第五章 信仰の欠乏
私共は前章において、信仰の最大の障碍は、私共の大敵悪魔が私共の心に植えつけた不信仰という内的原則であるということを見た。されば私共は本章において、この内部の悪より生ずる恐るべき結果、またその働きを見るのがよいであろう。
一、不信仰は恐怖を生ずる
『何故かく懼るゝや 爾曹何ぞ信なき乎』 マルコ伝四章四十節=元訳
私共は、かかる場合に主イエスは「汝等何ぞ勇なきや」と仰せられるはずと思うであろう。けれども主はそうではなく「何ぞ信仰なきや」と仰せられた。主は直ちに恐怖の根源なる不信仰を指摘したもうたのである。実に『懼には苦難あればなり』(ヨハネ第一書四章十八節)であるから、恐怖は敵の最も力ある激しい武器の一つである。神に対する奴隷的恐怖、死の恐怖、人に対する恐怖、苦難に対する恐怖、これらはみな心中にある不信仰の結ぶ実である。しかしてこの恐れを除くものはただ『全き愛』のみであり、信仰のみがよくその『全き愛』を心にもたらすのである。
私共が自らこの内心の恐怖を逐い出そうと努力してもそれは無益である。私共はそれを取り扱うに全く無力である。しかしこの恐怖はその根本また源泉から全く除かれねばならぬ故に、私共は信仰によって神によりて自らを励ますことを求め、心が神の愛の盈満をもって溢れ漲るまでに主イエスにしっかりと目を留めて仰がねばならない。この神の愛の盈満の前には、不信仰の果実なる私共の恐怖、疑惑は永久に逃げ去るのである。
二、不信仰は議論を生ずる
『ああ信仰うすき者よ、何ぞ……論ずる乎』 マタイ伝十六章八節=元訳
単純な信仰、また『信仰より出づる凡ての喜悅と平安』(ローマ書十五章十三節)を破壊するもので、肉の思いの議論よりはなはだしいものはない。議論というものはみなそうであるとは言われぬけれども、しばしば不信仰の悪しき心から起こるものである。主は「ああ愚かなる者よ、何ぞ論ずるや」とは仰せられなかった。しかり、彼らの問いに議論を生じたその原因は、常識が足らぬからではなく、信仰の欠乏からであった。議論は外部から来る悪魔の誘惑から起こるごとく、また内部の不信仰を通して起こるものである。マデレーのフレッチャーはこれに関して、「あなたは肉の理屈から目を閉じ、蛇の議論から耳を背けなければならない。それを聞いていれば際限はない。しかしてそれはあなたを、あなたが義とせられ聖められたところのその信仰の単純な道から引き出してしまうであろう」と言っている。
主イエスはかかる肉的な議論をば、最も明確に不信仰に帰したもうた。事実はこれである。まだ完全には不信仰の残物と肉の思いから救われ浄められていない魂は、自然に恐れをいだくごとく、また議論に傾く。すなわち信仰の単純さをもって自己を全く神に投げかけて頼ることをせず、むしろ何らかの口実、何か頼みになると見えるものに頼ろうとして、自然に議論を生ずるのである。おお、願わくは不信仰の議論を警戒せんことを!
三、不信仰は神の企画を破る
『彼らの不信仰によりて、其處にては多くの能力ある業を爲し給はざりき』 マタイ伝十三章五十八節
『彼處にては、何の能力ある業をも行ひ給ふこと能はず、……彼らの信仰なきを怪しみ給へり』 マルコ伝六章五、六節
神の恵みの御業のなされるのは、ある現実的な理由よりして、悉くとは言われないが、大いに神の子供らの信仰を条件とするのである。ジョン・ウェスレーは「神は信仰の祈りに答えてでなければ、何事もなしたまわない」と言っている。これは奥義で、私共には全く悟り得られぬことであるかも知れない。されどいずれにしても、神が私共の謙り信じて招くを求めたもうことは、神をして私共に近づかしめ、人の子らに愛情ある関心を持たしめ奉るのである。神は認識されまた求められることを好みたもう。愛にとりては、その与える祝福恩恵に対して、求めも認めも感謝もされないということほど失望のことはない。
さればその摂理と恵みのすべての豊かさを惜しみなく私共に与えたもう神が、それに対して信頼と愛情ある認識を私共に求めたもうは、いかにも幸いなる自然である。私共が神の愛と能力を慕う心に目覚め、熱心な期待と待望をもって神の奇蹟的なる恵みの御業を求め奉ることはいかにも必要である。神は善で在す。さればその善を見奉るべく期待し奉れ。神は愛で在す。さればつねに彼に在りて喜べ。神は全能で在す。されば彼のなし得たもう何事をも怪しとするな。神は信実で在す。されば彼の約束の確かな成就を期待し、また信ぜよ。不思議を行いたもう神が、あたかも黙して語りたまわないかのごとく、不活発で、働きたまわぬごとくであるのは何故か。神をかくあらしめ奉るその責任はただ、心の中の不信仰に帰すべきである。
四、不信仰は心に面帕をかける
『面帕は彼らの心のうへに置かれたり』 コリント後書三章十五節
魂にも肉体におけるごとく種々の感覚機能があって、それによって霊的事実を悟る。神の言葉は魂の視覚、聴覚、触覚、味覚などについて語っている。ヘブル書の記者は『成人』、すなわち全き人は、善悪を識別すべくその感覚機能の鋭くせられた者であると定義を下している(五章十四節)。されども内心の悪しき原則であるところの不信仰は、心に面帕をかけてその霊的機能を鈍らせ、私共をして神に関し永遠に関する事物を感じ、見、聴き、また味わうことをできなくさせる。言葉を換えて言えば、深い霊的恵みを自己に当て嵌めて把握する能力を麻痺せしめるのである。
さてここに記憶すべきは、困難の原因であるところの不信仰というものは疑惑と同義語ではないということである。すなわち何らの疑惑をもたぬ時にも、領有し得ざらしめるところの不信仰に満ちている場合はあり得る。疑惑は積極的のこと、不信仰は消極的の悪である。空手(すなわち疑いを持たぬ心)で静座し、何らかの恵みの到来を待つとも、その待望は無益である。私共は立って貴き約束を捉えることをなすべきである。この領有する恵みを欠くのが不信仰であり、これが心に掛けられる面帕である。その不信仰こそ現実の一物、現実の悪、悪魔の所作である。
さてこの面帕の取り去られるのは、私共が主に帰するときである(コリント後書三章十六節)。その時私共の霊的感覚機能が鋭敏になり、霊的事物、霊的感化に感じやすくなる。かくて私共は主の恵み深きを味わい知り(ペテロ前書二章三節)、神の言葉の燃ゆる柴より出ずる声を聞き(出エジプト記三章四節)、信仰によって潔くされた心をもって、自然界においても、摂理の中にも、儀式の中にも、神の民の中にも、その御言のうちにも神を見奉り(マタイ伝五章八節)、私共と偕に在す神の臨在を感じ(詩篇十六篇八節)、その御衣の没薬、蘆薈、肉桂の香りを嗅ぐ(詩篇四十五篇八節)のである。かく面帕が除かれてこそ、私共は全く主イエスを信じうる次第である。
五、不信仰は能力を奪う
『「われらは何故に逐い出し得ざりしか」……「なんぢら信仰うすき故なり」』 マタイ伝十七章十九、二十節
不信仰は私共より霊的な喜びを奪い、心を覆う面帕のごとく働いて、天的視覚を晦まし、天的聴覚を鈍くするばかりでなく、私共が神に対し人に対して有つところの力を奪う。私共は跛者、不具者、盲者を取り扱う何の力も有たない。けれどもペンテコステ時代の初期において、ペテロはかの跛者に向かい、『我らを見よ……我に有るものを汝に與ふ』(使徒行伝三章四、六節)と言うことが出来た。さて彼が有っていたそのものは何であったであろうか。それが或る能力や敬虔の蓄えでなかったことは最も確かである(十二節)。否、彼の言えるごとく、それはイエスの御名を信ずる信仰であった(十六節)。彼がこの跛者に与え得たものもこの御名を信ずる信仰であり、人々の前においてこの人にかかる全癒を得させたのも、この御名を信ずる信仰であった。
不信仰は、主イエスの御名を信ずる信仰というこの貴重なるものを私共から奪い去り、その結果私共は、神が不可能事をなしたもうことを期待し得ぬようになるのである。私共は試みる、努力する、宣べ伝える、祈る、また苦難をも忍ぶ。されど不信仰のこの悪が除かれねば、リバイバルは来らず、罪人は覚醒せず、回心せず、神は崇められない。おお、願わくは、私共この微妙なる敵を看破し得んことを。しかしてそれが永久に除かれるまでは決して休むことなからんことを!
六、不信仰は神より離れしめる
『活ける神を離れんとする不信仰の惡しき心』 ヘブル書三章十二節
人はみな時々刻々絶対に、その生命も存在も創造主に頼って保たれているものであるにもかかわらず、その神を背き去って、これを尋ね求めず、これをその思想に置くことすら厭うのがその自然である。これは実に矛盾したことながら、それを不思議と思う者さえ稀であるとは! しかしてこの驚くべき状態には必ずその原因がなければならない。それは悪魔が人の性質の中に一つの毒素を植え付けたためで、その毒素の最も適切な名は「不信仰」であろう。
多くの人に何の意味もないことのように思われることは私も承知しているが、この道徳的また霊的毒素の本質は人をして神より離れしめるというところにある。私共がすでに述べたごとく、この不信仰の毒から種々の結果が生ずるけれども、その最も恐るべきことは、それが私共をして始終本能的に慈愛深き私共の天父より背き去らしめるというところにある。しかし私共は、今それが主ご自身の子供にいかに影響するかを考えてみたいのである。
神の意図は私共が生活の細大とも一切のことを神に依り頼み、仔細の義務また享楽においてもすべての道に神と偕に歩み、神と偕に語ることである。されど悲しいかな、私共神の子供たる者も、その生涯の主要なる道については喜んで神を認め、比較的肝要な大事には神の指図を求め、大問題は神に司らせ奉るけれども、小さい事には活ける神より離れて自己の理解に依り頼みやすい。これはその衷にある不信仰の残物から来るのである。この不信仰の残物とは、活ける神が私共の生活にかかる細大の何事についても私共のために御意を用いたもう天の父でいますことを「信ずる心の鈍き」がそれである。
いずれの方面にも堕落者がある。愛の冷えた者もあれば、かつてはよく走ったがいまは一向動かない者もある。或る者はクリスチャン・サイエンスの惑いに迷い込んでいる。彼らは起こる自然のことは必ず神の業であるという悪魔の虚偽を容易に信ずる。或る者は俗化や唯物主義の渦に引き込まれ、或る者は意気阻喪し、失望に満たされている。しかし堕落者はいずれの場合でもみな活ける神より離れ落ちている。すなわち神の能力、神の愛、神の信実、神の恵みから離れている。彼らには神はもはや彼らの内にあって彼らを恵もうと待ちたもう活ける神ではなく、彼らを遠く離れているお方のごとく見えるのである。しかして彼らがかくなりゆくその原因は、彼らの知らず認めずそれありと疑うこともしない「不信仰の悪しき心」という一物である。おお願わくはそれを看破り、言い表し、投げ棄て、永久に心に入ることを得ざらしめんことを!
七、不信仰は定罪を来らす
『信ぜぬ者は既に審かれたり。……信ぜざりし故なり』 ヨハネ伝三章十八節
人の心と生活にかくも恐るべき結果を生ずるこの不信仰の罪が、ついに定罪を来らすとは怪しむべきことであろうか。神は私共がその性質において悪であるために、愆と罪の中に死んでいるために、私共を罪に定め給わない。『その審判は是なり。……人、光よりも暗黒を愛したり』(十九節)である。
神は自由に受けられる充分な救いの道を備えたもうた。しかして神はそれが全き愛で備えられた救いの道、力ある救いの道、慥かな救いの道、私共自身とほかの人々に対する祝福に満ちた救いの道であることを示し、またすべてにまさって、それがご性質も御名も愛でありたもう三一の神によって備えられ、獲得され、執行されることを啓示したもうた。しかるに私共の側において、受けられるのに求めることをせず、見出し得るのに尋ねることをせず、なお不信仰に留まって己が道を固持し、『神……言ひたまひしや』(創世記三章一節)と囁く誘惑者に耳を傾け、すべてにまさって、カルバリの大犠牲の効力に対して目を閉じ、怠慢と傲慢をもって心から自己の悪しき不信仰の獄屋に深く沈み込むならば、定罪、すなわち暗黒なる絶望的定罪が私共の心と霊の上に留まり、もはや恵まれることを不可能ならしめるに至るのは、何の不思議でも、怪しむべきことでもないのである。
おお、願わくは、私共も『われ信ず、信仰なき我を助け給へ』(マルコ伝九章二十四節)と叫ばんことを! しかして私共の最も頌むべき贖い主の宝血によって、不信仰と肉の思いの残物がすべて永久に亡ぼされるまで、決して休まざらんことを! アーメン!
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