第十章  信仰の増進



 われらが神を信ずることの必要とわれらの信仰の薄弱なことを実覚し始めるときに、自然に「主よ、われらの信仰を増したまえ」「いかにすればその幸いな恩恵に満ちることができるか」「信仰に強くなって神に栄光を帰するように成長しうるであろうか、この学課を学ぶためにいずれの方に向かうべきであろうか、神は御自身の学校において私を訓練するためにいかなる手段を用いたもうであろうか」と叫び出すのである。
 「現在ほど多く神の大庭にいたことはない。時を贖い、目を節し、労しつつ絶えず祈ることは不断の安息を齎す。すべての罪より浄められることは大したことであるが、神は大いなる御憐憫により、また我が魂を愛をもて満たしたもう」とウィリアム・ブラムウェルは言っている。われらもかかる経験、すなわち信ずることによって信仰と能力の増進するという経験を慕い求めないであろうか。われら宜しくいかにしてこれを得、またますます増進し得るかその途を考えるべきである。

一、讃 美

 『讃美の祭物を獻ぐる者は我をあがめ、わが神の救を彼に示し得る道を備ふ』 詩篇五十篇二十三節英改正訳欄外注

 信仰を増進する第一のことは讃美と感謝である。われらはつねに主に向かいて感謝し、われらの神に対して讃美を献げたいものである。しかしてかくなすにはわれらの記憶をして神の恩寵の園の中を駆けめぐらしめねばならぬ。われらは過ぎし日を思い起し、つくづく思いめぐらしてわれらの純なる思念をかき立てる必要がある。われらとその事件とが時と所を隔てる場合、そのことの起こった当時は偶然としか思えなかったことも、今から顧みればそれは神の御愛をもって輝く誠に幸いな御摂理で、わがうちなるすべてのものが、そのために神を頌めまつるべきことを知るのである。
 全然信仰の祈禱の結果であった、私自身の回心を思い起して、幾度か私の信仰は強められた。その当時は何の意味からでも私はその奇跡をそれほどに貴く思わなかったが、時間の経つにしたがってそれを驚異し讃美するに至った。栄光は神にあれ! しかり、われらが讃美し始めるときに、われらの魂は力強く茂り栄える。感謝は信仰をして薔薇のごとく花咲かしめる快き驟雨に似ている。カルボッソーの伝記の中に信仰を喚起する讃美の力を例証する著しい出来事が書いてある。すなわち彼の伝記者は次のごとく書いている。(以下はカルボッソーの友人T氏が彼の二男に書き送った手紙の抜粋である)曰く、
 「われらは一人の鍛冶屋が重患であることを聞き、また彼を訪問するように願われたので、船への帰りを急いでいるときではあったが、この憫れな人を捜して行き、小さい小屋の中で結核末期の病体を寝台のようなものの上に横たえているのを見た。折しも彼の妻は外出して不在で、彼はただひとり、今見知らぬ多くの人の来訪に驚いたようであった。けれどもやがて彼の注意を全く自分に引きつけてしまったのは君の父上であった。君の父上は彼の寝床の側に歩み寄り、『さて友よ、わたしたちは君を見舞いに来たのです。如何ですか』と尋ねると、憫れな病人は答える、『たいそう悪いのです、あなた。』『どんなに長くお悪いのです?』『十週間くらい寝ています。』『ほんとうにまあ、しかしわたしたちは特に君の心がどんな具合か案じてきたのです。』『たいそう悪いのです、あなた。』『ほんとうに、してそれはどうしてですか。』『あなた、私は大した罪人で。』『よし、でもイエスは何のために死にたもうたのですか。』『それは、あなた、罪人のためです。けれども私は……』『ちょっと待って、私の問うことに答えなさい。君はイエス・キリストは罪人を救うために死にたもうたといったが、さらば君を救うために死にたもうたのではないか。』『そうです、あなた、けれども……』『ちょっと待って、ただ私の問うことにのみ答えなさい、君はキリストが君のために死にたもうたことを認めた。それならばキリストを讃美すべきではないか。』『そうです、あなた。』『それならば兄弟、声を揚げて讃美せよ。』『神に栄えあれ、神に栄えあれ、わが愛する兄弟よ、我とともに主を頌めよ。』
 「この憫れな重荷を負える罪人は、かく讃美を要求されて驚いているように見えた。しかし繰り返し勧められて、ついに讃美のために唇を開くことを承知した。われらの愛する友(カルボッソー)は彼を励ました。始めの頃は生き生きとした恵みの感じからでなく、むしろ親切な勧告者の願望に調子を合わすだけと見えたが、これによって無意識的に、十字架の贖い主に目を注ぐべく彼自身から引き出され、間もなくその魂に力が下って、丈夫な人のような力をもって、『栄光! 栄光! 栄光! 主を頌めよ!』と叫び、ついに疲れて後ろの枕に倒れかかったので、私は彼がかく非常な力を出した結果、いかになることかと一時心配した。
 「しかし彼は再び寝床の上に身を起こして、前のごとく叫びだしたので、私は直ちに安心した。そのとき君の愛する父上は私に祈れと言ったので、私は祈った。想像もされようが、私は尋常ならぬ感情をもって祈った。われらの友(カルボッソー)と鍛冶屋は心の喜びのために声高く祈り続け、ほかの者は神を頌めつつ跪いていた。そのとき鍛冶屋の妻は帰り来り、ほかの人々も声に引き付けられて入ってきた。かかる異常な光景は私がかつて目撃したことのないところである」と。
 しかり、神に栄光あれ、まさにその通り、感謝は神が御自身の救いをわれらに示し得たもうその途を備えるのである。

二、告 白

 『我いひあらはさゞりしときは終日(ひねもす)かなしみさけびたるが故にわが骨ふるびおとろへたり/斯てわれなんぢの前(みまへ)にわが罪をあらはし……わが愆をヱホバにいひあらはさんと 斯るときしも汝わがつみの邪曲(よこしま)をゆるしたまへり』 詩篇三十二篇三、五節

 もしわれらが神につけることについて進歩したいと願うならば、主に対して最も熱心にまた謙遜な告白をする必要がある。このことはいかに強調するも決して過当ではない。されどこのことにつき過誤に陥らぬよう、注意を要する。何とすれば、われらが神に告白する場合、しばしば神を友また救い主とする代わりに、怒れる裁判官としてするからである。もしわれらがすべてを打ち明けることを待ち受けたもう主の御優しさと恵みとを記憶しまた了解するならば、告白はつらいことでも難しいことでもない。さればわれらの全く無益なることを感ずるとき、このことを心にとめて、いそぎ御前にわれらの心を注ぎ出したいものである。誠に、われらはわれらの無益の僕なることを幾度も主に申し上ぐべきである。
 しかり、われらがなすべく命ぜられたことをなしたとき、心を尽くして神を愛し己のごとく隣を愛したときにも、われらはなお全く無益の僕である。いわんやかくなすことを失敗するにおいてはなおさらのことである。われらは安逸や自己満足のために神の救いの完全に達せず、また神が御自身を信ずる者の、御自身に対する信仰によってなすべく約束したまえる力ある業をなそうともしなかったことを告白すべきである。一般に教会や礼拝堂で行なわれる形式一遍の告白をやめよ。神の求めたもうのは、密室において真心こめた謙遜な実際の告白、しかしてそれと共にその告白の受け納れられるばかりでなく、それが勝利と更新と全く変化した状態を来らしめることを信ずる信仰をまじえた告白であるべきである。
 かの唖の霊に憑かれたその子を連れてきた悩める親が『信仰なき我を助け給へ』(マルコ伝九章二十四節)と主に申し上げたのは涙をもってであった。何故なれば不信仰というものは、多くの人の想像するごとく単に神的のことに成長する妨げだけではなく、それは罪、最も恐るべき罪、すべてのほかの罪の根であるからである。もしわれらの妻または夫が絶えず「私はあなたに信頼したいですが、どうも信ずることができません」というならば、われらはそれに満足しておられると想われるか。しかるにわれらはしばしば平気で神の御顔を覗き、「私はあなたに全く信頼したい、けれどもそれができぬ」と申し上げる。その言葉はいかに嫌悪すべき言葉と聞こえることであろうぞ。さればわれらが信仰に強くなりて神に栄光を帰したいならば、われらの信ずる心の鈍きことを、悔悟と祈禱をもって絶えず告白するはずである。
 数年前、私は外国伝道地に働いている、熱心な主の仕え女に会った。この婦人は誠に熱心であったが、「イエスに対する信仰による聖潔」の真理に対して妙な偏見を懐いていた。私に会ったときにも、清き心の経験を言い表す人々の生活も証詞も共に批評しようと、心構えていたことは明らかであった。数週間の交わりの後、彼女はこの問題につきいよいよ心安からずなり、元来内気で寡言の婦人であったけれども、私の許に来て、私の神学上の見解でなく、私自身の経験を聞くことを求めた。
 私の語ったことの何かがこの婦人の要求に応じたかどうか知らぬが、一両日の後、私は彼女が内的聖潔につきはなはだ深い覚罪の下にあることを見た。元来彼女はその性格においても外部より非難すべき所なく、奉仕においても献身的であったので、これは少しく私を驚かせた。尋ねてみると、彼女は全く砕けた霊をもって「私はイエスの御血を辱めておりました、おお私の恐るべき不信仰よ! 私は貴い御血の能力を限っておりました」と言った。
 私がなお充分な説明を求めると、彼女は今に至るまで、贖罪の犠牲を自分の犯した罪の赦免だけに限っていたと言った。彼女にとりてはキリストの血には何ら道徳上の浄めのごときかかることはなかった。浄めると言えばただ裁判上のことで、彼女の犯罪の咎の取り除かれることであったのである。
 彼女に見るごとき深い覚罪は私がほかにあまり見ぬところであった。それは単に見解の変化、神学上の誤謬を悟ったというようなことではなかった。それは神の御子の御血を辱めたという透徹した辛辣な覚罪であった。しかしてそれとともに極めて謙遜な痛悔的告白がなされたが、数日ならずして、幸いにも彼女はかつて軽んじていた聖潔の経験に入った。すなわち、
 「イエスを信ずる信仰による聖潔、自己の努力によらざる聖潔」
に入ったのである。
 われらとしてもまた自己の心を探り、われらの無価値と、領有すべく残れる一切を領有する心の鈍きによる失敗とを告白して、断えずわれらの造り主の御前にひれ伏すように努むべきである。

三、祈 禱

 『ヱホバを俟望むものは新なる力をえん』 イザヤ書四十章三十一節

 讃美と信仰とはわれらの信仰を強めまた増進するに肝要であるが、祈禱はそれらにもまさって必要である。これは何をもっても代えられない。もちろん何ら活ける信仰なくしても、祈ること、すなわち祈禱を唱えることは出来得るが、熱心な祈禱にその表現を見出すことなしには、実際に信ずることは不可能である。
 救世軍のブレングル大佐はその著『聖潔の栞』のうちに、彼がもし死に臨んでキリストの全教会に対し最後の一つの勧告を残すように求められるならば、それは「神を俟ち望め」であろうと言っている。しかり、神の御足下ですべての困難は消え失せる。このこと、すなわちわれらの心を強め、われらの眼を開き、耳を開くよう、主の聖前につねに静かに俟ち望むことなしには、実際の信仰の増進はあり得ない。かく神を俟ち望むことは、われらをして、鷲の翼を張って恐怖不信の雲霧を衝いて登ることを得しめ、走れども疲れず、生活の日々労務に歩めども倦まざらしめる。これは闘いであるが、祈禱はつねにかかるものである。
 かく祈禱が闘いであることを実覚するところから、われらのうちの或る人々は、神は人を恵みたもうよう説き勧め機嫌を取らねばならぬ御方であるという危険な考えに陥る。しかし実際にはわれらが恵まれたいという願いに数千倍増して、神はわれらを恵みたく思し召すのである。前世紀の始めの頃の偉大な神の人ジョン・スミスについて次のごとく書かれている。「彼は人々が神が恵むことを欲したまわぬごとく祈ったり、不信仰が単なる弱点であるごとく語ったりするときに、それを悦ばなかった。彼は『人々が神よりもまさって人を恵むことを欲するように語るは嫌悪すべきことである。神の側には何の故障もありたまわぬ。神は御子をわれらに与えたもうた』と言った。かく彼は不信仰のあらゆる誘惑を斥け、神が救うことを欲したもうことを堅く主張することによって、自己を促し励まし罪人のために神に迫り訴えた。彼はまた言った、『私が苦闘論争すべく自己を刺戟鼓舞するは、神を義とすることによってである。祈禱の苦闘の必要は、神が聴くことを欲したまわぬからではなく、われら自身からかあるいはサタンから起こる。神は変わりたもうことはない』と。かくのごとく神を義とし、神がその御子を与えたもうた以上、神の側において何の妨げもないということを信ずる断固たる決意は彼にとって背水の陣であったから、闘って勝つよりほかの途はなかった。これは彼自身にも他人にも議論を許さぬ原理であった。されどどこまでもそれに従い通し、執拗に主張し、すべての障碍、すなわちサタンが抗議し不信仰が示唆しうるあらゆることにもかかわらず、それを訴えて嘆願し通す。これがわれらが彼に見るところの祈りの苦闘であり、彼が自ら魂と肉体とを引き分けられるごとくに烈しかったと語るのを聞いた、信ぜんための苦闘であったのである。」
 私は活ける信仰を創造する祈りの力を例証する一事件を記憶する。私がおよそ十五六年前に働いていた日本のある地方に、無教育で粗野な放埒な酒呑みの漁夫があった。彼は一般にその罪、ことに飲酒の悪癖と戦ったが無益であった。ある冬の寒い夜、彼は小さい講義所の戸口を通るときに、『われに來れ、われ汝らを休ません』という言葉を聞いた。彼はそれまでキリスト教の信仰について一言も聞いたこともなく、活ける神について何も知らなかった。けれども今彼の耳を捉えたこの簡単な御言には非常に感じた。その翌日、彼は伝道者の家を訪い、直ちに熱心な求道者となった。しかし彼はその多くの罪を棄てることを得たが、飲酒だけは離れ得なかった。
 数週の後、私は彼の住んでいるその伝道地を訪問したので、彼を招き面会したが、彼は神とキリストとを信じ、十字架についても明らかな理解をもち、罪も悔い改めて棄てていたが、まだ更生しておらぬ。彼はまだ救う信仰を有たず、依然大酒呑みであった。私は彼の事情と状態を詳しく問い、終わりに、「君は祈ったことがあるか、自己の罪を主に告白して御憐れみを叫び求めたことがあるか」と尋ねた。それに対して彼は、「否、それは私には出来ないことであります。たびたび試みたが駄目でありました。私は神に祈ったことはありません」と答えた。
 私は彼がその高ぶれる心を卑しくし、告白と祈禱のうちにその心を注ぎ出さねばならぬこと、すなわち彼は祈らねばならぬことを明白に示した。かくてわれらはともに頭を下げたが、彼は生涯初めてその唇を開いて祈った。その瞬間彼は自由を得た。信仰が彼の心に湧き出で、主イエスを信ずることを得た。そのときから飲酒の嗜好が去って彼はキリスト・イエスに在る新しき人となった。その後彼は教育を受け、聖書学校で修養し、魂を救い主に導くことに携わっているが、成功せる伝道者のひとりである。
 ウィリアム・ブラムウェルは「信仰は神と栄光とを私に約束されたものとする。私はさらに多くそれを享受せんために励む。日々懇願することなしには、私は沈みまた死ぬ。祈りは常に必要以上である。ここに私は生きる、ただこれのみに生きる」と言っている。しかり、もしわれらが信仰の増進を欲するならば、われらはすべてのことにまさって、つねに恵みの御座におらねばならぬ。

四、黙 想

 『信仰は聞くより出で、聞くは神の言による』 ローマ書十章十七節(英訳)

 われらの魂に益を受けるよう神を俟ち望むにはいかにすべきかということはしばしば起こる疑問である。ただ漠然と空虚な沈黙をもって神の御前にいるということだけは益の少ないこと、あるいは無益なことと言ってもよいであろう。われらは信仰に糧を与えて養いつつ主を俟ち望むために、大いに神の御言を黙想することを要する。神の約束に根拠を置かない祈禱ははなはだ効果のないものになる恐れがある。神の御言の中に、われらは約束の祝福、約束の能力、および聖き生活の可能性を見る。また御言の中に、神がその御言を実行することを欲し、またそれに忠実にてありたもうことを見る。しかしてまたわれらはそのうちで、われらの大敵なる悪魔について読み、信仰を通して神のために大事を成し遂げ、そのために苦難を忍んだ信仰の勇者らについて読む。それゆえにこの聖なる書を読み、また黙想するときに、われらの心は恐れと望みと信仰と愛をもって動かされる。この恐怖、希望、信仰、愛の四つのものは魂の四大原動力である。
 私はひとりの若いヘブル人を思い起す。感謝すべきことには、彼は今は熱心なキリスト信者で、主の葡萄園にいそしむ働き人であるが、以前は新約聖書、否、実際聖書全体に対してはなはだ僻見を懐いていた人である。この人は接神術のために惑わされていたが、われらの家にしばしば来訪するようになってから、罪を自覚し福音の真理を信ずるようになった。ある日、私が新約聖書のある箇所を開いて、接神術の虚妄を示したとき、彼は私が聖書から読むを聞く、その耳を信じかねるようであった。その時まで、彼は知的には福音の事実であることを認めながら、まだ救いに至る信仰を有っていなかったが、その時から自身で聖書を読むことを決心し、数週を経ないうちに、信仰のその心に湧き出るのを見出したのである。しかしてその年の過越の週の最後の日、彼は神に降服し、キリストを彼のメシア、贖い主として受け納れた。これは神の御言がその働きをなしたのである。『信仰は聞くより出で、聞くは神の言による。』さればわれらもこの幸いなる聖書に打ち込んでいこうではないか。かくわれらがその聖き紙面の上に讃美告白祈禱をもって頭を垂れるときに、活ける、愛情ある、喜ばしき信仰がわれらの魂の中に、泉のごとく、湧き出ずるのを覚えるに至るであろう。

五、働かすこと

 『すべて有てる人は、與へられて愈々豐ならん。然れど有たぬ者は、その有てる物をも取らるべし』 マタイ伝二十五章二十九節

 われらのすでに学び来ったごとく、讃美はうるわしいことで、告白は至当な正しい、われらの負える義務であり、祈禱はわれらの呼吸そのものである。しかしてわれらが活ける信仰に「ますます進まん」ことを願うならば、聖書の黙想はまた欠くべからざることである。しかしながら、もしわれらがすでに有つところのものを働かさないならば、これらのこともわれらに役立つことが少ないであろう。ある意味では『われらの信仰を增したまへ』(ルカ伝十七章五節)という祈りは正しい求めとは言い難い。かの時に主は全き愛について語りつつありたもうた。しかして人が彼らに対して罪を犯し、怒らしめるような仕向をしても、つねに赦すべきことを命じたもうたのである。弟子等はそのことのいかに不可能なことかを感じ、かかる天的の愛を得る秘訣は正しく信ずるにあることを知り、われらの愛でなく「われらの信仰を増したまえ」と叫んだのである。弟子等はちょうど若干の金を持つ人が今少し多くの金を求めるように、すでに何程かの信仰を有っているが、もっとその供給を増していただきたく願うという考えであったのである。これに対して主は「結局信仰というものはそんな風に増加するものではない。信仰というものはいかに小さくてもその中に生命の原則をもっている種子のごときもので、もしわれらがその生長を妨げず、それを用い、それを働かし、自己の魂にそれを当て嵌めるならば、自ずと生長するものである。しかして愛のない、赦さない精神の、果を結ばない樹はそれによって根抜きにされる」という意味でお答えになったのである。
 幾度も主は信仰をもってその御言を出したもうた。その御力のために聖父に祈りたまわず、ただ命令の御言を出したまえばそのことがなされた。使徒等もそのとおりであった。ペテロがただ言葉を出しただけでかの跛者は癒された(使徒行伝三章六節)。ペテロは彼のためにも、あるいは彼とともにも、祈ったのではない。それは主が『此の桑の樹に「拔けて……」と言ふとも汝等に從ふべし』(ルカ伝十七章六節)と仰せられたその通りであったのである。
 さればわれらは「われらの信仰を増したまえ」と神に叫ぶ代わりに、しばしばわれらの有つものを用いることに気を付ける必要がある。かくすればわれらの要する信仰は与えられるのである。われらが自分を害した人に対する赦しを自ら感じるよりもむしろ赦しを実行すれば、その信仰はわれらの心から、悪い、果を結ばぬものを投げ出してしまうことを体験する。もちろんそこに多くの困難のあることも真である。ザアカイが主を見奉ろうとして出掛けたときに、群集のためにその途を塞がれ、眼界も遮られた。血漏を患える女が救い主に触ろうと決心したときにも群集によって妨げられた。四人の者が中風の友をキリストに連れ来ったときも、その近づく道はみな塞がっていた。けれども彼らは皆その有つ信仰を働かせて敢えて突き進み、そのまま信じ続けたので勝利を得、主よりお褒めを戴いたのである。
 神の民たる者はみな、民数記二十七章に記されてある、ゼロペハデの娘らのごとくありたいものである。彼女らは孤児で、受けるべき産業に関する何らの律法もなかったが、彼女らはその要求を訴え、その必要を論じて勝利を得た。神は彼女らの信仰を嘉し、ただ彼らに産業が与えられたばかりでなく、未婚の女子はつねにその兄弟らの中に産業を受ける権利のあることが律法とされるに至ったのである。

六、立 証

 『それ人は心に信じて義とせられ、口に言ひあらはして救はるるなり』 ローマ書十章十節

 神に対する信仰の強められ深められるために、なおなすべき肝要な事がある。それはわれらが心に信ずるところ、また神のわれらのためになしたまえることをば、大胆にまた逡巡せずして証を立てることである。
 近頃、深い認罪をもって私に会いに来た人があった。この人は神がかくも大いなる罪人を赦したもうことを信じかねて、甚だしく泣いていたが、われらが共にひざまずいて祈ったときに、彼は心を注ぎ出して告白したので、私は彼に約束を示してそれに頼らしめた。けれども彼がその見出した救いを旧友らに証しするまでは、彼の魂はまだ全き自由を得ず、救いの喜びも味わい得なかった。しかし彼がその証をなすや否や、即刻救いが来り彼は自由を得た。しかして今日まで何処でも、罪人の頭を救いたもう神の憐憫と恩恵を証し続けている。
 救いにおいてもその通りであるが、聖霊のわれらを導き入れたもう一層深い聖潔の経験においてもその通りである。かのジョン・ウェスレーによって、恐らくは使徒ヨハネ以来の最聖なる人と思われた、マデレーの牧師ジョン・フレッチャーについて、ヘスター・アン・ロジャース夫人の語れるところは次のごとくである。
 「かの親愛なる神の友フレッチャー氏は今のフレッチャー夫人なるボサンケット嬢とともに上流社会の人々に会うべく入来した。……そのとき氏の語られた言葉は「わが愛する兄弟姉妹よ、神はここに在す、私はここに神を感ずる、されど私は伏してわが面を塵に隠したいように思う、それは私が、神のわがためになしたもうたことを公言するを恥じていたからである。数年の間、私は御霊を憂えしめ奉った。……されど過ぐる水曜日の晩、神は『己を罪につきては死にたるもの、神につきては、キリスト・イエスに在りて活きたる者と思ふべし』(ロマ書六章十一節)という御言を告げてわが魂を回復したもうた。私は神のこの御声に順った。今もそれに順って、神の御愛を頌めるために、私は罪より自由にせられていると敢えて諸君に告げる。私は以前にも四度五度この恵みを受けた。けれども『人は心に信じて義とせられ、口に言ひあらはして救はるるなり』とわれらに語りたもう神のご命令に順わなかったためにそれを失った。敵は主のなしたもうたことを公言せしめぬよう種々の口実をもって誘った。
 「私が最初にこの恵みを受けたとき、サタンは私がもっと多くその果を見るまで、しばらく待つように誘った。私はその如くなそうと決心した。けれども私は間もなく、心に感じていたその証を疑い始め、少時にしてその恵みも証しも共に失ったことに気付いた。
 「次の時は(私は恥じて言う)、『汝は公の立場にいる、すべての人が目を注いでいる、されば……』という暗示によって証しすることを止められた。私は黙した。かくして再び神の賜物を没収された。そのほかの時には、『汝の証を受ける神の子等はあまりなかろう』という理由に負けて隠してしまった。しかして哀しいかな、『主のタラントを隠しおきて働かせざりし無益の僕よりはその有つところのものさえ取り去らるる』ことを如実に経験した。
 「今わが兄弟姉妹よ、諸君は、私の愚かな失敗を見られた。私は諸君にそれを告白した。いま私は諸君の前にわが主を告白することを決心した。聖三位一体の神の御前に、私は罪について実に死ねる者と公言する。しかして記憶せられよ、これは全くイエス・キリストを通じてである。彼はわれらの預言者、祭司、また王、わが内住の聖、わがすべてのすべてにています」と。」
 われらもまた聖徒フレッチャーのごとく、謙遜と大胆の限りを尽くし、神の栄光の頌められるために、神が我らの信仰に答え、その御霊によってなしたもうたところを語りたい。かくすればわれらの信仰は「大いに増し加わり」、われらの救い主なる神を知る知識に成長するであろう。

七、奉 仕

 『信仰もし行爲(おこなひ)なくば、死にたる者なり』 ヤコブ書二章十七節

 最後に今ひとつ言いたい。もし神に向かうわれらの信仰を成長せしめ満ち溢れしめたいならば、われらの心を他人に向かう奉仕に進出させて行かねばならぬ。今日のキリスト教会に要するものは、十字架を負う精神である。願わくは、主の子供らが「罪人が救われ、神の崇められることを見ないならばむしろ死んだ方がましである」と感ぜんことを! されど哀しいかな、哀しいかな、われらはかかる経験より遙かに遠く隔たっている! 真に救われている多くの人々は、失われた者を求めようと何らの企てもしない。さればリバイバルが来らず、心中の信仰もはなはだ鈍く、昏睡状態に堕落するものもむしろ怪しむべきではない。
 タラントの比喩において、怠れる僕の誤りは銀行がその近くにあり、いつでもその銀を働かせ、預金に利子を付けようと待っているに、それを認めぬところにあった。換言すれば無知の不信仰であったのであるが、今日のキリスト者もその通りである。すなわち聖霊が彼の側に在して、彼と共に、また彼のために働こうと待っていたもうに、それを認めようとせぬ。ここに彼の愚があり、彼の罪があり、彼の不信仰がある! われらも人々のために仕えるよう励み進み、人々の心に認罪と救いを来らすために、聖霊に依り頼むことをなすべきである。「それは出来ない」と言ってはならぬ。それは出来る。『信ずる者には、凡ての事なし得らるるなり』(マルコ伝九章二十三節)。もしただわれらが信仰の祈りの大砲をもってわれらの攻撃戦を準備するならば、敵の砦を粉砕し、その陣地を占領し、人々を虜にしてイエス・キリストに連れ来ることは不可能ではないのである。
 現時の戦争は霊の戦いにも驚くべき教訓を与える。もし砲兵がその攻撃をなし遂げる前に歩兵が進出するならば、敗北のほかはない。救霊戦においてもそのとおり、信仰の祈禱なしに、その友人をキリストに導こうとして失敗を招いた人はいかに多きことであろう。
 されば、邁進せよ! 失われた者を求めよ。君の心と奉仕を人々の救いのために、友人、親族、知人、また未知の人々の救いのために献げよ。堅く心を定めよ! リビングストンは「我は失望を拒否する。我はただ讃美せんのみ!」と言った。君もかく言え。魂に向かうさらに多くの愛を求めて、神に叫べ。しかしてまたそれがなし得られることを信じ、君を通して罪人のシオンに向かい帰り来ることを信ぜよ。かくて君の信仰と聖き生活は相伴って進歩するであろう。
 されば、感恩の讃美、謙りたる告白、不断の祈禱、聖言の黙想、信仰を働かすこと、恵みを証しすること、神に奉仕すること、これらは信仰増進の道である。われらもこれらの道に沿うていそぎ進み、
    『聖別されたる心が、愛に満たされ
     汚染なき生涯が、讃美となる』
に至るべきである。



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