第十二章 キリストの信仰



 『我はキリストと偕に十字架につけられたり、されど我は生く、尚我にあらず、キリスト我にありて生き給ふなり、されど我今肉に在りて生くるは、我を愛し給ひ、且つ我が為に己自らを付(わた)し給ひし神の子の信仰に在りて生くるなり』 ガラテア書二章二十節(新契約聖書訳による)

 われらの研究はいよいよ終わりに近づき、最も肝要なかつ最も幸いな学課に到達した。使徒パウロはその書簡において、つねに内住のキリストの奥義とその能力とをわれらに提示しているが、内住のキリストは
 一、信ずる者の意識に啓示されるキリスト   ガラテア書一章十六節
 二、衷に形成り、他人に顕れるキリスト    ガラテア書四章十九節
 三、愛の源泉としてのキリスト        エペソ書三章十七節
 四、満足と喜悦の原因としてのキリスト    黙示録三章二十節
 五、能力の秘訣としてのキリスト       コリント後書三章十七節
 六、栄光の望みとしてのキリスト       コロサイ書一章二十七節
しかして最後に恐らく最も肝要なるは
 七、信仰の本源としてのキリスト       ガラテア書二章二十節
で、私が本章において語らんとするところである。
 パウロはここに、彼はキリストと偕に十字架に釘づけられたので、今は内住のキリストを通して生きていると語り、それに付け加えて、彼が有つところの信仰は神の御子の信仰であるという最も光輝ある陳述をなしている。換言すれば、彼の心に住みたもう主イエスが御自身の信仰を彼の中に再現したもう。それはパウロの信仰ではなく、パウロの心に住みたもうキリストの信仰であるというのである。かつて主イエスはその弟子等に信仰の道を教えんとて、「神の信仰を有て」(マルコ伝十一章二十二節英訳)と命じたもうた。そのとき主はもし彼らが「ただ無花果の樹に言う」ならば、その言えるごとくなるべきことを告げ、「神の信仰を有て」と付け加えたもうた。神の信仰とは何を意味するかと言えば、それは神が御自身の御言を信じたもうその信仰のほかではあり得ない。神が「光あれ」と仰せられて「光ありき」であった。そのとき神は御自身の御言の効力を信じたもうたのである。しかしてこの信仰がすなわち弟子等の有つべく命ぜられたところのものである。
 ギリシャ語の言葉遣いは大いに注意を要する。もしこの句が単に「神を信ぜよ」または「神に信仰を置け」ということであったならば、その意味を表すに、口語体のギリシャ語で少なくとも三、四の言い方があるけれども、ここではその何れをも用いたまわずして「神の信仰を有て」と仰せられた。これは特殊のまた強い言い表し方である。
 主イエスの御伝記を研究して見れば、聖父に対して信仰を有ちたもうたという、ちょうどその言葉は決して用いられていないが、主イエスが最も卑しき聖徒のごとくに信仰の生活をなしたもうたことはわれらの深く感ずるところである。十字架にかかりたもうた時、彼を罵る者どもは『彼は神に依り賴めり、神……すくひ給ふべし』(マタイ伝二十七章四十三節)と言った。ヘブル書の記者は彼の人間性の証明として四つの引照をとり、その一つに『われ彼に依り賴まん』(二章十三節)という句を挙げているが、メシアに関する詩篇には彼の父なる神に対する信仰と信任を表す句で満ちている。主ご自身その兄弟と呼ぶ人々の完全なる例また型として、信仰によって生き歩み、勝ちまた事えたもうたことは彼の子供らに最大の慰めまた励ましである。しかしてなお一層驚くべくまた幸いなことは、主イエスが御自身の奇蹟を行うところの信仰をわれらの衷に再現するために、聖霊に由りて信者の心に住むことを得、かくすることを欲しまたなしたもうということである。
 さればこの章において、今一度我らの大模範に振り向き、神の御子の信仰を見、彼が人の子として生活したもうたその生涯を見たいと思う。われらはただ主を礼拝し、崇拝し、待ち望み得るばかりでなく、パウロのごとく『我はキリストと偕に十字架に釘けられたり、されど我は生く、尚我にあらず、キリスト我にありて生き給ふなり、されど今肉にありて生くるは、我を愛し我が為に己自らを付し給ひし神の子の信仰によりて生くるなり』と言うことが出来るのである。

一、聖父の要求に対する信仰

 日本語で信ずる事を言い顕すために用いられる種々な語は非常に暗示に富んでいる。すなわち
 (一)信仰──信じて当てにすること
 (二)信用──信じ用いること
 (三)信任──信じて明け渡すこと
 (四)信頼──信じて依り頼むこと
 私が今主イエスに関して語ろうとするのは、この第三である。もちろん敢えて降服の意味で言うことは出来ないが、主イエスの信仰は愛をもってその聖父に一切を献げた信仰であったと言ってもよいであろう。信仰なしには誰も委ねきることも、明け渡すこともなし得るものではない。われらの信仰が深く神の愛に根ざすのでなければ、喜んで御旨に明け渡すことはできない。聖父の御要求に対して絶対に服したもうことは主の御喜びであるとともに至上の御目的であった。たとえそれが荊棘の道を行かしめ、苦難悲痛の場に導くとも、主は喜んで従い行きたもうた。それは主の信仰が聖父なる神の御愛に根ざしていたからである。日本語で「信任する」という語は「我は信じまかせる」ということで、幸いにも主イエスが聖父の御要求に対し委ねきりたもうことを暗示し、また驚くべきその特質を示している。
 キリストがわれらの心に住みたもうことが深くなれば深くなるほどに、われらは神の御旨をわれらの分として受けることを得、チャールズ・フィニーが「神における愛情ある信任」と言ったものをもって神の聖なる御要求に服し順うことの為し易きを見出すのである。
 キリストにとってはそれが絶対でありたもうた。この世の殃(わざわい)、しかり多分の現代教会の殃は、聖なる神の義しくかつ愛による御要求に対する認識と信任の欠乏である。キリストにとりて神の御要求は最上のことであるばかりでなく、最も美わしいことであり、争う由なきほどに道理至極のことであったのである。それは公平完全のほかでなかった。信仰がかくのごとく神の御要求を見たから、それに順うことは自然であったのである。
 おお、願わくはわれらの神の御要求に対し頭を垂れて服し得んことを、もしキリストが衷に在すならばそれをなすであろう。しかり、心の全き喜びをもってそれをなすであろう。

二、聖父の途に対する信仰

 神の御子の地上の御生活において最も驚くべきことの一つは祈禱のその中に占める地位である。
 たしかに聖父と等しくありたもうた御子が祈りたもうこと、すなわち御自身のものなるそれを求めたもうことの必要はなかったか。否、われらと異なり、祈禱の奥義を知り抜いていたもう主は常に御膝を屈して祈りたもうた。すなわち常に淋しき所を求め、常に聖父の与えることを愛したもうところのものを求め、常に約束された賜物を予期して感謝讃美し、常に実行において聖父がその恩恵を与えたもうその途を喜び受けたもうたのである。
 もし主がわれらの衷に住みたもうならば、神の御子の信仰はまたその同じ事を行なわぬであろうか。主イエスの御内住が一層意識的になればなるほど、主は一層完全にわれらの心を支配したまい、われらは即時の熱心な信仰の祈禱をば、魂に恩恵を受けしめるために神の定めたもうた途として、一層単純にまた確信をもって用いるに至るであろう。
 かくて一層の祈禱の必要、その効力、その喜びを信ずるに至ることであろう。

三、聖父の能力に対する信仰

 主イエスが聖父に依りすがっていたもうた事はその聖なる御特質中の恐らく最も驚異すべき点であろう。すなわち、決して自己の創意に由らぬ全き服従(『我は己より來るにあらず、神われを遣し給へり』ヨハネ伝八章四十二節)、決して自己の意志を行なわぬ全き従順(『それは我が意(こゝろ)を求めずして、我を遣し給ひし者の御意を求むるに因る』同五章三十節、『我はわが父の許にて見しことを語り』同八章三十八節)、決して自己の栄光を求めぬ全き動機(『我はおのれの榮光を求めず、之を求め、かつ審判し給ふ者あり』同八章五十節)、決して自己の教えをなさぬ全き謙卑(『わが敎はわが敎にあらず、我を遣し給ひし者の敎なり』同七章十六節)、決して自己の工をなさぬ全き空虚(『わが汝等にいふ言は己によりて語るにあらず、父われに在して御業をおこなひ給ふなり』同十四章十節)、決して自己の力を用いぬ全き依り頼み(『子は父のなし給ふことを見て行ふほかは自ら何事をも爲し得ず、父のなし給ふことは子もまた同じく爲すなり』同五章十九節、『わが己によりて何事をも爲さず、ただ父の我に敎へ給ひしごとく、此等のことを語りたるを知らん』同八章二十八節)、であった。
 主のすべての御業もそのための御能力もみな聖父より与えられた。聖父は強力な働く者であり、主イエスはその器械であった。この信仰は何事にもまさって心に安息を来らす。われらが主をわれらの救い主また聖める御方として知り奉ることは実に幸いであるが、強力な働く者として内に住みたもうキリストを知ることはさらに大いなるまた驚くべき安息である。われらの『信仰の導師(みちびきて)また之を全うする者』(ヘブル書十二章二節)なる主が衷に住みたまえば、われらの生活は必ず神の子の信仰による生活となる。すなわちそのわざを命じたもうばかりでなく、これを成し遂げる能力も勢力も供給する天の父を信ずる信仰によって、生き歩みまた労したもうた神の御子の信仰による生活となるのである。さればわれらは主がわれらの衷にあって志を立て事を行なわしめたもうを待ち望むばかりでなく、主がわれらと共にまたわれらのために働きたもうを見出すまで待ち望むことこそ、なすべきではなかろうか。
 これは安息と喜びを来らす。キリスト者の奉仕にほかの喜びがあるにしても、信仰の祈りに答えて働きたもう主を見守るにまさる深い満足と喜びは多くない。これによってわれらは主を悦ばせ奉りつつあること、主がわれらと偕にまたわれらの方に在すこと、またわれらが天に財を蓄え永遠に留まることを成し遂げつつあるを知るのである。

四、聖父の意志に対する信仰

 神の御意を行うことは主イエスの食物であり飲物であった(ヨハネ伝四章三十四節)。主はそのために生きまた死なんとて来たりたもうた。神の御意をかくのごとく取り扱うことは御意の優越性とその最も幸いなことの確信を意味する。実に神の御意は宇宙におけるすべてのことのうち最も安全、最も甘美、最も善良、最も有利なことで、もしただ不信仰と誤解の面帕がわれらの目から取り除かれるならば、そのかくあることを見、知り、また実証するであろう。かくしてまた御意はわれらにとっても、われらの楽しみ、われらの喜び、われらの食物飲物、またわれらの栄光となるであろう。
 不信仰の結果のうちでも、神の御意の幸いなことに関する、人の心のこの誤解ほど不幸なものはない。われらにはとかく自己の道が最善であり、最も興味があり、最も有益なごとく見えるが、キリストは御自身ただ天の父の御意のみを行ない、神に依り頼む生活の完全な模範を示し、われらを神に依り頼む道に引き返そうとして来りたもうた。さればキリストがわれらの心に住みたまえば神の御意の善にして全きことを信ずる信仰を生ずるのである。力を尽くして神の御意を遂行する能力とともに、御意の甘美にして幸福なことの確信を有つは、内住のキリストの最も確実な、最も根本的な証拠である。
 聖父の御意を行なうことは、主イエスの御楽しみであり(詩篇四十篇八節)、食物飲物であり(ヨハネ伝四章三十四節)、生活の目的であり(ヨハネ伝六章三十八節)、祈禱の題目であった(ルカ伝二十二章四十二節)。しかしてそれは主が神の御意の天にも地にも最も安全な善良な、最も甘美なことを信じたもうたからである。

五、聖父の賜物に対する信仰

 主が死にたもう前夜ささげたもうた、その祭司的御祈禱のうちに、われらは執り成しの祈禱の第一にして最大なるものを見る(ヨハネ伝第十七章)。
 主は聖父の御自身に与えたまえるもの、すなわちその権威(二節)、その業(四節)、その言葉(八節)、その栄光(二十二節)、等を豊富に意識したもうたが、その最大なる確信と喜びを感じたもうのは御自身の弟子等が聖父の賜物であるということであった。主はこの祈禱のうちに「汝の我に賜いし人々」の意味の語を七度より少なからず仰せられている(英訳参照)。これらの語が、かくしばしば繰り返されていることは、弟子等が主イエスの御心と御念いの中にいかなる地位を占めているかを表している。昔祭司職の制定がなされたときに、神はレビ人を賜物としてアロンに与えるよしを彼に告げたもうた(民数記八章十九節)。そのごとくに主イエスに集められた人々も聖父はこれを主に与えたもうたのである。主イエスにとりて、彼らの貴重なことまた彼らの建てんとする教会の貴重なことは宝石の貴重なることの比ではない。主は神の賜物として彼らを信じたもうた。主は世のために死にたもうたと等しく彼らのために死にたもうたのである(ヨハネ伝三章十六節とエペソ書五章二十五、二十六節を比較して見よ)。当時彼らはなお弱くかつ肉的であったけれども、聖父の賜物なれば、主は彼らを無上の価値あるものと知りたもうたのである。
 この賜物は聖父の智慧の途を示す。すなわち神は愚かなる賤しく貧しき者によって、力ある貴き富める者を恥じしめる。その偉大な御業をばこの賜物を通して示さんとしたもうのである。かくのごときが神の御子の信仰である。さればこの主がわれらの衷に住みたまえば、それほどにわれらもまた聖父によって御子に与えられたその選ばれた民を信じまた尊重するに至るのである。これがすなわち愛によって働く信仰である。
 神の民を信じ、教会の貴重さとその運命その性質を信ずる事はやがて彼らに向かう主の愛の幾分かをもってわれらも兄弟を愛することになる。しかして主の民に対する信仰がいよいよ深く、いよいよ明らかになればなるほど、彼らに対する愛もいよいよ深くまた切になりゆく。かくてわれらはそれが実に潔き心よりの愛、心中に作成された活ける信仰より生ずる愛、凡ての聖徒との交際に経験される愛であることを知るのである。
 内住のキリストは、われらすべてにこのことを意味する。キリストは御自身の民に対するわれらの愛を創造し、支えまた養いたもうのである。
 殊になお一段と、神が貴い魂をわれらに与えたもうことを信ずるようになる。人々をキリストに導く能力は実に有難いものであるが、その能力も、それに応じて主に来る魂も、ともに神の賜物である。しかして心の中に住みたもうキリストはその魂の貴重なことを思わしめ、われらを導いてこの驚くべき賜物を求め、期待し、また信ぜしめたもう。ハレルヤ!

六、聖父の御言に対する信仰

 神の御言に基礎を置くのでなければ、合理的な活ける信仰はあり得ない。神の御子が地上において送りたもうた信仰の生活もまたかくして送られたのである。主はその生涯を通して、聖父の御言、書き記された御言、すなわちわれらに与えられているこの御言によって生活したもうた。御子の信仰はそれによって養われた。どんな感情も理論も、たとえそれが尤もらしく見えても、神の御言に支配され照らされ力づけられる信仰の生活から、御子をば動かすことはなかった。御子のご誕生も御命名も、さてはエジプトへの避難旅行もすべてみな『預言者によりて……云ひ給ひし言の成就せん爲』であった(マタイ伝一章二十二節、二章十五節)。
 主の御住居の場所の選択も、その目に見たもうところにも、便利にも、感じにも、心の衝動にも由らず、なおさら偶然でもなく、『ナザレといふ町に到りて住みたり。これは預言者たちに由りて……云はれたる言の成就せん爲なり』(マタイ伝二章二十三節)であった。われらの住居もそのように定められたであろうか。神の子供らの多くの者は、もし神の御子の信仰がその生活の中に働いていたならば、今日非常に違ったところに住んでいることであろう。
 主の御奉仕の範囲もまた聖父の御言に対する信仰を通して選ばれた。すなわち、御役事の始めにあたり『ナザレを去りて……カペナウムに到りて住み給ふ。これは預言者イザヤによりて云はれたる言の成就せん爲なり』(マタイ伝四章十三、十四節)とあるごとくである。われらもそのように働いているだろうか。われらは畢生の事業を撰ぶにあたっても、御言に対する信仰がその導きとなっているであろうか。もしそうであったならば、異教諸国の『渡りて我らを助けよ』(使徒行伝十六章九節)との叫びは徒に聞き流されはせぬであろう。
 主の御働きそのものもまた書き記された神の御言に対する信仰を通して定められた。『イエス言にて靈を逐ひいだし…給へり。これは預言者イザヤによりて……と云はれし言の成就せん爲なり』(マタイ伝八章十六、十七節)。おお主が如何に神の御言を愛し敬い順いたもうたことぞ! それに対する信仰は主の御生活の原則であった。われらの畢生の事業にも信仰がかかる地位を占めているであろうか。
 主の御名を弘めるその道もまたすべて聖書に導かれたもうた。『我を人に知らすなと戒め給へり。これ預言者イザヤによりて云はれたる言の成就せんためなり。曰く、「視よ……彼は異邦人に正義を告げ示さん」』(マタイ伝十二章十六〜十八節)。ああしかり、彼は人の称讃賞揚を受けたまわない。神の道は人間の道ではない。信仰は、御言がその導きであり、十字架がその道であるということで満足する。人々が主を教師また癒し主として御名と御誉れを弘める前に、まずカルバリにおいて成就されるところの、第一に審判、次に勝利こそは神の御子を崇める方法であるべきであった。
 主の御使言の伝え方もまた聖書に随って定められるべきであった。『イエスすべて此等のことを、譬にて群衆に語りたまふ……これ預言者によりて云はれたる言の成就せん爲なり』(マタイ伝十三章三十四、五節)とある。主は聖書を学びその破るべからざることとその権威と能力とを信じ、御言の智慧を信ずる信仰によって歩みたもうた。主は御言を文字通りに成就すべき神聖な義務を知り、彼より前に出でたすべての者と異なって譬えをもって語りたもうた。それはただ御自身のごとくに信仰によって歩む者のみ、理解され得るためであった。もし主イエスがわれらの心に生きたもうならば神の御言に対する信仰はまた確かにその民たるわれらに再現するであろう。御言は語りたもうであろう。しかしてその生命を与える恩恵と能力においてと同じく、その要求においてもその聖なる権威においても最高のそれであるだろう。われらもまた御言を語りまた宣伝し、われらの使言が御言にかないさえするならば、人々の眼に愚かと見えてもそれに満足するであろう。われらの心の中に働く神の御子の信仰は、神の御言によって生きるところの信仰であるであろう。

七、聖父の愛に対する信仰

 キリストは聖父によって彼に指定されたその業の極めて困難なるにも拘わらず、その幸いな本筋より彼を引き出そうとするサタンの険悪な企てにも拘わらず、意識的に断えず聖父の愛の中に留まりたもうた。しかしてそれは信仰によってであった。不信仰の成し遂げる第一の事はわれらをその神聖な環境から引き出すことである。もしわれらがそこから引き出されるならば、われらは何も為すことを得ない。われらを快くし、力付けまた満足せしめるのはこの聖なる神の愛の環境であり、愛によりて働く信仰は地上における最大のものであり、『キリストを汝らの心に住はせ、汝らをして愛に根ざし、愛を基と』させる(エペソ書三章十七節)とはキリスト者経験の総体を言い顕す言葉である。
 われらの信仰の導師また完成者なるキリストは凡てのことにまさって、また見ゆるところの如何に拘わらず、われらをして神の愛に根ざしまた基せしめ、続かしめたもうのである。しかしこれらのことを書くのは易いが、その意義を充分に会得するのはいかに難いことぞ。さて聖霊によってわれらの心に注がれる神の愛はパウロによって四重の愛としてピリピ書二章一節に記されている。すなわち、
 (一)個人的にわれらに対するキリストの愛
 (二)個人的にキリストに対するわれらの愛
 (三)御自身の民たる教会に対するキリストの満悦の愛
 (四)世に対するキリストの同情の愛である。
 彼は言う、もし『愛による慰安(なぐさめ)』すなわち主によって愛せられていることの慰め、『キリストによる勸(すゝめ)』すなわちキリストに対して愛情を働かすことより起こる慰藉、『御靈の交際(まじはり)』すなわち教会同信の友に対する愛、『憐憫(あはれみ)と慈悲』すなわち失われた世、永遠の死に陥りつつある罪人に対する同情の愛慕があるならばと。ここに主イエスが御自身そのうちに住んでいたもうた神の愛がある。この愛が主の御生涯の環境であった。主の魂はこの愛の大気の中に住みたもうたのである。しかしてもし主がわれらの心の中に住みたもうならば、われらもこの幸いなる環境の中に生き動きまた存在を保つに至り、信仰は心に注がれる神の愛によって養われるであろう。しかり、キリストの地上に在せし時の御行為また御言は一々みな聖父なる神の愛に対する御信仰を示している。
 おおキリストは何たる宝庫で在すことぞ! しかして彼の家(活ける神の教会と民)に食物あらしめるために、われらの有つすべてをそこに持ち来るのは幸福なことである。もしキリストの有ちたもうた信仰そのものが、われらの衷に再現され得るならば、われらはそのために彼の内住の意識と内に働きたもうことの確信とをもって、如何に彼を待ち望み、彼を注視し、彼に依り頼み、彼に期待し、彼に縋り付き、彼の御顔を求めることを要することぞ。
 キリストの御要求を認め、単純に彼のを信じ、彼の御心の最善なるを知り、彼の復活の御力を実験し、彼の御愛を甞(あじわ)い、彼の賜物を楽しみ、彼の御言によって生きるわれらの生活は如何に豊かにあり得ることぞ! しかしてこれはすべてパウロのごとく、『我はキリストと偕に十字架に釘けられたり、されど我は生く、尚我にあらず、キリスト我にありて生き給ふなり。されど今肉にありて生くるは、我を愛し給ひ且つ我が爲に己自らを付し給ひし神の子の信仰によりて生くるなり』と言い得るその人に成されるのである。



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