第三章  信仰の発達



 われらはすでに信仰の性質と信仰の道を学んだから、この章においては昔の清教徒師傅たちが信仰の「出発」と称えた、そのことについて考えたいと思う。われらの心がややもすれば欺かれて怠慢不活発になる理由は、能動的な信仰が、魂のためにいかに多くのことをなし得るものであるかを充分に悟らぬゆえである。

一、信仰は聞くより来る

 『信仰は聞くにより』 ローマ書十章十七節

 もし真の活ける信仰が、贖われた人々の生活と健康と進歩のため、絶対に必要だとするならば、真っ先に起きる肝要な問題は、「信仰はいかにして心の中に発生するか」ということである。単にそれが神の賜物であると知っただけでは充分でない。さてこの問いに対して神の聖言は最有力に答えて「信仰は聞くことによる」と記されている。ただし聞くと言っても、それは雄弁な学識ある神学者の言葉を聞くことでも、また霊的真理を宣伝する霊的な人々の声を聞くことでもなく、神の御声を聞くことである。しかしてまた、その『聞くはキリストの言による』のである。
 主はその御言葉を通してわれらに語ることを慕い求め、またそれを俟ち望みたもう。ただし主の御言葉と主の御声との間にはきわめて大いなる相違がある。聖言が聖霊によって包まれまた輝かされてわれらに来るのが神の御声である。われらがその御声を聞くとき、すなわち聖霊が記された文字を通して活ける御言葉を語りたもう時、直ちに信仰が現れてくるのである。さればわれらの静まった魂の中に聖霊が語りたもうまで、聖言の上に目を留め、謙りと期待をもって主を待ち望むことに意を用いたい。さすれば直ちにわれらの心の中に活ける信仰が起こって、その驚くべき働きをなし始めるのである。

二、信仰は明瞭、的確なるものである

 『わが汝に何を爲さんことを望むか……わが師よ、見えんことなり……ゆけ、汝の信仰なんぢを救へり』 マルコ伝十章五十一、五十二節

 真の信仰は決して漠然としたものではない。それは決して一般的概念で満足し得ない。主はわれらがちょうどその要するものを、知り、言い、しかして告白することを求めたもう。
 われらの要するものが救いであるか、さらば真の信仰は直ちに『われ救はれん爲に何をなすべきか』(使徒十六章三十節)と叫ぶ。それが『衷に宿る罪』(ロマ書七章二十節)から全く心の浄められることであるか、それは直ちに『わがために淸き心をつくりたまへ』(詩篇五十一篇十節)、『主よ、御意ならば我を潔くなし給ふを得ん』(ルカ五章十二節)と嘆願する。もし主がわれらに『わが汝に何を爲さんことを望むか』と問いたまわば信仰は『わが師よ、見えんことなり』と答え、神がわれらに『汝わが汝になすべきことを求めよ』と仰せられれば、真の信仰は躊躇せずして『なんぢの靈の二の分の我にをらんことを願ふ』と答えるのである(列王紀略下二章九節)。
 真の信仰のあるところ、霊魂はその願うことにも、信ずることにも、明瞭、的確、単純で、何か「或る恵み」というようなことで満足し得ない。聖霊がわれらに犯罪を自覚せしめたもう時、信仰は救い主を尋ね、彼がわれらに原罪を自覚せしめたもう時、信仰は聖め主として主イエスを求める。信仰はちょうどいかなる嘆願をなすべきかを知っている。してわれらは如何。われらはその要するところ、求めるところにおいて単純率直であり、謙遜と信仰をもって的確であろうか。

三、信仰は愛によって働く

 『愛に由りてはたらく信仰』 ガラテア書五章六節

 信仰にも、死と来るべき審判、或いは恐るべき罪の結果を怖れる恐怖によって、また魂を抑制される恐れに由って働く信仰もある。かかる信仰もその場合において間違いではないが、有効な信仰は愛によって働くそれである。愛に由って働く信仰は、神の愛に根ざし、神の愛に基づくから、それが心を砕きまた融かす力を持つのは当然であり、神の快き憐憫と恵みに対して、優しくまた恐れなき信任を有つゆえに、神に祈って勝利を得るのも当然である。かかる信仰は神の赦し、聖め、また交わりたもう御愛を捉える。
 神の愛を信ずる真の信仰は、主がわれを愛しわがために御自身を与えたもうたという真理を単に明らかに理解することばかりでなく、その深い快美な納得である。真理の明らかな理解は単にわれらの心意の働きであり、深い納得すなわち確信は聖霊の内部的御業である。光明と光と熱心また永遠の事物に対する厳かな実感をもって心を輝かし、潔め、活気づけ、燃やすところの魂の衷なる深い確信、これこそ『聖徒が一たび傳へられたる信仰』(ユダ書三節)、『愛に由りてはたらく信仰』(ガラテア書五章六節)である。
 それゆえ、信仰は愛を信じ、われらを愛に導くということもまた真である。信仰は愛に使える侍女で、そのつとめはわれらに愛を供事し、われらが聖徒にも罪人にも、富める人にも貧しき人にも、学者にも無学者にも、しかり、すべての人の子らに向かい愛をもって出で行き得るよう、われらの魂に祝福を携え下ることである。およそ宗教においてこれより高い何ものもない。
 愛は結婚式の晴れ着であり、これをわれらに装わしめるものは信仰である。愛はまた天の火で、これを人心の祭壇に運び来るものは信仰である。かかる救いのために神を頌めよ! 信仰は愛に由って働く。信仰と愛とはともに働き、また働き交わす。信仰はわれらの魂に愛をもたらす。しかしてまた愛はさらに大いなることを信ずべくわれらの心を鼓舞するのである。

四、信仰は魂のうちに神の賜物を熾んにする

 『なんぢに在る虛僞(いつはり)なき信仰……この故に……汝の内に得たる神の賜物をますます熾んにせんことを勸む』 テモテ後書一章五、六節

 われらが神の与えたまえるこの熱し輝く神の恵みを熾んにし、活動的に燃える炎とならしめ得るは、ただ衷に造られたこの確信が魂の中にあるときにのみできるのである。『神の我らに賜ひたるは……能力(ちから)と愛と謹愼(つゝしみ)の靈』(七節)であり、かかる天の賜物をふたたび熾んならしめるものは信仰である。ジョン・ウェスレーは「私は愛に満ちた心、涙に満ちた目、議論に満ちた口をもって群集の中に歩み下った」と言っている。すなわち信仰が侍女のごとくつねに彼の魂に付き添って、なにゆえに神が彼を祝したもうべきかの聖き理由と神的議論を供給したのである。不信仰は神がわれを祝したもうことのできない理由、祝するを欲したまわない理由、また祝したまわない理由を無数にもつ。けれども信仰はなにゆえに神がわれさえも祝し、なお将来も祝し、また祝し得たもうかの理由をもって満ちているのである。
 神の賜物は怖れの霊ではない。信仰と恐怖は南北両極のごとく遠く相離れている。外なる大敵悪魔と、内なる肉の心が(それが亡ぼされるまでは)ともに相一致してこの恐ろしい怖れの霊をわれらに押しつけるとき、信仰はこの敵を認めてこれを防ぎ、敵の持ち来る不信仰と疑惑とを消散し、愛と能力と慎みの霊を焔のごとく熾んならしめるのである。ハレルヤ! 然れどそれは信仰なしにわれらのなし得るところではない。この場合、感激も感情も、道理も論理もみな役に立たない。われらの神の愛の御霊を焔のごとく熾んならしめるためにいずれの点にも役立つのは、ただ衷に造られた神的信仰のみである。
 これはいかにも大切な事である。天的愛に成長しまた満ち溢れることはいかにも必要である! 「聖潔」はただ単に悪を行なわぬという消極的なことではない。否、むしろ新しい愛情、すなわちつねに拡大し満ち溢れ増大し、完全にまで成長する、潔き心の愛を働かす、積極的な独特の能力である。
 しかしてこの賜物を熾んにし、われらをしてこれをますます増大し溢れるまでに至らしめるには、信仰が必要である。もしわれらがこの点に失敗するならば、われらは次第に冷淡になり、失敗し、死に至るであろう。ローマ書第十四、十五章において、聖パウロは、われらの互いに他人の弱さを忍びその重荷を負うべきことを勧めたあと、希望の神が、われらをして弱い取り扱いにくい人々に対して希望に満ち溢れしめたもうように願い、その秘訣を『信仰より出づる凡ての喜悅(よろこび)と平安とを汝らに滿しめ』という数語に示している(十五章十三節)。
 しかり、われらに平和と喜びをもたらすところの信仰は、また弱き乏しき他人のためにも豊富な希望を持たしめる。すなわちほかの人々に関して、希望に満ちるようわれらの心を動かすものは信仰である。われらの信仰より出ずる平和と喜びがわれらに何をなし、いかにわれらの生活を変わらしめたかを見るならば、われらは必ず最も望みなき人々のためにも希望を持つに至るのである。

五、信仰は証をもたらす

 『古への人は之(信仰)によりて證せられたり』 ヘブル書十一章二節

 魂の生命において「内心の証」ほど大切なものはない。エプウォルスの牧師であったジョン・ウェスレーの父は、その死に臨んで「内心の証、ジョンよ、内心の証こそはキリスト教の証拠であるぞ」と叫んだ。
 コーンウォールの農夫にして聖徒なるウィリアム・カルボッソーは「称義と成聖のいずれに関してもこの幸いなる御霊の証は、私がかねてよりますますその必要を感ずるところのものである。私としては、およそ宗教を信ずると言い表す者が、これなしに何の進歩もなし得るとは思えない。私は宗教と言った。しかし彼が自分の内に証を有つほどに信ずるまでは、彼が真の宗教を有つ者と見なされることができようか」と言っている。
 貴婦人マクスウェルもほとんど同時代に書いたものに「私は懼れを除く全き愛を日々味わわされております。……私の最も強く感じるところは、私が罪を犯さぬように保たれておりまた私の魂が多少なりとも精力旺盛なのは、主イエスの御血を信じる時々刻々の信仰に由ったのみであるということであります。私が神の純粋なる御愛を味わうまでは、単純な信仰の性質またその言い難き価値をかくまでに知りませんでした。……神は私に、すべての慰めのない時にも成聖のために主イエスに対して強く信仰を働かすことを得せしめたまいました。これが甘美な恵みを私の魂全体に散布し、それとともに純潔の強い証をもたらしました。……しばしば成聖の私の証は不動の盤石に繋いだ錨綱のごとく強く、真昼に輝く太陽のごとく明瞭であります」と言っている。実にかかる証をもたらすものは信仰である。「信ずる者はその衷にこの証をもつ」とあるとおりである。しかし「その衷にこの証をもつ者は信ずる」ではない。
 さてかかる証をもつことはわれらに対する神の御旨であり、われらの特権であり、かく信ずる者に証をなしたもうことは聖霊の喜びとしたもうところである。古の聖徒らはこれをもっていた。アベルは正しいと証しせられた。またその供え物の受け納れられたことを証しせられた。エノクも神に喜ばれる者であるとの内心の証をもっており、アブラハム、ダビデ、預言者ら、古の長老らもまたこれを持っていた。さればさらに光明の輝く今の新約時代にあるわれらがこれを有たずしてあるべきだろうか。しかり、われらももしただ堅く信じ、努めて聖顔を求めるならば、必ずこの証が与えられるのである。

六、信仰は神を喜ばす

 『エノクは……神に喜ばるることを證せられたり。信仰なくしては神に悅ばるること能はず』 ヘブル書十一章五、六節

 神を喜ばし奉るために必要なこととして、神がその御言葉によって示したもうところは僅かの、しかも驚くべく容易なことである。しかしてその第一にして至要なることは信仰である。信仰について記されている驚くべきこと、そのうち最も甘美で最も慰めとなることは、信仰が神を喜ばし奉るということである。
 しかしてこの哲理も理解しがたいことではない。何故かならば、人がいかなる義務を果たしても、いかなる犠牲を払っても、いかに克己しても、それが聖父に対する愛情ある信任から出るのでなかったならば、これによって、われらを愛したもう聖父を喜ばし奉ることはできないと考えるのは合理的ではなかろうか。この愛情ある信任は、かくも優しくわれらを愛したもう御方、かく同情に満ちた御心を持ちたもう御方にとって、何事にもまさって最も甘美でなければならない。
 われらが意識してでも、無意識にでも、持つところの一切の疑い、恐怖、不信が少しも残らずわれらの胸中より駆逐され終わるとき、それは神を喜ばし奉るのである。われらが疑わしいことをすべて神に有利に解するとき、必要ならばわれら自身も、われらの事情も、状態も、すべてのことを虚偽として神を永久に真とするその時、神を喜ばせ奉る。しかして信仰はかくなすのである。たとえ見えるところの情勢が全然反対であっても、信仰は神をどこまでも真なる御方、どこまでも力ある御方、どこまでも忠実なる御方、どこまでも愛深き御方として固執して動かない。かかる犠牲を神はよく喜びたもうのである。
 ローレンス兄弟が「おお信仰! 信仰!! 信仰は人の霊を照らし、それを導いてその創造主を知るに至らしめる驚くべき徳ぞ。おおことごとく愛らしき徳よ。しかもこれを知る者少なく、これを実行する者さらに少なき徳よ。されどそれがひとたび知られるとき、それは言い難き祝福に満ちている」と雄弁に讃歌を叫び出しているのもまことにむべなるかなである。

七、信仰は大いに成長する

 『汝等の信仰大いに成長せり』 テサロニケ後書一章三節(英訳)

 ここに言うところの成長は恵みに成長することではなく、信仰の成長である。パウロはテサロニケ前書において、彼らの信仰の足らぬところを補わんことを切に願うと言っている(テサロニケ前書三章十節)。テモテがテサロニケに遣わされたのは、彼らがかの信じつつある種類の信者であるや否やを見るためであった。すなわちパウロは彼らが信じつつあることを知らんことを欲した。その点、満足でなかったかと言えば、満足であったのであるが、彼はなお彼らの信じつつある信仰が、イエス・キリストにおける全き確信であることを望んでいたのに、その点において欠けるところがあった。たぶんそれは的確なる点か、進撃的なる点かにおいてであったと思われる。パウロは彼らの信仰が謙遜な聖き不撓不屈なる愛情深き心の状態であること、すなわちこれまでよりも一層深い、一層幸いな、一層安らかな、一層称讃に値するものであること、またすべてにまさって、これまでよりは一層断固たる堅い信仰を有つことを切望したのである。
 いま一度テサロニケ前書第三章二〜十節を読まれよ。パウロは言う、『我らの兄弟テモテを汝らに遣せり。これは汝らを堅うし、また信仰につきて勸め、……なんぢらの信仰を知らんとて人を遣せり。然るに今テモテ汝らより歸りて、汝らの信仰と愛とにつきて喜ばしき音信(おとづれ)を聞かせ、……われらは……汝らの信仰によりて慰安(なぐさめ)を得たり。……我らは夜晝祈りて、汝らの顏を見んことと、汝らの信仰の足らぬ所を補はんことを切に願ふ』と。
 結局、パウロはテモテを遣わすにあたり、「往きてテサロニケの信者が信じつつある信者か、信じつつあらざる信者かを見て知らせよ。わが知らんとするところは、彼らが互いに愛し、証しし、働き、施し、喜びつつあるやなどということではない。わが知らんと欲するのは、彼らが活動的に信じつつあるか否かである。もし彼らが信じつつあるならば、彼らが働きもし、喜びもし、施しもし、証もし、互いに相愛するは無論であるから」と言ったのである。
 悪魔のわれらを欺くすべての惑わしの中で、恐らく最大なものは、われらが何か無意識的発達によって次第に聖くなり、謙遜になり、イエスに似る者となると思わせることである。実際これよりもはなはだしく悪い謬想はない。古の或る著者の言葉に、「私は信仰と希望がわが喜びを補給し、また支持せねばならぬことを悟る。…信仰と希望というこれら大切なる恵みの助けによって、魂はつねに天来の芳香をもって満たされ、内住の罪のすべての切り株や、聖父の植えたまわざるすべてのものの根も枝も、みな焼き尽くす火が天より持ち来たらされる。これによってわが魂は宛ら黄金が炉で潔められるごとく、その能力と才能において潔められる」とある。
 信仰の成長は、われらが得んために走りつつ(コリント前書九章二十四節)、褒美を得んと進みつつ(ピリピ書三章十四節)完全に進む(ヘブル書六章二節)秘訣である。願わくは、われらもかく神の御言に養われ、われらの贖い主のすべての御栄光を深く思いめぐらし、われらにつきて信仰大いに成長せりと言われるに至らんことである。



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