内 住 の 基 督


 
 『心の中にキリストを主と崇めよ(聖別せよ(sanctify)=欽定訳)。また汝らの衷にある望みの理由を問ふ人には、柔和と畏懼(おそれ)とをもて常に辯明すべき準備(そなへ)をなし』(ペテロ前書三・十五)

 どうぞ『聖別』なる語に注意して頂きたい。崇めるでも即位せしめるでもない、『聖別』であります。これには、確かに、聖なるキリストに対するすべての反逆とすべての悪との聖別が含まれております。しかして次に命ぜられるは、私共の衷にある望み、すなわち『我らの衷に在すキリスト、榮光の望み』の理由を問う人には、常に弁明すべき準備をなせとのことであります。実際かくありたいものであります。キリスト衷に宿りたもうといかにして知るかと尋ねるすべての人に、常においそれと答え得るように、しかも本物を持っているならば柔和と畏れとをもって応答することでありましょう。実際、逃れたきは、今日多くの証詞の特徴である、かの恐るべき手製の確信と独断な自信で、私共はむしろ聖霊の静かなる確信に満たされとうございます。これこそは真に甘美なるもの、柔和にして自らは畏れ戦きつつあり、他をして首肯せしめずしては止まぬ態のものなのであります。
 さらば私共の聖書研究の主題は内住のキリストであります。これこそは、そしてただこれのみが、すべての真の聖潔の源であります。これなくしては心と品性、また生涯の聖潔なるものはあり得ない次第であります。

    キリスト衷に顕さる

 『然れど母の胎を出でしより我を選び別ち、その恩惠(めぐみ)をもて召し給へる者、御子を我が内に顯して其の福音を異邦人に宣傳へしむるを可しとし給へる時、われ直ちに血肉と謀らず』(ガラテヤ一・十五、十六)

 世に対してではなく、己の民に自らを顕したもうとは、主イエスがこの世を去りたもう前になされた最大最高の御約束であります。ここには『御子を我が内に顯す‥‥‥を可しとし給へる時、われ直ちに血肉と謀らず』とあって、このパウロの内顕現はかのダマスコ途上の顕現ではないことは明らかであります。
 主ご自身が霊魂に現実にせられ、内に顕され、不断の臨在をなしたもう、これが聖潔であり、これが天であります。しかも聖パウロは言う、これは一つの目的をもった経験、すなわち『キリストを異邦人の間に宣べ伝えんがため』であると。私共はこれなくしてもキリスト教を伝えることはできましょう。しかしキリスト御自身を伝えることはできません。ここに救霊者の缺くべからざる要素、異邦伝道者の本質的要素がある次第であります。人種の何たるを問いません。
 しからば、私共が有力なる救霊者、人を漁る者、また十全なる福音のよき音信の宣伝者たり得んために、キリストの私共の内に顕されんこと、これこそは私共の目標でなければなりません。

    キリスト衷に形作らる

 『わが幼兒よ、汝らの衷にキリストの形成るまでは、我ふたたび産の苦痛(くるしみ)をなす』(ガラテヤ四・十九)。

 キリストが衷に『顯さるる』時、彼は私共の霊魂に現実となり、私共の霊魂の眼に鮮やかになりますが、彼が衷に『形成る』時には、彼は他の人々にも見られるに至るのであります。かくて私共の衷にキリストの御姿を拝し見る人々は神を崇め、自らも私共の主のごとくならんことを願うに至るのであります。聖徒パウロはかつてひとたびこれらガラテヤの悔改者のために言わば産みの苦しみをしたのでありますが、今や再び同じ経験を通りつつあります。キリストが彼らの衷に全くその御形を成したまわんことをとはパウロの切なる憧れであったのであります。ガラテヤ書を一瞥する時に、これはいよいよ明瞭になって参ります。
 一章から二章十四節までにおいて、使徒は己が生涯の弁明を致しておりますが、二章十五節より二十一節においては彼の福音、すなわち『神の子の信仰による称義』(十六節)と『神の子の信仰による聖潔』(二十節)を暗合的な風に提供し、さらに進んでその各々の経験を開陳しております。三章においては彼は称義を取り扱い、アブラハムの福音もキリストの福音も同一であって、モーセすなわち律法はその中間にあるものであると語っております。私共が義とせられるは恩寵により、約束により、信仰によってであります。モーセはただ一時的の必要に迫られてのことにほかなりません。今や律法は廃せられてしまいました。しかして私共は再び恩寵に還っておるのであります。
 四章において聖潔の問題に移りながら彼は申します、モーセとその律法とは表面上は全くその姿を隠しながら、なお律法の精神は信者の経験の中に留まっていると。彼は私共を語らってアブラハムの天幕を訪れしめます。そこに見出されるはイサクと共に、奴隷女とその子──ハガルとイシマエルでありますが、使徒は言う、そこにこういうもののおる間は少しの自由も成長も、ないしは喜びの盈満もあり得ないことを見よと。『婢女とその子とを逐ひいだせ』(三十)。ハガル──その名は流浪。奴隷ハガル──その務めは束縛。エジプト人ハガル──そのホームはエジプト。不安焦燥、束縛、この世──これらはまず逐い出されるべきであります。しかして後初めて御子キリストは私共の衷に形作られるを得るに至る次第であります。キリストの形! これはいかなる形でありますか。使徒をして言わしめれば、『彼は‥‥‥僕の貌をとり』(ピリピ二・七)であります。衷にキリストの形成るとは霊魂の謙遜を意味いたしましょう。その霊は仕えることをもって最高の光栄と心得るに至るのであります。

    キリスト衷に歩みたもう

 『われ彼らの中(うち)に住み、また步まん。我かれらの神となり、彼等わが民とならん』(コリント後書六・十六)。

 ここに今一つの恵み深き御約束、聖父との交通また交際の御約束があります──『われ汝らの父となり、汝等わが息子・娘とならん』と(十八節)。
 原語において『子等』と『息子』との区別を注意するは大切なことであります。これは二つの各異なった経験を示す、二つの全く異なった言葉であります。そこでここにある約束は、内住のキリストは私共を第二の経験たる『息子たること』に導き入れるということであります。
 『父の約束』がエリシャに臨んだ時、今まで『主』と呼んでいたエリヤに対して最初に口を衝いて出で来った言葉は、『わが父、わが父、イスラエルの兵車よ、その騎兵よ』(列王紀下二・十二)でありました。私共の心は一つのエデンとなるべきで、そこに私共の父なる神は昔アブラハムとなしたもうたように、今も私共と共に歩みたもうのであります。
 キリストが来って私共の衷に宿りたもう時、主が地上に楽しみたもうた父との交際の関係はそのまま私共の心に移されます。主の地上最初の御言葉として録されるは『父』であります。『我はわが父のことを務むべきを知らざるか』(ルカ二・四十九)。これはまた架上最後の御言葉でありました。『父よ、わが靈を御手にゆだぬ』(ルカ二十三・四十六)。その甦りの後に録される最初の御言葉も、『我はわが父、即ち汝らの父‥‥‥に昇る』(ヨハネ二十・十七)でありました。
 私共の心の内に宿りかつ歩みたもうキリストは、その霊により断えず『アバ父よ』と呼びたもうでありましょう。

    キリスト衷に生きたもう

 『我キリストと偕に十字架につけられたり。最早われ生くるにあらず、キリスト我が内に在りて生くるなり。今われ肉體に在りて生くるは、我を愛して我がために己が身を捨て給ひし神の子を信ずるに由りて生くるなり』(ガラテヤ二・二十)。

 ここに『生くる』という意味に用いられている言葉は、『宿る』とか『住処とする』とかいう語には何の関係もありません。もしこの考えが入って来ると、ここ全体の意味を失うことになって参ります。ここに使われている言葉は私共の言葉の『動物学』と同じで、生命の精、生命の要素を示すところのものであります。『キリスト我が衷に生きたもう。活き活きとして在す』と訳せば更に適当でありましょう。
 生命、生命の本源、原則がここにキリストのうちに見出されるというのであります。その原則とは更に、信仰であると声明せられておりますが、活ける信仰、すなわちかの不思議な静かな甘美な感化、霊魂の中にあって見えざるものを見るがごとくに現実にまた活き活きとさせる活ける信仰こそは、この生命の本源また原則であるというのであります。おお、かの普通新教徒の懶惰な信ずる主義や、或いはローマ教徒の単なる理知的肯定とはいかに異なったものでありましょう。キリストは言う、『汝もし信ずることを得ば、信ずる者において爲し能はざることなし』(マルコ九・二十三元訳)と。聖書的に信ずることのできること──『キリストと全く一つに合体せられること』は真に恩寵の奇蹟であります。それはキリスト御自身が御自身の信仰の生涯を私の貧しい心の中に再び繰り返し生きて下さることにほかなりません。
 この幸いなる望みの理由をこの使徒に尋ねるならば、『我はキリストと偕に十字架につけられたり』と答えます。磔殺せられたまいし救い主こそは活ける救い主を体験するための唯一の理由、或いは土台であります。彼は十字架によって世に死に、世もまた彼に対して死物となったのでありますが、彼がこの十字架のほかは誇ることあらざれと一切を拒絶したことも誠に宜なるかなであります。
 これは御座への踏み石であり、豊かなる所への関門であり、内住の救い主の来って留まりたもうための入口であり、しかして真の活ける信仰の流れ出ずる源である次第であります。

    キリスト衷に住処を造りたもう

 『この故に我は天と地とにある全家の名の起るところの父に跪きて願ふ。
 父その榮光の富にしたがひて、御靈により力をもて汝らの内なる人を强くし、
 信仰によりてキリストを汝らの心に住はせ、汝らをして愛に根ざし、愛を基とし、
 凡ての聖徒とともにキリストの愛の廣さ・長さ・高さ・深さの如何許なるかを悟り』
                         (エペソ三・十四〜十八)

 聖徒パウロのこの祈りの真意を充分に了解するためには、単に原語において用いられている語の価値を認めることが必要であるばかりでなく、彼の祈禱の全機構(たてまえ)を観察することが大切であります。
 彼はエペソ人に告げて、彼らは『同じ国人』、キリストの体の『同じ肢』、『同じ共有者』、『同じ世嗣』であると言って来ました。彼らは神の大家族の一員であるのであります。『この故に』と彼は言う、『我は‥‥‥全家の‥‥‥父にわが膝を屈む』、しかして願う、願わくはその聖き霊の力づけによってキリスト来りて、信仰に由って汝らの心の中に『彼のホームをつくり』(ギリシャ語原意)たまわんことを、換言すれば、汝らの心の中に『家族的感じ』を与えたまわんことを、かくして汝ら彼の愛のいかに広くしてすべてを包容し得るか──いかに長く耐え忍びて忍耐深くあるか──いかに深くして自己犠牲的であるか──また信ずる者を聖きと栄えのいかばかりの高さにまで引き上げるものであるかを悟らんこと──すなわちこれを我がものとし、これを同化し、これを発揚し、しかして心底よりこれを了解するに至らんことをと。
 私共が自らのことよりも主がそのすべての肢に対して持ちたもう愛を現実に感ずることができるのは、ただキリスト来ってその住処を造り、私共の心中にかの家族的感じをもたらしたもう時のみであります。ただ内住のキリストのみが偏った宗派心や狭い島国根性から私共を救って、私共の同情を広くし、主の連れ来りたまわなければならない他の檻の羊をも抱擁せしめたもうのであります。
      広げよ、燃やせよ、充たせよ我が心を
       果てしなき、聖き、汝が愛もて
      与えよ、幼児のごと祈る愛を
       汝が家を再び建てんと願う愛を
 おお願わくは私共の心を主の臨在によって広くせられんことを。外国の滅びる霊魂に対する主の愛の量りの私共の心にも灑がれんことを。日本にあるご自分の民に向かうその関心と憐れみは私共の心にも反響せんことを。誠に主来りて私共の衷にホームを造りたまいしことによりて。

    キリスト衷に饗宴を開きたもう

 『視よ、われ戸の外に立ちて叩く、人もし我が聲を聞きて戸を開かば、我その内に入りて彼とともに食し、彼もまた我とともに食せん』(黙示録三・二十)。

 キリストが心の中に顕されまた形作られるとはいかに幸いなることでしょうか。彼がまたそこに宿りかつ歩むとは驚くべきことであり、更に、そこに再び生きてその信仰を現し生ぜしめ、私共の貧しい我が儘な自己中心な性質を、神の大家族への愛をもて充たしたもうとは、これはこの上もなく大いなる奥義であります。
 ここにもう一つの幸いが見えております。信者にして微温的、また悩める者、憐れむべき者、盲目、裸にして己が悩める様も知らずにおる者に対して、主イエスは来って聖前に食卓を広げようと約束したもうのであります。ただ、求めるは私共が『彼の』御声に聴き従い、まずすべて彼の宣うところを行わんことでありますが、それは主が最も貴い御自身の血をもて、自ら備えたもうたところのもの──『金‥‥‥白き衣‥‥‥眼薬』などの聖言に表された清き心の賜物を価をもて買うべきことであります。
 彼は私共と食を共にせんと申し出ておられます。世に友誼または幸いな交際の兆しとして、食を共にするにまさって麗しいものはありません。主イエスはその地上の御生涯において幾度か食卓を聖別したまいました。その優れて稀なる御恩恵の多くは食卓を囲んで与えられたものであります。しかして御復活の後においてさえ、あまり多くの記事のない中に、三度も記されているのは、主が御弟子等と共に食物を摂られた事柄であります。
 かくてまた主の地上最後の聖言また御約束は、自ら民の心に入り来って食を共にするとのそれでありました。
 彼は御言の乳と蜜とを備え、永遠の糧、実に真の食物、真の飲み物である彼の肉と血と、それに御自身の常なる臨在を副え与えたもうのであります。
 主はただ統御し、支配し、また教導し、守護するために来りたもうたばかりではありません(もちろんこれらすべては為したまいますが)。また同時に私共と食を共にし、私共の飢えたる霊魂を満ち足らわしめたもうのであります。

    キリスト衷なる大能力

 『ペテロに能力(ちから)を與へて割禮ある者の使徒となし給ひし者は、我にも異邦人のために能力を與へ給へり』(ガラテヤ二・八)

 人類一般としての不足のみならず、心霊的の結果を獲得し、または神のお働きを有効に成し遂げるために、彼自らの個人的欠乏を意識したことにおいて、聖徒パウロに勝るものはありますまい。
 しかしこの深い自覚の傍らに、聖徒パウロの衷にはこれにも数等勝って力強いもう一つの自覚がありました──自己ならざる別の御方の存在と活動──御聖霊──彼をして衷に、また偕に、常に絶えざる内住のキリストを意識せしめたる御一方の自覚でありました。聖パウロは常にこの驚くべき臨在を知悉しておりました。彼は唯一の働き手にておわしたもう。彼は彼の衷にて力強き御方にて在したもう。啻に使徒自身の生涯の中に志を立て、事を行わしめたもうばかりでなく、彼を通して御自身働きたもう──人類の救いと潔めにおいて神の働きそのものをなしたもうのであります。
 キリスト『わが衷に力強し(mighty)』(ガラテヤ二・八=英訳)。キリストの強きはパウロの弱きの中に全うせられたのであります。
 しかして内住のキリストは私共にとってもこれらすべてをなして下さり、私共の狭い小さい活動の中にも栄えを顕して下さるのであります。ただ、かくなさしめ奉り、己の働きをやめて、力強き御方をして私共の代わりに働かしめ奉ることであります。
 以上は内住のキリストの幸福の幾分かであります。『しかしこれは救われた時に得られるものである。私はキリストを受け入れた時に一切を頂いた』と仰ってはなりません。それは可能論であるかも知れないが、実際論ではありません。
 事実、私共の新生において私共はキリストの霊を受けたのではあります。『キリストの御靈なき者はキリストに屬する者にあらず』(ローマ八・九)と言われております。しかし、悲しいかな、多くの場合において実際、キリストは私共の心の戸の外におられます。ラオデキヤの教会への書は信者に対するものであって、キリストの外にある者に対するものではありません。私共は黙示録三章二十節からしばしば未信者に説教いたします。もちろんそうしないはずはありません。しかしもともとこれは聖徒に対する御言で、真のクリスチャンにしてなおキリストを心の外に置き奉ることが事実あり得ることなるを明白に示しているものであります。
 さらば私共は充分に自らの心を突き止めて、私共の心の衷にキリストを主と聖別いたしとうございます。しかして私共の衷にあるこの望みの理由を問うすべての人に答を致すよう、今より常に備え致しとうございます。

      とぼそにたたずむ    まれびとを見よや

        いとものしずかに    おとないたまえり

      さきにもしばしば    たたきたまいしが

        いまなおたたずみ    汝をまちたまえり

      おとないたまえる    さまのしたわしさ

        あだなすものさえ    かくまでめぐみて

      とものひとりをも    かくはうとみしか

        まことのともなる    主をなどむかえぬ

      いざいそぎたちて    主をむかえまつれ

        まよいのゆめより    つみのふしどより

                          (新讃二三三歌詞)
 


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