磔 殺
我はキリストと同に十字架につけられたり。されど我は生く、尚ほ我にあらず、キリスト我にありて生き給ふなり。されどわれ今肉にありて生くるは我を愛し給ひ、且つ我がために己自らを付し給ひし神の子の信仰に在りて生くるなり (ガラテア二・二十──新契約)
ガラテア書において一章半は使徒の弁明に費やされておりますが、その弁明中彼は三つの黙示について陳べております。一、彼の宣伝せし福音(一・十一、十二)、二、内住の基督(一・十五、十六)、三、エルサレム往きの命を蒙れること(二・二)。二章の終わりには福音の使命の詞、主イエスの福音の何たるかが奥行き深く語られておりますが、それは二部に別たれていて、各々十六節と二十節とに示されております。
人の義とせらるるは律法の行爲に由らず、唯キリスト・イエスを信ずる信仰に由るを知りて、キリスト・イエスを信じたり。これ律法の行爲に由らず、キリストを信ずる信仰に由りて義とせられん爲なり (ガラテア二・十六)
これは信仰による称義の大教理であります。信仰によって義とせられるとは如何なることか、お互いは既に経験に由ってこれを知っておりましょう。私共は神に対して平和を持っておるのであります。さらば今進んで福音の第二の部分、すなわち聖潔について考えてみたいと思うのであります。
(彼は云ふ)我はキリストと同に十字架につけられたり。されど我は生く、尚お我にあらず、キリスト我にありて生き給ふなり。されどわれ今肉にありて生くるは、我を愛し給ひ、かつ我がために己自らを付し給ひし神の子の信仰に在りて生くるなり (ガラテア二・二十=新契約)
お気附きのように使徒はここに聖潔なる語を用いずに、もっと強い語『十字架につける』を用いており、ヘブル書にあるように『キリストの體の一たび獻げられしに由りて我らは潔められたり』(十・十)と言わずに『十字架につけられたり』と言っております。しかもこの言い方において彼の取り扱っておるのは称義ではなく聖潔であります。
そこで私は今しばらく四つ五つの事を学びたいと思います。
第一、この驚くべき一句、『我はキリストと同に十字架につけられたり』の意味。
第二、その方法、即ち、私共は如何にしてキリストと同に十字架につけ得られるか。
第三、この事において私共のなすべき事柄。
第四、期待すべき事柄、即ちこの驚くべき経験の生ずる時、如何なる事が私共に起るべきであるか。
しかして最後に、その十字架に釘られし生涯を如何にして継続すべきか。
【一】まず第一にこの意味。聖パウロが『我はキリストと同に十字架につけられたり』と言った時、彼は如何なる事を意味しましたか。これは彼の肉体が十字架につけられた意味でない事は明らかであります。また彼は斬首ながら結局殉教したのは事実ですが、それに云い及んだのでない事も勿論です。ないしはまた彼の人格が十字架につけられたというのでもありません。パウロの人格は彼の最後まで残った。彼の陳べているこの驚くべき経験の後にも、彼はなお依然としてかの大人格パウロでありました。しからば彼の意味するところは何ですか。彼の呼ぶ『我』なるものは何でしょう。『我は十字架につけられたり』とは。これは、多分、十字架につけられて甦りたまいし主イエス御自身の例に由って能く解ると思います。
主イエスが死より甦りたまいし時、そのお体は十字架につけられたまいしお体と全く同じであった事を私共は知っております。キリストの体は朽腐に帰することがなかった。聖霊なる神に由って造られ整えられたものであったからであります。そのお体は決して朽腐に帰することができなかったのであります。主が死より甦りたまいし時、それは全く同じお体で、弟子たちは御手と御足と脇腹とに創跡を見たのであります。主はまた同じお体をもって昇天し、また同じお体をもって再び臨りたもう。
視よ、彼は雲の中にありて來りたまふ。諸衆の目、殊に彼を刺したる者これを見ん (默示錄一・七)
『われ 御手のきづにて 知らん』(聖歌646)
私共においてはそうではありません。お互いが死より甦らせらるる時、それは今活きているこの体と同じものではありますまい。私共の甦りについては
神は……之に體を予へ……たまふ (コリント前書十五・三十八)
と録されております。パウロの反対者が『死人いかにして甦へるべきか、如何なる體をもて來るべきか』(三十五)と言った時、彼は『神之に體を予へたまふ』と答えました。即ち私共が死より甦る時の体はこの意味においてキリストの体のごとくではないでしょう。神は私共に新しい体を与えたもう。しかし主の場合は、彼がかつて地上を歩みたまいしそのお体であったのであります。それは決して朽ちなかった。聖霊なる神に由って処女マリアの胎内に備えられたお体はなおそのまま崇められたまいし栄えある主のお体なのであります。しかし、同じではあるけれども、墓より出で来りたもうた時は葬られた時とは異なっておりました。同じものではある、けれども異なっている。復活後においては、見ゆるも見えぬも御心のままである。パウロの所謂霊の体です。それは同じお体であってもなお同じではありませんでした。キリストは何ものかを脱ぎ去り、何ものかを着ました。彼は死ぬべきものを脱ぎ棄てて不死を着たのであります。これは私共の理解を超える。これは奥義です。しかしこれは事実であります。
私はこれを、私共がキリストと偕にする霊的磔殺と復活とを或る程度まで説明する簡単な実例として用います。聖徒パウロは言う、『我はキリストと同に十字架につけられたり』。『されど』、彼は云う、『我は生く』と。それはやはり同じパウロですが、しかし同じではない。パウロは、実は、云う、『恰もキリストの御体が死ぬべきものを脱ぎ棄てて死なざるものを着たごとく、そのごとく我パウロもキリストと同に十字架につけられた。しかして何事かわが身に起こった事がある。我は何ものかを脱いで何ものかを着た。これはパウロである。が、しかし、パウロではない。それは我である。が、しかし我ではない』と。しからばパウロが脱いだものとは何であるか。他のところを見ると、彼が脱ぎ棄てたものとは『舊き人』(コロサイ三・九)であると録されております。
そこで実際上の問題は、しからばパウロの云う十字架につけられた、また脱ぎ棄てた『我』或いは『舊き人』とは如何なるものであるかという事であります。
なるべく解り易くするために、私はこれを三つの異なった方面から眺めたいと思います。
まずそれは『無能力なる我』であります。今、ロマ書七章から二、三の節を読みましょう(十五、十七、十九節)。
わが行ふことは我しらず、我が欲する所は之をなさず、反つて我が憎むところは之を爲すなり。……然れば之を行ふは我にあらず、我が中に宿る罪なり。……わが欲する所の善は之をなさず、反つて欲せぬ所の惡は之をなすなり。
ここに無能力なる『我』を見せられます。私共は皆よくこれを知っている。一人としていつか一度もこれに遭遇しなかったものはありません。しかり、例の心の苦々しさ、かの批評好きな心、短気を抑えることの出来ない心、いつもにこにこしておれない心、かの嫉妬等々。しかり──みな私共はよく知っております──この無能な、無能力な『我』です。おお、私共はどれほどに、いつもにこにこ愛らしくしていたいと願うことでしょう。どれほどにこれを慕い求めていることでしょう。しかもできない! 私共は云う、『私はできない』『私はできない』と。パウロは何とよく穿ってこれを書き表していることでしょう! お互い銘々は皆よくこれを知っております。私共は皆これにぶつかり、何とかしてこれから逃れたいと踠きました。しかし出来ない。依然として無能なる『我』、全然無能力、道徳的無能力者なる『我』ではありました。しかし、今やパウロは云う、この『我』は、キリストと同に、十字架につけられたりと。ハレルヤ!
次にこれを他の観点よりすれば、この『我』には今一つの方面があります。それは『世を愛する我』であります。パウロはこれについて語って云う、
我には我らの主イエス・キリストの十字架のほかに誇る所あらざれ。之によりて
(わが罪は赦されたりですか、これによりて我は宥されたり? 或いは義とせられたりですか。勿論、それはほんとうです。しかしここではそれは言わない。否、何かそれよりも勝って驚くべきことを言っております。彼は曰く、)
之によりて世は我に對して十字架につけられたり、我が世に對するも亦然り (ガラテア六・十四)
と。ああしかり、パウロは申します、あれらの怖ろしい醜いものの処分のできない、かの無能力の『我』のみならず、この『我』、すなわち世の虚栄と虚飾、神の言の名づけて偶像と称える所の心惹く事物を愛する『我』もまたキリストと同に十字架につけられておると。さて、もしこれらが何か献身とでもいう死物狂の行為によって私共から取り除かれるべきものであり、私共はこの種々なものに愛着を持つ『我』のなお衷に留まる間にこれを打ち棄つべきものであるとしたならば、それはずいぶん苦しい事でありましょう。それはさながらイスラエルの子孫の、身は紅海を過ってエジプトの外にありながらエジプトの依然として彼らの衷に留まったがごとくでありましょう。彼らは荒野に在ってエジプトの韮や大蒜を慕っていたのであります。彼らの生涯はいかに惨めなものでありましたろう! それに引き替えパウロにとってはどうでしょう! 彼は凱歌を挙げて云う、『我はキリストと同に十字架につけられたり。されど我は生く』と。しかり、我は生く。私も彼は活きていたと考えたい! よし他の誰が知らずとも悪魔はそれを識っていた。神の天地に真に活きていた者があるとすれば、それはパウロでありました。この人の存在の全部は、その一細胞一微分子に至るまで神のために活きていたのであります。しかも彼は言う、『我は十字架につけられたり』と。
私共は今やこの自我主義のもう一つに方面に到達いたします。すなわちかの恐れに充ちた頼りにならぬ不信仰の『我』であります。神の言はこれを『不信仰の悪しき心』(ヘブル三・十二)と呼んでいます。これこそはかの苦悩と困惑とを醸すところのものであります。無能力の『我』、世を愛する『我』、信ぜざる『我』──これこそは聖パウロの所謂『キリストと同に十字架につけられ』たる『我』であります。
次に移る前に、明らかにしておきたい事は、この磔殺は漸次的過程ではないということであります、ロマ書六章十節には
その死に給へるは罪につきて一たび死に給へるにて、その活き給へるは神につきて活き給へるなり。斯のごとく汝らも己を罪につきては死にたるもの……と思ふべし
とあって、これはかの箇所の全要点でありますが、キリストはひとたび、一度にしてしかも全く、死にたもうた。そのごとく汝らも、即ち唯一度、しかして完全に、死にたるものと計算すべしというのであります。
一人の少年がかつて信仰とは何であるかと尋ねられて申すのに、『先生、それは本当でないことを信じようとすることです』と。しかし神様は私共にそんなことはご要求なさらない。決して虚偽に基づいて勘考させようとはしたまいません。故にパウロが『我はキリストと同に十字架につけられたり』と云った時、彼は聖霊なる神によって心の中の成就せられた的確な聖工について語っているのであります。しかし、愛する兄姉よ、皆様はその後は堕落することができないと想像してはなりません。今学んでおる聖言のところにパウロは申しております。
我もし前に毀ちしものを再び建てなば、己みづから犯罪者たるを表す (二・十八)
【二】私共は今や、了解すべき事の第二に到達いたしました。その方法、即ちパウロの言う『我』は
然されど我われには我われらの主しゅイエス・キリストの十字架のほかに誇る所あらざれ。之これによりて世は我われに對して十字架につけられたり、我わが世に對するも亦また然しかり。 (六・十四)
ここに驚くべき秘密がある次第であります。
皆様はダビデとヨナタンのお話をご記憶でしょう。ヨナタンはダビデを己おのれの命いのちのごとくに愛しました(サムエル前書十八・一)。彼は皇太子です。その利害得失はダビデのそれとは正反対です。しかし彼は喜悦と深慮とをもって己おのれの皇太子の上衣うわぎと佩刀はいとう、弓と帯をもダビデに与えてしまいました(同四)。ダビデを王位の継承者たらしむるために躬みは無冠一介の平民となったのであります。彼がどうしてかかることをなし得たかは前の章を読む時に明らかでありますが、怪力の巨人! 戦慄する軍勢! 王と扈従者こじゅうしゃと恐怖無力の全軍──時しも一少年は投石索いしなげと石とを持って敵に向かって進み出いでました──王とヨナタンと全軍の大将たちは驚愕の目を瞠みはるのみ。彼らは何も致しません。ダビデを助けて一指いっしだに揚げない。一切はただ彼がする。人々は傍観し、しかして勝利を目に致しました。しかしてこの少年が帰り来きたった時です、ヨナタンは己おのれの命いのちのごとく彼を愛した! なぜですか。ダビデが一切を為なし果たしたからであります。
私共においても同様であります。まず内住の悪の力の下もとに戦慄しなければ、しかしてキリストは独ひとりにてそれを処置したまいし事を見なければ、私共は彼を愛することはできません。全心を尽くして彼を愛する、私共の一切を献げる、価値あるものを差し上げる等のことは不可能です。おお、しかしもし一度ひとたび、私共が己おのれの罪の力を感じ、しかもキリストは我らのゴリアテを滅ぼしたもうた事を見また知り、事実彼は死に失うせ、しかもこれが私共の実験の知識となるならば、その時こそはすべてを主に献げるも容易たやすい事となって参ります。私共はこの方法を悟り始めておりますか。即すなわち、これは私共の苦闘や献身努力によってではない、全くただ彼かれの十字架のみによってであります。私はその奥義を理解しない。恰あたかも主が死性を脱ぎ不死を纏いたもうた、かの復活の奥義の私共の理解に超絶するごとくです。誰にも解わからない。しかし事実であります。私共はその福祉さいわいなる実質を得うる以上、この奥義は御聖霊に一任しなければなりません。これこそは私共の欲するすべてであります。果たしてしからばこれは主イエスの十字架に対する信仰の道であります。私はこれを充分に識り尽くすことはできない、しかし私は信じます。
【三】第三に知るべき事は──このことにおいて私共のなすべき事柄。私のなすべきことは何であるか、この取引においての私の分担は何であるかということであります。それは簡単に語られております。しかり、唯ただの一語に尽きます。同意すること、即すなわちその事実を認めてこれに一致することで、これこそは私共のなすべき事柄なのであります。
『ああ、ウィルクス氏よ』、あなたは仰おっしゃるかも知れない、『それが問題ですよ。何か私には同意しかねるところがあります』と。しかし主はあなたに仰おおせなさる、『假令たとひわれを信ぜずとも、その業わざを信ぜよ。然さらば……知りて悟らん』(ヨハネ十・三十八)。あなたは言う、『しかしキリストは何だか私から遠くにおいでなさるようで、どうも信じられません』。彼は答えたもう、『假令たとい我われを信ぜずともカルバリにおけるわが業わざを信ぜよ』と。いかがですか。『よし我われを信ずる事ができないにしても、かの業わざを信じて貰もらいたい』と彼は仰おおせたもう。かしこをご覧なさいませんか。かしこにおける愛を見ませんか。かしこにある能力ちからを見ませんか。かしこにおいて主の既に成し遂げたまいたる御業みわざを信じませんか。
誰かかく云う者がありましょうか、『それこそ正まさしく私の信じられぬ事である。私は同意することができない』と。私はあなたが主イエスに来きたってそう告げなさることをお勧めする。主にそう告げなさいませんか、『おお主よ、私は同意を与えたくありません。しかし喜んで同意するようにして頂くことは、喜んでして頂きます』と申し上げなさい。主はただこれだけ、その程度の同意をあなたに要もとめたまいます。これ以上の事がありましょうか。これほど容易たやすい道があり得ましょうか。
あなたは独ひとり室へやに退しりぞいて主に示して頂きなさいませんか。時間をかけて黙示して頂きませんか。しかして、恩寵に頼って申し上げなさい。『主よ、私は同意致します。これ以上の事はできません。しかし心から同意し奉たてまつります』。主よ、この称讃を愛する愛を十字架に釘つけて下さい、名声の愛、流行への愛着、かのあらゆる虚栄と虚飾とを持つこの世を愛する愛、主よ、これらを磔殺たくさつなしたまえ。私はかくもこれらを愛します。あなたはそれをご存じです。これこそは私の生命いのちそのものである事も、主よ、あなたはご存じです。しかし、主よ、これらが破壊し尽くされずしては内住のキリストを識ることの出来ない事を私は知っております。なお暗くありますけれども、私は手を伸べます。なお暗黒の中うちながら私は申し上げます、『主よ、私はなお暗黒の中うちにおります。まだすべては意識的の経験とはなりません。しかし私は同意致します。私は主に依り頼み奉ります』。皆様如何いかがですか。しかる時にあなたはこの事の信仰に由より、ただ信仰のみにより、磔殺たくさつせられたまいし救主すくいぬしにおける信仰によりてなる事を識るに至るでありましょう!
【四】しかして今や第四であります。私共は取引のあった後あとには何を期待すべきかを知るべきであります。『主よ、同意いたします』と言うは容易たやすくありましょうが、後あとは甚はなはだ異なった結果を伴いましょう。しからば何を期待すべきでありますか。それは確かに私共の同意申し上げたその点において験ためさるべきであります。皆様はヨブのお話をご記憶でしょう。神は悪魔に仰おおせられた、『汝なんぢ心をもちひてわが僕しもべヨブを觀みしや 彼かれのごとく完全まったくかつ正たゞしくして神を畏れ惡に遠ざかる人世よにあらざるなり』と(ヨブ一・八)。悪魔はせせら笑いながら実際に答えて、『おお、彼はあなたから得うるところのあればこそあなたを愛するのですよ』と云った。それから神はサタンにヨブを試みる許可を与えたもうたのですが、その結果はご承知の事であります。
あなたは先週、一粒の種子たねを取ってあなたの花園に蒔いたとする。もし種粒たねつぶがあなたに話すことができたとすれば、彼は今こう言うでしょう、『おお、ここは固く暗く冷たくじめじめして、ずたずたにされてしまいそうです』と。しかしあなたは応答こたえるでしょう、『しばらく辛抱するならば、お前はじきに天の方へ、陽ひの方へ、そして果実へ花へと展のびて来るでしょう』と。これは正まさしく主がまたあなたに宣のたもう所の事であります。あなたが同意し奉まつるならば、全的に主に頼りなさい。そして彼を待ち望み奉まつりなさい。
しかして最後に、愛する兄姉けいしよ、私共はこれをいかに継続すべきかを知らなければなりません。それはここにこの一言ひとことの中にあります。
われ今……生くるは……キリスト我にありて生き給ふなり
『キリスト我わが衷うちに生き給ふ』とは決して消極的の事柄ではありません。単に私共の自我主義の磔殺たくさつへの同意には留とどまりません。これは新しい生涯の創始はじめであります。『キリスト我わが衷うちに生き給ふ』、キリストと同ともに十字架につけられるとは内住の救主すくいぬしへの準備にほかなりません。この生涯への入門が信仰によってであったごとく、継続もまたそのごとくであります。我らは『我を愛し給ひ、かつ我わがために己おのれ自らを付わたし給ひし神の子の信仰によりて生く』。しかしてここにこそは、かつてウィリアム・ブラムウェルの言ったごとく、『この世と自我とのすべてのさざめきは過ぎ去り、あなたはキリストの中に安息』しておるに至る次第であります。(終)
| 目次 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 |