第二章  信仰の道



 私共は前章において、すでに信仰の性質を考えたから、これより信仰の道を見たいと思う。信仰のみがわが救いの道であるということを悟った者は、自然に「いかにすれば信じ得られるか」、全き救いに至る信仰の秘訣はいかにと尋ねるのである。私共がこの章において明らかにしたいと思うのはその秘訣である。
 それではまず、信仰の対象より学ぶこととしよう。

一、信仰の対象

 『なんぢららの信仰を神にらしめんとて、神は彼(イエス・キリスト)を死人のうちより甦へらせ給へり』 ペテロ前書一章二十一節(英訳)

 神がその計画を遂行したもうときには、三位さんみの神の各位がいずれもみなこれにあずかりたもうのであるが、聖書はしばしば父なる神を私共の信仰の最高の対象として示している。すなわち世の人を愛したもうのも父なる神(ヨハネ伝三章十六節)、己の御子みこを惜しまずして私共のために渡したもうたのも父なる神(ローマ書八章三十二節)、約束の聖霊を与えたもうたのも父なる神(使徒行伝二章三十三節)、罪人つみびとを受け入れその罪を赦したもうのも父なる神(ルカ伝十五章二十節コリント後書六章十七節)、また私共を全くきよめたもうのも父なる神すなわち平和の神御自身である(テサロニケ前書五章二十三節)。
 神は厳酷無情なお方で、柔和謙遜なるイエスがなだやわらげたもうたという、恐ろしい間違った観念は信者の思念にはもはやしりぞけられているけれども、まだその心情のどこかにかかる気持ちの潜伏していることをしばしば見出すのである。けれども真の信仰というものは、神に私共を恵ましめるために説きすすめたり宥めすかしたりする必要のないことを深く自覚して、父なる神の愛を深く味わい楽しむものであって、もし私共の心が狭められるならば、それは自己のしき不信仰によるので、神によって狭められるのでないことを知るのである。信仰ある魂には、神が人を恵もうと欲したもう思召おぼしめしが、際だって偉大に、顕著に感ぜられるのである。
 信仰というものは、神の慈愛深くうるわしくありたもうことを見出すために聖書を探り、神の愛でいますことを固く握り、神についてのすべてふさわしくない思想を斥け、その慈愛を深く味わい、その御力みちからを捉え、その誠実を喜ぶものである。まことに、神は私共の信仰を御自身に由らしめようとて御子を死より甦らせたもうたのである。

二、信仰の基礎

 『悪魔きたり、信じて救はるる事のなからんために御言みことばをその心より奪ふ』 ルカ伝八章十二節

 これは注意すべき聖句である。ここに、もしサタンが「人の心に植えつけられた言葉」を奪い去り得るならば、信仰は崩壊するということが明らかに述べてある。信仰というものは、非常に困難に迫られた場合、たとえそれが明白であっても、とにかく単に一般的な概念を基礎として立ちうるものではない。これは不思議に思われるが真である。神の能力、愛、またお働きについての真正な観念でさえも、信仰のためには充分な根拠とはならない。信仰はって立つべき根拠として、記された聖言みことばを要求する。その霊を要するごとくその文字をも要するのである。
 かつて、深く内部の聖潔の必要を認めた一青年が「私に約束をください」と叫んでいた。彼は自己の性質の腐敗を知り、キリストがそれをきよめるために血を流したもうたことも、聖霊がその地上における宮となすために彼の心を占領し聖化させようと待っていたもう事も知っていたが、なお信仰のって立つべきところを見出し得なかったので、彼はなお「私に約束をください」と繰り返した。
 その時そのそばにひざまずいていた彼の友人が、静かにその心を神に挙げ、おもむろに繰り返して『彼は己にりて神にきたる者のために執成とりなしをなさんとて常に生くれば、これを全く救ふことを得給ふなり』(ヘブル書七章二十五節)と言った。それで充分であった。勝利は確信され、信仰はそこに立場を得た。かくて恵みを求めていたこの魂はここに記された約束を捉えて安息に入ったのである。私共の恵まれるのは「貴き大いなる約束」によるのである。
 これは神の驚くべき方法である! 信仰の基礎は聖書に記された「ける神の御言みことば」である。このことは福音書にしばしば証明されるように、波に揺られ嵐に追われるごとく悩める魂は、主イエスが『わがなんぢらに語りしことは、靈なり生命いのちなり』(ヨハネ六章六十三節)と仰せられた、その生命なる御言を語りたもう時、直ちに平安を得るのである。
   『信仰、力ある信仰は約束を見、
     ただそれにのみ目を注ぎ、
    不可能ということを笑いつつ
     事成るべしと叫ぶなり』

三、信 仰 の 価

 『我より火にてりたるきんを買へ』 黙示録三章十八節

 信仰は神の賜物である。ペテロは『貴き信仰を受くる』事について語っている(ペテロ後書一章一節)。これは殊に、聖霊の直接の御業みわざである信仰の盈満えいまん、すなわち神より来る確信についてあてはまる。さてここにはその信仰が『火にて煉りたる金』と呼ばれている。ペテロもまた私共の信仰の体験は火で煉った金よりも貴いよしを語った時に、それについてかく言うのである(ペテロ前書一章七節)。これはカルバリの恐ろしい坩堝るつぼの中で煉られた「神のための信仰」にほかならない。そしてなお主ご自身私共に命じてご自身より得させようとしたもうのもこれである。これこそ天における唯一の通過ではないか。そこでは涙も自己犠牲も克己も、信仰をまじえないでは通用しないのである。ウィリアム・ブラムウェルは「私は二十度も繰り返し書くことができる、強い信仰と不断の祈禱はあらゆる結果を産み出す生産力である」と言っている。
 しかし『貧しき者・盲目めしひなる者・裸なる者』である私共がかかる賜物を獲得し、永久に「信仰に富み」また「善行に富む」者であり得るためにかかる富を買うことは、いかにしてできようか。それに何の価もないであろうか。否、ここにある聖語の言い方は無代償を意味しない。主は『我より買へ』と仰せたもう。しかり、価がある。けれどもその価はすでに払われた、主のいと貴き血である。されば『火にて煉りたる金』なる信仰は主の血によって買い取られたものである。されば神を信じうるこの能力、何の恐れも不信任も疑惑もなく、神を受け神を喜ぶこの驚くべき能力は、主の大犠牲によって私共のために買い得られているのである。
 おお願わくは私共の不信仰の罪を理解し得んことを!
 願わくはいそぎ信ぜんことを!
 しかり、速やかにきたりて金にまさりて更に貴き信仰を買え!

四、信仰の創造者

 『信仰と聖靈とにて滿ちたる…』 使徒行伝六章五節

 神を信ずる信仰は堕落した人間には不自然である。否、その反対に全く神を信ぜぬのが人間の自然の傾向となっている。されば聖霊の主要な働きは、人間をかつて反逆しまつった神に立ち帰らしめ、神による安息、すなわち神に対して安らかな、幸いな、平穏な、愛情ある信任をもつように回復したもうことである。しかもそれは何事よりも最も困難なことで、かかる驚くべき奇蹟はただ神的能力によってのみなされうるところである。ふたたびウィリアム・チンダルの言葉を引用するが「正しき信仰は聖霊によってわれらのうちに作成される一物で……聖霊はこれに伴って心を支配したもう」のである。これは私共にとって何たる奨励であろうぞ。
 神に対して謙って信任し奉る心の火花の一つ一つ、神がわれを、われをさえ愛したもうということを明白に示す天の証明の閃光の一つ一つ、さてもわれは信ずという意識的確信も、私共を悩ます恐怖不信仰に対する勝利も、すべてみなわれ自身の努力の結果でなく、活ける神の御霊みたまがわれを見棄てたまわず、哀れな弱い利己的な、困り抜いているこの心の中に、なおも働きおりたもうことの証拠なのである。けれども愛する魂よ、これらのことは、みな神があなたを取り扱いたもうその道の始めに過ぎない。されば信仰の真昼の光明が不信仰のすべての暗黒を追いやるまで、うちいまむべき慰め主に信頼し続けよ。

五、信仰の領域

 『それ人は心に信じて』 ローマ書十章十節

 私共はここで間違いをしてはならない。信仰の働く領域はである。私共は注意深く反省して、この信仰におるや否やを顧み試みねばならない。そうでなければ、私共はただ義としまたきよめる信仰という霊的想念をもって、自己の心を楽しましめるところに留まるおそれがある。さて人の心は、それ自らにおけるすべての義も力も満足も尽き果てるまでは、決して神に依り頼み得ず、私共の平安、気楽、希望、私共の義、私共の意志、意図の力が、すべて「律法によって」殺されるまでは、私共は決して充分にイエスに信頼しないであろう。されば私共がかく自己に死に、ただに『敬虔ならぬ者を義としたまふ』ばかりでなくまた『死人をいかし』たもう神(ローマ書四章五十七節)に信頼せねばならぬよう閉じこめられたその日こそ、実に幸いなる日なのである。
 あたかもまだ救われない罪人の心が「わが罪!わが罪!われ救われんために何をなすべきや」と叫ぶように、聖徒も全く更新され愛に全うせられるまでは、『あゝわれ惱める人なるかな、の死のからだより我を救はん者はたれぞ』と叫ぶのである(ローマ書七章二十四節)。犯罪の重荷を感ずるものもであり、「内住の罪」や煩悶憂慮の重荷を感じて苦しむものもである。そして全き救いに至るべく信じ得るものも、ただそののみである。

六、信仰の導師また完成者

 『信仰の導師みちびきてまたこれを全うする者なるイエスを仰ぎ見るべし』 ヘブル書十二章二節

 私共の信仰の対象は神であり、信仰の領域は人の心であり、信仰そのものは聖霊によって衷に作成されるもの、主イエスの宝血の流されたことによって可能にされたもの、その基礎は主の約束であるが、さてこれを導き出す者は誰かと云えば、それはキリストでありたもうのである。私共の恐怖を鎮める者もキリストであり、「安かれ、鎮まれよ」と囁きたもうのもキリストでありたもう。私共がほふられたもう神の子羊に目を留めて凝視するときに、私共の疲れ果てた病的な心から、疑惑、恐怖、不信仰の毒が絶え果てるのである。けれども、主はまた全うする御方で、ご自身に対する私共の信任を強め、また完備完成する極端までのわざをなそうと待ちたもうのである。
 されば、謙って足下に伏し、彼をち望み、私共のもつあらゆる信仰を用いて彼に期待し奉るとき、彼は私共の不信仰の残物と肉の想いをすべて消散するに足る恩寵の豊かさをもって、にわかにその宮なる私共の衷に臨みたもうことを知りまた感ずるに至る。キリストのほか何ものも益するものはない! キリストを離れては私共は神を「焼き尽くす火」と見奉るほかはない。キリストを離れてはただ暗黒、失望、死あるのみである。されば私共も、日ごと、時ごと、瞬間ごとに、マデレーのフレッチャーの言ったごとく「キリストに固着して」離れないようにしたいものである。

七、信 仰 の 時

 『今日けふなんぢら神の聲を聞かば……心を頑固かたくなにするなかれ』 ヘブル書三章十五節

 私共はこの点に最大の注意を払う必要がある。私共はとかく一方の極端かまた他方の極端かに走る誤りに陥り易いものである。不信仰はいつも「明日」と言うけれども、『めぐみのときなり』(コリント後書六章二節)とは信仰に対して最も確実に真である。さりながら、罪人つみびとがまことにその罪を悔い改めて神に立ち帰るまでは救いに至る信仰を持ち得ないように、聖徒もその内住の罪また不信仰と肉の想いの残物を自覚するに至るまでは、信じてきよめの恵みを受けることをなし得ぬものである。
 しかし、こう言うときに直ちに付け加えて言わねばならぬことがある。それは魂が自己の心の病を知り、何とかして恵みを受けたく求め出すならば、その人のために信仰の時は確かに「今」であるということである。ジョン・フレッチャーがこの最も肝要なる問題について語った言葉はほとんど霊感を受けたと言ってもよい。曰く、「信仰のき戦いをたたかえ、すべての誘惑も落胆粗相も、心の思い惑いも、世にける思いも、無益なる交友も、不信の心や肉の想いの気後れも一切を切り抜けよ。しかして親しく主イエスに触れまつり、御自身よりずる癒し慰める御力みちからを感ずるまで奮闘せよ。かくしてすでに主に近づく道を明らかに知ったならば、主がその聖霊の力強い働きをもって衷に住みたもうことを感じるまで、その接触を繰り返せ。……
 「、そして続いて、時々刻々かかる信仰をもって主に来ることがあなたの特権であるということと、あなたはその今あるままの不注意な、錯乱した、動揺する、頑固なその心を持ち来る以外、何も携え来るものがないということを記憶しなければならない。哀れな惨めな、しかも貴い多くの魂は大きな誤謬をなしている。すなわち彼らはまだ何の慰藉も平和も喜びも愛も持たないから、そのまま信ずる事は僭越ではないかと恐れる。それはあたかも樹を植えるより前に果実を期待するようなことであるのに、彼らはそう考えぬのである。されば信ずることに先立って何らの恵みも期待してはならないことを知り、かかる錯誤を警戒せよ」と。
 主イエスが聖霊で油そそがれナザレの会堂でその第一の説教をなしたもうた時、人々はみなその口より出でた恵みの言葉を怪しんだとしるされているが、御言みことばのうち何事にもまさって恵みのあったのはどこであろうか。『この聖書は今日なんぢらの耳に成就したり』(ルカ四章二十一節)と仰せられたところではなかったろうか。しかり、年久しくこれらの御言は読まれまた聞かれていたのであるけれども、今この記憶すべき日にその成就の時が来たのである。
 キリストの使信は「今日」である。ほかの日を待つ要はない。今ここに救い主は近く在す。彼について前言されていることどもは、みな今この瞬間に成就されるべきである。ブース大将は、かつてその生涯の秘訣を問われたとき、それは NOW の三文字(すなわち「今」の一語)で表し得ると答えたということである。すなわち彼は聖霊が「今日」と仰せたもうたことを信じ、いま決心し、いま働き、いま神を求め、そしてすべてにまさって、いま信じたのである。
   『いまぞ言わばや、心より
     なんじが御慈愛と忍耐の
      かくも深きをかろしめて
       などてためらいおるべきと。
    いまぞ捧げん、かねてわが
     捧げかねたるものもみな
      汝がものなりと心より
       主こそ王ぞとあがめつつ。
    いまぞ御許みもとに、罪深き
     身をも受け入れ、いと近く
      われを近づけ、わがこころ
       くまなく聖めたもうなり
 以上述べたところが信仰の道である。信仰の基礎、その保証、その創造者、その保持者のいかに偉大なることであるぞ。けれどもかかる神的なるまた偉大なる援助によらなければ、私共はつまづき倒れ、不信仰の暗黒裡に永久に亡び失せるほかないほどに、サタンが私共の鈍い無感覚な心を毒し弱めていることを思えば、かかる偉大な助けの過大でないことを知り、ただこれ『言ひつくしがたき神の賜物たまものにつきて感謝』すべきである(コリント後書九章十五節)。



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