書の中でイエスをわが救い主として認めるようになったからです。
間もなく私は、聖書の中のさまざまな書を読み通すたびに、自分が神の偉大な御計画と御目的の中に入りつつあること、またそれらが私の中に入りつつあることを知るようになりました。神がその御目的に従って成し遂げようとしていたもう神的意図、永遠の昔から定めていたもう聖意が、聖書の中にいかにすばらしい方法で啓示されているか、また私を実体化された真理で装備させるようにいかに深く意図されているかを悟りました。この真理に対して、聖霊は伝道活動の中で誉れを与えたもうのです。
最後に一つの単純なお勧めをいたしましょう。私はこの大きな望みを保つためには年に二、三回は聖書を通読するべきだと考え、そのためには毎日何頁ずつ読まなければならないのかを聖書を取って数えました。旧約聖書の6ページと新約聖書の2ページを読めば、一年に二回通読ができることが分かりました。これは或いは役に立つかも知れないと思ってお勧めする一つの方法に過ぎません。しかし私がどなたにも強く勧告致したいことは、神の助けにより、聖書全巻を最初から最後まで知ろうと決心なさることです。『繩をもて祭壇の角にいけにへをつなげ』。
『されば兄弟よ、われ神のもろもろの慈悲によりて汝らに勸む、己が身を神の悅びたまふ潔き活ける供物として獻げよ、これ靈の祭なり。又この世に效(なら)ふな、神の御意の善にして悅ぶべく、かつ全きことを辨へ知らんために心を更(か)へて新にせよ』(ロマ書12章1, 2節)。
アーメン
| 注記 | 緒言 | 聖書講読会: 序 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 |
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