第九章  信仰の結果



 主イエスを信ずる事の結果は実に驚くべきものであるから、すでに述べたところと重複する恐れはあるけれども、これがために一章を加えることにする。しかしてこれを説明するために、主イエスが御自身を信ずる者に対してなしたもうた七つの大いなる約束を共に学びたいと思う。

一、『我を信ずる者は暗黑(くらき)に居らず』 ヨハネ伝十二章四十六節

 今日なお全く暗黒にいる魂のいかに多いことであるぞ! 彼らは自ら何処へ行きつつあるかを知らず、前途に何らの光明なく、全くただ暗黒である。かかる人は自己の今要するものは何か、いかなる危険が迫っているかについてさえ何の光も持たない。その上主イエスの仰せられたごとく、『光よりも暗黑を愛する』(ヨハネ伝三章十九節)のであるから一段と絶望的である。彼らは自己の真の立場を知ることを欲せず、真の状態を知らずにいることを好む。あたかも駝鳥が砂の中に頭を突っ込むごとく、世慾愚妹の砂中にその頭を隠して自己満足に欺かれている。
 主イエスを信ずる者は暗黒に居らぬ。しかり、信ずる者は、である。かく決心する者、かくなさんと欲する者、努力する者ではない。信ずる者とは実に幸いな語である。すなわちそれは恐れも疑いもなく、単純に自己を救い主に投げかける者を指す。かく信ずる者は自己の絶望的なる場合をよく知っているけれども、それは神の審判に対する恐怖をもってでなく、自らを卑しくしつつ「悔い改めの神秘的喜悦」をもってこれを知るのである。かかる救いのために神を頌めまつれ!
 われらもかかる信仰を有つであろうか。われらの信仰がかかることをわれらになすであろうか。もしそうでないならば、それは何故であろうか。神の約束は今なお真実である。それには何の誤謬もない。間違いはわれらの側にあって、いかなる種類の信じ方をするかにかかっている。
 私は数年前に神戸の伝道館に来た一人の青年を思い起こす。彼は神について聞いたこともなく、主イエスの名も知らなかったが、好奇心から何心なく伝道館に這入った。五分間ばかりその辺りを見回していたが、その短い間にさえ話に退屈し踵を返して出ていった。しかしそのとき彼は、講壇の背後の赤い幕に、白字で『凡て勞する者・重荷を負ふ者、われに來れ、われ汝らを休ません』と書いてあるを見た。そのときには彼はただ「何のことか、つまらない」と思ったばかりであった。けれども聖言は彼の心に残ったのである。
 その後一年を経て、彼は非常に困難に遭い、何もかも都合よく行かず、暗黒と失望に陥り、しまいに自殺を決心した。彼は一瓶の毒薬を手に入れ、神戸の背後の山を越えて彼方の谷間に入りそこでそのまま暗い未来に飛び込もうとした。その瞬間に、彼が一年前に見た『凡て勞する者・重荷を負ふ者、われに來れ、われ汝らを休ません』(マタイ伝十一章二十八節)という言葉が、今や絶望せるその心の最暗黒のうちに閃いたのである。
 そこで彼は毒薬の瓶を棄てて急ぎ帰り、翌日伝道館を訪い、そこの伝道者からキリストを信ずる道を教えられ、その日彼は自己の生命を取る決心を棄て、その代わりに罪に対して死ぬ決心をなした。しかして彼の一切の暗黒は生命の光の前に消え去った。それは数年前のことであったが、私が数週前に彼を訪問したとき、今は結核のためにはなはだ憔悴してはいたけれどもなお神を頌めつつ、その日の永久に落ちない、栄光ある不死の彼方を望みつつ、シオンへの道を進みつつあるを見た。

二、『我を信ずる者は死ぬとも生きん』 ヨハネ伝十一章二十五節

 われらはこの幸いなる御約束が異教国において豊かに成就すること、すなわち死せる魂が主イエスを信ずることによって、直ちに生命に至らせられたことをしばしば実見したことであろうぞ。罪のは罪の暗黒よりさらに恐ろしいという点からは一層ひどいとは言えぬにしても、確かに一層深いことである。罪に死ねる者は、その危険も知らず救いの必要も感ぜず、したがって救われたいという願望もない。罪の死! その意味を実覚したいものである。
 私はしばしば二箇の体を想像に描いてながめる。一つは生きて強い体、一つは死骸である。私は夏の日光がこの二つの体を照らすと想像する。一つはその暖かさと気持ちよさを感じるが、今ひとつは何も感ぜぬ。太陽は双方に同じ力を持つ。その光線は同じ熱を持ってどちらにも触れる。けれども何たる相違ぞ。冷たい死ねる死骸は、その下にある石同様、何の応えもなく何の感じもない。これは生けるものと死ねるものとの何たる絵画であることぞ。
 神は『恩を知らぬもの、惡しき者にも仁慈(なさけ)ある』(ルカ伝六章三十五節)御方なれば、新生した者にも新生しない者にも同様にその恩愛の熱は注がれるのであるが、新生した活きて強い魂はそれを感じ感謝と讃美をもって喜び、新生しない魂は何の応答もせず、感じも感謝もない。彼は死んでいる。彼の心の緒琴は神の愛の音楽に何の応ずるところもない。キリストにある神の愛を聞くときにも、咎と罪とによって死にたる者の目にはなんの興味も閃かず、その顔には何の笑みも現れぬのである。
 されど主イエスを信ずる信仰はそれを全く変化させる。われらの信仰がわれらのために果たしてそれをなしているであろうか。われらはこの種の信仰を有っているだろうか。もしそれを有つならば、永久に喜ぶことができるゆえに、神を頌めまつれ。これまで人格ある神を信じうべしとしなかった者、キリスト教の信仰の何も知らなかった者、キリストの名さえ聞いたことのない者、その心の全く暗黒であった者が、一瞬間に死より生命に移り得るということ、しかも神につける事をただ一、二時間教えられたのみでかくなり得るということを、或る人々(ずいぶん多くの人々)は信じ難しとする。
 されども私は幾度となくそのことを見た。天啓の宗教の何も知らぬが、罪や苦難、悲哀、憂慮、或いは死別などによって準備された心をもつ男女が、僅々二時間以内生命の御言を聞くうちに、瞬間に上より生まれることを見たのである。しかしてかかる人々が今日神のために最も善いまた最も力ある働き人のうちにあるのである。かくて、これらの幸いな場合の思い出は、私が『彼を信ずる者は死ぬとも生くべし』(参考ヨハネ伝十一章二十五節)という聖言を宣べ伝えるにあたり、主の恵みと智慧のありがたき記念として思い記される次第である。

三、『我を信ずる者はいつまでも渴くことなからん』 ヨハネ伝六章三十五節

 私は主イエスを信ずる信仰を通して光明と生命の与えられることを述べたが、なおほかのことがある。すなわちキリストを信じ続けることにより全き満足を得ることである。これによってわれらは快楽、名誉、人望、安逸、賞讃、金銭あるいはこの世の財宝を渇き求める必要がなくなるのである。決して渇かぬとは幸いなる経験である! しかしてそれが全くキリストを信ずることによって来るのである! われらの信仰はかかるものであろうか、信ずることはわれらにかかる経験を与えないであろうか。もし与えないならば、それは何故であろうか。主の御約束は真実でないであろうか。主は真実でありたまわぬであろうか。決してそうではない。
 されば間違いはそのほかの所にある。必ずそれはわれらが「キリストを信ずる信仰」という驚くべき言葉の意味を誤っているからである。『我を信ずる者』と主が仰せられた。この「信ずる」という語は現在動詞で、「信じつつある者」という意味である。われらの心が主イエスに向かい、信仰をもって活ける能動的進出をなすことをいうのである。このことのあるところにはもはや渇きというものは存在せぬ。ハレルヤ、『我があたふる水を飲む(飲み続ける)者は、永遠(とこしへ)に渴くことなし』(ヨハネ伝四章十四節)。神が活ける水の泉を衷に与えていたもうに、われらのうちはなはだ多くの者がなお渇くは何故であろうか。それはわれらが飲まぬから、すなわち信じ続けぬからである。もし信仰をもって断えず自覚的にそれから飲むことをせぬならば、衷に泉をもつということが何の益になろうか。
 かつて日本において、神による一層盈満せる生命に饑え渇いて、私の許を訪ねて来た一婦人のことを容易に忘れない。彼女は一年前に救われたばかりの人であったが、信仰の道を容易に聞き入れたので、わたしたちは祈りのために跪き、彼女は祈り、私もまた続いて祈ったが、私がまだ長く祈らないうちに、彼女は「主イエスさま、主イエスさま、ああ何たる御愛、何たる驚くべき御愛、私は今までそれを知りませんでした」と叫び出し、その顔は喜びの涙に濡れていた。彼女はそのとき、瞬間に決して再び渇かぬ秘訣を見出したのである。これは三、四年以前のことであったが、この婦人は今なおそれで充分なることを経験している。彼女は信じ、受け、飲み、終日キリストに在りて喜ぶのである。

四、『これは彼を信ずる者の受けんとする
       御靈を指して言ひ給ひしなり』 ヨハネ伝七章三十九節

 われらはこの聖言の意味をとって、主が「我を信ずる者は聖霊を受くべし」と仰せたもうたと見ることができる。しかしてこれは驚くべき御約束である。われらを覚醒し、新生させたもうたその聖霊がまた来りてわれらの衷に住みたまい、われらは聖霊の宮となり、聖霊はわれらとともにそのホーム及びその聖所を造りたもうのである。
 パウロはわれらがただ信仰によってアブラハムの受けた祝福(称義)を受けるばかりでなく、また約束の聖霊を受け得るために、キリストが詛われる者となりたもうた由を語っている(ガラテヤ書三章十三、十四節)。しかり、それは難行苦行によってではなく、黙示や入神恍惚の経験によってでもなく、理論理解によってでもなく、信仰によってである。キリストはわれらのために、苦しみを受け、血を流し、死にたもうた。われらのために罪とされたもうた。しかり、このすべてのことは実に驚くべき事であるが、これらにまさって最も驚くべき事は、主がわれらのために詛われる者となりたもうたということである。しかもわれらが信仰によって頌むべき慰め主を受け奉ることのできるために、キリストが詛われる者となりたもうた(それが呑み込み得られるか)。しかしかくも莫大な価が払われているのに、われらはなお疑い続けることができようか。主よ、われ信ず、わが不信仰を助けたまえ。
 およそ三、四年前のことであるが、一人の信者の婦人が、心中に大いなる悶えをいだいて私の許に訪ねてきた。この婦人は自己の失敗も窮乏もよく知り、一層充実した一層広らかな生活を慕っていたのである。われらは共に神の御前に頭を垂れて祈った。しかして私はこの婦人に真に心を尽くして主に従う心のあるのを見たので、ガラテヤ書二章二十節のかの驚くべき御言を指示した。彼女は一切の価のすでに払われていること、主が彼女のために詛われる者となりたもうたことを直ちに悟った。彼女は今信仰の奥義を見、すぐに暗中に飛び込んで、そのところに足を立てるべき岩を見出した。約束は真実である。約束の慰め主は永久に彼女の衷に住むべく来りたもうたのである。
 この婦人は直ちに言い難き喜びを受けたが、久しからずして神が彼女さえも、失われた者の救いのために用い得たもうことを知った。私が日本を去る数週間前に、私は彼女に会い、彼女の記憶すべき過去三年間に聖霊が彼女の心に齎したもうた驚くべき変化、また革新した生活について共に語った次第である。

五、『我を信ずる者は……その腹より活ける水、
       川となりて流れ出づべし』 ヨハネ伝七章三十八節

 新生の経験を得た者は、誰でも神に用いられたいと切に願うものである。これは贖われた魂に植え付けられる最初の本能の一つである。光明を受け、生命を受け、満足を感じ、神の内住を経験するは実に驚くべき事であるが、われらはまた他人のために出で往くことを慕い求める。しかしてこの活ける水その腹より流れ出ずるという約束はちょうどわれらの要求に適うのである。信じつつある者、すなわち信じ続ける者、活動的に意識的に期待をもって信仰を持続する者は、活ける水の流れがその心より流れ出ずることを悟る。始めにそれは小さい、真の小流に過ぎぬかも知れぬが、流れゆくままに増して大いなる河々となる。喜びの流れ、同情の流れ、希望と期待の流れ、証詞と能力の流れ、祈禱の流れ、しかり、もしわれらがただ信じさえするならば。流れ出ずるその数々の流れは誰も数を限ることも、数えることさえできないであろう。
 私は日本においてこのことのはなはだ現実に成就した一人を思い出す。およそ八年か十年前のこと、福音未伝のある小さい邑を通り、そこで一週間の伝道をした。私は最初の晩、放蕩息子の譬えから説教した。その翌日、およそ十九歳くらいの娘が年老いた伯母に伴われて私を訪ねてきた。その伯母はギリシャ・カトリックの信者で、その地のキリスト者と呼ばれる唯一の人であった。しかしこの娘はまだキリスト教の初歩ですら聞いたことはなかったが、自ら物足りなさを感じて求めて来たのである。わたしたちは共に語った。しかして私がヨハネ伝三章十六節の驚くべきことどもを説き明かしている間に、彼女は深く感動し、そのときそのところで、昔のルデヤのごとく心を開いて信じ、主に救われた。
 それから一週間経つか経たぬある朝早く、ちょうど私がそのところを出立して帰ろうとしているときに、その娘の父が私を訪ねて来た。しかして娘が得たような、その喜びを得る道を教えてくれと求めた。私がその週間語ったことはこの人の心には届かなかったが、その娘の心から流れ始めた活ける川の流れは彼に渇きを起させ、同じ水の源から飲むことを求めさせたのである。神を頌めよ、彼はその朝それを得た。しかして今もなお神を頌めつつシオンへの途を進んでいる。しかし彼はこの娘の心から流れる生命の水を飲んだ多くの人々のただ一例に過ぎない。この娘はなお続いて魂をキリストに導いているのである。願わくは、主イエスを信じ続けるこの信仰をさらに豊かに有たんことを!

六、『我を信ずる者は我がなす業をなさん』 ヨハネ伝十四章十二節

 主イエスを信ずる信仰は何たる驚くべき事をなし得ることぞ。これを思えば、われらはなお及ばないことの遠く、能力の欠けることの甚だしく、如何にも恥じまた謙るべきことである。われらが主イエスを信ずることを通して、恒にキリストの愛を感じていること、神の内住の臨在、また知らず識らず流れ出ずる活ける水の流れを有つことは幸いである。されどもさらに大いなる約束が与えられている。願わくは、われらのそれまでに達し、神によるわれらの嗣業を要求し得んことを。
 主は仰せたもうた。もしわれらが信ずることの秘訣を正しく学ぶならば、御自身のなしたもうた業、すなわち愛の業、癒しの業、人を暗黒より光明に移らしめる業、祈りの答えとして神の御手を動かす業、犠牲をする業をなし得ると。われらは外国伝道地でこのことを見た。格別に神の友として、主に対する信仰によって業をなし得た数人のことがいま私の心に特に思い出される。その一人は私が誰よりもよく知る人であるが、肉体が弱く、肺喀血のため、ほとんど十八年前に医師に見離されたほどであるのに、キリストを信ずる信仰の秘訣を学んでから、この数年間健康ですべての善き業に備えられている。
 ある神学校で、ドイツ神学のために毒せられていた彼は、神の尊みたもうその僕の一人に会い、彼において神の臨在を見、聞き、また感じた。それより彼の眼は開かれ、いわゆる神学的教養というものの何の果をも結ばぬ無益なるものであることか明らかになり、真の活けるキリストを知る知識に対する渇きがその心に起こった。かくて彼は神学校を棄てて田舎に退き、彼に覚醒を与えたその人を通じて、主イエス・キリストを信じ続ける秘訣を知った。その後彼は多くの人を義に立ち帰らせ、少なからぬ人々の肉体の癒しを見、信仰の祈りに答えられて、多くの人のさらに豊かな生命に進むを見たことである。

七、『我を信ずる者は、永遠に死なざるべし』 ヨハネ伝十一章二十六節

 これは不思議な驚くべき言葉であるが、無数の場合にその真実なことが証明されている。信じつつある魂が暗い死の谷の入口に近づく時、すべての陰鬱も恐怖も暗黒も去ってしまう。死の棘はすでに去り、古のステパノの死のごとく、死というものが幼子の眠るごときこととなる。この驚くべき聖言の成就を見るは外国伝道地におけるわれらの大いなる喜びである。死刑の宣告を受けた殺人犯も、かかる救いを受けてはその唇に勝利の笑みをもって絞首台に上った。ウェスレーは死刑囚の監房で信じ難きほどの喜びの場合を見たと語っているが、神は今も同じ神で在す。
 私は近頃も幼い日本娘の臨終を見舞った。その子は救われて僅かに三ヶ月であるが、日本の大いなるなやみの一つである結核で苦しんでいた。その子は疲れ果て数分ごとに苦痛に艱みながら、その間に上を見上げ「嬉しい、嬉しい」と言うのである。まだ救われていない医師はこれを見て怪しみ、隣人等はその子の臨終を見舞おうとて来り、信者等はこの小さい聖徒の死の門を通り行くを見送るべく集まった。しかしてその子自身は主イエスを信ずる者の決して死なざることの真実を見た。しかり、その子に死はなかった。それはこの壊れ易い土の家からの離脱であり、牢獄からの脱出であり、喜びの永遠への入国であった。ハレルヤ。
 誰かジョン・ウェスレーの臨終の物語を涙なしに読む者があろうか。しかり、主イエスの『我を信ずる者は死なざるべし』との御言に信頼する幾多の聖徒の臨終もまた同様である。
 われらが自己の傲慢を棄て、心を尽くして主を求め、衛士の朝を待つごとくに彼を待ち望むならば、何人も経験し得られるかかる道を備えたもうとは、これ神の何たる恩寵ぞや。われらは自己の怠慢を棄てるべきではなかろうか。聖徒のひとたび伝えられたその信仰におるや否やを自ら試みるべきではなかろうか。われらはすでに多くのことを知りまた経験したかも知れない。けれどもキリストに対する勝利ある信じ続ける信仰に進み、われら恵みによって救われた罪人がこの地で可能な一切を嗣ぎ、享受し、なし遂げるべく進み行こうと決心すべきではなかろうか。



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