霊 魂 の 安 息

(ヘブル書第三、四章)


 
 ヘブル書四章九節に『神の民の爲になほ安息は遺れり』とありますが、この安息は、主イエスが『凡て勞する者・重荷を負ふ者』の御自身に来る時に彼らに与えたもう安息に加えて、ただに彼に来るのみならず、その軛を負いて御自身に学ぶ者に得せしめたもうところの霊魂の安息、すなわち第二の安息であります。
 しかしてこの安息がヘブル書の三章と四章に取り扱ってありますから、私はこれに従ってこれを学びたいと思うのであります。しかしそれはこの安息そのものより、むしろこの安息に入る秘訣の研究であります。
 諸君のまず知り置くべきことは、今ここで入るべく、我らのために遺されあるところの安息という恩恵のあること、すなわちカナンの地の経験というものは今の世における我らの生涯中の経験で、死後を待って入るべきものでないということであります。
 さてヘブル書第三、四章を開けば、そこにこの約束の地に入る四つの秘訣が示されております。すなわちキリストを思い見ること、聖霊の声を聞くこと、神の御言に聴き従うこと、および恵みの座に来ることであります。私がこれより子供に語るごとく、望遠鏡、電話、蓄音機等の比喩を用いてこれを説明することを許されよ。

      第 一  望 遠 鏡
            ヘブル書三章一〜六節

 ヘブル書の記者が我らに示す、カナンの地に入る秘訣の第一は、我らの使徒たる、すなわち我らの生涯の旅路における指導者モーセとしての主イエスを観察することであります。英訳聖書のヘブル書に一様に consider と訳されている三つのギリシャ語があります。第一は三章一節にある語で「注意深く観察すること」を意味し、第二は七章四節にある語で、むしろ「感嘆して見ること」を意味し、第三は十二章三節にあって「比較する目的で観察する」意味であります。第一は主がいかに忠実にいますかを思い見よと言い、第二はいかに大いなるかを思えと言い、第三はいかに忍耐深きかを思えと言うのであります。
 英訳語の consider について、多くの語源学者はこれはラテン語の sidus すなわち星座という語に関係していると言っておりまして、天文学者の観測を連想せしめます。されば私は諸君がこの第一の秘訣を学ぶために、天的天文台に入りて望遠鏡を用いることをお勧めする次第であります。
 さてそのために用いる天的望遠鏡は神の言であり、そのレンズは信仰のレンズであります。ついでに申しますが、ここに consider と訳されているその同じギリシャ語は、民数記三十二・八〜九の七十人訳に、約束の地を「観る」というところにも用いられています。そこでは約束の地を観ることが命ぜられ、ここでは約束の地に導き入らしめたもう御方を思い見ることが命ぜられているのであります。
 ここでまた注意して頂きたいことは、いま我らをカナンに導く忠実なる指導者として主イエスを観察するは、福音書に描かれおるところに従ってでなく、旧約書において、モーセにより予表されおるところに従ってであるということであります。諸君の記憶せられるごとく、モーセの生涯を一貫する彼の熱望は、啻にその民をエジプトより導き出すのみでなく、カナンの地に導き入れることでありました。彼はこの一事のために、生き、労し、祈り、また苦を忍びました。されば今キリストを見るにあたっても、信仰のレンズを通してかくのごとき御方として彼を拝し奉りたいと思うのであります。主イエスの御熱望、その唯一の御願望、その御禱告、またその現在の御働きは、その貴い御血によってエジプトより引き出したもうた御自身の民を乳と蜜の流れるカナンの地に導き入らしめたもうことであります。我らがそこに入ることを願うに遙かにまさる熱心をもって、主は我らをそこに導き入れんことを願いたもうのであります。ハレルヤ!
 我らはモーセの生涯の多くの出来事を通して、キリストのこの幸いなる御願望を学ぶことができますが、おそらく最も顕著なるは、モーセの祈禱生涯とその多くの祈禱でありましょう。
 福音書は多くキリストの祈禱を録しておりませぬ。もちろん主が祈禱に多くの時を費やしたもうたということを学びますけれども、そこに幕がかかっています。我らに主が何を祈りたもうたかは示されておりませんが、ただヨハネ伝十七章における、主の最後の祈禱においてそのご嘆願が顕れておりますから、折をもって諸君がこれをモーセの祈禱と比較して学びなさることを勧めます。されば諸君はそこに両者の間に、不思議なるまた驚くべき相似点のあることを見られるでありましょう。
 さて、モーセの祈禱生涯に二つの危機がありました。第一はイスラエルの民が偶像崇拝に陥った時(出エジプト記三十二・一〜六)、第二は彼らが不信仰によってカナンの地に入り損なった時であります(民数記十四章)。
 私は今この第一の場合について考えましょう。出エジプト記第三十二章より三十四章までを見られよ。ここにモーセの六つの祈禱があります。しかして第七のものは申命記九章二十節に見られます。諸君はこの時における、彼の祈禱における苦闘の事情をよく知られるでありましょう。すなわち今、神は新しきことをなさんとしていたまいます。これまで雲の柱、火の柱、その他の方法をもってその民を導きつつありたもうた神は、シナイ山より後は、降ってその民の中に住まわんとしたもうのであります。かくて内住の神となりたもうというわけであります。モーセはために、かかる御奉仕の天の様式を授かるよう、山上に召されたのであります。かかる次第なれば、地獄に大騒動が起こり、悪魔がその奸計を尽くして反対運動を策するも決して怪しむに足らぬのであります。されば民は彼に眩まされ欺かれて、彼らを導き出したのはエジプトの金であると信ずるようになり、ついに彼らを導くために偶像をつくり、誰にも見ゆるようにその中に立てたのであります。かく彼らは自ら内住の神を作ったのであります。しかしてその結果どうなったかは、今それを繰り返して語るを要しませぬ。
 この場合におけるモーセの祈禱の苦闘の詳細は出エジプト記に鮮やかに録されております。モーセは七度主を求め、七度勝利を得て、ついに再びその民が神の嗣業の民として受け入れられるまでに至ったのであります。七度、モーセは『神の全家に忠實』(ヘブル三・五)でありました。おお願わくは、かくのごとき禱告者としてのキリストを見奉らんことを! またかく見奉りて、深く悔い改め、畏懼をもって喜ばんことを!
 さればこれより、祈るモーセをば簡単に観察し、彼を通して祈禱のキリストを見奉らんことを!

    第 一 の 嘆 願 (三十二・七〜十四)

 神はイスラエルの御自身の民たることを拒否し、彼らをモーセの民と呼び、彼らを導き出したるはモーセであると言い、彼らを全く亡ぼしてモーセに一つの民を興さしめんと仰せたもうた。モーセはこれを聞くや、直ちに答えて、否、彼らはわが民にあらず、彼らを導き出せるは我にあらず、彼らは汝の民、汝の導き出したまえるところであると叫び、かくて、第一に神の贖いの御力(十一節)、第二に神の御名の栄誉、すなわち敵等の御名を瀆さんことを恐れ(十二節)、第三に神の先祖等に対する御約束(十三節)に訴えて、彼らの赦罪を求めるのであります。何たる訴え、何たる大胆! 神の栄光に対する何たる熱心ぞ! されば神がこれに聴き、また答えたもうことを怪しむべきか、否、『ヱホバ是においてその民に禍を降さんとせしを思ひ直したまへり』と録してあります。

    第 二 の 嘆 願 (三十二・三十一〜三十二)

 モーセは再び上り行き、啻に神の御怒りを引き返すばかりでなく、充分かつ自由なる赦罪を求めましたが、神は再び彼に答えて、彼らを赦し、約束の地に導き上るよしを仰せたもう。但しただ一つの厳かなる審判の言葉を加え、神の彼らの中に住みたもうという全計画を取り消す由を宣言したもう。すなわち神は彼らの中にありて行くことをせず、一人の天使を遣わして彼らの嚮導とならしめんと仰せたもうたのであります。

    第 三 の 嘆 願 (三十三・十二〜十三)

 この御宣言はモーセの耐え得ざるところでありましたので、モーセはこの御仰せをお受け申し上げることを断り、再び訴え祈り、またお答えを得ました。神は恵み深くも、御自身の臨在のモーセと偕に行きて、彼をして安泰(やすらか)ならしむべき由を仰せたもうた。断然たる信仰に何たる勝利の来ることぞ(十四節)。

    第 四 の 嘆 願 (三十三・十五〜十六)

 されどモーセはこれをもってさえも満足せぬ。彼は再び主に帰り、神が御自らと偕に行くと仰せられたそのご恩恵を感謝すると共に、「否、わが祈り求めるところは、単にご臨在のと偕なることでなく、汝は我らと偕に行きたまわねばならぬ」と祈り求めるのでありましたが、主はこれにも彼に聴き、答えて『汝が言へるこの事をも我爲さん』(三十三・十七)と仰せたもうたのであります。

    第 五 の 嘆 願 (三十三・十八)

 されど、この老族長モーセはなお進んで、『願くは汝の榮光(さかえ)を我に示したまへ』、汝の栄光を示すことによって、この懇願に印したまえと祈りましたが、主はまたこれに答えて、その善を顕したもうた。しかも彼を圧倒するほどに、砕き熔かす仕方にて顕したもうたので、彼は急ぎ地に伏して拝したのでありました(三十四・五〜八)。実に主のかかる善と恩寵と憐憫とが、かくも頑固な、我が儘な、反逆の民のうちに留まることができるとは! 実に信じられぬほどのことであります。

    第 六 の 嘆 願 (三十四・九)

 モーセは神の御前に全くひれ伏しながら、なお祈りを続けるのであります。願わくはなお一つのことをなしたまえ、すなわち我らを取りて汝の嗣業の民となしたまえ、我らをしてかつてありし地位にあらしめたまえ、この回復を全からしめたまえと。しかして神はそれをも許して彼の要求するところを与えたもうた。民は今、神の臨在と恵みと特権にまで、全く回復したのであります。
 神の人モーセはかく祈禱に力あり、神の全家にかくも忠実であったのであります。
 されば、失敗し、疲れ、しかもなお肉的であり世的である、愛する霊魂よ。この天的望遠鏡を通して君の信仰の導師なる主イエスを見よ。さらばここにこの天の大空に何たる幻示の君の目に映ることであろうぞ! それは君が約束の地に進み入り、そこに住み、避け所を得、守られ、導かれ、赦され得るように、君のために燃ゆる切願をもって満たされたる主イエスである。ハレルヤ! 更に言う、ハレルヤ!
 愛する友よ、私を信ぜよ。君がもし、君の信仰の使徒たる、君のモーセたる主イエスをば、かくのごとく見奉るのでなければ、君は決してカナンに達し得ぬであろう。
 これは第一の秘訣である。願わくは天の天文台に入り、神の御言の望遠鏡を用いよ。さらば君は必ずイエス御一人を見奉ることが出来るであろう。

      第 二  電 話
            ヘブル書三章七〜十九節

 約束の地に入る第二の秘訣は聖霊の御声を聴くことであります。第三の秘訣は神の蓄音機に耳傾けることでありますが、ここで暫く天的電話を聞きたいと思います。
 諸君は新約に二つの声のあるのに気付かれたことでありましょうか。ヨハネ伝三章を見れば、そこに主イエスは繰り返して『我汝に告ぐ』と仰せられておりますが、十一節にいたって『我ら知りしことを言ひ、見しことを證するに汝らは我らの證を受けず』(元訳)と主格が複数に変わっているのは何故でありましょうか。主と偕に証しする今一人の証人は誰でありましょうか。前の節を見れば、それが御霊の声を指すということがわかります。語りたもうは御霊であります。しかしてその御声を聞く者のみが上より生まれた者であると言います。
 黙示録三章二十節に、復活の主は『人もし我が聲を聞きて』云々と言い、その後『耳ある者は御靈の諸敎會に言ひ給ふことを聽くべし』(二十二)と仰せられています。願うは語りたもう御霊に耳傾けんことであります。
 さればここに天的電話があります。英語の telephone(電話)は二つのギリシャ語からできています。phone は声を意味し、telephone は遠方から語る声、gramophone は記録した声でありますが、霊界においても、遠くより語られる声(telephone)と記録した声(gramophone)とあります。
 さて約束の地に入る秘訣の第二は御霊の声に耳傾けることであります。御霊は今なお、その御声を待ち望み、心を用いて聴かんとする者に語りたまいますが、その御使言は何でありましょうか。『かれ來らんとき世をして罪につき‥‥‥過てるを認めしめん。罪に就きてとは、彼ら我を信ぜぬに因りてなり』(ヨハネ十六・八、九)と仰せられました。私は、御霊が彼を待ち望む者に『心せよ、恐らくは汝等のうち活ける神を離れんとする不信仰の惡しき心を懷く者あらん』(ヘブル三・十二)と仰せられることを信じて疑いませぬ。天的望遠鏡は我らの眼を天に在すキリストに向かわしめ、御霊の天の声は我らの内部を顧みさせます。しかしながら、その声の我らに思い出さしめるは我らの多くの罪、霊的姦淫、偶像崇拝、俗化などでありませぬ。もちろんこれらはみな内心の病の兆候でありますが、聖霊は我らの視線をその原因、すべての苦悩の根源に向けしめたもう。しかり、ただ御霊のみがよく不信仰が罪であることを我らに見せしめたまいます。我らには容易にその真相がわからず、不信仰は罪であるにしても、多くの罪の中の一つであるか、或いは一種の妨害物くらいに見えるかも知れぬ。けれども御霊のみよくそれがすべての悪の根源であることを明らかにしたもうのであります。
 しかして、我らは天の電話なる聖霊の御声によって、不信仰の悪しき心を認めるまでは、決して約束の地に入ることはできないのであります。不信仰は一つの行為でなく心の有様であり、心の態度でなくしてその状態であります。それは例えば針で刺す痛みのごときものでなく、内部にあって痛みを起こす毒であります。それは単なる蛇の欺きでなく、彼が注射した病毒であります。これこそ『世の罪』そのものであります。H・ボーナー氏は「この大真理を決して見逃すな。霊魂のすべての苦痛を起こす根であるところの君の衷なる悪は、神に信頼せざることである」と言っている。
 不信仰は疑惑と同一でない。疑惑は知的であるが、不信仰は心のことである。信者の場合においてはその不信仰は意志にあるのでなく、意志よりも遙かに深いところにあるのであります。罪人は、最後の大敵なる死に直面するまでは、不信仰より来る苦しみというものを決して感ぜぬが、神の子等の場合は、それは霊魂に痛切なる苦痛を感ぜしめるものであります。
 それは正に地上の地獄であります。今日、露国の惨状は人々の不信任、邪推、不信仰に原因しております。不信仰は人を頑なにするものであり、すべての罪の罪で、最も恐るべきものであります。
 もし我らがただ聴くことさえするならば、天の電話は我らの霊に答えて『心せよ、心せよ、恐らくは汝等のうちに‥‥‥不信仰の惡しき心を懷く者あらん』と警告したもうでありましょう。
 願わくばいま我らに恵みを施し、我らをして耳傾けて学び、神の大能の御手の下に自己を卑くし、我らの不信仰を皆、罪と汚れを清めるために開かれたる泉に持ち来りて、転ばし終わらしめたまわんことを。アーメン。

      第 三  蓄 音 機
            ヘブル書四章一〜十二節

 約束の地に入る秘訣の第三はヘブル書第四章に記してあって、それは録されたる神の御言葉に耳傾けることであります。されば私はこれを蓄音機と呼ぶのであります。
 反対論者は必ず、「カナン入国の話を我らの経験に当て嵌めるは見当違いである。それは単なる歴史の一節で、今日の我らの関心事ではない。数千年前のイスラエル国の歴史が我らに何の関係があるか」と言うでありましょう。されどヘブル書の記者はかかる故障を見越して『そは彼等のごとく我らも善き音信(おとづれ)を傳へられたり』(四・二)と言っております。我らはちょうどその反対に「我等のごとく彼らも善き音信を伝えられたり」と言ったらば善かろうと考えやすいのでありますが、もしこの物語が単なる歴史に留まるならば、多くの世紀を経たる今日、ここに持ち出される理由はありません。それが既に不要に属することならば、なぜ聖霊が詩篇の作者ダビデを通じて、それについて再び語りたもうたでありましょうか。しかり、『若しヨシュア既に休を彼らに得しめしならば、神はその後、ほかの日につきて語り給はざりしならん』(四・八)であります。否、それは単なる歴史でない。聖書は、これが我らの教訓のために録されており、すべての約束はキリストの中で是となり、またアーメンとなるのであります。
 既に世を去りたもうた我らの主の書き録されたる御声は、御霊の活ける声と精確に一致しております。すなわちこの蓄音機の使言は電話の告げるところと同じであるのであります。
 御言には生命あり、能力あり、両刃の剣よりも利くして、精神と霊魂、関節と骨髄とを透し分かち、心の思いと志とを験すのであります。さればその刺し通す御声を遁れることはできませぬ。これを語った人の唇は、久しき前に既に墓に降って沈黙すれども、その声は神の御言のページに記録せられて、活ける声として聞こえるのであります。我らはこれに注意せねばなりませぬ。
 もし我らが心に語りたもう御霊の声の響きだけを聞くならば、それがただ自己の心の想像また錯覚であると考えて、遁れることもできようが、かく考えおる者にも、真に惑い苦しんでおる人にも、天の蓄音機は『二人の證は眞なり』(ヨハネ八・十七)と告げたもうのであります。実に『我ら懼るべし、その安息(やすみ)に入るべき約束はなほ遺れども、恐らくは汝らの中にこれに達せざる者あらん』(四・一)。されば御言に従いて心せよ。

      第 四   結  論
            ヘブル書四章十三〜十六節

 かく論じ来ったその結論は何であろうか。我らは既に天的望遠鏡をもって、いかにもして我らを約束の地に導き入れんと、我らのために訴え祈りつつありたもう、山上のキリストを見ました。不信仰の悪しき心という恐るべき一物に心すべく、懇ろに勧めたもう天よりの御霊の声に耳を傾けました。神の蓄音機に振り向き、久しき前に世を逝った聖き母の吹き込み遺せるレコードにてその懐かしき歌に聴き入る者のごとく、死してなお物言う人の言葉に耳傾けました。おお彼らの語るところを徒に聞き過ごすことなからしめよ。
 さらば我らは今いかになすべきか。ヘブル書の記者は『この故に我ら憐憫(あはれみ)を受けんが爲、また機(をり)に合ふ助となる惠を得んがために、憚らずして惠の御座に來るべし』(四・十六)との幸いなる言葉をもってこれを結んでおります。
 もし我ら、神の命じたもうところに随いて求めるならば、我らの罪や失敗や恥辱のために大胆に近づくことを妨げられる要はありません。
 して神の命じたもうところはと言えば、それは我らがまず『憐憫』を求め、その上で『機に合ふ助となる惠』を求めることであります。悲しくも、多く人の求めが無益に終わるは、彼らが、その要するところはただ『助となる惠』であると思うからであります。けれども実際はそうでありませぬ。しかり、君はなお一層深い御声を要することを知らねばなりませぬ。その深い御声をば、ジョン・ウェスレーは「信者の悔い改め」と呼んでいます。実際において、我らは神の大能の手の下に自ら卑くして、神の恵みよりもまずその憐れみを求むべきであります。しかしかく自ら卑くして悔い改めることは、すべてを神に献げるよりも比較的に容易でないのであります。
 さればこの天の順序を無視せぬように心せよ。まず深い悔改があるべきであります。必要ならば人に対しても悔い改めねばなりませぬが、すべての場合、神に対して悔い改め、不信仰の悪しき心によってなお曠野の生涯を送っていたことを、砕けたる心をもって神に告白すべきであります。その上で謙遜なる大胆をもってその要求を訴え迫るならば、確かに『機に合ふ助となる惠』を得るでありましょう。すなわち我らを約束の地に入らしめる恵み、しかしてその後、我らがつねに神の永遠の栄光の中に住み得るよう、その地のすべての敵を追い払いたもうその恵みを受けることができるでありましょう。アーメン
 


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