第十三章 信仰の省察



 聖パウロはコリント後書の終わりの方(十三章五節)においてコリントの信者に向かって、その交際によって彼らが信仰におるや否やを験し見るよう命じている。その言葉は『なんぢら信仰に居るや否や、自ら試み、自ら驗しみよ。汝等みづから知らざらんや、若し棄てらるる者ならずば、イエス・キリストの汝らの中に在す事を』である。すなわち「試みよ、験し見よ、汝自らを知れ」と言うのである。
 新約聖書の中に「驗し見る」ことがただ三度記されている。一つはわれらの奉仕に関し(ガラテア書六章四節)、一つはわれらの聖餐に与ることに関し(コリント前書十一章二十八節)、今ひとつは信仰に関してである(コリント後書十三章五節)。
 さてここに言うところの「信仰」はいわゆる正統的信仰に関していったのでもなく、また今一般に用いられているキリスト教真理の全体を指すのでもない。否、そのいずれよりもさらに一層個人的なことを指すのである。すなわち主が度々『汝の信仰汝を救へり』と仰せられたときに用いたもうた、その意味での信仰である。そのとき主は汝の正統的信仰が汝を救ったと仰せられたのでないことは無論で、御自身に対する生命あり活力ある確信を指して仰せたもうたことは明白である。しかしてパウロがわれらに勧めて、信仰におるや否やを験し見よと言うのはこの信仰のことをいうのである。
 マルコ伝十一章二十二節において主イエスは『神の信仰を有て』(直訳)という驚くべき言葉をもって弟子等に命じたもうた。これは実に注意を惹く言であるから、よくその意味を考えてみたい。それには普通に用いられる、神に信仰を置くという言い顕しより遙かに多くのことを含んでいる。さていかなる意味で神が信仰を有ちたもうと言うことができようか。神が有ちたまい、またわれらが有つことを命ぜられている信仰は如何なるものであろうか。
 主が「神の信仰を有て」との驚くべき言葉を出したもうた前後の関係を研究すれば、それは「言う信仰」すなわち命令する信仰であることがわかる。
 これはわれらをして、神が御自身の御言に対して信仰を有ちたもうという大真理を思い出さしめる。神が言いたもう時には『神光あれと言ひたまひければ光ありき』(創世記一章三節)、『ヱホバ言ひたまへば成り おほせたまへば立る』(詩篇三十三篇九節)とあるごとくである。
 さればパウロがわれらに自ら験し見よと勧めるところの信仰は、御自身の御言を語りたもうところの天の父を信ずる信仰である。
 次に、父なる神はその愛したもう御子に対して信仰、すなわち完全にして絶対の信仰を有ちたもうということも確かである。神はその御子がなさんとて進み出たもうたことは必ず成し遂げられること、またカルバリにおける犠牲は、完成せる全き御業であるべきことを絶対に確信していたもうのである。神は贖いの御業を通しての世の救い主として主イエス・キリストに対して信仰を有ちたもうのである。もしこの信仰が聖霊を通してわれらの心に再現されるならば、われらは自ずから主イエスに根ざし、また彼を基とするに至るであろう。
 されど神の信仰はなお一層深いまた一層驚くべきものである。それは聖霊の偉大な活動を信ずる信仰である。ペンテコステの日において神が聖霊を遣わしたまえる時に、神は聖霊がその成し遂げるために遣わされた事を必ず完成なしたもうとの絶対信仰と確信を有ちたもうたのである。
 もし神の信仰がわれらの心の中に再現されるならば、この確信この確認はまたわれらのものであるであろう。すなわち活ける神とその御言を信ずる信仰、完成した御業をなすべく聖父より遣わされたまえるキリスト・イエスを信ずる信仰、聖霊がその成し遂げるべく委任されたまえることをわれらの心の中にも、すべての神の民の心の中にも必ず成就したもうと聖霊を信ずる信仰である。
 かかる信仰は命令する信仰、すなわち上よりの祝福を命令するものである。さればわれらは新約聖書に開示されているところに随って、なお一層深くこの信仰の性質を見ることにしよう。

一、見る信仰

 『神いひ給はく、末の世に至りて、我が靈を凡ての人に注がん。汝らの子女(むすこむすめ)は預言し、汝らの若者は幻影(まぼろし)を見、なんぢらの老人(としより)は夢を見るべし。』 使徒行伝二章十七節

 それは見えざるものを見る信仰である。すなわち『とおくひろき國をみる』信仰(イザヤ書三十三章十七節)、『我が(キリストの)日……を見て喜』ぶ信仰(ヨハネ伝八章五十六節)、『基礎(もとゐ)ある都』を見る信仰(ヘブル書十一章十節)、キリストの全教会を見る信仰である。これは最も見わけ易い、神的信仰の特徴である。
 信ずる者の父、すべての真の信仰の模範たるアブラハムは、はるか遠い時代において、多くの世紀を隔てて眺め、キリストの日を見ることを得、これを見て喜び楽しんだのである。これはかの過越の夜の記念祭に歌われた詩篇、主イエスも最後の晩餐の席を立って、最後の御苦痛へと進み行くときに歌いたもうた聖詩ハレルに『これヱホバの設けたまへる日なり われらはこの日をよろこびたのしまん』(詩篇百十八篇二十四節)とあるその日を指すのではあるまいか。実にアブラハムの見たのはその日ではあるまいか。詩篇百十八篇二十四節とヨハネ伝八章五十六節のいずれにも「喜び楽しむ」という語が記されているのは意味深いと思う。
 されどもアブラハムは信じてそれよりなお多くを見た。すなわち彼は『神の營み造りたまふ基礎ある都』(ヘブル書十一章十節)、すなわち天より降る『新しきエルサレム』(黙示録二十一章二節)を見たのである。それはこの地上に建てられた都、すなわち聖職や祭司によって設計された人間の宗教組織ではなく、神的に設計され神的に建てられる、現実の真の霊的キリスト教会、しかも肉的の目にはかかるものとして見えず、ただ信仰の目にのみ、その壮大と来るべき栄光で見られる霊的教会である。
 語を換えて言えば、彼は代々を通して建てられ、今なお建てられつつある全建築物、すなわちキリストがそのために死にて成就し完成したまえる全教会なる、活ける神の宮を見たのである。

二、聞く信仰

 『我は汝等より唯この事を聞かんと欲す。汝らが御靈を受けしは律法(おきて)の行爲(おこなひ)に由るか、聽きて信じたるに由るか。……然らば汝らに御靈を賜ひて汝らの中に能力(ちから)ある業を行ひ給へるは、律法の行爲に由るか、聽きて信ずるに由るか。』 ガラテア書三章二、五節
 『信仰は聞くにより、聞く(聲)は神の言による』 ローマ書十章十七節・英訳

 使徒パウロはそのガラテア人に書き送った書簡の中に聖霊の三重の御働き、すなわち、(一)御霊を受けること(ガラテア書三章二節)、(二)御霊によって全うせられること(ガラテア書三章三節)、(三)他人に御霊を受けさせること(ガラテア書三章五節・英訳)について語っているが、その(一)と(三)とはこれを「信仰の聞く事」に帰している。主イエスは人の新たに生まれることにつきニコデモに語りたまえる時、上より生まれる者はみな御霊の声を聞かねばならぬ由を彼に告げたもうた。すなわち主は「汝は風の声を聴く」「斯くの如く」すなわち天の風の声を聞く事によって「すべて霊によりて生まれる」のであると仰せられた(ヨハネ伝三章八節参照)。『耳ある者は御靈の……言ひ給ふことを聽くべし』(黙示録二章七節、十一節等)。しかしてこの御霊の声は御言の媒介を通してわれらに来るものであるとわたしは承知している。されど悲しいかな、多くの人はただ記された御言に来るのみで、その御言の中に、御言を通し、御言を越えて聖霊の声を聴くために神を俟ち望むことをせぬ。御霊を受ける信仰、また他人に御霊を受けしめる信仰は、御霊の頌むべき御声に耳傾け聴くところの信仰である。
 サムエルが神の御声を聴いた時のごとく(サムエル前書三章四節以下)、われらもそのときそれが御霊の声であると現実に自覚せぬかも知れぬ、けれども適当の時に、われらの聴いた声、受けた印象、心に来た確信などが、聖霊の神の御声よりほかの何物でもなかったことを認めるようになる。しかして聴く信仰はこれを信じ、これを喜び、これを言い顕し、かつ順うのである。

三、知る信仰

 『この故に我も汝らが主イエスに對する信仰と凡ての聖徒に對する愛とを聞きて、絕えず汝らのために感謝し、わが祈のうちに汝らを憶え、我らの主イエス・キリストの神、榮光の父、なんぢらに智慧と默示との靈を與へて、神を知らしめ』 エペソ書一章十五〜十七節

 使徒パウロはエペソ人への書翰において、その聞くところの、彼らの主イエスに対する信仰と聖徒に対する愛に基づいて祈りをささげている。しかして彼は彼らの信仰が照らされるように、すなわち照明の霊が魂の上に注がれて霊的生活の確かな事実が彼らのものとなるように祈る。しかしてその確かな事実は、まず神がわれらを召したもうに当たって何をわれらに期待したもうか、すなわちキリストの禱告的祭司職にわれらが共に与るという御期待を知り、次に神の民の貴重さ、すなわち彼らがいかにそのために祈る価値があるかを知り、最後にすべてにまさってかかる禱告を可能ならしめ有効ならしめる能力を知ることである。これらの確かなる事実は聖霊が智慧と黙示の霊をもってわれらを照らしたもうとき初めて確信され得るのである。
 パウロはまた第三章において別の調子で祈っている。彼はわれらが光を受け照らされるばかりでなく、内なる人が強められて、主が御自身のホームをそこに作り、その家族感をわれらの心に持ち来り、われらが神のすべての家族と愛の交わりにおいて一つとなり得るように祈る。ここに信仰を強めることがある。同じ聖霊によって信仰は輝かされもし、また強められもするのである。

四、語る信仰

 『イエス答へて言い給ふ「まことに汝らに告ぐ、もし汝ら信仰ありて疑はずば、啻に此の無花果の樹にありし如きことを爲し得るのみならず、此の山に『移りて海に入れ』と言ふとも亦成るべし。』 マタイ伝二十一章二十一節

 主イエスの御職事の終わり頃の御行動は当時のパリサイ的宗教家等を大いに憤慨させた。主は王としてエルサレムに乗り込み、祭司として神殿に入ってこれを浄め、預言者としては果を結ばぬ無花果を詛いたもうた。主の敵等は怒りを含んで彼を取り囲み、何の権威をもってかかる事をなすかと詰問した。主の弟子等もまた別の方面からその心に疑問を起した。彼らは主の詛いたもうた無花果の樹の枯れることの迅速さを驚いたのである。しかして彼らの問いは如何にしてかかる事が出来得るかであった。われらならば多分何故そのように無花果の木を枯らしたもうたかと問うたであろう。けれども主は如何にしてかとの問いにも、何故かとの問いにも答えずして、直ちに個人的に当て嵌めて「汝らもこのことを為すことが出来る」『もし汝ら信仰ありて疑はずば、啻に此の無花果の樹にありし如きことを爲し得るのみならず、此の山に『移りて海に入れ』と言ふとも亦成るべし』と仰せられ、さらに語をつぎ『かつ祈のとき何にても信じて求めば、ことごとく得べし』と言いたもうた。さればここに移すところの「言う信仰」と受けるところの「祈る信仰」の間に明確な区別があるように見えるのである。主がわれらに有つことを命じたもうところのこの信仰はマルコ伝においては「神の信仰」と呼ばれている。すなわち祝福を命ずるところの信仰で、「言い給へば成る」ところのそれである。
 ペンテコステの日の後に使徒等の有っていたのはその信仰であった。彼らが癒しの奇蹟を行うときに、祈るよりもむしろ言い、しかしてその言うごとくなった。われらが受けるために「祈る信仰」を欠く理由は、移り去らしめる「言う信仰」を欠いているからではなかろうか。われらは聖霊の盈満を受けることの前に、愛なき木やわれらの心に残れる不信仰の山を去らしむべきである。一つは言う信仰、一つは「祈る」信仰である。一つは山を移し、一つは国を受けるのである。
 しかしてまたかかる信仰の根拠を了解することもはなはだ大切である。すなわちかく権威をもって語ってすなわちそれがその通りになるような言を発するようにわれらは如何にして資格づけられるかと言えば、それに対して唯一の答えがある。ただ一語、カルバリ、それで充分である。十字架上で既に成就されたこと、すなわち審判は既に執行され、詛いは既に負い去られ、悪魔は打ち破られ、罪は既に処分せられ、旧き人は既に十字架に釘けられたということを捉える信仰、これがすなわち権威をもって語りうる信仰、「この山に移れと言ってそのごとく成る」ところの信仰である。

五、他人に伝達し受けしめる信仰

 『これ主イエスと凡ての聖徒とに對する汝の愛と信仰とを聞きたればなり。願ふところは、汝の信仰の交際(まじわり)の活動(はたらき)により、人々われらの中なる凡ての善き業を知りて、榮光をキリストに歸するに至らんことなり。』 ピレモン書五、六節

 ここにもう一度ガラテヤ書三章二節五節を引用したい。パウロはそこで、信仰の聞く事によって、他の人に聖霊を受けさせることを言っている。われらの中の或る者はこれについて知るところがはなはだ少ない。パウロはそのピレモンに書き送った書翰に、ピレモンの主イエスに対する信仰と、すべての聖徒に対する愛(この二つのことはパウロがいつもその回心者に求め、また目を留めたところで、彼のすべての祈りはそれに基づいている)について言った後、ピレモンの愛については、すべて彼の愛を受けた多くの人々から聞いて喜びに満たされたと言い、彼の信仰については少しく心配らしく書いている。ただしそれは信仰の個人的方面に関してではない。彼の主に対する忠信は非難すべき点なく、その信仰の正統なことも欠けてはおらぬが、パウロは彼の霊的状態を考察して、彼が他人に御霊を受けさせる能力を欠いているを見、彼の信仰の伝達が効力あるようになることを祈るのである。
 この伝達が有効になるのは、ただ彼がその衷なるすべての善きものの全くキリストの内住的臨在に基づくことを断えず認めるによるのである。
 真に、われらもまたその「聞くこと」によって、他人をして御霊を受けさせその盈満に与らせ得るよう、われらの主を信ずる信仰が他に伝染し、伝播し行く有効のものであるべきである。
 ペンテコステの後ペテロによって行われた第一の奇蹟はこの性質のものであった。ペテロはそのとき『金銀は我になし、されど我に有るものを汝に與ふ』(使徒行伝三章六節)と叫んだが、後に、彼が有っていたものは『御名を信ずる』信仰であることをわれらに語っている(同十六節)。彼がこの憫れな跛者にその同じ信仰を伝達して、すべての人々の前に全癒を得させ得たのもまた主の御名を信ずる信仰によってであった。

六、望む信仰

 『願くは希望(のぞみ)の神、信仰より出づる凡ての喜悅(よろこび)と平安を汝らに滿しめ、聖靈の能力(ちから)によりて希望を豐ならしめ給はんことを。』 ローマ書十五章十三節

 希望というものははなはだ恵み深い心を励ます徳であるが、その精確な意味は充分に掴みがたく了解し難い。たとえば「天気のよくなることを望む」という言葉は誤解させる詞ではあるがごく普通に用いられている。この言い顕しの実際示すところはただかくありたいと熱心に願うという外ではない。けれども希望には、もちろん著しく願望の分子を含んでいるが、それよりも遙かに多くのことを意味している。希望という語の基礎的思想はわれらの願うところのことの成就を期待する、実地の堅い基礎となるべき確信を有つということを暗示する。聖書にはいつもかくの如く用いられている。
 ローマ書五章四節に『経験は希望を生ず』(英訳)とある。もしわれらが神の恩恵と憐憫をひとたび経験するならば、われらは自然に再びそれを経験することを期待する堅固な理由を有つことになる。されども希望にはこれよりほかの基礎がある。ローマ書十五章十三節に『願くは希望の神(すなわちその子等のために絶えず希望をもちたもう神)、信仰より出づる凡ての喜悅と平安とを汝らに滿しめ、聖靈の能力によりて希望を豐ならしめ給はんことを』とある。
 ここに希望の実際の源泉は喜悦と平安を持ち来らす信仰であると言われている。すなわちわれらの心が喜びと平安に満たされるほど今日のために信じ得るのでなければ、明日神がわれらを祝福したもうことを望む、すなわち期待する、何ら現実の基礎を有たぬというのである。ここに聖霊の能力によってわれらに希望を豊かならしめるために喜びと平安を満たす御方は希望の神であると言われているのは注意すべきことである。希望は将来を取り扱い、信仰は過去と現在を取り扱う。けれども信仰が現在において領有する能力であるのでなければ、来るべき日のために、実地の満足すべき希望はあり得ないのである。

七、精煉された信仰

 『汝らの信仰の驗(ためし)は壞(く)つる金の火にためさるるよりも貴くして、イエス・キリストの現れ給ふとき譽(ほまれ)と光榮と尊貴(たふとき)とを得べきなり。』 ペテロ前書一章七節

 ペテロはその前書において『信仰の驗』という語を用いている。この『驗』と訳された原語はドキミオンで、辞書を見ればその真の意味は「混じりものを除いた純粋の部分」である。それゆえここは「汝らの信仰の純粋なる部分」と読むべきである。そう読めば大いに教えられる。この純粋な部分はたとえば胡桃の核のようなものである。殻のない核はあり得ない。けれども核のない殻はあり得る。真の信仰に必ず附属する教理や儀式を殻とすれば、核はその奥にある真の純粋な信仰である。儀式や教理はいずれも完全でも、人を救い聖める信仰が少しもない場合もあり得るが、信仰のこの純粋な部分こそ火に試みられた金よりも貴いと言われているのである。復活し昇天したもうた主がラオデキアの教会に勧めて『なんじ我より火にて煉りたる金を買ひて富め』(黙示録三章十八節)と仰せられたのは、聖霊に吹き込まれた活ける信仰を指すので、それはキリストの宝血でわれらのために買われ、カルバリの坩堝で精錬せられたところのものである。
 われらは宜しくとどまって、われらが信仰におるか否かを自ら省察すべきである。すなわち見る信仰、聞く信仰、知る信仰、語る信仰、人に受けしめる信仰、希望を生ずる信仰、活ける種子のごとく純粋な混じりなき信仰。もしわれらが熱心に求め、忍耐強く俟ち望み、励んで讃美し、喜んでその御命令に順い、御統治に服するならば、父なる神の義を通して(ヨハネ第一書一章九節)、われらの救い主イエス・キリストの義を通して(ヨハネ第一書二章一節)受けられ(ペテロ後書一章一節)、聖霊の御働きによって創造され、持続される、われらに与えられた神の信仰におるか否かを験し見るべきである。
 使徒パウロがこの信仰をわれらの霊的身長を測る標準としているのは誠にさもあるべきことである。
 パウロはローマの教会に書き送ったその書翰において、の聖化を取り扱った後、そのを活ける供え物として献ぐべきことを勧め、進んで彼らがその生活において神の御意を行うことが世において最も善く最も全く喜ぶべき事であることを実験的に知るよう、そのを新たにすべきことを勧める。
 かく思いを新たにすべき事を語って、彼は『そは我……汝等おのおのに告ぐ……神のおのおのに分ち給ひし信仰の量(はかり)にしたがひ自らにつきて考へよ』(英訳)と言っている。
 されば、何処まで我は神に信頼し得るやというこのことが、われらの自己を判断すべく招かれている度量の標準である。多くの人は非常に異なった標準を持っている。彼らはその成功によって、その奉仕の能力によって、魂を得るその才能によって、説教する才能によって、あるいはその献身その克己など、種々の点によって判断する。けれどもこれらは標準でなく、霊的状態を試みる真の試しではない。霊的生活の唯一の実地の試験は全く神に信頼しうるか否かという点にある。されば、われら神の御前に自己の真の状態を正しく験すために、活ける犠牲としてその身を献げるとともに、われらの思いの更新を要するということはいかに真実であることぞ。さればこれをもってわれらの試験問題として自ら試み自ら験し、われらが真に棄てられる者でなく主イエスのわれらの衷に在すを知りたいものである。われらがもし棄てられる者であるならば、過ぎし日にいかなる告白をなしあるいはいかなる賜物を持っていたにしても、主イエスはわれらの衷におりたまはないのである。



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