私共はこれまでに、幾分か信仰の性質とその道、その発達について学んだ。さてただ信ずるということは、いかにも簡単なことと見える。けれども聖徒が自らそれを実行せんとするときは勝利に達する前に必ずまず戦いのあることを覚える次第である。
されば私はこの章において、神を信ずることの障碍物を尋ね出そうとするのである。私共は信仰が勝利であること、何事もみな信仰を通して来ること、また魂に来るすべての祝福の源泉、また基礎は信仰であることをよく認めているが、実際において単純な信仰の道に成功することのはなはだ少ないのは何故であろうか。ウィリアム・カルボッソーは「もし信仰の奥義がなおよく知られていたならば、神の民のうちにはなお速やかな進歩があるはずである。多くの人はその誠意においては欠けていないが、信仰において欠けている」と言っている。
このことにおいて誤ってはならない。信仰というものは、ある障碍物が取り払われてしまうまでは、これを受けることもまた働かすこともできないものである。なお罪の中に有頂天に喜んでいる
『潔き良心をもて信仰の奥義を保つものたるべし』 テモテ前書三章九節
潔き良心は信仰の根拠地であり、信仰はそこに宿る。良心が
それはここにあるではないか。すなわち何かまだ言い表さない罪があるか、他人の過失を赦さずにいるか、まだ払わない負債があるか、他人の愛に報いないところがあるか、所有者に返還すべき金銭がそのままになっているか、過ぎし日になした過誤が正さずにしてあるか、何かである。しかり、それはすでに長い以前のことで巧みにそれを人から隠しおおせている。長い間それで済んでいるから、今更取り出して扱う要はないというようなもっともらしい理由を持つかも知れない。けれども良心の火はなおくすぶる。しかしてたびたび自分の罪を思い出させられるのである。
試みて見よ。その間違いが正しくされるまで、その罪を神に告白し、必要ならば人にも言い表し、主イエスの宝血をもって全く永久に消し去っていただくまでは、私共は主イエスに対する救いの信仰も、
或る真面目な信者である日本婦人が、自分は神の約束を信ずる事も、信仰をもって
けれども種々語り合ううちに、この婦人は隣の教会の牧師に対して気持ちを害していることがある(その事柄は事実か想像か判然としないけれども)。彼女はその牧師が自ら来てその過ちを告白しなければ、それを赦したくないという事実が明らかになった。私は彼女に向かい、彼女はいかにして主に赦罪を受けたか、主は彼女が悔い改めその心を
『
ここに最もよく不信仰を生ずる一つの原因がある。多くの教授、教師、牧師、あるいは伝道者は自ら内在の罪を認め、内心の聖潔の必要を感じながら、悲しいかな、心の聖潔を求める者として謙遜な地位をとることを欲しない。彼らはもし公然と率直にその必要を言い表すならば、その
魂の謙遜な誠実な態度と信仰との間にはあまり深い関係のあるようには見えないかも知れないが、実はきわめて密接な関係がある。魂がいかなる価を払っても全く主のものとなるべく決心するまでは、信仰がその手を伸べて約束を捉えることも、祝福を受けることもなし得ない。けれども主に対する降伏が全くなるや否や、魂は充分にまた容易に信じ得るのである。
されば『神の
けれども、私共はすべてその真相を神に告げ
「おお神よ、もしあなたが神にてありたもうとも、私はあなたを愛しません。私はあなたを求めません。私はあなたのうちに幸福があると信じません。けれども私はこのままではまことに
かくて神は瞬時に彼女の祈りに答えたまい、彼女は直ちに救われた。おお願わくは、私共が自己の心の善き願望であり渇望であると思うものを神に告げ奉ることをやめ、自己の
『試むる者きたりて言ふ「なんぢ
信仰にはなお一層大いなる一つの敵がある。私共の敵なる悪魔がそれである。そして彼のもっともらしき「もし」はその攻撃の最上の戦術である。彼らはその「されども」をもって私共を
これらの武器は鋭利で、その切っ先はいかによく刺し通し得ることよ。されば私共が常に「信仰より信仰に進み」、この戦いにおいて勝利者たりうることはただ私共の確信を堅持するときにのみできるのである。
アブラハムは神の不思議な約束の嗣業に関し確信を得んと欲し、その道を示したまわんことを主に求めた(創世記第十五章)。彼はかく老いて後、いかにして多くの国民の父となり得ようかが問題であった。その時彼は天幕から連れ出され、まず天を仰ぎ星を見て、神の創造力を驚嘆し、次に
私共にとってもそのとおり、我らが信仰をもって訴え祈り、主イエスの犠牲を献げおる間に、悪魔はこれを嘲り、私共をその願い求める目的から動かそうとして来る。けれども私共は、アブラハムの場合のごとく、神の霊の光と火が
『アブラム、サライの
魂の大敵悪魔や心の高慢のほかにも、なお信仰を妨げるものがある。悲しいかな、私共の友人や同伴者が私共を誘惑して、私共の確信を投げ捨てさせ、信仰の道から堕落せしめることがしばしばある。アブラハムはすでに神を信じて、信仰より来る聖霊の証と喜びの盈満を受けていた。彼は堪え忍んだ。彼は神によりて自らを励まし、堅く約束を望み、不可能を笑いつつ信仰を続けた。
けれども約束の成就を待つときが久しかったので、彼は神がその心の願いを彼に与えたもうという確信は投げ捨てなかったけれども、信仰の単純な道を固守せずしてそれを曲げた。しかもそれは彼に最も近い、最も愛する者の声を通してであった。しかして彼のこの失敗は彼にも世界にも何たる大いなる悲しみと困難とを
『我なんぢの
ユダは失敗し彼の信仰は永久に失われた。ペテロも失敗したけれども彼の信仰は続き、彼はそれによって救われた。失敗のあとに来る失望ほど、魂に臨む烈しい危険はない。その時こそ敵が最も深刻にまた最も鋭く攻撃する時である。主イエスはそれをよく知り、ペテロが主を否んだあとでその胸中に起こる実に恐ろしい闘いを先見し、彼がその痛悔の懊悩、良心の呵責による苦悶、敵の燃ゆるごとき非難の中においても、なおよく神の不変の愛を信ずる信仰に支えられて主を離れないように祈りたもうた。しかして主の祈りのごとく彼は保たれたのである。
失敗ほどに私共の勇気を沮喪せしめるものはない。失敗を思い起こすことは私共にとって実に悲しい事である。しかしなおそこに多くの自ら義とする心や、恥辱を受けたと感ずる高慢心があり得る。もしそうでないならば、決して信仰をやめるはずはない。否、むしろ失敗をして一層決定的に神を信ぜしめ、そのことによって神の恩寵の
かつて一人の青年が失望に満ちて、私の許に訪ねてきた。彼は、自分が神に対してなさんと企てた奉仕の生涯は全く失敗に帰したと嘆くのである。彼ははなはだしく落胆して何の信仰ももたぬ、彼は始めから投げ棄てるほどの確信を持たなかったかのごとく、全く確信を失っていた。そこで私は一切を主イエスに告げ奉るよう勧めた。懼れずしてそのままに主に来ること、何の申し訳もなすまじきこと、心を全く打ち明けること、しかして一切の失敗を救い主の耳に囁いて聴いていただくことなどを語り聴かせた。しかして彼はどうかこうか、私をも私の勧告をも信じて去った。
しかし、日ならずして私はこの青年から喜ばしい手紙を受け取った。彼は私の勧めの真であることを知った。すなわち彼は私が教えたごとくにして信ずることにより、間もなく平和と喜びの豊かさを得たのである。おお、私共をして私共の心を
『彼とともに
残念ながら私共は環境に支配せられる。魂はその属する教会の信仰あるいは不信仰に感じやすいものである。私共が信じつつある信者とともにいるときは神を信ずることはいかにも容易であるが、聖徒が、無頓着で待ち望むことをせず、信じ続けることをしない人々の中に入れば、直ちに戦いが一層困難になる。
かの十二人の偵察者はカナンの地の善き報告を持ち帰ったが、その中の十人は不信仰を語り始めた。その不信仰は元来彼らの心にあったが、その時に出て来たのである。それは火のごとく会衆の中に燃え広がった。不信仰はいつもそのとおりである。直ちに人々は落胆して信仰の道から退き始めたのである。おお、いかにわれわれもかかる
私共の環境において、霊的なることに対する怠慢ほど恐ろしい感化を及ぼすことはない。霊的怠慢とは神を求めることを怠り、また或る将来の勝利の約束だけをもって眠るように誘う安逸の愛好である。『
「いかにしてこの変化(すなわち心の全き変化)を待ち望むべきであるか。それは無関心無頓着なること、すなわち怠慢不活発なる態度ではなく、力を尽くして
私共が単純なる信仰をもってそれを受けるということは真である。けれども神は、私共が神の定めたまえる仕方をもって精励しそれを求めるのでなければ、その信仰を与えたまわず、またそれを与える事を欲したまわない。この考えは、何故にこの恵みを受ける者がかく少ないかと問う人々を満足せしめる。どのくらい自分で恵みを求めつつある人があるかを問え、さらば満足な答えを得るであろう。
『兄弟よ、心せよ、恐らくは
私は信仰の障害物を研究して、その最大なるものを最後まで残した。このほかのものはみな敵の前哨であったが、これは敵の本城であり要塞である。元来、神の賜物なる信仰は神に対する心の態度ではなく、魂の中に植え付けられた神的原則であるが、そのごとく不信仰もまた私共の天の父に対する単なる心の態度ではなく、悪しき原則である。
さて、使徒パウロはヘブルの信者に書き送って『心せよ、恐らくは汝等のうちに信ぜざる者あらん』とは言わずして、『不信仰なる惡しき心を懷く者あらん』と言っている。すなわち信者である諸君、
この不信仰なる悪しき心という内なる大敵につき注意深く考察すべき二つの事がある。
第一、それは聖霊によって
第二に、内なるこの悪は私共の意志より一層深いものであるということを注意せねばならない。神の愛したもう多くの子供らは自己の意志のみを見、自ら神に順うことを堅く決心していることを知り、実際何処にその困難があるかを見出すに苦しんでいる。彼らは全く神を信ずることを欲する。彼らの意志も願望も思想もすべて神に向かっている。しかるに悲しいかな、その欲する善はこれをなさず、欲せざる悪はこれをなすを見出す。たとえ自己、意志、自我なるそのものが真にキリストと共に十字架に
けれども私共が神を呼び求め神を待ち望むならば、必ず聖霊が大いなる照明のごとく臨み、『
されば、ここに神を信じ続けることを妨げる大障害物がある。この『
多くの熱心なる魂はその罪と失敗をすべて主に持ち
『
汝が罪を持ちて来れ、
イエスは汝をきよめたもう、
汝が罪を持ちて来れ。』
告白をもってその罪を持ち来れ、あなたが持つその少しの信仰を用い、キリストの貴き血にその罪を投げ入れよ。もし必要ならば再三それを繰り返せ。そしてあなたの胸から追いやられてしまうまで、あらゆる
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