第四章  信仰の障碍しょうがい



 私共はこれまでに、幾分か信仰の性質とその道、その発達について学んだ。さてただ信ずるということは、いかにも簡単なことと見える。けれども聖徒が自らそれを実行せんとするときは勝利に達する前に必ずまず戦いのあることを覚える次第である。
 されば私はこの章において、神を信ずることの障碍物を尋ね出そうとするのである。私共は信仰が勝利であること、何事もみな信仰を通して来ること、また魂に来るすべての祝福の源泉、また基礎は信仰であることをよく認めているが、実際において単純な信仰の道に成功することのはなはだ少ないのは何故であろうか。ウィリアム・カルボッソーは「もし信仰の奥義がなおよく知られていたならば、神の民のうちにはなお速やかな進歩があるはずである。多くの人はその誠意においては欠けていないが、信仰において欠けている」と言っている。
 このことにおいて誤ってはならない。信仰というものは、ある障碍物が取り払われてしまうまでは、これを受けることもまた働かすこともできないものである。なお罪の中に有頂天に喜んでいる罪人つみびとに、救われるために主イエスを信ぜよといっても、それは無益である。罪人はその救われるべきキリストに対する信仰を働かせる前に、覚醒され、認罪させられ、何事よりもまず神に対して悔い改めねばならぬのである。されば私共はいま、信仰の障碍となることどもを考えよう。

一、きよからざる良心

 『潔き良心をもて信仰の奥義を保つものたるべし』 テモテ前書三章九節

 潔き良心は信仰の根拠地であり、信仰はそこに宿る。良心がけがれると信仰は消え失せる。多くの人の信仰に失敗する秘密はここにある。『なんぢもし……兄弟にうらまるる事あるを思いいださば……きて、その兄弟と和睦し、しかるのちきたりて、供物そなへものをささげよ』(マタイ伝五章二十三、二十四節)。私共は救いについても恵みの盈満えいまんについてもずいぶん熱心に求めながら、信じ得る者のはなはだ少ないのは何故かと思う。けれどもその理由は求めがたいことではない。
 それはここにあるではないか。すなわち何かまだ言い表さない罪があるか、他人の過失を赦さずにいるか、まだ払わない負債があるか、他人の愛に報いないところがあるか、所有者に返還すべき金銭がそのままになっているか、過ぎし日になした過誤が正さずにしてあるか、何かである。しかり、それはすでに長い以前のことで巧みにそれを人から隠しおおせている。長い間それで済んでいるから、今更取り出して扱う要はないというようなもっともらしい理由を持つかも知れない。けれども良心の火はなおくすぶる。しかしてたびたび自分の罪を思い出させられるのである。
 試みて見よ。その間違いが正しくされるまで、その罪を神に告白し、必要ならば人にも言い表し、主イエスの宝血をもって全く永久に消し去っていただくまでは、私共は主イエスに対する救いの信仰も、きよめの信仰も働かすことができるものではない。『信仰と善き良心とを保ちて、戰鬪たゝかひを戰はんためなり。ある人よき良心を棄てて信仰の破船をなせり』(テモテ前書一章十八、十九節)とある。
 或る真面目な信者である日本婦人が、自分は神の約束を信ずる事も、信仰をもって御霊みたまを受けることもできないと、大いに憂えて私のもとに来た。彼女の顔は非常に悲しそうで、その心ははなはだ飢えていた。私は彼女を信仰の道に導こうと力を尽くしたけれども無益であった。
 けれども種々語り合ううちに、この婦人は隣の教会の牧師に対して気持ちを害していることがある(その事柄は事実か想像か判然としないけれども)。彼女はその牧師が自ら来てその過ちを告白しなければ、それを赦したくないという事実が明らかになった。私は彼女に向かい、彼女はいかにして主に赦罪を受けたか、主は彼女が悔い改めその心をひくくするまで待って、その上で彼女の身代わりとなりたもうたのであるかと問うた。彼女は、否、なお弱く、罪人つみびとであり、敵たりし時に彼女のために死にたもうたのであると答えた。その時私は、彼女はその赦されたごとくにまた人を赦すべきであると命じた。彼女は目に涙を湛えて祈り、私もまた祈り、私共ともに主が彼女の心をゆるめ従順ならしめたもうよう、主に求めた。かくて彼女は直ちに行ってその過ちを言い表して赦しを得ることを約束した。その翌朝、彼女はまた訪ねてきたが、私はもはや信仰の道を教える必要のないことを知った。彼女の心は罠から逃れたので、信ずる事ができたのである。慰め主なる聖霊は恵み深き盈満をもって彼女の魂に入り来りたまい、彼女は言い難くかつ栄えある喜びをもって喜んだことである。

二、 高   慢

 『たがひほまれをうけて唯一の神よりの譽を求めぬなんぢらは、いかで信ずることを得んや』 ヨハネ伝五章四十四節

 ここに最もよく不信仰を生ずる一つの原因がある。多くの教授、教師、牧師、あるいは伝道者は自ら内在の罪を認め、内心の聖潔の必要を感じながら、悲しいかな、心の聖潔を求める者として謙遜な地位をとることを欲しない。彼らはもし公然と率直にその必要を言い表すならば、そのむれの信任を失うであろうと思い、わざと明白な言辞を避けて漠然たる概念的言辞を用いる。彼らは神より来るほまれを求めずして、人々に善く思われようと願うのである。そこには主イエスに対する実際の全き降伏がない。
 魂の謙遜な誠実な態度と信仰との間にはあまり深い関係のあるようには見えないかも知れないが、実はきわめて密接な関係がある。魂がいかなる価を払っても全く主のものとなるべく決心するまでは、信仰がその手を伸べて約束を捉えることも、祝福を受けることもなし得ない。けれども主に対する降伏が全くなるや否や、魂は充分にまた容易に信じ得るのである。
 されば『神の能力ちからある御手みてもとおのれひくうせよ』(ペテロ前書五章六節)。このことがなされるまでは、真の意識的信仰というものはあり得ない。されば自己の心を探り、悪しきものをみな見出し、それを光に引き出し、神に告白するは私共にとっていかに必要なことであろうぞ。すべてを神に告げまつれ。故意にあらぬとも虚偽を神に申し上げることを慎め。私共はしばしば真ならぬことを主に申し上げる。私共は主に従いたいと申し上げ、きよくして専心一意ならんことを願うと言い、もし私共が自己の心を知るならば、私共は聖潔ならずして幸福を求め、神御自身よりも平和や喜びや能力を要していると告白すべきところに、神を求めつつあると言う。
 けれども、私共はすべてその真相を神に告げまつるまでは、神に関することに進歩することも、実現を見るべき信仰に至ることもできるものでないから、神はそれを待ちたもうのである。『我らの模範なるキリスト』という書物を書いたキャロライン・フライはこのことの著しい例証を示している。彼女は富も地位も美貌も持つ派手な女性であったが、まだ年若い頃に人生に飽き果てたのである。そして自分ではまだ救われてもいないある友人の勧めによって、宗教による慰安を求める決心をした。彼女は元来鋭敏な理性を持つ聡明な女性である上に、神の御霊みたまに照らされて、その自ら求めるところが主ご自身に向かう真の願望ではないことを見出した。かくて彼女は神に向かって真実を告げ、その想像の義をすべて脱ぎ去って、真相を告白した。彼女の祈りは次のごとくである。
 「おお神よ、もしあなたが神にてありたもうとも、私はあなたを愛しません。私はあなたを求めません。私はあなたのうちに幸福があると信じません。けれども私はこのままではまことにみじめな者でございます。されば私が求めないもの、また欲しないものを与えたまえ。もしあなたにできることならば、私を幸福ならしめたまえ。私はこの世に飽き果てました。もし何かそれより善いものがあるならば、それを私に与えたまえ。」
 かくて神は瞬時に彼女の祈りに答えたまい、彼女は直ちに救われた。おお願わくは、私共が自己の心の善き願望であり渇望であると思うものを神に告げ奉ることをやめ、自己のうちにある、悪いまた取り扱いにくいものを恐れなく神に告げうることである。さればいかに速やかに自由を得られることであろうぞ。主の御座みざはいまもなお恵みの御座であり、主はなお親切な慈愛深き牧者でいます。いまはなお罪人の友にいまして、いまだ審判主さばきぬしではありたまわぬ。今日はなお恵みの日である。されば高慢を棄て、神の力ある御手みての下に己をひくくせよ。さすれば全き救いに至るよう信ずることができる。

三、 敵

 『試むる者きたりて言ふ「なんぢし……」』 マタイ伝四章三節

 信仰にはなお一層大いなる一つの敵がある。私共の敵なる悪魔がそれである。そして彼のもっともらしき「もし」はその攻撃の最上の戦術である。彼らはその「されども」をもって私共をおどかし恐れしめ、その「もし」をもって私共を落胆せしめ困惑せしめる。私共が献身し、奉仕し、祈るとも彼の挑戦を受けずして過ぎることもあるが、一人の聖徒が神を信じ、信仰を強くして神を崇め始めると、サタンはえる獅子のごとく彼に来る。サタンは「もしあなたが神の御意みこころのままに支配されるならば、そのくびきは重くまたその道の困難なことを知るであろう」、「もしあなたが信じて安息に入っているならば、あなたがいま経験するところよりも、なお一層驚くべき結果があるべき筈である」、「もし主イエスの血があなたの心をすべての罪よりきよめたならば、あなたは必ずかくのごとき熱狂的な感じをもつはずである」と言ってくるのである。
 これらの武器は鋭利で、その切っ先はいかによく刺し通し得ることよ。されば私共が常に「信仰より信仰に進み」、この戦いにおいて勝利者たりうることはただ私共の確信を堅持するときにのみできるのである。
 アブラハムは神の不思議な約束の嗣業に関し確信を得んと欲し、その道を示したまわんことを主に求めた(創世記第十五章)。彼はかく老いて後、いかにして多くの国民の父となり得ようかが問題であった。その時彼は天幕から連れ出され、まず天を仰ぎ星を見て、神の創造力を驚嘆し、次に犠牲いけにえを献げて待ち望むように命ぜられた。犠牲は屠られ、献げられ、血は流された。しかして彼があかしを待っている間に、彼は鷙鳥あらきとりが来てその犠牲を取ろうとし、また大いなる暗黒のそれに続いて襲い来るのを見た。されど彼は確乎かっこと立って、その鷙鳥を追い払おうとしたのである。
 私共にとってもそのとおり、我らが信仰をもって訴え祈り、主イエスの犠牲を献げおる間に、悪魔はこれを嘲り、私共をその願い求める目的から動かそうとして来る。けれども私共は、アブラハムの場合のごとく、神の霊の光と火がきたり、私共の祈りの聴かれ、私共の供え物の受けれられ、約束の祝福が私共のものとなったことを私共の心に証したもうまで、信仰をもって待ち望み、敵の密使を追い返さなければならない。

四、私 共 の 友

 『アブラム、サライのことばきゝいれたり』 創世記十六章二節

 魂の大敵悪魔や心の高慢のほかにも、なお信仰を妨げるものがある。悲しいかな、私共の友人や同伴者が私共を誘惑して、私共の確信を投げ捨てさせ、信仰の道から堕落せしめることがしばしばある。アブラハムはすでに神を信じて、信仰より来る聖霊の証と喜びの盈満を受けていた。彼は堪え忍んだ。彼は神によりて自らを励まし、堅く約束を望み、不可能を笑いつつ信仰を続けた。
 けれども約束の成就を待つときが久しかったので、彼は神がその心の願いを彼に与えたもうという確信は投げ捨てなかったけれども、信仰の単純な道を固守せずしてそれを曲げた。しかもそれは彼に最も近い、最も愛する者の声を通してであった。しかして彼のこの失敗は彼にも世界にも何たる大いなる悲しみと困難とをきたらしたることぞ! 実にかの回教徒の禍害は、かくして彼より生まれたイシマエルからである。それは彼が神の御声みこえを聴く代わりに、サラの声を聴いたためである。されど主はアブラハムになしたまえるごとく、私共にもたえず来りて『なんぢわが前にあゆみて完全まったかれよ』(創世記十七章一節)と仰せたもう。しかり、あなたの信仰に、あなたの確信に、そして神の道に忍耐深く歩み続けることに全かれよと仰せたもうのである。

五、私共の失敗

 『我なんぢのためにその信仰のせぬように祈りたり』 ルカ伝二十二章三十二節

 ユダは失敗し彼の信仰は永久に失われた。ペテロも失敗したけれども彼の信仰は続き、彼はそれによって救われた。失敗のあとに来る失望ほど、魂に臨む烈しい危険はない。その時こそ敵が最も深刻にまた最も鋭く攻撃する時である。主イエスはそれをよく知り、ペテロが主を否んだあとでその胸中に起こる実に恐ろしい闘いを先見し、彼がその痛悔の懊悩、良心の呵責による苦悶、敵の燃ゆるごとき非難の中においても、なおよく神の不変の愛を信ずる信仰に支えられて主を離れないように祈りたもうた。しかして主の祈りのごとく彼は保たれたのである。
 失敗ほどに私共の勇気を沮喪せしめるものはない。失敗を思い起こすことは私共にとって実に悲しい事である。しかしなおそこに多くの自ら義とする心や、恥辱を受けたと感ずる高慢心があり得る。もしそうでないならば、決して信仰をやめるはずはない。否、むしろ失敗をして一層決定的に神を信ぜしめ、そのことによって神の恩寵の盈満えいまんを証拠立てるに至らしむべきである。
 かつて一人の青年が失望に満ちて、私の許に訪ねてきた。彼は、自分が神に対してなさんと企てた奉仕の生涯は全く失敗に帰したと嘆くのである。彼ははなはだしく落胆して何の信仰ももたぬ、彼は始めから投げ棄てるほどの確信を持たなかったかのごとく、全く確信を失っていた。そこで私は一切を主イエスに告げ奉るよう勧めた。懼れずしてそのままに主に来ること、何の申し訳もなすまじきこと、心を全く打ち明けること、しかして一切の失敗を救い主の耳に囁いて聴いていただくことなどを語り聴かせた。しかして彼はどうかこうか、私をも私の勧告をも信じて去った。
 しかし、日ならずして私はこの青年から喜ばしい手紙を受け取った。彼は私の勧めの真であることを知った。すなわち彼は私が教えたごとくにして信ずることにより、間もなく平和と喜びの豊かさを得たのである。おお、私共をして私共の心をき、必要ならば再三繰り返して鋤き返し、その中にある虫を殺すことを日光に委ねしめよ。罪人つみびとの友の御前みまえに謙り、信仰をもってする、正直なる告白は天的鋤先である。しかり、私は千度も繰り返して言おう、失敗をして私共を謙遜な告白と忍耐深い信仰に追いやらしめよ。私は私の奉仕の間に幾たびもそのことの真実なることを見出した。「彼にすべてそれを告げまつれ」というこの単純な言葉が、多くの者に生命と救いをもたらした。

六、私共の環境

 『彼とともにゆきたる人々は言ふ 我等はかのたみの所に攻上せめのぼることを得ず 彼らは我らよりも强ければなりと……すなはちイスラエルの子孫ひとびとみなモーセとアロンにむかひてつぶやき全會衆かれらにいひけるは 嗚呼あゝ我等はエジプトの國にしにたらばよかりしものを 又はこの曠野あらのしなよからんものを』 民数記十三章三十一節、十四章二節

 残念ながら私共は環境に支配せられる。魂はその属する教会の信仰あるいは不信仰に感じやすいものである。私共が信じつつある信者とともにいるときは神を信ずることはいかにも容易であるが、聖徒が、無頓着で待ち望むことをせず、信じ続けることをしない人々の中に入れば、直ちに戦いが一層困難になる。
 かの十二人の偵察者はカナンの地の善き報告を持ち帰ったが、その中の十人は不信仰を語り始めた。その不信仰は元来彼らの心にあったが、その時に出て来たのである。それは火のごとく会衆の中に燃え広がった。不信仰はいつもそのとおりである。直ちに人々は落胆して信仰の道から退き始めたのである。おお、いかにわれわれもかかるしき潮流、魂を害するこのけがれた毒気に襲われぬよう守る必要のあることであろうぞ! しかし私共は一般の空気が不信仰に満ちていることを覚悟していなければならない。何処もその通りで、真の信仰はきわめて稀である。されど私共が敵の所在を発見し、病気の原因を診断し得たならば、すでになかば勝利を得たのである。敵の所在もつきとめぬ不用意な心が、戦いに失敗し沮喪するはむしろ不思議ではない。
 私共の環境において、霊的なることに対する怠慢ほど恐ろしい感化を及ぼすことはない。霊的怠慢とは神を求めることを怠り、また或る将来の勝利の約束だけをもって眠るように誘う安逸の愛好である。『おこたる者はこゝろに慕へども得ることなし』(箴言十三章四節)。ジョン・ウェスレーはこれに関して次のごとく言っている。
 「いかにしてこの変化(すなわち心の全き変化)を待ち望むべきであるか。それは無関心無頓着なること、すなわち怠慢不活発なる態度ではなく、力を尽くしてしたがうこと、すべてのいましめを熱心に守り、目を覚まして篤く祈り、自己を棄てて日々十字架をとり、熱心な祈禱と告白をもってすべて神の規定を忠実に守りつつ待ち望むべきことである。もし何人なんぴとでもこの道よりほかの仕方においてこの恵みに達することを夢想し、また既にこれに達した者がそれを保ちうると夢想するならば、その人は自己の魂を欺くのである。」
 私共が単純なる信仰をもってそれを受けるということは真である。けれども神は、私共が神の定めたまえる仕方をもって精励しそれを求めるのでなければ、その信仰を与えたまわず、またそれを与える事を欲したまわない。この考えは、何故にこの恵みを受ける者がかく少ないかと問う人々を満足せしめる。どのくらい自分で恵みを求めつつある人があるかを問え、さらば満足な答えを得るであろう。

七、不信仰の悪しき心

 『兄弟よ、心せよ、恐らくは汝等なんぢらのうちける神を離れんとする不信仰のしき心をいだく者あらん』 ヘブル書三章十二節

 私は信仰の障害物を研究して、その最大なるものを最後まで残した。このほかのものはみな敵の前哨であったが、これは敵の本城であり要塞である。元来、神の賜物なる信仰は神に対する心の態度ではなく、魂の中に植え付けられた神的原則であるが、そのごとく不信仰もまた私共の天の父に対する単なる心の態度ではなく、悪しき原則である。
 さて、使徒パウロはヘブルの信者に書き送って『心せよ、恐らくは汝等のうちに信ぜざる者あらん』とは言わずして、『不信仰なる惡しき心を懷く者あらん』と言っている。すなわち信者である諸君、芥種からしだねのごとき信仰のその心にかれている諸君のうちに、この神的恩恵と並んで、不信仰というこの悪しき心の潜むことなきように心せよと言うのである。
 この不信仰なる悪しき心という内なる大敵につき注意深く考察すべき二つの事がある。
 第一、それは聖霊によってあらわされさらされねば、心が全く意識せぬ一物であるということである。聖霊の助けなしには、人の心をいかに深く探りまた解剖しても決してそれを発見し得るものではない。私共は万事についての自己の仕方を精細に吟味して、その傲慢、虚栄、自愛、貪欲、嫉妬、そのほかなお多くの悪を発見することはできるが、聖霊が私共の謙り驚く魂にそれを顕したもうまでは、決して不信仰をば、恐るべき罪、一つの力、一つの原則、一つの毒素、けがれたるもの、内に宿る罪、纏える罪として、見ることはなし得ぬのである。
 第二に、内なるこの悪は私共の意志より一層深いものであるということを注意せねばならない。神の愛したもう多くの子供らは自己の意志のみを見、自ら神に順うことを堅く決心していることを知り、実際何処にその困難があるかを見出すに苦しんでいる。彼らは全く神を信ずることを欲する。彼らの意志も願望も思想もすべて神に向かっている。しかるに悲しいかな、その欲する善はこれをなさず、欲せざる悪はこれをなすを見出す。たとえ自己、意志、自我なるそのものが真にキリストと共に十字架にけられ、葬られ、甦っていても、なお内にも外にも失敗がある。
 けれども私共が神を呼び求め神を待ち望むならば、必ず聖霊が大いなる照明のごとく臨み、『これを行ふは我にあらず、うちに宿る罪なり』(ローマ書七章二十節)と魂に示したもう時が来るのである。神をまつれ。魂がこの不信仰なる悪しき心、すなわち内に宿る罪は彼自身ではなく、彼の内に在りて彼をとりこにする一物であるというこのことを発見するときに、彼はすでになかば勝利の道に進んでいるのである。
 されば、ここに神を信じ続けることを妨げる大障害物がある。この『おほいなる山』が測るべからざる神の愛により『海に投げ入れられ』るまでは(黙示録八章八節)、信仰は実に苦戦する。されど救いの道は近くにある。主は私共に語り『もし芥種からしだね一粒ほどの信仰あらば、この山に「此處こゝより彼處かしこに移れ」と言ふとも移らん』(マタイ伝十七章二十節)と仰せられた。すなわち罪とけがれを清めるために開かれた一つの泉なる、キリストの貴き血を信ずる信仰さえつならば、私共のゼルバベルにています主の前に当たれる大山も平地となるのである。しかり、種子には山よりもさらに大いなる力があるのである! ハレルヤ!
 多くの熱心なる魂はその罪と失敗をすべて主に持ちきたるけれども、不信仰の悪しき心だけは持ち来ることをしない。しかしてそれを自ら取り扱い、自己の力で処置せんとする。悲しいかな、それは無益の業である。もし不信仰が罪であり、私共の纏える罪であるならば、これをキリストに持ち来るはいかにも必要である。
    『なんじが罪を持ちて来れ、
     汝が罪を持ちて来れ、
     イエスは汝をきよめたもう、
     汝が罪を持ちて来れ。』
 告白をもってその罪を持ち来れ、あなたが持つその少しの信仰を用い、キリストの貴き血にその罪を投げ入れよ。もし必要ならば再三それを繰り返せ。そしてあなたの胸から追いやられてしまうまで、あらゆるみちを試みよ。



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