第八章  信仰の(外部的)働き



 さて信仰は魂の内部における働き、すなわち人の心を救い、浄め、力づけ喜ばすことだけで満足するものではない。信仰はまたその働きを他人に及ぼすものである。すなわち人の思念と意志と愛情を動かして、亡び行く魂のために労せしめ、大いなる勝利を博し、大事を成し、驚くべき結果を獲得し、神をして祈りに答えて動きまた働かしめ奉るものである。
 徒に自己を養育するのみを事とし、新奇な経験を求め、或いは祈禱禱告に時を費やすことを談するだけの宗教に対して、われらは何事よりも大いに警戒すべきである。由来、祈禱禱告に最有力であった人々はまた働きと奉仕に極めて有力な人々である。ルター、ノックス、ブレーナード、ブラムウェル、ウェスレー、ジョージ・ミュラー、ハドソン・テイラー、なおそのほか多くの人々に見るごとくである。
 真の信仰はわれらの心を衝き動かして他人のために労せしめる。しかしてかくのごとく信ずる者はみな、自己は何者でもなく、事を行なうは神御自身なることを認め、主の比喩の中の僕のごとく、それは私でなく私の働きでなく『主よ、なんぢの一ミナが五ミナを贏(まう)けたり』と言うけれども、神は『善いかな、良き僕、なんぢは小事に忠なり』と答えたもうのである(ルカ伝十六章十六〜十九節)。

一、信仰によりてキリストを宣べること

 『信仰に由りてノアは、未だ見ざる事につきて御告を蒙り、畏みてその家の者を救はん爲に方舟(はこぶね)を造り』 ヘブル書十一章七節

 われらが自己の信仰によって救われたことを知ることは幸いであるが、悲しむべきことには多くの人はそこにとどまって、その貧弱な経験に満足している。自己の救われただけで満足することを、私は敢えて貧弱な経験という。何となればわれらは当然奉仕するために救われたのである。しかり、他人をキリストに導くことはわれらの務めである。しかしてそれはただ信仰によってのみなされることである。中風を病める者を四人の友らが主に連れて来れる時に、主は彼等の信仰を見て、中風の者に『子よ、心安かれ、汝の罪ゆるされたり』と仰せたもうたのである(マタイ伝九章二節)。
 ノアは信仰に由って神の警告を受け、信仰に由ってその家族の救いのため方舟を造ったが、神を頌めよ、今われらは方舟を造る必要はない。われらのなすべきことは、すでに備わっている。救いと、救いを施さんと待ちいたもうキリストを宣べ伝えて人々を説き勧め、強いて連れ来ることのほかはないのである。しかしてそれはわれらの、今現に存在したもう救い主と来らんとする審判とを信ずる信仰が、人の救いのため感ずるようにわれらの心を動かし、語るようにわれらの舌を動かし、一切を献げて労するに至らしめる時にのみなし得られることである。
 われらは人々が罪を愛し、聖なる神に対して叛逆するために、神の御怒りの来ることを信じているだろうか。しかしてまたキリストがかかる人間を救う用意をなしており、救うことを欲し、かつまた救う力を持ち、救わんと待ち受けていたもうということを、感情と確信をもって信じているだろうか。かかる信仰は必ずわれらをして人の魂を求めずして止むことを得ざらしめるものである。われらは信仰を通して神の御警告を受けているか、或いはさらに何か特別な召しの来ること、感情の動き、さてはまた天使の異象のごとき事を待ちつつあるか。確かに、かかることを待つ必要はない。神は語りたもうた。御言は明白である。われらのなすべきことは神の御警告を信ずることである。人々は亡びつつある。神の御怒りは来りつつある。審判は確かに臨む。しかして信仰はそれを聞き、それを熟考し、それを信じ、救いの使言を宣伝すべくわれらを押し出すのである。
 私はかつて殺人罪を犯した一人の日本人を知っている。日本の法律では二十歳未満の者を極刑に処することをせぬので、彼は二十五年の懲役に処せられたが、脱獄を謀ったためさらに十年の刑を加えられた。しかし彼は九年の服役の後に神に向かって回心し、驚くべく恵まれて残りの十六年間(十年の加刑はその後赦された)に新約聖書を暗記するに至った。しかも一層幸いなることには、彼の心が同囚の人らの亡び行く有様に対して重荷を感じ出した。彼の神に対する信仰、すなわち神の審判、神の憐憫、神の約束を信ずる信仰は、彼の心を動かして亡び行く者のために労せしめたので、彼が出獄する前に多くの者は神に対して平和を得、およそ二百人ぐらい聖書を読み救い主を求める者があるに至ったということである。

二、信仰に由りて従順になること

 『信仰に由りてブラハムは召されしとき嗣業として受くべき地に出で往けとの命に遵ひ、その往く所を知らずして出で往けり』 ヘブル書十一章八節
 
 出で往けよ、深みに漕ぎ出でよ、一切を捨てよ、未知の地に前進せよ、後方の橋を焼き棄てよ、土地にしても人にしてもその親愛する一切の関係を断ち切れよ、と命ぜられるとき、それはいかにしてなし得られようか。
 われらに対する神の御企図もまたそのごとく、新しき奉仕に出で行き前進すべきことである。されど悲しいかな、われらは怠慢にして、休止し、敢えて試練と勝利の新戦場に進み出ずることの期待されざることがいかにしばしばであったであろうぞ。我らは神の召したもう時にいかにしてこれに応じ得ようか。それはただわれわれの衷にある信仰が『神の營み造りたまふ』都を望み(十節)、『更に勝りたる所』を慕い(十六節)、『來らんとする事』を望み(二十節)、『報を望』み(二十六節)、『更に勝りたる復活(よみがへり)』を目標とし(三十五節)、『信仰の導師(みちびきて)また之を全うする者なるイエスを仰ぎ見る』(十二章二節)時にのみ出来うるのである。
 外国諸地における神の勝利、すなわち朝鮮、ウガンダ、支那、満州そのほか世界の各地に起こったリバイバルについて読む時に、キリスト者の心は喜ぶ。またギルモア、モリソン、ブレーナード、リビングストン、ペートン、ハドソン・テーラー、ジャドソンそのほか偉大な指導者らの名を聞いて悦ぶ。彼等はみなアブラハムのごとく、『往く所を知らずして出で往き』、神の召しと約束を見、信仰の力で行ったのである。
 われらが神を選び取るならば、神もわれらを選び取りたもう。われらは「我は行かざるべからずや」と問わず、「我は行くことを許さるるや」と問うべきである。要求を見よ、収穫を見よ。それを耕作の地と呼び、或いは種蒔きの地と呼ぶことを止めよ。キリストはそれを収穫と呼びたもう。彼は弟子らに『收穫(かりいれ)の主に勞働人(はたらきびと)をその收穫場(かりいれば)に遣し給はんことを求めよ』(ルカ伝十章二節)と仰せられ、耕すために、或いは種蒔きのためにとは仰せたまわなかった。あなたの信仰の眼はそこまで遠く見通すか。あなたはそれが収穫であり得ると信ずるか。今この瞬間にもあなたの心の中に信仰が働きつつあるか。あなたは言ってはならぬ、私は召命を待つと。信仰をしてその手を神に伸べしめよ。しかして神が『誰かわれらのために往くべきか』と仰せたもう時に『われ此(こゝ)にあり 我をつかはしたまへ』と言え(イザヤ書六章八節)。目を挙げて畑を見よ、しかして主が畑は『はや黄ばみて收穫(かりいれ)時になれり』(ヨハネ伝四章三十五節)と仰せられるとき、その御言を信ぜよ。蒔くため或いは耕すためでなく、刈るために出で往くことを期待せよ。
 神を信ぜよ! 信仰は神の手も心も耳も動かし奉る。固執せよ、切願せよ! あなたの信ずる事において大胆なれ! あなたの小さい道において、その範囲において、多くの人の父たるアブラハムたれ! かくあり得ぬ何の理由があろうか。彼は信ずるようにあなたを励ます。アブラハムの心中に働いて、神の約束を生き生きと明瞭に感ぜしめ、彼をして眼の前の近いものに目を閉じ、見えざるもの、将来のものを明瞭に見させ、その神に信頼し従順であることの喜びと光栄を彼に啓示したものは信仰であったのである。

三、信仰に由りて人を祝すること

 『信仰に由りてヤコブは死ぬる時ヨセフの子等をおのおの祝福し、その杖の頭によりて禮拜せり』 ヘブル書十一章二十一節

 おおよそ人が死の時に近ければ、恐るべき死の蔭の谷を通る憂慮で心が満たされるのであるが、ヤコブはそうでなかった。彼は杖の頭によって礼拝したと記してある。信仰が彼をそこに至らせたのである。何人も充分に満足し安息せねば、真に礼拝し得るものではないが、ヤコブはそこに達していたのである。かく満足し安心して、自己から閑暇を得て他人のことを思う心を得た。そればかりでなく、信仰はなお進んだ境地に彼を導いた。それは信仰の祈りを通して、他人の上に驚くべく祝福を齎すことが出来ると彼に示した。されば彼はただ単に祈ったばかりでなく他人のために信じ、彼らのために天の窓を開き、彼らを祝したのである。これもまたわれらのなすべきことである。さればこれがためにも、注意深く神の御声に耳を傾けることを要する。
 あまり久しい前のことではないが、かつて一人の友が私を訪ねて来てその心の憂いを告げた。その人は数ヶ月の間ほかの人々のため大いに祈禱の重荷を感じ、毎朝四時に起きて、非常な苦しみを感じつつ彼らのために祈ったが、この感情が突然と彼を去ってしまったというのである。彼は決して神との交わりから外れもせず、心を尽くして熱心に神に仕えることに変わりはなかったが、ただかつてのごとく重荷を感じなくなったという。そこで私は決して失望せぬよう彼を勧め、神は彼を以前と異なった道に導きつつありたもうことを教え、しかして私自身の経験を語り聞かせた。
 神が私を他人のための祈禱に導かんとしたもう時には、しばしばいと物静かに語り聞かせたもうことを知った。もし私が何か特別な御声を聞くことを求め、感情の高まることや、華々しい霊的現象の顕れるを期待したり、御寵愛の徴なる『綵(いろどれ)る衣』(創世記三十七章三節)を求めたりするならば、私は神を失望せしめ奉り、自ら何の成し遂げるところもなかったであろう。私が再三再四教えられたことは、主がある魂の重荷を心の上に置きたまい、私が静かに信仰の祈りをもってこれに応え奉る時には、主はまず私に確信を与え、その後私の嘆願に答えたもうて、その魂に祝福が下り、自由を得るということであった。
 神の最も偉大なる御業が、小さい出来事また些細な原因から起こった例は、聖書の記事のうちにしばしば見出されるところである。少しばかりの油と粉で寡婦と預言者は養われ(列王紀略上十七章)、一人の捕虜となった少女がよく大軍の主将を生命と癒しに導き(列王紀略下五章)、一つの投石索(いしなげ)と五つの小石のほか何ら武装のない少年がその国に救いを来たし(サムエル前書十七章)、一瓶の油でよく一家の債務と窮乏を救った(列王紀略下四章)。しかしてまた手ほどの雲より大雨は来り(列王紀略上十八章)、四人の癩病人によって一つの邑は救われ(列王紀略下七章)、神が肉体をとりたまえる時ひとりの嬰児として来りたまい、神の御子のご誕生を指示したものは一つの星であり(マタイ伝二章)、五つのパンと二つの魚は大群衆を食に飽かしめ(同十四章)、王のその都に入りたもう時には驢馬の子に乗りたもうたのである(同二十一章)。
 信仰はこれらの小さいことどもを見て、神の約束を把握する。かくして大事を成し遂げるのである。もしわれらがほかの人々の上に祝福を齎そうと欲するならば、かくのごとき信仰を通してでなければならぬ。その霊的直覚、すなわち衷に作成された信仰が神を礼拝しつつ待ち望むその人のうちに働いて、人の魂の上に祝福を呼び下すことを得しめるのである。これは実に驚くべき能力! 驚くべき特権である。さればわれらがこの恩深き御奉仕をなすに遅きは何たる愚かしいことであろうぞ。

四、信仰に由りて財的処理をなすこと

 『信仰に由りてモーセは……キリストに因る謗はエジプトの財寶(たから)にまさる大なる富と思へり』 ヘブル書十一章二十六節

 この世の人は天のカナンの言葉は何も解し得ず、霊的宗教は彼らには幻想のほか何でもない。彼らの理解するところはただ黄金の万能力である。されど真の信仰は金銭に関して二つの学課を学ばしめる。
 第一、信仰はエジプトの富を価値なきものと勘定する。ここに記されるごとく、モーセは地位も快楽も富もその掌中に握っていた。これらの三つのものはこの世の人々がこれがために生きまた死ぬる所のものであるが、モーセはこれを持っており、これらは彼のものであった。けれども彼はこれを価値なきものとし、惜しみなくこれを却けた。信仰は別のものに心を留めているゆえに、これらのものは勘定に入れない。すべてのキリスト者はその通りに行動するのである。これに関してジョン・ウェスレーは次のごとく言っている。
 「われらの現在の場合においては、僅少の除外例はあるが、富の増し加わるところは何処でもその割合に、宗教の本質なる『キリストにありし御思い』の減退することがあるのを私は恐れる。事の性質上、いかにして真の宗教復興を永続せしめうるかを知らない。何となれば、宗教は必然的に勤勉と節約を生ずる。しかして人が勤勉にして節約すれば富を生ずるほかはない。されど富の増し加わるに従って、高ぶり、怒り、またこの世のものを愛する愛を生ずる。かかるようではたとえ心の宗教が緑の月桂樹のごとく栄えるとも、いかにして永続することができようか。
 「メソジストの徒は何処においてもますます勤勉になりまた節約するようになりつつある。その結果としては財を増す。けれどもまたそれに比例して高ぶり怒りを増し、肉の慾、目の慾、所有の誇りを増す。かくしてたとい宗教の形は存するも、その精神は速やかに消え失せつつある。
 「純正なる宗教のこの不断の衰退を防ぐ道はないであろうか。われらは人の勤勉節約を禁ずべきではない。否、むしろなるべく多く儲け、なるべく多く貯えるよう、結局富を増やすようにこそ努めねばならぬ。さらばわれらの金がわれらを地獄の底に沈めぬために、われらの執るべき道は何であろうか。ここに一つの途がある。それは天下に唯一の途で、これ以外にまされる途はない。すなわち、出来るだけ多く儲け、出来るだけ多く貯える人にして、また同時に出来るだけ多く献げるならば、その人は儲けるほど、ますます恵みに成長し、ますます天に財を貯えるであろう」と。
 第二、信仰は今ひとつの学課を教える。それはわれらは金銭の愛から救われたけれども、さらに神の善き家司としてこれを用いまた取り扱うべきであるからである。それゆえに信仰はしばしばわれらを導いて大いなることをなさしめる。ジョージ・ミュラーの自叙伝はかかる実例に満ちており、支那内地伝道会社やそのほかの伝道会社の歴史も同様のこと、すなわちケリテの小川で鴉を用いてエリヤを養いたもうた神は今日もなお同じ神で在すことを物語っている。われらが、主は必要の資源をもってわれらに供給したもうと信仰をもって依り頼みまつるときにまさって、彼のわれらに現実でありたもうことは少ない。ある人は皮肉なことを言って、人が信仰の生活をなし始めると、やがて望みによって生活するようになり、終いには愛(人の慈善)によって生活するようになると言っているが、これは巧みな警句であるかも知れないけれども、感謝すべきことには、途方もない虚言である。
 私は日本で近頃キリストに導かれた一人の人を知っている。彼は貧しい坑夫で、僅かな賃金で激しい労働をしていた。彼は神のことについてまだよく教えられていないながらも、その困難の時に主を求めた。彼は義の途をたどるよりも罪の途に帰る方がもっと利益であると甚だしく誘われ試みられたけれども、断然として神に依り頼んだ。神は恵み深くもマタイ伝六章の二十五、二十六節の御言を通して彼の心に語りたもうたので、この単純な御言が彼の心の中に信仰を作成した。それゆえに彼は信じ、待ち、心の平安をもって期待した。
 甚だしい窮乏の日がまだあまり長く続かぬうち、彼の妻はある友人に会いに行くように招かれたので、その持っている唯一の小ぎれいな着物を着て出かけた。その着物は台湾の親類の人の形見に残されたもので、特別の場合にのみ着ることにしていたのである。しかるにこの途中で激しい雨に遭い、その晴れ着を濡らしてしまった。彼女が先方に着いたとき、着物の襟が損じていたので、すわって襟の縫い目をほどいたところ、昔台湾で通用した五円紙幣が三枚、襟の芯に用いてあるのを見出したのである。
 彼女は自分の目を信じかねるほど驚いたし、夫はそれは紙幣であっても、今は値打ちがないであろうと言ったが、やがて今でも十五円の価値のあることを知って喜んだ。格別に神がその約束を成し遂げ、彼らの信仰の祈りに答え、御自身の民を御心にとめたもう事実を知ってさらに大いに喜んだ。彼らは感恩の心よりその受けたところから多分に献げたことであった。誰かエリヤの神が今日でもなお同じ神でないと言い得ようか。彼らがその金を必要とするときより数年前に、神はすでに彼らのためにそれを備えおきたもうたのである。
 私はまた今ひとつの例を思い起こす。かつて私が祈っているうちに、三ポンド四シリング六ペンスであったと思う(その妙な金額を今精確に記憶しない)その額の金を日本から英国のある人に送らねばならぬと感じさせられた。私はかつてその人のことを読んだだけで、未だ会ったこともなく、これまで何も送ったこともなかった。殊にその金額が妙な数であったので、送金の際手紙を添え、果たしてそれだけの金の必要があったか知らせて頂きたいと申し送ったほどであった。数週の後に返事が届き、彼は私の送金に対して感謝して言う。彼らは約三四箇月前から日を限って払わねばならぬ四十ポンドの金が必要であったが、祈りに答えられてほとんど同額の支那切手を受け取った。しかるにそれが外国から来たので為替の関係上受け取った金は所要の額に不足であったところ、ちょうど次の郵便で届いた私の送金でそれが満たされたということであった。
 数年前に私は休養のため山岳地方に赴こうとして、当時の所持金の全部であった十五ポンドと、ほかに或る婦人の依頼でその預金十ポンドとを或る銀行から引き出した。しかるに途中で掏り取られてその金全部二十五ポンドを失った。そのとき私の手元に送金の届くにはなお数週の間隔があるのに、ポケットには数シリングを残すのみであった。けれどもわたしたち夫婦は、十ポンドの金を共に失ったその婦人から親切に招かれてその休暇を過ごすことを得た。かくして神は一時的にわたしたちのために備えたもうた。
 わたしたちは祈禱のうちにこのことを神の御手に委ねたが、盗まれたその金はついに返って来なかった。しかしおよそ五週間の後に、一人の友人からの手紙を受け取ったが、それには私に二十五ポンドの金を送るよう心に示されたので送るとて小切手に添えて、これは働きのためではなく、私個人の必要のためである由を書いてあった。私の察するところでは、悪魔がその僕の心に私の金を掏ることを考えさせたそのとき、主は私の所から一万里を隔てたところにいる御自身の僕の心に、私の必要を満たすことを思わしめたもうたのである。
 かかる経験はわれらの心に神をはなはだ現実ならしめ、その契約を守りたもう御名に栄光を帰し奉らしめる。信仰に満たされた神の人は金銭の愛から救われているから、財産というものに重きを置かない。けれどもその人が富むにしても貧しきにしても、金銭の取り扱いにつきその天の父に依り頼むことの不思議な事実を学ぶのである。

五、信仰に由りて献身すること

 『信仰に由りてアブラハムは試みられし時イサクを獻げたり』 ヘブル書十一章十七節

 これは信仰のなし得る最大の働きの一つである。ヘブル書九章十四節にはキリストは『永遠(とこしへ)の御靈により』己を神に献げたもうたと記されている。すなわち御自身の力によらず、聖霊に依り頼む信仰によって己を献げたもうたというのである。
 パーマー婦人はその全き救いを求めまた見出した経験を詳説して、彼女がいかにして祭壇の上に一切を献げ得たか、またかくして祭壇に触れるものは聖きものであると、いかにして敢えて信ずることを得たかを語っている。その戦いは容易なことではなかった。彼女はそれまでただ名義上でのみ神に献げていたが、今は現実に降服しきることが出来た。かくて神の平安がその心に漲り来ったときに、聖霊が、これは全き救いではないか、汝がすべてを献げ得たのは我を通してではないか、それとも汝自身の力によってそれをなせしかと、仰せられるように思われた。彼女は直ちに自己の一切を献げることでさえも、これをなし得たのは永遠の御霊を通してであったことを実覚したということである。
 さて古のアブラハムになしたまえるごとく、今もこのことをなし果たすために、聖霊はわれらの心を強めて信ぜしめたもうのである。しかり、信ずるため、すなわち永遠の御愛に、確実なる御誠信に、しかして全能の御力に降服するために、われらの心を強めたもう。これは安楽であり、確実であり、安全である。しかり、信仰によって、キリストをわれらの心に住まわしめ奉るために、聖霊はわれらの内なる人を強めたもうのである。
 十三年前のことである。日本の交通不便な或る田舎の或る邑で、厳かな数回の集会の続いた後、少数の日本人が神を求めて夜を更かしていた。彼らは涙をもって切に祈り求めたが、夜の将に明けようとする頃、彼らは一切が献げられ受け納れられたと敢えて信じた。そのとき聖霊は彼らの上に臨み、犠牲を焼き尽くしたもうた。信仰はその工を成した。彼らは宝血と、力ある神と、聖霊をもってバプテスマを施したもう主とを信じた。主は信仰の祈りに答えて忽然とその殿に来りたもうた。犠牲は信仰をもって壇上に献げられたゆえに、受け納れられるものとなり、受け納れられたのである。その日より神はこの人々に百倍の実を結ばせたもうた。すなわち彼らを救霊者となし、古のアブラハムになし給うたごとく、喜びをもって彼らの御奉仕に冠づけたもうた。

六、信仰に由りてキリストの顕現を待つこと

 『信仰に由りてエノクは死を見ぬやうに移されたり』 ヘブル書十一章五節

 これは実に注意を惹く言葉であるが、その次に記されている言葉は、全くでなくとも、ある程度それを説明すると思う。エノクは信仰によって神と偕に歩んだ。彼はまた信仰によって、死を見ぬように上へ移されるに値すると認められるほどに神に悦ばれたのである。今の時代において熱心な信者の心を占領する重大問題と言えば、主イエスの御再臨にまさることはない。多くの神の子等は、神の民がいつまでも主と偕に居るべく携挙されるその日がいよいよ近づきつつあるを実感するのである。
 信仰はそのことに何の関係を持つかと問われる。私は信仰がそれに関係すると思う。エノクについて多くのことは言われておらぬけれども、彼の説教が、主の千万(ちよろづ)の聖徒を率いてふたたび地上に来りたもうというこの驚くべき題目についてであったということだけは記されている(ユダ書十四節)。エノクのいた古の時代、すでに驚くべき光のあったことは確かである。しかしてこのことが彼の心に最も近い題目であり、彼は神と偕に歩むことによって、主イエスの『榮光の顯現(あらはれ)』(テトス書二章十三節)を学んだのである。しかしてここヘブル書には、彼の移されたのはその信仰のゆえであると記されている。
 私はこの問題で非常に心を苦しめた或る人を知っている。その人は主の顕れたもう時に携え挙げられ「人の子の前に立ち得る」に相応しい者であろうかと自ら恐れを懐いていた。しかして彼がこの問題を祈禱のうちに主に持ち行き、待ち望んでいたときに、「神を信じまた我を信ぜよ」「女よ我を信ぜよ」しかして「唯信ぜよ」などの御言が繰り返して来た。彼がなお深く主を待ち望み、いかなる意味でこれらの御言が彼の苦しんでいる問題の解決であるかを知ろうと求めているとき、聖霊が「主イエスは汝が自ら主の許に行くことを願うよりもなお勝って、汝を御自身に取ることを切望したもうことではないか。汝がそれに相応しいか否かよりも、汝をその御再臨に備えさせ、その備えを保たせ、そのときかく備えをしているのを見出すことを望みたもう主の御願望こそ、一層心にかけるべきである。おお彼を信ぜよ、彼の汝を求めたもうことを信ぜよ、この幸いなる信仰によって汝を潔めるとともに慰められよ。恐るるなかれ、ただ信ぜよ」と仰せられるように覚えた。かくして彼の重荷は直ちに去り、信じつつ喜ぶことを得るようになったのである。
 しかり、キリストを信ずるこの信仰がわれらを引き上げて、幸福な従順をもって主と偕に歩ませるのである。われらは信仰によって主と偕に歩み、信仰によって主を悦ばし奉る、そのごとく、主の顕現のために必要な備えをわれらの衷に完成し、主と偕なるべく携挙されることを得させるのもまた信仰を通してである。

七、信仰に由りて耐え忍ぶこと

 『信仰に由りてモーセは……罪のはかなき歡樂(たのしみ)を受けんよりは、寧ろ神の民とともに苦まんことを善としたり』 ヘブル書十一章二十四、五節

 苦を忍び得る能力は、恐らくキリスト者の経験中最高の点であろう。ヘブル書十一章三十三節より三十八節までにわれらは、三つずつ一組にした四つのことが記され、しかしてそれがだんだんと高い程度に昇っていることを見る。
 第一の三つ組は、信仰によってわれらの心の王国を制し、義を行ない、信仰による約束の幸いを得ることを語る。(三十三節)
 第二の三つ組は、信仰に由って、われらの大敵なる悪魔に打ち勝つ防禦的の戦いを語る。(三十三、三十四節)
 第三の三つ組は、信仰に由って、弱きを強くされ、戦争に勇ましく、異邦人の軍勢を退かせ、しかり、勝ちて余りある進撃的の戦いを語る。(三十四節)
 第四の三つ組は、信仰に由って、主に御名のために苦難を忍ぶことにおける勝利を語る。(三十五〜三十八節)
 われらの魂の中における活々とした透明な確信は、われらに主のために苦を忍ぶことを得させる。さればかかる確信がまたわれらのものであろうことを。しかしてわれらが事を行ない苦しみを忍ぶこと、みな主イエスの御名、主イエスの御血、生ける偉大な救い主なる主イエス御自身を信ずる信仰の力によってであろうことを。神の尊びたもうのも義と認めたもうのも、それに応えて能力と喜びと愛をわれらの心に送り、それによって主の御為にわれらに苦しみを忍ぶことを得させるのも、この信仰である。聖パウロはテモテに書き送って『なんぢに在る虛僞(いつはり)なき信仰をおもひ出すに因りて……汝の内に得たる神の賜物をますます熾んにせんことを勸む。……能力(ちから)と愛と謹愼(つゝしみ)の靈なればなり。……福音のために我とともに苦難(くるしみ)を忍べ』(テモテ後書一章五〜八節)と言っている。彼の思想の連続した関係は明白である。テモテがキリストの御為に肉体的に苦に与るためには、彼が有つところの愛と力と慎みの霊を熾んにせねばならぬ。しかして信仰のみがよくこの霊を熾んならしめ得るのである。しかり、テモテも旧約の勇者らのごとく、信仰の力によって苦難に耐えることを学んだのである。
 これらは信仰の偉大な働きである。願わくはわれらが全き救いに至るように神を信じ、また御名によって不思議を行ない得るよう神を信ぜんために、聖霊、内なる人においてわれらを強めたまわんことを!



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