第七章 信仰の働き(内部的)
信仰の性質を論じた第一章において、私共は信仰の諸相のうち最も肝要なことの一つは、信仰に二重の性質があるということであるのを見た。かの有名なロジャース夫人の言葉をいま一度引用すれば、彼女は「私は聖書には信仰の二つの段階が記されてあると信じます。第一は、救うことをなし得るとともに救うことを欲したもう神が約束したもうたという理由で、その約束を頂きまたこれに依り頼む信仰であり、第二は、信仰の充分な確信、すなわち御霊の証であります。そしてこの第二段の信仰は、神よりの直接の賜物であるが、約束されており、つねに第一段の信仰の結果として与えられるものであると信じます」と言っている。
さていま私がこの章において語ろうとする信仰の働きは、これら二段階のいずれをも意味するのである。すなわち第一段の信仰は、神の約束を裸のままに信じこれに依り頼み、これより学ばんとする種々の経験に入らしめる信仰の行為であり、第二段の信仰は、かくして受けた恵みを享有し続けるところの信仰の状態である。
なおまたこの章において取り扱うところの信仰の七重の働きは、むしろ魂の内部における働きで、ヘブル書第十一章に描かれているごとき、神の奉仕において信仰の成し遂げる働きではないということに注意しておく。それゆえに私共は本章の考察を、活ける信仰の内部の結果に限ることとする。
ジョン・ウェスレーはその厳格熱心なる儀式的生活を十三年送った後、モラヴィア派の聖徒ピーター・ベーラーに会い、真の救いの光に入り始めようとしたときに、「ベーラーはこの信仰の果についての所論によってますます私を驚かせた。すなわち彼は愛、聖潔、幸福は必ず信仰に伴い来るということを確言した」と言っている。そして私共がこれより語ろうとするところは、これらの果についてである。
一、信仰は魂を義とする
『我ら信仰によりて義とせられたれば……神に對して平和を得たり。また彼により信仰によりて今、立つところの恩惠に入ることを得……』 ローマ書五章一、二節
私共が神の前に義とせられるのは心の活ける信仰によるのである、しかるにその代わりに正統的観念ないし教理的理解によると思うことは最も致命的な誤謬である。私共は宜しく静まって反省し、信仰すなわち私共が立つ所の恵みに入ることを得させるところの信仰におるや否や、また真にその恵みに入ること、すなわちそれを享受することなく、単に恵みを頼んでおるだけではなかろうか、自ら省察すべきである。
ウィリアム・ローはこれに関して「人の頭脳は他の観念を楽しむごとく、イエスの血を信ずる活ける義とする信仰という事をもっても、容易に自己を楽しませるものである。そして我々が安全の場所と想像する心というものは自己愛の座であるゆえに、頭脳よりも一層偽るものである」と言っているが、これは実に心を探る言葉である。確かに、義とする信仰というものは、かくも『さきには甚だしくそむける』(イザヤ書三十一章六節)主に対してその責任を感じ、全き降服をなす心の温かい愛情ある信任であって、冷たい教理的なことではないのである。
義とせられることの最も甘美な絵はルカ伝第七章のうちに見出されるそれである。沈黙と涙のうちにもつ信仰はまことに美わしいものである。
ここに、食卓に連ねられたる豊かな美味も、その家の壮麗なことも、来客の嘲笑も心にとめず、しかり、彼女自らの身の卑しさもその罪さえも幾分忘れ、ただその主であり救い主でありたもう御方の恵みに対する讃美と愛と称讃にその心を奪われた一個の魂がある。憐れみに富める主にとりては、この女をしてここに来らしめたその信仰こそ、彼を招いた主人の丁寧な謙遜や食卓の豊饒よりも遙かに勝って甘美であったのである。しかり、罪に責められ恐怖を感じている我が儘な魂をして、それを和らがしめる贖い主の御足の許に来らしめることが、恐らくは信仰のなし得る最大の働きであるであろう。
人格による救いという事が、多くの講壇からやかましく宣べられているこの時代において、私共はこの言葉を強調する必要がある。深い真の人格はただ赦罪の基礎の上にのみ建てられるものである。「赦さるる事の多き者はその愛も亦多し」、しかして愛なるものを分析すれば、自己については謙遜、神に対しては感恩、私共の兄弟、しかりすべての人に対しては同情深いことである。これこそは実に幸いな恩恵の三位一体である。恵みによって赦された者は常に謙遜であり、常に恩に感じており、常に自己と同様赦罪を要する人々に対して同情をもつ。おお、私共も常にこの赦罪の恵まれた雰囲気のうちに、生き、動き、また在りたいものである!
私共は「赦された者」である。傲慢よ去れ! 自己満足よ去れ! 自己中心と他人への侮蔑よ、永久に去れ! 私共は「赦された者である」。信仰はそれを信じ、それを感じ、それを領有する。しかして私共をして、唇に絶えざる讃美の響きをもって、贖い主の御足の下に塵に伏さしめる。神を頌めまつれ! 神の道は最善の道である。私共はそのほかの道をとることを欲しない。かつては自己の努力によって救われようと願ったときもあったが、今はかく願わない。赦罪の路ははなはだ甘美でまた優しい路である。聖なるその御名に栄光あれ! アーメン。
二、信仰は心を聖める
『信仰によりて彼らの心をきよめ』 使徒行伝十五章九節
『我に對する信仰によりて……潔められたる者……』 使徒行伝二十六章十八節
私共がこの世のエジプトから導き出され、奴隷の軛から解き放たれ、神による新生命と愛の躍動を感じて間もなく、早くも覚えることは、その神に対する大胆には恐れを、確信には疑惑を、信仰には不信仰を混ずることであり、既に殺されたと思っていた内部の敵の全軍がふたたび現れ来るのを見る事である。しかり、私共は既にエジプトからは出たのであるが、まだ荒野にいる。呟きあり、疑いあり、淫慾貪慾あり、殊に最も悪しきことには『不信仰の悪しき心』(ヘブル書三章十二節)がなお心中に存在するので、私共が未だ私共の全き嗣業の地に入っていない事をあまりにもよく証拠立てる。
ウィリアム・ローの言葉に「あなたがその心の霊において新たにせられるまでは、あなたの徳行はいわば腐った根に接ぎ木された教訓練習のごときものである。あなたのなす所、事毎に善悪が混合する。すなわちあなたの謙遜は高ぶりの助けとなり、他者愛は自己愛を養う。しかしてあなたの祈りが増加すれば、ますます自らを聖徒らしいと思う心が深くなる。何となれば心がその根底から潔められ、悪の根(外部的教訓によっては伐り去られぬもの)が斧を受けるまでは、それから出るものが一々その不潔腐敗に与るからである」とある。
けれども救いの道は近く備えられている。キリストの血、キリストの言葉、キリストの霊は私共の最も根深い敵をも取り扱うに充分である。しかして私共の側においては実は信仰である。すなわち始めはエホバの裸の約束に依り頼む行為としての信仰であり、次には恵まれた状態としての信仰である。この状態としての信仰は、『平和の神』御自身によって衷に作成せられる神の賜物なる御霊の証である(テサロニケ前書五章二十三節)。
私共は神の御言のうちにも、最も恵まれた聖徒の証詞のうちにも、内住の罪より心を効果的に潔めるところの救拯はイエスの貴き血を信ずる信仰のほかに見出すことが出来ない。この固執不動の「力強い信仰」の前には、いかに頑強な内部の敵も追い出され、永久に滅びざるを得ないのである。ハレルヤ! 『汝もし信ずる事を得ば、信ずる者において爲し能はざる事なし』(マルコ伝九章二十三節・英訳)。
私共は今一度、イエス・キリストの血を信ずる信仰を力説高調したい。流されたキリストの血を霊魂に対して有効ならしめるは、信仰によるのほか別の道はない。ただかく信ずる事によってのみ、キリストの肉を食し血を飲むことが出来るのである。十九世紀の初期における能力の偉人ジョン・スミスはかつて「私は今、かつてなきほど切にキリストの血の必要を感じ、かつてなきほどにキリストの血をよく用いることを得る」と言った。
これは実に幸いな言葉である。私共も、かく信仰によってキリストの死を食し、私共の『心は濯がれて良心の咎をさり』たること(ヘブル書十章二十二節)を覚えるまで意識的に信ずるこの秘訣を知っているであろうか。この『心が濯がれ』るとは心中に悪があるという意識が濯ぎ去られることで、心の内部的聖潔の積極的経験である。私共はいかにキリストの血を用いるべきかを知っているであろうか。すなわちただひとたび回心の時これを用い、また折に触れてこれを用いるというようなことではなく、常に断えず意識的にこれを用いることを知っているであろうか。
またもっと近代の一聖徒レジノルド・ラドクリフはその妻に書き送って「私はさながら魂をサタンに噛まれまた刺されているごとく、そして彼の毒悪の舌が魂の奥深いところにその毒素を浸潤したように感ずる。されば奇蹟的に浄め、活かし、生命を与える主イエスの血のほか、何物も私を浄め得るものはない。要するに、私は悪魔来の注射を受けている。されば主イエスがその血の中に浸して下さることのほか、何物も私を浄め得るものはない。けれども感謝すべきかな! しかり、悪魔が力を失って遁げ去るときに、地獄の大洞窟にわがかく叫ぶを聞かしめよ。主イエスの血は彼等より強きこと、百万倍なり。何たる安全! 何たる櫓! 激浪怒濤もこれに向かっては打つことを断念するほかはないと。」
これがまた私共の心の言葉であろうか。私共もまた、
『ねがい思いも血によりて
きよめられたるわが心、
神の力にへりくだり
服し順うわが心。
天の光のうちにてぞ
あゆみ、悲しみ、また歌う、
これぞわが救い主また王の
我に賜わる祝福なる』
と歌うことが出来るであろうか。
かく歌うことを得るならば神を頌めよ。諄いけれども今一度言う、信仰は私共の心を潔める手段である。潔めることは、神がそれをなし、キリストの血がそれをなし、聖霊がそれをなしたもう。しかし結局この賜物を自己のものと受け取るは信仰の手である。ヨハネがその異象の中に、『この白き衣を著たるは如何なる者にして何處より來りしか』と問うたとき、長老の一人は答えて『かれらは大なる患難より出できたり、羔羊の血に己が衣を洗ひて白くしたる者なり』と言った(黙示録七章十三、十四節)。
しかり、彼等の衣を白くなした、その貴い浄める流れは、大患難における彼等自身の苦難でなく羔羊の血であった。神はその泉を与えたまい、キリストはそれを天より地に持ち来りたもうた。そして聖霊は私共を助けんと常に備えて私共の側に立ちたもう。されど私共もそれらの聖徒たちのごとく、これを捉えて自己に当て嵌め、信じて受け、そして信仰の手を伸べ、肉と霊のすべての汚穢より自己を潔めるべきである。アーメン。
三、信仰はキリストとの実際の合一を生ずる
『最早われ生くるにあらず、キリスト我が内に在りて生くるなり、今われ肉體に在りて生くるは……神の子の信仰に由りて生くるなり』 ガラテア書二章二十節(英訳)
キリスト信者の霊的経験は、そのいかなる段階においても、信仰によらずして出来得るものではない。魂が義とせられ心が潔められた上でも、それが無意識に成長してキリスト・イエスとの合一に至るものではない。しかるに一方において多くの人が、まずキリストの宝血による心の全き潔めを求めることをせずして、直ちに主との実際的合一を実現経験しようとして徒らにもがく。それと共に他方においては、信仰による魂の称義と心の潔めをもって終極とし、それより後は自然の発達で信仰を働かすことを要せぬと考える危険がある。これは実に恐るべき危険で、キリスト御自身より目を離さしめる。されど真の信仰は称義も聖めもみな、主ご自身との実際的合一に至るための準備に外ならぬ事を見るのである。
成長によって神的生活に知らず識らず進歩するという説が多く説かれている。けれども使徒パウロは、彼の今生きる生活は成長によってでなく、信仰すなわち神の子の信仰によってであると言っている。彼が神の子の信仰と言ったのは、キリストがその聖父との交わりにあゆみたもうたその同じ信仰、すなわち聖霊によって内心に作成された信仰を言うのである。さて「信じつつある、真実なる、清き」心は進んでその願望・計画・目的また意志をその活ける主のそれらと一つにせずしては止まない。そしてかかる合一は信仰、すなわち神の約束に対して意識的に働かす所の信仰によってのみ出来る。しかり、私共が神の性質を嗣ぐのもかかる信仰によってであり、肉と霊との汚穢より全く己を潔めるのもかかる信仰によってであることは、既に学んだとおりである。かくしてこそはじめて
『この確信を受くる者は
誰にてもその証をうちに有ち、
意識的にぞ信ずるなり』
と言われている、神より来る内心の確信を受け得るのである。
ウィリアム・ブラムウェルは言う、「強い信仰と絶えざる祈りはすべての結果を生ずる生産力であるとは、私が二十度もかさねて書き記し得るところである」と。
四、信仰は世に対して勝利を得せしむ
『世に勝つ勝利は我らの信仰なり』 ヨハネ第一書五章四節
神を信ずる信仰の私共のためになす所は、なおこの上にもある。信仰は私共を義とし、聖め、救い主との合一に至らしめるが、その上にこの世の幻惑する魅力に対する勝利を確保する。このことにおいて信仰がいかに働くかを説明するために、子供の頃からの単純な例証は恐らく最もよくこれを説明すると思う。英国において、クリスマスの時に子供らの最も興がるものが二つある。一つはクリスマス・ツリー、今ひとつはブランパイである。クリスマス・ツリーには金銀箔の装飾、玉や玩具で飾られ、燭光を輝かしてはなはだ華やかであるが、ブランパイ(麩糠を入れた桶の中に玩具や金銀貨などを入れおき、子供らをして自由に手を入れて探し取らしめるもの)は一見はなはだ興味なきものと思われる。私はしばしば信仰の学課と関連してこれらの二者を比較して考える。
この世はその光輝燦爛たるその文学技芸、また時々の流行をもって多くの人の魂を魅惑するが、キリストとその言葉は見るべき容なく美しき貌なく、私共の慕うべき艶色なく、侮られて人に棄てられる。そこで信仰はいかにして私共を助け得るであろうか。信仰はいかにして罪とこの世の幻惑と愚昧より私共の心を乳離れせしめ得るであろうかと言えば、それは信仰がその手を活ける神の御言に差し入れ、その宝蔵から新しき物と古き物とを引き出し得るからである。信仰は、世の俗人らには最も陳腐平凡な、興味なきものとしか見えぬ神の御言から、最も甘美貴重な経験を引き出すのである。かくしてこの世とその愚かしき事どもが、捨てられた去年のクリスマス・ツリーの金箔の装飾のごとくにしか見えぬに至らしめる。これがすなわち世に勝つ勝利である。
けれどもなおそのほかの方面の勝利もある。さてもこの世はただ魅惑し籠絡するばかりでなく、また私共を怖れしめる。魂が捕鳥者の罠を遁れる鳥のごとく、ひとたびこの世の空しきことを見て、貧しき者の唯一の避け所なる主に遁れ行くとき、世はそれを恐れしめ迫害し始めるのである。けれども主は『雄々しかれ。我すでに世に勝てり』(ヨハネ伝十六章三十三節)と仰せたもうがゆえに、信仰はすでに得られたるこの勝利を捕らえ、敢然として信じ、聖名によって勝利するのである。ハレルヤ! されば私共は自己の世俗的なること、この世の愛、世を恐れる恐怖心を主に持ち来り、これを告白し、御前にこれを悲しみ、かく極端までも主を信じ奉るべきである。
五、信仰は悪しき者の火矢を消す
『信仰の盾を執れ、之をもて惡しき者の凡ての火矢を消すことを得ん』 エペソ書六章十六節
人が心を定めて神を信じようとするときには、悪魔は必ずこれを妨げまた打ち破ろうとあらゆる力を用いる。人が献身し、祈禱し、奉仕することさえ、悪魔の挑戦を受けずに過ぎるけれども、ひとたび神を信じ信仰をもって神の約束を執らえ始めるときには、敵は猛烈に攻撃し来る。
ロジャース夫人はこれに関して、「あなたはこれらの疑いの晴れるまでは信じ得ぬと仰せられるが、ここにサタンの一つの奸計があるのであります。あなたが信じなさるまではあなたの疑いは除かれることは出来ません。悪しきもののすべての火矢を消し得るはただ信仰のみであります。ただ信じなさい。そうすればあなたはすべての疑いから救われなさるでしょう。その時真昼のごとき明らかな証拠があなたの一切の疑惑を去らしめるでありましょう。されば、あなたの魂も、あなたの不信仰も、あなたの生来の罪も、あなたの一切をみな主の血の泉、その愛の深淵に投げ込みなさい」と書いている。
敵の火矢とは、世と肉より来る誘惑を言うのではない。おもに恐怖、疑惑、不信仰である。これらの火矢は、浄められ油注がれた魂に対して実に猛烈で、さながら地獄の火に満ちている。しかして神とその愛を信じ、その貴き血の能力を信ずる信仰は、これらの火矢を消す唯一の盾である。しかり、ただ信仰で充分である。ハレルヤ!
六、信仰は喜びをもたらす
『之を信じて、言ひがたく、かつ光榮ある喜悅をもて喜ぶ』 ペテロ前書一章八節
喜びに満たされることはキリスト者の能力である。聖き喜びほどに人をして信服せしめ、覚罪せしめ、回心せしめるに力あるものはない。『常に喜べ』(テサロニケ前書五章十六節)、『常に主にありて喜べ、我また言ふ、なんぢら喜べ』(ピリピ書四章四節)、『なんぢの救のよろこびを我にかへしたまへ』(詩篇五十一篇十二節)など、そのほか多くの聖語はキリスト者の喜びに満たされおるべきことを命じ、また約束している。しかし私共の失望し疲れ果てた心が、失敗、罪悪、悲哀に満てるときに、いかにして喜びに燃えることが出来ようか。その秘密はここにある。それは信仰である。すなわち『イエスを……信じて……喜ぶ』(ペテロ前書一章八節)、『信仰より出づる凡ての喜悅と平安』(ローマ書十五章十三節)とあるごとくである。しかしそれは能動的、意識的なことで、現実に信じつつあることであるべきで、主イエスの母とヨセフが、エルサレムからの帰途、イエスは『道伴のうちに居るならんと思』った(ルカ伝二章四十四節)というごとき漠然たる力なきことであってはならぬ。かのガリラヤ湖畔で復活の主と共に食した弟子らが『その主なるを知』ったのは信仰によってであったが(ヨハネ伝二十一章十二節)、私共の信仰が彼等のごとくならず、主をば『園守ならんと思』ったマリアのそれ(同二十章十五節)のごとくであったならば、どうして喜ぶことができようか。私はかつて『主に在りて喜べ』という命令によって大いに励まされた。元来喜びというものは自発的のものであるから、喜べという命令を要するものでないように私には思われていたが、パウロは真の喜びは信ずるところから来るので、始めから自発的の感情によって起こるものではないということをよく知っていたのである。それゆえに彼は私共が信仰を働かせて衷にある神の賜物を熾んにすることを勧めるのである。しかり、信ずるところから来るものの外には、恒久に保つ喜びはない!
おお主よ、主を信じ、主の宝血を信ずる私共の信仰を増したまえ! 主に対する愛情ある信任をもって断えず私共を満たしたまえ! それなしには私共は真の喜びも、恒の平安も有つことができない。願わくは主ご自身に対する不信仰と、悪しき不信任と疑念を追い出し、永久に根絶したまえ、アーメン。
七、信仰は魂の最後の救いを保証する
『信仰の極、すなはち靈魂の救ひ』 ペテロ前書一章九節
霊魂の最後の救いを保証するものは窮極救済の教理(一度救いを受ければ永久に亡びぬという教理)でなく、キリストの対する活ける信仰であるということをここに力説したいと思う。はなはだ多くの人々が、主ご自身に対する信頼でなくして、或る教理に依り頼んでいることを私共は恐れる。これは敵の最も狡猾な羂の一つである。されば私共には、霊魂を救うところの信仰におるや否やを、断えず自ら省み、自ら試みる必要がある。敵の残酷な手は、私共の褒美を奪い取ろうとつねに伸べられている! 私共は敵地にいる。この世は神の恩恵に対して友情をもつものではない。
私共をしてペンテコステ的勝利の臨終を有たしめ得る唯一のものは『潔き良心のうちに保つ信仰の奥義』(テモテ前書三章九節=英訳)すなわちキリスト御自身とその成し遂げたもうた聖工に対する、活ける燃ゆる信仰である。願うは私共の信仰の大いに成長せんことである! 願わくは、私共信じたる者が最後の全き安息に入り、遂に信仰が、そのとき顕れるべき栄光の見ゆるところに変わるに至るまで、信仰より信仰に進み得んことを!
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