基 督 と の 合 一
キリストは……我等の……聖と……爲り給へり (コリント前書一・三十)
我等は皆ともに一つのパンに與る (コリント前書十・十七)
私共は、既に、内住の基督について考えました。ここに私は同じ主題を違った形において辿ってみたいと思います。或いは一歩進んだ、更に深遠な形でありましょう。即ち私共の「キリストとの合一」であります。ここに聖潔の真の道があります。主の恩寵により、贖救の血と聖き御霊を通して、罪赦され、生まれ更らしめられるのも幸福でありますが、かの奥義中の奥義、キリスト・イエス御自身との結合を知りまた経験するは更に驚くべきことであります。
私は主イエスが如何に自らを私共に一つになし下されしかを学びたく望むものであります。例えば主は私共の
人性において一つ(主もまた同じく之(血肉)を具へ=ヘブル二・十四)
貧しきにおいて一つ(汝等のために貧しき者となり=コリント後書八・九)
試みにおいて一つ(凡ての事、われらと等しく試みられ=ヘブル四・十五)
弱きにおいて一つ(罪ある肉の形にて……遣はし=ローマ八・三)
生涯において一つ(取税人・罪人の友=マタイ十一・十九)
死において一つ(萬民のために死を味ひ=ヘブル二・九)
などであります。しかし、今、当面の主題は、私共が主に一つにせられることであります。
聖書はこの大いなる経験に関して七つの驚くべき絵画を私共に呈供いたしております。
一、 関 係 の 合 一
潔めたまふ者も、潔めらるる者も、皆ただ一つより出づ。この故に彼らを兄弟と稱ふるを恥とせず (ヘブル二・十一)
私共が神の『王國』を見、またこれに入る事の出来るのは、神の『家族』の一員となる誕生があってであります。しかして私共の主イエスの聖父は私共の聖父であります──『我はわが父、即ち汝らの父……に昇る』(ヨハネ二十・十七)。これは復活後、主が最初に弟子たちに遣りたもうた御詞で、弟子たちの事を初めて兄弟と呼びたまいました。前には弟子、友、僕などと呼び掛けたまいましたが、今や『兄弟』と仰せられます。主を私共の長兄と仰ぐ福祉なる結合! かくて私共は最も親近い家族関係において主と一つなのであります。
これに関連して主の麗しい御姿を描こうと望まれるならば、放蕩息子の物語にあるかの兄の性格を研究して頂きたい。しかしてあの七つの不幸な失敗の正反対を想像するならば、そこには主の如何にすべての人の子に優れて麗しきかが描き出されて参りましょう。
二、 性 質 の 合 一
一人……のために……死
一つ……によりて罪を定むる
一人……によりて……罪人とせられ
一人……により生命
一つ……によりて義とせられ
一人……によりて……義人とせらる (ロマ書五・十七〜二十一)
私共は皆、ある一定の家系の一員として各自に特有な性格を享け継いでおります。それはお互い銘々にだけ特有なもので、或る意味においては、その家族に属せぬ者の与り得ない所のものであります。私共の知る知らぬに拘らず、好む好まぬに関せず、強きにせよ弱きにせよその場合に応じ、私共は一定の遺伝的特性をもって生まれて来ておるのであります。
使徒は、ここに、私共に告げて、全人類は皆、その最初の先祖より、同じように或る特種性を享け継いでおるのであると語っております。しかもその享け継いだところは悲惨極まるもの、すなわち『死』──『罪に定めらるる事』──『罪人たる事』等であります。しかり、私共は性質、享有物において始めの先祖と一つなる者であり、それから脱却する事ができません。それは変える事の全く不可能な固定的の法則なのであります。この奥義は私共には解せられないかも知れません。しかし、その事実は、悲しいかな、あまりにも真実、否むべからざる所のものであります。
しかし神は頌むべきかな、第二の人はこの致命的な享有物から私共を引き離すためにこの世に来りたまいました。第一の人と一つであったごとく、今や私共は第二の人と一つになる事ができるのであります。
私共は、もし真に生まれ変わっておる者ならば、生命と称義の嗣業の何たるかを知っておりましょう。しかし、なおこの第二の点については詳しく識っていないかも知れません。使徒はここに彼らのアダムとの結合に由り『多くの人の罪人とせられし(罪人と数えらるにあらず)』と云っておりますが、感謝すべきかな、私共はキリストとの結合によって『義人とせられるる』のであります。
使徒ヨハネは云う、『人に惑さるな、義をおこなふ者は義人なり、即ち主の義なるがごとし』(ヨハネ一書三・七)と。しかも記憶せよ、決して私共の中なる、また私共からなる義ではなく、ただ私共の『義しき者たるキリストとの結合』による義なのであります。
三、 豊 か な る 結 合 の 合 一
我は葡萄の樹、なんぢらは枝なり (ヨハネ十五・五)。
私共の第三の絵は植物界から取られ、果を結ぶことについて語られております。自然界における接木ほど美わしくこの間の消息を描き出しているものはありません。
ヴォイスン氏の『葡萄樹と接木』なる小冊子はこの方法について最も面白い、またためになる記事を載せております。これはヨハネ伝十五章の幸いな註解で、そこに注意して頂きたい不思議なまた神秘的な事実があるのであります。元木から切り放たれたか細い一本の小枝、そのままにして置けば枯れ去る外はない運命のもの、その元樹の保つ生命をもはや少しも留める事のできないものでありますが、一度他の台樹に接がれ、それによってその台樹から生命の液汁を引き出だすに至る時、その生命の液汁を通して果を結ぶに必要な力と要素とを受け入れるのであります。しかしその場合、自らに特有な果には何の変化もありません。台樹から来る生命を与える液汁は、このか細い小枝の果の性質を少しも変化せしめないのであります。例えば、マルメロの枝が取って林檎の枝に接がれたとする、その枝に生ずる果実は林檎でなくしてマルメロであります。或いはその枝は林檎の樹から生命は吸収いたしますが、その果実は決して結ばないのであります。林檎の樹からの液汁、即ちその生命の血液そのものである液汁は、枝の結ぶ果実を或いは潔め、或いは改善し、或いは完成しこそすれ、果実の性質に影響することは断じてないごとくであるのであります。例えばあまり大した果実も結ばない一本の葡萄の樹の枝を、例えば黒ハンブルク種のようなものに接いだとすると、その果実は精錬され、完成されてくるのであります。
何という鮮やかな教訓がここにあることでありましょう! 私共のキリストとの結合は私共自身の個性や特性を変じは致しません。しかしその発露を純潔にし、完全に致します。しかしこの項を結ぶにあたって、私は私共の主も、また自然そのものも私共に与えている厳粛な教訓を、皆様に思い出して頂きたいと思います。それは、主たる葡萄樹に生命において連なっていても、少しも果を結ばないかも知れないという事であります。生命は必ずしも結実ではありません。ゆえに主は天の農夫の剪が必要であると語りたもうのであります。
四、 構 造 の 合 一
汝等も……活ける石として……靈の犧牲を獻げ……神の譽を顯すべき……靈の家として建て上げらる』(ペテロ前書二・五、九抄)
私共の次の譬は鉱物界から描き出されております。キリストの教会は全体として建物になぞらえられますが、信者個人個人もこれと同様に比せられます。『汝らの身は……聖靈の宮なるを知らぬか』(コリント前書六・十九)。しかし私共の研究の要点は、個人にせよまた信者の一体にせよ、私共がキリストと結合するという所にあります。あたかも建物の石が各々相聯ることによって隅石に結合しているごとくであります。礎石から最も遠くにある頂上の石は、中間にあるものに聯る事によって礎石に結合しているわけであります。この結合の目的は、私共が霊の殿として神への礼拝と讃美とを奉るべきためであります。私共は活ける石として、隅の首石たるキリストに結合せられ、彼と全く一つであります。使徒は私共を建物になぞらえて語っている同じ節において、直ちに比喩を変えて、私共を聖き祭司職と申しております。『活ける石』は『王たる祭司』である次第であります。
いにしえ、人の子たちは製造せられた『甎石』をもって天に達する塔を建て、かくして全地に『名を揚ん』と致しました(創世記十一章)が、同じ章の中に、活ける石──セムの子孫をもってする神の建築が語られております。人工的組織対神の有機体であります。(セムとは名という意であることは興味あることであります)。さらば私共においても常に同僚クリスチャンと結び付き、キリストの我らを愛したまいましたごとくに彼らを愛し、これなくしては『聖き』また『王なる祭司職』としてのキリストとの結合はあり得ないことを記憶しつつ、神の有機体として御奉仕させられたいものであります。建物に用いられているすべての石はただ互いに相聯ることによってのみ土台石に接触を保つ事ができるのであります。
このキリスト及びその民との結合の目的は、私共が彼の誉れを頌め、また讃美と感謝と聖き礼拝の霊の犠牲を献げる事であります。
五、 感 情 の 合 一
乃ち汝らはキリストの體にして各自その肢なり (コリント前書十二・二十七)
汝らの身はキリストの肢體なるを知らぬか (コリント前書六・十五)。
……首なるキリストに達せん爲なり。彼を本とし全身は凡ての節々の助にて整ひ…… (エペソ四・十五、十六)。
ここに主イエスと私共との合一を描き出している今一つの絵があります。彼は首であって、私共は彼の躰の肢体であるというのであります。
私共の身躰は頭や脳髄を離れてはそのいかなる部分にも触感も感覚もあり得ません。あらゆる感覚、感情、また情緒はすべてこの源泉から伝達せられるのであります。
また、私共のすべての活動を支配するのも脳髄であり、私共の支肢五体はこの脳髄の指導に従うのであります。私共の脳と肢体との間には不思議な、しかも絶対的な合一があり、脳髄を離れては生命も感覚も活動もない次第であります。
これが主イエスと私共との合一の絵であると云うのであります。私共のすべての霊的感覚、感情、情緒、願望等は、私共の生命や霊的生活のすべての支配力同様、彼から、しかしてただ彼からのみ、来るべき筈であります。私共の喜悦は彼の中にあり、私共の願望、情緒は彼より来り、また彼の中にあるべきであります。
『呼吸よりも尚近く
手、足よりも尚接近して』。
おお、願わくばこの結合の不思議が偉大なる事実となるまで、ただ独り密室に沈黙して待ち望み奉らんことを! 御聖霊の働きはこの合一感を実験的ならしめることであります。しかも彼は能力ある神の御約束に対して忍耐と信仰と祈禱と黙想とをもって聖顔を求めるすべての者に、この事を成し遂げたもうのであります。かくてこそ私共はついに歓喜をもて歌う事ができます。
『イエスは我に結ばれたまひて
疑惑、恐怖は跡なく消えぬ
わが魂は、今、彼と共に歡ぶ
我と王イエスは一つなれば』。
六、 愛 情 の 合 一
汝等もキリストの體により律法に就きて死にたり。これ他のもの、卽ち死人の中より甦へらせられ給ひし者に適き、神のために實を結ばん爲なり (ローマ七・四)
ロマ書六章において使徒パウロは、私共が死と葬りと甦りとにおいてキリストに合一し奉ったこと、即ち生命の結合について論じて参りました。しかし、七章においては、更に遙かに優って深いまた驚くべき主題をもって始めております。即ち『神のために實を結ばん爲』に結婚関係におけるキリストとの合一であります。エペソ書においては彼は証して申します、『この奥義は大なり、わが言ふ所はキリストと敎會とを指せるなり』(五・三十二)と。
旧約聖書中には、キリストと彼の教会とのこの結合を示す絵画的譬えがいくつかあります。ルツとボアズ、アビガルとダビデ、エバとアダム、等々でありますが、パウロはこの思想に触れつつコリントの信者に書き送って『われ神の熱心をもて汝らを慕ふ、われ汝らを潔き處女として一人の夫なるキリストに獻げんとて、之に許嫁したればなり』(コリント後書十一・二)と申しております。
それは愛情の合一を示すもので、私共は心からかく歌うことができるのであります。
『安しや 純潔き悅樂のみあるところ
唯汝のみその愛を占むるところ。
安しや わが魂のねがひ
唯上なる者にのみつくところ
恐怖と罪と悲哀は消え失す
全き愛に逐ひ出されつ』。
この結婚関係における結合は、先夫、即ち私共の肢体にある罪が亡くなった時にのみ初めて成立するものであります。ルツやアビガルが各々彼らの主に娶られたのは、ルツの最初の夫が死んだ後であり、ナバル(愚か)が神の致命的の一撃を受けた後(サムエル前書二十五章)であったのであります。
この『舊き人』の死、或いは滅亡は『キリストの體』に由ってであります(ローマ七・四)。私共は『イエス・キリストの體の一たび獻げられしに由りて潔められ』(ヘブル十・十)るのであります。また、キリストは『その十字架の血によりて平和をなし』たもうたのではありますけれども、『キリストの肉の體をもて其の死により汝等を……潔く瑕なく責むべき所なくして、己の前に立しめんと爲給ふ』のであります(コロサイ一・十九〜二十二)。そは『イエスも……民を潔めんが爲に、門の外にて苦難を受け』たまいました(ヘブル十三・十二)。これは都の門の彼方において全く焚き尽くされた罪祭の予表の成就であったのであります。
七、 本 質 の 合 一
パンは一つなれば、多くの我らも一體なり、皆ともに一つのパンに與るに因る (コリント前書十・十七)
最後の比喩は、おそらく、最も驚くべき、また最も神秘的なものでありましょう。使徒はここに、私共は皆互いに非常に密接な、しかも物質的の意味においてさえ、相聯る肢体であると主張しております。私共の摂る食物は単に私共を養いまた私共の生命を支えるというだけではなく、消化吸収せられて、実際的に私共の躰の一部分、私共の骨となり肉となり筋となるのであります。
私共が皆テーブルを囲んで一つ塊よりパンを頂きます時、私共各々がその組織細胞内へ取り入れるパンは、事実、私共の一部となります。ゆえに彼は云う、私共は皆同じ塊から食するにより『我らは一つのパン、一つの躰』であると。説明はそれだけでありますが、これを霊的に当て嵌めております。私共が信仰によって、また感謝とともに、私共の心の中において食する「神の子の肉」、「飲むところの彼の血」は、あたかも私共の飲食する物質的のパンと葡萄汁とが私共の肉体の一部となり要素となるごとく、私共の霊性の一部となり要素となるのであります。かくして私共は、キリストと一つであり、また各自相互に一つなのであります。
或る教会はあまりに濫りにこれを用いるために、主のテーブルにより来るべきすべての恩恵に与る事を得ずしております。しかして真理はローマ・カトリック主義や英国国教会主義などの教えによって或いは曲められ、或いは汚され、或いは全体を物神視して偶像のごとくに崇め、或いは全然未信者であり世俗的である者たちをも聖なる食卓に招いて、その結果は多くの実例において彼ら自身の呪詛とならしめておるのであります。
しかし私はその結果に到達する方法について、いま語ってはおりません。如何にしてこのキリストとの結合が得らるべきかを論ずるのでなく、ただこの事実、結果、到達点、目標について語っているのであります。これこそは目指さるべき的であり、主が私共のために贖い下されし「充全なる贖救」においてキリストに結合せしめられ、キリストと偕に神の中に隠れあるという、福祉な生涯である次第であります。
数ヶ月前でありました。私はかのジュネーヴの湖に注ぎ込んでいるローヌ河を眺めておりました。水嵩の増した、真っ赤に濁りきった泥水が、静かに湛えている清い澄み切った湖水へ流れ込んでおります。初めの間は流れの勢いでそのまま湖の中に河流がくっきりと認められ、さながらその中へ切り嵌められているか、或いは目にこそ見えないが河流の両岸に依然として堤防が置かれているかのごとくに思われるのでありました。しかし漸次その区別は失われてゆきます。そして間もなく増水した濁流はなくなり、清くなり、吸収せられて、レマン湖の澄んだ胸の中に安らかに懐かれてしまうのでありました。
私はフレッチャー氏の言葉を思い出しました。
「信仰がない時には、さながら泥水の一滴のようである。試誘の陽熱の中にからからに干し上げられてしまう。しかし一度信仰が働き出して来て、キリストと全く一つだと信ぜられて来る時に、私共は、その同じ水の一滴も、光と命と自由と能力と愛の際涯なく底なき大海の中に巻き込まれてしまうがごとくに感ずる」と。
これが私共の実験たらんことを。どんなに既に霊的であり、どんなに既に恩深き経験を今までしたにしても、そこには常になおなお多く蓄えられております。より深き静けさ、より確実なる不断の安息、より深遠なるキリストとの合一、もし私共が謙った霊魂と息まない断乎たる信仰との中に主を待ち望みさえしたならば、これは私共のものであります。その時、安息なき滔々たる濁流のような私共の内状も、キリスト・イエスにある測るべからざる神の愛の大海の中に全く没し去る次第であります。アーメン。
私はただ、簡単に私共の主題に触れて来ただけであります。この研究の目的はむしろ黙想と祈禱の中においてする学びの筋道を暗示せんがためのものでありました。願わくば皆様がこれによって励まされて、ただお独り、主を求められん事を! かくして御聖霊を崇めつつ、彼が、しかしてただ御聖霊のみが、かく学んで参りましたこれらの幸いなる真理を、活々として輝いた現実として下さる事ができるのであることを確かめられんことを! かく祈って止まない次第であります。
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