第十四章 結 論



 『信仰なくしては神によろこばるることあたはず、そは神にきたる者は、神のいますことと神のおのれを求むる者に報い給ふこととを、必ず信ずべければなり。』 ヘブル書十一章六節

 私共はこれまで、人心の最も深い奥義、すなわち信仰の道を考察してきた。けれども私は或る人がなお「されど信仰の冠であり盈満えいまんである御霊みたまの印、すなわちける神を信ずるすべての信者の特権で、人をして絶えざる勝利の生活をなさしめるところの信仰の確信を受けるほどに、キリストに対する真の信仰を働かせ得るみちを我に示せ」と求めるように思う。
 そのような問いに答えて、すべての真面目に求める人々をして明らかにその途を悟らしめるには、たぶん前掲のヘブル書の聖句を単純に説明すればよいであろう。

『信仰なくしては神によろこばるることあたはず』

 私共はまず第一にこのことを充分明らかに悟っているであろうか。たとえ私共に熱心あり、知識あり、克己献身あり、正統的教理あり、種々の賜物があっても、信仰がなければ、天にいます私共の父に悦ばれることは決してできない。信仰すなわちこの「神に対する愛情ある信任」なしには、私共のなし、忍び、また企図する一切のことがみな、不信仰、疑惑、恐怖、懸念などによって損なわれるのである。そしてそれは父なる神の愛の御心みこころには絶えざる憂いであり、御子みこには果てしなき悲しみであり、また聖霊の愛と優しさを残酷に傷つけまつることになるのである。私共がこれを悟り、これを実覚するまでは、決して神的生活に成長し、進んで勝利を得ることもない。されば『信仰なくしては神に悅ばるること能は』ざるを自覚することは私共の出発点である。

神にきたる者は

 私共はしばらくここにとどまって、これらの驚くべき数語を考えたい。恐らく『來る』というこの語ほどしばしばむべきわが主の唇に上った言葉はないであろう。もし「すべての人罪を犯したり」が主イエスの福音のAで、「見よ、これぞ神の小羊」がBであるならば、「我に来れ」はそのCである。(訳者注、この三つの聖句は英語のABCをもって始まっている。)
 実にそれは「神に連れ来られる、引き来らせる、または追いやられる」でなく、『神に來る者』である。無論『父ひき給はずば、たれも我にきたることあたはず』(ヨハネ伝六章四十四節)であるから、『來る者』という語には、キリストにある神の愛によって引かれ、迫られることが必然的に含まれているのである。
 あなたは世の享楽にも、罪にも、自己にも、生活そのものにさえも飽き果て疲れ果てているか。さらば聞け! 『すべて勞する者・重荷を負ふ者、われに來れ』(マタイ伝十一章二十八節)と仰せたもう。
 あなたは渇ける魂を永久に和らげ、深い永続する満足を与える何物かを慕い求めるか、さらば更に耳を傾けよ、主は『人もし渴かば我に來りて飲め』(ヨハネ伝七章三十七節)と仰せたもう。
 あるいはザアカイのごとく、あなたはただ興味を持つばかりで、いわゆる高等生活(聖潔の生活)とは如何なることか知ってみたいというのほか、熱心に求めもせず、自分の如き者がそんな生活に召されていると考えてみる勇気もないほど、半覚醒の有様であるか。ここにあなたのための使言がある。『ザアカイ、急ぎ下り來れ、今日われなんぢの家に宿るべし。』(ルカ伝十九章五節英訳)
 あなたは『そのししこと、敎へし事』を語るのみを主なる楽しみとするほどに、その成功せる奉仕に心を奪われているならば、主は『なんぢら人を避け、寂しきところに、いざ來りてしばいこへ』と仰せたもう(マルコ伝六章三十〜三十一節)。
 もし私共が、この艱難多く罪深い世の波浪の上を、主のそれらに妨げられず損なわれず、一切に超越して勝利に歩みたもうを見て、これにならわんとのきよき大望を起し、『主よ、もしなんぢならば我に命じ……御許みもとに到らしめ給へ』、「主よ、汝がかかる歩みをなし得給うならば、我も汝と共に汝の如く歩み得るでありましょう、また歩むはずであります」と申し上げるならば、主はかかる者に『來れ』と仰せたもう。おお願わくは、私共も人生の困難なるところに、かく神とともに歩むべく聖き大望を有たんことを!(マタイ伝十四章二十五〜二十九節
 たしかに『來れ』という恵み深い言葉こそ福音の神髄である。『來れ、既にそなはりたり』(ルカ伝十四章十七節)。されば主が私共につきて『なんぢ生命いのちを得んために我にきたるを欲せず』(ヨハネ伝五章四十節)と仰せられることのないように願う。そして果たして私共はその饗筵に与っているであろうか。私共はこれが私共の魂に対する使言であると深く悟っているであろうか。
 かく学んできたが、この『來れ』という語にはなお学ぶべきことがある。
 私共は恩恵を願いながら容易にその道を誤る。すなわち私共はとかく恩恵に目を付けて神を見失う。たとえばここに一人の王子が饗筵を設けて客を招くに、客は招待を受けて行ったが、その貴い主人の出席を待たずして直ちに食膳に手を付け、これを食する間、ついに主人の出席せるや否やに気付かずして過ぎるようなものである。聖会に行き、祈禱会に行き、説教会、聖書研究会に行き、有名な説教者に聞き、私共の聖書や霊的の書を読み、祈禱の場、聖奠せいてんの席に行くはやすい。されど決して神には来らぬのである。
 そもそも神に来るとは私共の窮乏や罪悪を持ち来る以上のこと、私共の不快な罪、すなわち短気や嫉妬や恐怖のごときものからの救いを求めて来るより以上のこと、すなわち神に来るとは、全くまた永久に神のものとなるべく私自身を神に持ち来ることである。『わが子よ 汝の心を我にあたへよ』(箴言二十三章二十六節)と神は仰せたもう。主はただ自己のためにのみ何物かを求め、自己が神のために何物かであるべき何らの意向も持たぬ若者に向かって『賣りて…與へよ…來りて我に從へ』(ルカ伝十八章二十二節)と命じたもうた。そしてかかる命令を苛酷と思わしめ、神の謙卑のかくも驚くべき顕れの上になお苦痛を加えるものは、ただ私共の生来の堕落性のみである。しかり、実に私共の神に来ることを妨げるものはそれである。私共が萎縮し失敗し躊躇逡巡する所以ゆえんはここにあるのである。
 さりながら神はそのみちを平坦にし容易になしたもう。神は私共が御許みもとに近づくことを恐れまた嫌うことのないよう、これが救済の道を備えたもうた。私共の心が神に対して絶対降服することを恐れるほどに堕落している故に、キリストの死が即刻即座にこの堕落性を亡ぼし得たもうのである。主はこの秘密を私共に示したもうた。『すべて父より聽きて學びし者は我にきたる』(ヨハネ伝六章四十五節)という驚くべき言葉がそれである。さればこれが私共の神に教えられているか否かを知る間違いなき験しで、実に幸いなる験しである。
 私共は罪と悲哀と窮乏を意識するとき、殊に全き降服を躊躇せしめる内部の腐敗性を自覚するときに、本能的にキリストにのがれ行くであろうか。それとも私共が今少し改善するまで、今少しきよくなるまで、今少し熱心になるまで、あるいは内なる恐れがするまでキリストに遠ざかっていようとする傾向を有つであろうか。そうであれば、悲しいかな、まだ『神に敎へられ』(同節)てはいない。必意、私共の智慧と学識の源泉は肉的であったのである。
 されば神の私共に教えたもう学課はただこれ、すなわちキリストを離れては全く愚劣傲慢であり、暗黒絶望である、けれども神に教えられた者は「キリストに来る」ということである。キリストに来る! これは何たる幸いな言葉! 何たる恵み! 何たる栄光! 何たる福音なるかな! ハレルヤ!
 私共はそこにいるか。今この時、私共の状態はそれであるか。それが私共の心の態度であろうか、もしそうであるならば神を頌めよ。私共は神に教えられているのである。神よりほかに何者もかくのごとき学課を人の心に教え得る者はない。喜びなく、平和なく、愛なく、何の感情もなきままに、固い暗い冷たいままに、キリストにありて神に来る。これが信仰生活の第一歩で、私共はその秘訣を見出したのである。すなわち私共はそのありのままでキリストにりて神に来たのである。

神のいますことを必ず信ずべし

 こうして今戦いが始まる。神は『必ず信ずべければなり』、すなわち信ぜざるべからずと仰せたもう。これは霊的王国の不動の法律で、破るべからざるものである。しかるに神の民のこの語を誤解することの如何に多きぞ。『我ら信ぜずといへども神はまことなり。彼はおのれたがふ事あたはざるなり』(テモテ後書二章十三節・元訳)という御言みことばを人々は誤解して、私共が信じても信じないでも神は私共を恵みたもうと言う。けれどもこの語の意味はちょうどその反対で、私共が信じなければ神は私共を恵みたもうことができないということである。神は御自身にたがうことができない。すなわち神はその霊的法則を取り消したもうことができぬ。されば私共は信じなければならぬ。そうでなければ神は私共を恵みたもうことができぬのである。
 『神の在すことを必ず信ずべし
 これらの語を正当に理解するために、出エジプト記第三章にかえって学ばねばならぬ。そこで神はイスラエル人を奴隷のくびきから救い出すために、御自身を、大いなる「我り」すなわち常に臨在し、決して変わらざる、常に働く神として顕したもうた(十四節)。かく私共は神がちょうど今聴きつつ、答えつつ、赦しつつ、きよめつつ、満たしつつ、聖霊をもってバプテスマを施しつついますと信ぜねばならぬ。神は明日の神でなく、今日の神でありたもう。何となれば『今はめぐみのとき、視よ今はすくひの日なり』(コリント後書六章二節)、『聖靈の言ひ給ふごとく今日……』(ヘブル書三章七節)、『今日なんぢは我とともにパラダイスにるべし』(ルカ伝二十三章四十三節)、『今日われなんぢの家に宿るべし』(ルカ伝十九章五節)、『「この聖書は今日なんぢらの耳に成就したり」人々みなイエスをめ、又その口よりづるめぐみことばを怪しみて』(ルカ伝四章二十一、二節)、『しかして(これをもて我を試みるべし』(マラキ書三章十節)とあるとおりである。
 「日毎に、時毎に、瞬間毎にこれ(全き聖化)を期待せよ。どうしてこの時この瞬間にそれを期待することができないであろうか。もし君がそれを信仰によって得られるものと信ずるならば、たしかにそれを期待し得るはずである。これによって、たしかに君がそれを信仰によって求めるか、わざによって求めつつあるかを知ることができる。もし業によるならば、君がきよめられる前にまず何事かなすべきことを要する。君はまず第一に自らかくかく成り、またはこれこれのことをさねばならぬと思う。それならば君は今日まで業によってそれを求めつつあるのである。もし信仰によってそれを求めるならば、君はそのありのままでそれを期待せよ。ありのままでならば、今それを期待せよ、……信仰によって期待せよ。君のそのありのままで期待せよ。今それを期待せよ」とはジョン・ウェスレー氏の言葉である。
 私共の立場をここに取るまでは、実際の信仰はない。もしわたしが実際に彼に来ているならば、すべての外観感情議論が反対に見えても、それらに関せず、神はこの瞬間わがうちにその聖工みわざをなしつつありたもうのである。神は動きたまわず! 神は変わりたまわず! 神は変わるべからざる神で在したもう。さればもし聖書通りに、ありのまま、窮乏と悲哀と罪悪のまま、自己に絶望し、自ら永久に神のものとなるべく、降服して神に来たならば、神の在すことを信ぜねばならぬ。これこそ『聖徒のひとたび傳へられたる信仰』の道である(ユダ書三節)。ここに立ち、サタンのすべての火矢と不信仰の悪しき心の暗示を防がねばならぬのである。

神の己を求むる者に報い給ふことを信ずべし

 「そして多くの人はそのごとくにしてなお失敗した」とあなたは言う。もしそうであったならばその失敗の秘密はここにある。かかる人は気楽な信仰主義に安んじて、主が己を熱心に求める者に約束したもうた恩恵深き報いを励み求めることをなさなかったのである。私共は信仰なくしては私共を愛したもう天の父をよろこばせまつることのできないことを深く信じているだろうか。私共はすべて私共の窮乏と罪悪と失望をもってそのままに神に来ているであろうか。私共はまたヱホバの変わらざる約束に立って、自己に失望し信じ切っているであろうか。もしそうであれば、もう一歩残っているところは、切に神をち望み、御顔みかおを求めることである。さらば主にまみえるときはたとえ遅くとも必ず来る。神はその来ることを約束していたもう。
 俟ち望め、もちろん期待して待ち望め。たとえ私共は未だそれを見ずとも、神は与えたもうた、また成し遂げたもうたを信じつつ俟ち望め、報いを待ち望め。その報いは(一)神が永久に私共を受けれたもうたということ、(二)『イエス・キリストの血、すべての罪より我らをきよむ』(ヨハネ一書一章七節)ということ、(三)キリストの私共のうちに生きたもうということ。これら三重の意識的なあかしである。これが聖徒の願望する報いの全体である。これこそ地上で経験する天国であり、信仰をもって力を尽くして主を求めるすべての者に約束されたところである。ブラムウェルは「強い信仰と絶えざる祈禱はあらゆる結果を生ずる生産力である。これはわたしが二十度も反復し書き得るところである」と言っている(されば私が三度それを書いてもよいわけである)。
 ホレーシャス・ボーナーは「この大真理を決して見失うな。すなわち聖霊に対するすべての苦き根、なんじの衷のあしきものは神を信任せざることである」と言っている。
 そしてまたマデレーのフレッチャーは「わたしが不信仰の中に立てるときは、一滴の泥水が誘惑の太陽に照りつけられ、干し上げられるようであった。けれどもキリストに固着しているときには、その同じ一滴の水が、光明と、生命と、自由と、能力と、慈愛のはてしなく底なき大洋に見失われたようである」と言っている。
 主は仰せたもう、『われなんぢに、もし信ぜば神の榮光を見んと言ひしにあらずや』(ヨハネ伝十一章四十節)、また仰せたもう、『なんぢもし信ずる事を得ば信ずる者においしあたはざる事なし』(マルコ伝九章二十三節・元訳)と。



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