内 住 の 基 督キリスト



 心のうちにキリストをしゅと崇めよ(聖別せよ(sanctify)=欽定訳)、またなんぢらのうちにあるのぞみの理由を問ふ人には、柔和と畏懼おそれとをもて常に辯明すべき準備そなへをなし (ペテロ前書三・十五

 どうぞ『聖別』なる語に注意して頂きたい。崇むるでも即位せしむるでもない、『聖別』であります。これには、確かに、聖なるキリストに対するすべての反逆とすべての悪との聖別が含まれております。しかして次に命ぜられるは、私共のうちにある望み、すなわち我らの『うちいますキリストにして榮光ののぞみ』(コロサイ一・二十七)の理由を問う人には、常に弁明すべき準備そなえをなせとの事であります。実際かくありたいものであります。キリストうちに宿りたもうと如何いかにして知るかと尋ねられるすべての人に、常においそれと答えるように、しかも真物ほんものを持っているならば、柔和と畏懼おそれとをもて応答することでありましょう。実際、逃れたきは、今日こんにち多くの証言あかしの特徴である、かの恐るべき手製の確信と独断な自信で、私共はむしろ聖霊の静かなる確信に満たされとうございます。これこそはしんに甘美なるもの、柔和にして自らは畏れおののきつつあり、他をして首肯せしめずしてはまぬていのものなのであります。

 さらば私共の聖書研究の主題は内住の基督キリストであります。これこそは、そしてただこれのみが、すべてのしん聖潔きよめ源泉みなもとであります。これなくして心と品性、また生涯の聖潔きよめなるものは有り得ない次第であります。

キ リ ス ト うち顕 示あらわ さ る

 れど母のたいでしよりわれを選びわかち、その恩惠めぐみをもて召し給へる者、御子みこが内にあらはしての福音を異邦人に宣傳のべつたへしむるをしとし給へる時、われたゞちに血肉けつにくはからず (ガラテヤ一・十五、十六

 世に対してではなく、おのれたみに自らをあらわしたもうとは、主イエスがこの世を去りたもう前になされた最大最高の御約束であります。ここには『御子みこが内にあらはす……をしとし給へる時、われたゞちに血肉けつにくはからず』とあって、このパウロの内顕現ないけんげんはかのダマスコ途上の顕現ではないことは明らかであります。

 主ご自身が霊魂たましいに現実にせられ、うちあらわされ、不断の臨在をなしたもう、これが聖潔ホーリネスであり、これが天であります。しかも聖パウロは云う、これは一つの目的をもった経験、すなわちキリストを『異邦人のあいだ宣傳のべつたへんがため』であると。私共はこれなくしても基督キリスト教を伝えることはできましょう。しかしキリスト御自身を伝えることはできません。ここに救霊者のくべからざる要素、異邦伝道者の本質的要素がある次第であります。人種の何たるを問いません。

 しからば、私共が有力なる救霊者、人をすなどる者、また充全なる福音のよきおとずれの宣伝者たり得んために、キリストの私共のうちあらわされん事、これこそは私共の目標でなければなりません。

キ リ ス ト うち形 成かたちづく ら る

 わが幼兒をさなごよ、なんぢらのうちにキリストのかたちるまでは、われふたたびうみ苦痛くるしみをなす (ガラテヤ四・十九)。

 キリストがうちに「顯示あらわさる」る時、彼は私共の霊魂たましいに現実となり、私共の霊魂たましいの眼に鮮やかになりますが、彼がうちに「形成かたちづくらる」る時には、彼はの人々にも見られるに至るのであります。かくて私共のうちにキリストの御姿みすがたを拝し見る人々は神を崇め、自らも私共の主のごとくならんことを願うに至るのであります。聖徒パウロはかつて一度ひとたびこれらガラテヤの悔改者かいかいしゃのために言わば産みの苦痛くるしみをしたのでありますが、今や再び同じ経験を通りつつあります。キリストが彼らのうちに全くその御形みかたちを成したまわんことをとは、パウロの切なる憧憬あこがれであったのであります。ガラテヤ書を一瞥する時に、これはいよいよ明瞭になって参ります。

 一章から二章十四節までにおいて、使徒はおのが生涯の弁明を致しておりますが、二章十五節より二十一節においては彼の福音、すなわち「神の子の信仰による称義しょうぎ」(十六節)と「神の子の信仰による聖潔きよめ」(二十節)を暗合的な風に呈供ていきょうし、さらに進んでその各々の経験を開陳しております。三章においては彼は称義を取り扱い、アブラハムの福音もキリストの福音も同一であって、モーセすなわ律法おきてはその中間にあるものであると語っております。私共が義とせられるは恩寵により、約束により、信仰によってであります。モーセはただ一時的の必要に迫られてのことにほかなりません。今や律法おきては廃せられてしまいました。しかして私共は再び恩寵にかえっておるのであります。

 四章において聖潔きよめの問題に移りながら彼は申します、モーセとその律法おきてとは表面上は全くその姿を隠しながら、なお律法おきての精神は信者の経験のうちとどまっていると。彼は私共を語らってアブラハムの天幕を訪れしめます。そこに見出されるはイサクと共に、奴隷女とその子──ハガルとイシマエルでありますが、使徒は云う、そこにこういう者のおる間は、少しの自由も成長も、ないしは喜びの盈満えいまんもあり得ない事を見よと。『婢女はしためとその子とをひいだせ』(三十)。ハガル──その名は流浪さすらい。奴隷ハガル──そのつとめは束縛。エジプトびとハガル──その家居ホームはエジプト。不安焦燥、束縛、この世──これらはまずいださるべきであります。しかしてのち初めて御子みこキリストは私共のうちに形作られるを得るに至る次第であります。キリストの形! これは如何いかなる形でありますか。使徒をして言わしむれば、『彼は……しもべかたちをとり』(ピリピ二・七)であります。うちにキリストのかたち成るとは霊魂たましい謙遜へりくだりを意味いたしましょう。その霊はつかえることをもって最高の光栄と心得るに至るのであります。

キ リ ス ト うち に 歩 み た も う

 われ彼らのうちに住み、また步まん。われかれらの神となり、彼等わがたみとならん (コリント後書六・十六

 ここに今一つのめぐみ深き御約束、聖父みちちとの交通また交際まじわりの御約束があります──『われなんぢらの父となり、汝等なんぢらわが息子・娘とならん』と(十八節)。

 原語において『子等こども』と『息子』との区別を注意するは大切な事であります。これは二つの各異なった経験を示す、二つの全く異なったことばであります。そこでここにある約束は、内住のキリストは私共を第二の経験たる『息子たること(sonship)』に導き入れるという事であります。

 『父の約束』がエリシャに臨んだ時、今まで『しゅ』と呼んでいたエリヤに対して最初に口を衝いてきたったことばは、『わが父、わが父、イスラエルの兵車へいしゃよ、その騎兵よ』(列王紀下二・十二)でありました。私共の心は一つのエデンとなるべきで、そこに私共の父なる神は昔アブラハムとなしたもうたように、今も私共と共に歩みたもうのであります。

 キリストがきたって私共のうちに宿りたもう時、主が地上に楽しみたもうた父との交際まじわりの関係はそのまま私共の心に移されます。主の地上最初の御言葉みことばとしてしるされるは『父』であります。『われわが父の事をつとむべきをしらざる』(ルカ二・四十九)。これはまた架上かじょう最後の御言葉みことばでありました。『父よ、わが靈を御手みてにゆだぬ』(ルカ二十三・四十六)。そのよみがえりののちしるされる最初の御言葉みことばも、『われはわが父、すなはなんぢらの父……に昇る』(ヨハネ二十・十七)でありました。

 私共の心のうちに宿りかつ歩みたもうキリストは、その霊により断えず『アバ父よ』と呼びたもうでありましょう。

キ リ ス ト うち に 生 き た も う

 我キリストとともに十字架につけられたり。最早われ生くるにあらず、キリストが内にりて生くるなり。今われ肉體にりて生くるは、われを愛してがためにおのが身を捨て給ひし神の子を信ずるにりて生くるなり (ガラテヤ二・二十)。

 ここに『生くる』という意味に用いられていることばは、『宿る』とか『住処すみかとする』とかいうことばには何の関係もありません。もしこの考えがはいって来ると、ここ全体の意味を失う事になって参ります。ここに使われていることばは私共のことばの『動物学』と同じで、生命いのちの精、生命いのちの要素を示すところのものであります。「キリストうちに生きたもう。活々いきいきとしておわす』と訳せば更に適当でありましょう。

 生命いのち生命いのちの本源、原則がここにキリストのうちに見出されるというのであります。その原則とは更に、信仰であると声明せられておりますが、ける信仰、すなわちかの不思議な、静かな、甘美な感化、霊魂たましいの中にあって見えざるものを見るがごとくに現実にまた活々いきいきとさせるける信仰こそは、この生命の本源また原則であるというのであります。おお、かの普通新教徒の懶惰らんだな信ずる主義や、或いはローマ教徒の単なる理知的肯定とは如何いかに異なったものでありましょう。キリストは云う、『なんぢもし信ずる事を得ば信ずる者においなしあたはざる事なし』(マルコ九・二十三元訳)と。聖書的に信ずる事のできること──「キリストと全く一つに合体せられること」はしんに恩寵の奇蹟であります。それはキリスト御自身が御自身の信仰の生涯を私の貧しい心の中に再び繰り返し生きて下さる事にほかなりません。

 この幸福さいわいなる望みの理由をこの使徒に尋ねるならば、『われはキリストとともに十字架につけられたり』と答えます。磔殺たくさつせられたまいし救主すくいぬしこそは生ける救主すくいぬしを体験するための唯一の理由、或いは基礎どだいであります。彼は十字架にって世に死に、世もまた彼に対して死物となったのでありますが、彼がこの十字架のほかは誇ることあらざれと一切を拒絶したことも誠にうべなるかなであります。

 これは御座みくらへの踏み石であり、豊かなる所への関門であり、内住の救主すくいぬしきたってとどまりたもうための入口であり、しかしてしんける信仰の流れずる源泉みなもとである次第であります。

キ リ ス ト うち住 処すみか を 造 り た も う

 このゆゑわれは天と地とにる全家の名のおこるところの父にひざまづきて願ふ。
 父その榮光のとみにしたがひて、御靈みたまにより力をもてなんぢらの内なる人を强くし、
 信仰によりてキリストをなんぢらの心にすまはせ、なんぢらをして愛に根ざし、愛をもとゐとし、
 すべての聖徒とともにキリストの愛の廣さ・長さ・高さ・深さの如何許いかばかりなるかを悟り
                         (エペソ三・十四〜十八

 聖徒パウロのこの祈禱いのりの真意を充分に了解するためには、単に原語において用いられていることばの価値を認めることが必要であるばかりでなく、彼の祈禱いのりの全機構たてまえを観察する事が大切であります。

 彼はエペソびとに告げて、彼らは『同じ國人くにびと』、キリストの体の『同じえだ』、『同じ共有者』、『同じ世嗣よつぎ』であると言って来ました。彼らは神の大家族の一員であるのであります。『このゆゑに』と彼は言う、『われは……全家ぜんかの……父にわが膝をかゞむ』、しかして願う、願わくばそのきよき霊の力づけによってキリストきたりて、信仰にって、なんじらの心の中に『彼のホームをつくり』(ギリシャ語原意)たまわん事を、換言すれば、なんじらの心の中に『家族的感じ』を与えたまわんことを、かくしてなんじかれの愛の如何いか広くしてすべてを包容し得るか──如何いか長く耐え忍びて忍耐深くあるか──如何いか深くして自己犠牲的であるか──また信ずる者をきよきと栄えの如何いかばかりの高さにまで引き上げるものであるかを悟らんこと──すなわちこれをわがものとし、これを同化し、これを発揚し、しかして心底よりこれを了解するに至らん事をと。

 私共が自らのことよりも主がそのすべてのえだに対して持ちたもう愛を現実に感ずる事ができるのは、ただキリストきたってその住処すみかを造り、私共の心中しんちゅうにかの家族的感じをもたらしたもう時のみであります。ただ内住のキリストのみが偏った宗派心や狭い島国根性から私共を救って私共の同情を広くし、主の連れきたりたまわなければならない他の檻の羊をも抱擁せしめたもうのであります。

      広げよ、燃やせよ、充たせよが心を
       際涯はてしなき、きよき、が愛もて
      与えよ、幼児おさなごのごと祈る愛を
       が家を再び建てんと願う愛を

 おお願わくば私共の心が主の臨在によって広くせられんことを。外国とつくにの滅ぶるたましいに対する主の愛のはかりの私共の心にもそそがれんことを。日本にあるご自分のたみに向かうその関心と憐憫あわれみは私共の心にも反響こだませんことを。まことに主きたりて私共のうちにホームを造りたまいしことによりて。

キ リ ス ト うち に 饗 宴 を 開 き た も う

 よ、われ戸のそとに立ちて叩く、人もしが聲を聞きて戸を開かば、われその内にりて彼とともに食し、彼もまたわれとともに食せん (黙示録三・二十

 キリストが心のうちあらわされまた形づくられるとは如何いか幸福さいわいなる事でしょうか。彼がまたそこに宿りかつ歩むとは驚くべき事であり、更に、そこに再び生きてその信仰を現し生ぜしめ、私共の貧しい我儘わがままな自己中心な性質を、神の大家族への愛をもて充たしたもうとは、これはこの上もなく大いなる奥義であります。

 ここにもう一つの幸福さいわいが見えております。信者にして微温的、また悩める者、憐れむべき者、貧しく盲目、裸にしておのが悩めるさまも知らずにおる者に対して、主イエスはきたって聖前みまえ食卓テーブルひろげようと約束したもうのであります。ただ求めるは、私共が『彼の』御声みこえに聴き従い、まずすべて彼ののたもうところを行わん事でありますが、それは主が最も貴い御自身の血をもて、自ら備えたもうたところのもの──『きん……白きころも……眼薬めぐすり』などの聖語みことばに表された清き心の賜物を価をもてうべき事であります。

 彼は私共と食を共にせんと申しでておられます。世に友誼または幸福さいわい交際まじわりしるしとして、食を共にするにまさってうるわしいものはありません。主イエスはその地上の御生涯において幾度か食卓テーブルを聖別したまいました。その優れて稀なる御恩恵おめぐみの多くは食卓を囲んで与えられたものであります。しかして御復活ののちにおいてさえ、あまり多くの記事のない中に、三度も記されているのは、主が御弟子等みでしらと共に食物をられた事柄であります。

 かくてまた主の地上最後の聖言みことばまた御約束は、自らたみの心にきたって食を共にするとのそれでありました。

 彼は御言みことばちちみつとを備え、永遠とこしえかて、実にまことの食べ物、まことの飲み物である彼の肉と血と、それに御自身の常なる臨在をえ与えたもうのであります。

 主はただに統御し、支配し、また教導し、守護するためにきたりたもうたばかりではありません(勿論もちろんこれらすべては為したまいますが)。また同時に私共と食を共にし、私共の飢えたる霊魂たましいを満ち足らわしめたもうのであります。

キ リ ス ト ── うち な る 大 能 力

 ペテロに能力ちからあたへて割禮かつれいある者の使徒となし給ひし者は、われにも異邦人のために能力ちからあたへ給へり (ガラテヤ二・八

 人類一般としての不足のみならず、心霊的の結果を獲得し、または神のお働きを有効に成し遂げるために、彼自らの個人的の欠乏を意識した事において、聖徒パウロにまさる者はありますまい。

 しかしこの深い自覚のかたわらに、聖徒パウロのうちには、これにも数等まさって力強いもう一つの自覚がありました──自己ならざる別の御方おかたの存在と活動──御聖霊──彼をしてうちに、またともに、常に断えざる内住のキリストを意識せしめたる御一方おひとかたの自覚でありました。聖パウロは常にこの驚くべき臨在を知悉ちしつしておりました。彼は唯一の働き手にておわしたもう。彼はかれうちにて能力ちから強き御方おかたにておわしたもう。ただに使徒自身の生涯のうちに志を立て、事を行わしめたもうばかりでなく、彼を通して御自身働きたもう──人類の救いときよめにおいて神の働きそのものをなしたまわれるのであります。

 キリスト『わがうち能力ちから强し(mighty)』(ガラテヤ二・八=英訳)。キリストの強きはパウロの弱きのうちに全うせられたのであります。

 しかして内住のキリストは私共にとってもこれらすべてをなし下さり、私共の狭い小さい活動の中にも栄えをあらわして下さるのであります。ただ、かくなさしめたてまつり、おのれの働きをめて能力ちから強き御方をして私共の代わりに働かしめたてまつることであります。

 以上は内住のキリストの幸福さいわいさの幾分かであります。『しかしこれは救われた時に得たものである。私はキリストを受け入れた時に一切を頂いた』とおおせられてはなりません。それは可能論であるかも知れないが、実際論ではありません。

 事実、私共の新生において私共はキリストの霊を受けたのではあります。『キリストの御靈みたまなき者はキリストに屬する者にあらず』(ローマ八・九)と言われております。しかし、悲しいかな、多くの場合において実際、キリストは私共の心の戸の外におられます。ラオデキヤの教会へのしょは信者に対するものであって、キリストの外にある者に対するものではありません。私共は黙示録三章二十節からしばしば未信者に説教いたします。もちろんそうしないはずはありません。しかしもともとこれは聖徒に対する御言みことばで、しんのクリスチャンにしてなおキリストを心の外に置きたてまつることが事実あり得ることなるを明白に示しているものであります。

 さらば私共は充分に自らの心を突き止めて、私共の心のうちにキリストを主と聖別いたしとうございます。しかして私共のうちにあるこの望みの理由を問うすべての人に応答こたえを致すよう、今より常に準備そなえ致しとうございます。

      とぼそにたゝずむ    まれびとを見よや
        いとものしづかに    おとなひたまえり

      さきにもしばしば    たゝきたまいしが
        いまなおたゝずみ    をまちたまえり

      おとなひたまへる    さまのしたはしさ

        あだなすものさへ    かくまでめぐみて

      とものひとりをも    かくはうとみしか
        まことのともなる    主をなどむかへぬ

      いざいそぎたちて    主をむかへまつれ
        まよひのゆめより    つみのふしどより

                          (新讃二三三歌詞)



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