A. パゼット・ウィルクス 著
大江 邦治 訳
『信 仰 の 動 力』
バックストン記念霊交会発行

"The Dynamic of Faith" By A. Paget Wilkes
  Japan Evangelistic Band



緒  言



 われらは実に厳かな時代に生活している。いまや不法は増大し、多くの人の愛情は冷ややかになり、また多くの者は堕落しつつある。教会内に超自然的な能力の欠けているのを見る多くの教会員は、主の仰せられた『僞キリスト・僞預言者おこりて大なる徵(しるし)と不思議とを現はし、爲し得べくば選民をも惑はさんと爲る』(マタイ伝二十四章二十四節)との御言葉に注意せず、奇蹟的発現は何でも必ず神より来ると想像する。彼らは各所に、疑う余地もない確証をもってかかる発現を見る。されど悲しいかな、彼らは光の使いのごとく変貌する者の存在を否定するがゆえに、速やかに欺かれて、クリスチャン・サイエンス、降神術、接神術などの悪魔来の会に無思慮に集まる。まことに『彼らは眞理(まこと)を愛する愛を受けず……この故に神は、彼らが虛僞(いつはり)を信ぜんために惑(まどひ)をその中に働かせ給ふ』(テサロニケ後書二章十、十一節)との、恐るべき御言葉の成就する時代の近づきつつあるように見える。
 真理を受ける者、熱心な魂は、いずこにおいても見られる信者の微温さ、無頓着さ、また俗化と儀式主義とを憂えるとともにこれらのことを見また嘆く。彼らは声高に叫ぶ、「かかる情勢を救治する道はないであろうか、なにゆえに神の教会は昔日の能力を欠いているか、なにゆえに神を畏れる畏れは地を払ったか、回心しない大衆の中に神を求める者のないのは何故であるか、神の民にの中に、人を神に立ち帰らしめる力の乏しいのは何故であるか」と。これらは主の真の弟子たる者各々にとってまことに死活的問題である。しかして本書の各章は、幾分かこれが解決の道を提示し、主イエスの御名、御言葉および御血を信ずる、勝利する信仰の必要とその幸いなことを開示しようとする次第である。
  イエスの御名を信じうる
  その人に万事は悉く可能である
 或る人々は本書を通読して、本書には、信仰を働かすことについて、われら自身の心の作用をあまり多く強調していることを感じ、われらはわれらの信仰、すなわち主の恩恵の領有よりも主ご自身に関心を有つ者であるから、われらの一層大いなる必要は主イエス御自身を仰ぐことであると思うであろう。このことは私もよく承知しているが、久しき以前、かの聖徒マデレーのフレッチャーが、キリストを信ずるわれらの信仰を最も重要であるとして、あまりに強調しすぎると他より思われ、異議が起こったその時、彼が巧みに答えたところは「われらがいつも食物の栄養ある性質を語るよりも、実際に何時いかなる分量の飲食をなす必要があるということを強調しても、誰もそれを聞いて、栄養を与えるのは食物ではないと強調しているのだと想像するほどに愚かではあるまい」という意味の言葉であった。
 キリストについてもそのとおりである。そもそもキリストはすべてのすべてで在す、彼の救いは完全である。けれどもわれらが信仰によってわれらの心に彼を信じ、領有し、養われるのでなければわれらの益とならない。さればわれらは、領有的信仰の道と、その必要を繰り返して強調力説することを要するのである。
 深い欠乏を感じ苦しんでいる信者に向かって、或る人々に「第二の恵み」或いは「個人的ペンテコステ」として知られているところのものを得るように勧めることについて、「そんな第二の経験などと言うべきものはない、キリスト信者の生活の秘訣はただ『イエスを仰ぎ見る』ことに存するのみである」という異論を聞いた。この終わりの方の言葉は全く同意であるが、すぐに問いたいと思うことは、「あなたは果たしてイエスを仰ぎ見続け得るか」である。何となればこれがすなわち聖潔であり、この仰ぎ見続けることの恵まれた可能力が、聖化であるからである。しかしてまたこの可能力が永遠の此方における最困難事である。本書の書かれたのはこの可能力をいかにして得べきかを学ぶためである。願わくは、神がその御栄光のためにこの書を用いたまわんことを! アーメン。



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