心 の 聖 潔 即 ち 全 き 愛
(ヘブル書第八章)
本章の初めに『今いふ所の要點は斯のごとき大祭司の我らにある事なり。彼は天にて稜威の御座の右に坐し……たまふ』とあります。ヘブル書の記者は、これまで多くの驚くべき事を述べてきましたが、その最も驚くべき事は、昇天のキリストが聖父の右に坐しおりたもうという事実であると言うのであります。しかして彼はその昇天の主がいかなる御職を執りたもうかを語らんとして、まず簡単に『キリストは更に勝れる約束に基きて立てられし勝れる契約の中保となりたれば、更に勝る職を受け給へり』(六節)と言っております。ここに三つの勝れることがあります。さればこれに随い、(一)勝れる職、(二)勝れる契約、(三)勝れる約束を順次に共に学びたいと思います。
一、 勝 れ る 職
キリストの御職めは何に勝るかと言えば、もちろん旧い祭司職に勝るのであります。ユダヤ人は、祭司職は犠牲を献げるためのものであると考えました。実際それはアロンの主なる職めでありました。けれどもそれだけならば祭司の必要は無かったのであります。祭司職の始められない前にも犠牲は多く献げられております。アベルもノアもアブラハムも、すべての族長たちもみな犠牲を献げました。されど祭司職は、シナイにおいて神がその民の中に降って住まんとしたもうた時に中保のために始められたのであります。
しかして一層高いキリストの祭司職はこれより遙かに勝った職でありました。即ち昇天のキリストの御職めは、犠牲を再び献げるためでなく、新しい契約の中保となるためでありました。霊的な基督者もまたこの間違いを免れませぬ。多くの人は、栄光にいます主のお働きはただ禱告のみであると思いますが、そうではありませぬ。ここに昇天の主の御職めは、新約の中保となりて人の心に律法を記したもう事であると言っております。語を換えて言えば、昇天の主のお働きは人々をして聖くならしめ、その心と念をば天的愛をもって満たし、御自身との交際に入らしめることであるのであります。もちろん、この大いなる栄えある御工を成就したもうために御禱告の極めて肝要である事は私もまたよく心得ておりますが、今は主の大祭司的御職めの別の方面、即ち律法を人の心の上に置き、人をして神の誡めの道を歩ましめたもうという事を学びたいと思うのであります。
二、 勝 れ る 契 約
かの日の後に我がイスラエルの家と立つる契約は是なり……われ我が律法を彼らの念に置き、その心に之を記さん、また我かれらの神となり、彼らは我が民とならん。……皆われを知らん (ヘブル書八章十、十一節)
このところにこの契約の条項が五つあります。即ち、
1.我わが律法を彼らの念に置かん
2.その心に記さん
3.彼らわが民とならん
4.我彼らの神とならん
5.彼らみな我を知らん
今これらの各条項にわたり詳しく学ぶには時が足りませんから、第一、第二と第五とだけを学ぶことにいたしましょう。
(一)わが律法を彼らの念に置き心に記さん
ここにごく簡単な心理学がありまして、人の性質をば心意的、道徳的に分ってあります。我らがこれを理解するにはこれで十分であります。けれども今少しく詳細に我らの機能を解剖して考えることは、人の心の中になされるキリストの全き救いの深さを理解する助けになると思うのであります。
ここに言われている人の心と念というものは、良心、意志、体慾、愛情、願望、記憶、想像の七つに解剖することができます。
今これらをそれぞれ簡単に考察して、人はいかに深く堕落しているか、キリストはいかに充分に救いたもうかを実覚したいと思います。
良 心
我らの性質の驚くべき機能であるところの良心は堕落によって甚だしく荒らされております。故にこれが回復には神の恩寵の二重の御業を要するのであります。即ち燃ゆるがごとく咎め訴える良心の声が鎮められねばならぬと共に、良心そのものもまた新たにせられ、光を受けねばなりませぬ。多くの血を流した女王メアリは最良心的な婦人であったと言われ、熱心頑固なパリサイ人サウロは最良心的な宗教家でありました。けれども彼らの良心そのものは恐ろしく間違っていたのであります。しかるに我らが罪を赦したもう神に立ち帰る時に、覚醒した良心の訴えが、主イエスの御血によって永久に鎮められるばかりでなく、この後新生命に歩み得るために、良心そのものが光を受け、新たにせられるのであります。
意 志
意志は霊魂の大城砦であります。それは自我であり、個人的存在であり、人それ自身でありますが、神に対する叛逆によって恐ろしく歪められ、侵蝕されているのであります。けれどもこのものが降服し、十字架の能力によってキリストと偕に磔殺され、キリスト・イエスのうちに新しき人と甦るのであります。かく我らの意志は聖められ、変わらせられ、かつては我ら自身のために生活していたものが、これより神のために生きるものとせられるのであります。勿論これは神の恩寵の奇跡でありまして、その奥義は我らの決して測り知り得るところではありませんが、栄えある事実であります。
体 慾
人間堕落の結果の最も明らかに見られ得るものは、我らの性質の肉体的方面の悪変であります。即ち神より賦与された肉体の情と慾とが甚だしく病的になり、歪曲されている事であります。
何人も飲酒家、阿片吸飲者、喫煙者、放蕩者に生まれついた者はありません。かくなるは習慣づけられるに由るのであります。けれどもその習慣が恐ろしく彼らに侵蝕して、離るべからざる自己の一部分の如く思われるようになるのであります。しかし、人が生まれ変わり、キリストに在りて新たに創造せられた者となれば、神はこれらの悪癖からの絶対完全な救いを与えたもうて、悪癖の鎖は直ちに断たれ、我らは自由にせられるのであります。神はかかる慾に対して単に打ち勝たしめたもうということでなく、かかる悪慾よりの徹底的なる救いを与えたもうのであります。神はかかる慾をみな除去し、滅絶したもうが故に、その嗜好が永久になくなります。かかる栄えある救いの真実を証しする者は数えきれぬほどあるのであります。
愛 情
回心に当たりて、ここにも恩寵深き更新が行われます。全く荒らされ、蛇の毒を注入されおる我らの愛情も、新生の時に大いに変化され、更新されるのであります。
しかり、霊魂の新生は大奇蹟であります。神の恩寵によって良心、意志、体慾は全然新たにされ、愛情、願望も或る程度において新たにされ、記憶と想像もまた大いに新たにせられます。しかしながら、我らの皆経験する如く、その更新の御業はまだ充分でなく、悪の病毒は新生した者の衷にもなお留まるのであります。
我らの愛情はなお正常でなく、我らはしばしば当然愛情を注ぐべからざる人や事物に向かってこれを注ぐのであります。
ここが全き救いを要するところであります。栄光の主が我らの心と念の上に生命と自由と愛との、神の完き律法を記すために生きおりたもう、その御目的はこれであります。
願 望
チャールズ・ウェスレーは
「わが意志は定まって見ゆれど、情はなお広く彷徨いゆく」
と歌っておりますが、その如く、神の生まれ更わらしめる恩寵が我らの心に届いて、意志が新たにせられた後も、願望がなお他のものを慕う事を見出すことがあります。例えば賞讃、人望、快楽、安逸、富裕などの愛好が、なお我らの霊魂に害ある力を働かす事を覚えることがあります。されども感謝すべきかな。我らを全く救わんとて生きたもう主は、我らの心と念と願いとを浄めて、御自身をもってこれを満たす事をなし得たもうのであります。かくしてジョン・ウェスレーが「我らは神のほか何ものをも慕い望まぬ」と言ったように、我らの愛情願望の目的が、ただ神御自身となるに至るのであります。
「悲しみと罪と恐れが、全き愛によって終熄する時、
我らの願望は、ただ上なる者にのみ着く」
記 憶
我らが自然に悪を憶え善を忘れるのは如何にも不思議なことでありますが、かくなるには原因があります。それは悪魔が徹底的に働いて、我らの性質のいずれの部分も毒したからであります。しかし感謝すべき事には、罪の増すところには恩恵も彌増すのであります。即ち神の御言はその我らの記憶をも癒したもう。『我これらの事を語りたるは……汝らの思ひいでん爲なり』(ヨハネ十六・四)。また聖霊もその工をなしたもう。『父の遣したまふ聖靈は……思ひ出さしむべし』(同十四・二十六)。しかして主の御血はその御工を完成したもうのであります。『この酒杯は我が血によれる新しき契約なり。飮むごとに我が記念として之をおこなへ』(コリント前書十一・二十五)。
モーセはその民と別れるに臨み、十三度憶ゆべきことを命じ、十三の幸いな事実を思い起さしめたことであります。
神に感謝せよ、主イエスは我々の記憶を浄め、癒し、活かし、すべての思いを虜にしてご自身に服わせしめたもうのであります。
想 像
人の性格行為を動かして最も力強く働くものは想像であります。既に新生した者においてさえも、意志が想像の勢力に虜にされる事はたびたびであります。
『ヱホバ人の……心の思念の都て圖維る所(想像(imagination)=欽定訳)の恒に惟惡きのみなるを見たまへり』(創世記六・五)。ここに悪の根元が見えております。不信仰というものは何時もここに住んでおり、その住居の壁に、人の意志を欺き惑わしまた虜にするような、恐ろしい絵画を乱書しているのであります。
想像は、ラテン語や英語の語源の示すごとく、その一般の意味は、実際存在せぬものに形を与えることであります。
或る人は神を単に情け深い父で、誰をも罰することをせぬ老紳士のごとく想像し、或る人はまた神を厳酷無情で頑として動かない暴君と想像します。かくてそれからそれと想像を逞しくして行きますならば、妄想の果てしはないのであります。されば我らの心の想像の全く腐れ、歪み、また迷いおることを信ずべきであります。
されど神に感謝せよ。キリストはこれを浄め、姿変わらせ、釈き放ち、変化せしめたもう。かくしてまたここにその律法を記して、信ずることをなさしめたもうのであります。主は我らの想像の奥の間から不信仰というこの暴君を逐い出し、その代わりに天父に対する幸なる愛情ある信認をばその位に即かせたもうのであります。ハレルヤ。
かく述べ来った実際的心理学はあまりに簡単であり、不充分でありますが、これを考え、祈り、自らに当て嵌めることは読者諸君に委ね、少しく次の条項について語りましょう。
(二)み な 我 を 知 ら ん
これまで言いつつあった事は皆、神を知るというこの目的に達するためであります。霊魂の汚れ、また奴隷にされた機能を浄め、救い、釈き放ちたもうのは、心が主を知り奉ることのできる準備のほかではありませぬ。「キリストの交際」、これが目的であり、これが新しき契約の第一の特色であります。これこそ実にキリストの幸なる御職の目的であるのであります。
さてエレミヤ記九章二十四節を見れば「神を知る」ということの甚だ美しい既述があります。
誇る者はこれをもて誇るべし 即ち明哲して我を識る事とわがヱホバにして地に仁惠と公道(審判(judgment)=欽定訳)と公義とを行ふ者なるを知る事是なり
これは実に幸いなる知識であるが、君は神が天においてのみならず、地においてもこれら三つの幸いなることを行いたもう事を悟りまた知りおられるか。
仁 恵
神はその独子を遣わしたもうほどに愛したもう、ここに天の知恵があるのであります。
人は人間の知恵、哲学や科学の冷ややかな光をもって人類を神に帰らしめんと企てる、これは人の道である。されど神は遙かに異なった仕方をもって人を御自身に引きかえさんと企てたもう。言は肉体となりたもうた。生きた、温かい、しかして真実で優愛の人、我らの骨の骨、肉の肉なる御方、我らに最近き救主、罪を定めるためでなくかえって同情し救う、罪人の友となりたもうたのであります。ハレルヤ! 願わくはこれらのこと、即ち神の大いなる、しかも燃ゆるごとき自己犠牲的愛を知る、深い心の知識を持たんことを! これが神の途である。
審 判
『かれ(聖靈)來らんとき世をして……審判につきて、過てるを認めしめん。……審判に就きてとは、此の世の君さばかるるに因りてなり』(ヨハネ十六・八、十一)とあれば、この上に重ねて言うことを要しませぬ。神は十字架において人類の大敵をば既に打ち破りたもうた。この戦、この血戦は我らの戦でなく、主の御戦でありました。ハレルヤ! 我らは神の仁恵にあらわれおるその優愛を知るごとく、また審判にあらわれおるその大能を知りおるでありましょうか。
公 義
ヨハネ一書一・九に『神は……正しければ、我らの罪を赦し、凡ての不義より我らを潔め給はん』とあり、同二・一には『我等のために父の前に助主あり、即ち義なるイエス・キリストなり』とあるを読む。これは神の二重の公義であります。しかして神はこの正義を行う事に忠信でありたまいます。我らは神の優愛とその大能を知るごとく、またその公義に顕れおる忠信を知りおるでありましょうか。
かく学び来ったところが主イエスが中保となりたもうところの新しき契約であります。かくして主は我らをして、聖父及び御自身との交際に入らしめたもうのであります。
(三) 勝 れ る 約 束
我もその不義を憐み、この後また其の罪を思出でざるべし (ヘブル八章十二節)
既に述べ来った、驚くべき新しき契約は、この勝れる二つの約束の上に立っておりますので、この約束は新契約の基礎であり、そのためにこの契約の中保もでき得るのであります。
既に学んだごとく、契約の条項は幸いにも積極的の恵みで、我らの心と念に完き愛の律法を記し、かくして主を知るに至らしめるという事でありますが、この積極的の経験は勝れる約束を通してのみでき得られる事であります。しかしてこの約束は神が我らの衷になしたもう消極的な、しかも必要な御工であります。人心に霊感を吹き入れる建設の業のなされる前に、妨害となるものの排除と破壊の工がなされねばならぬのでありますが、勝れる約束の言うところはこの排除と破壊であります。されば今この第二のものをはじめに考えましょう。
この後また其の罪を思出でざるべし
詩第三十二篇の作者は『その愆(なすまじきことをなせる罪)をゆるされ その罪(なすべきことをなさざりし罪)をおほはれしものは福ひなり 不義(罪の性質)をヱホバに負せられざるもの……はさいはひなり』と言っております。
実にそうであります。しかして神に感謝せよ。我らはその赦されたる者であります。旧約においては故意に犯した罪に対する赦しがありません。もし人が安息日を犯しても殺さるべきで、赦すということは不可能でありました。されどもここに、我らには『其の罪を思出でざるべし』と言われているのであります。神に感謝せよ。
我もその不義を憐まん
ここに更に幸いな事があります。神は我らの堕落した状態を憐れむと約束したまいます。神は我らの内心の悪のゆえに我らを叱責したまいませぬ。我らは不義なる性質をもって生まれました。我ら自らそれを選んだのではありませぬ。されば神は我らの生まれながらに罪の奴隷たる有様を憐れみたもうのであります。我らは(我ら自身の不従順によってでなく)『一人の不從順によりて……罪人とせられ』たのであります(ローマ五・十九)。かくの如くにまた他の『一人の從順によりて……義人とせらる』(同)のであります。
神が憐れむと仰せられるのは単なる感情上のことではありませぬ。他の所に『凡ての不義より我らを潔め給はん』(ヨハネ一書一・九)とあるごとく、神の御憐れみは極めて実際的の御工を含んでいるのであります。即ちそれは我らの存在の各部に純潔優愛の御自身の御律法を記したもう積極的御工のために、まず我らの愛情、願望、記憶、想像から悪を排除したもう、幸いなる御工であります。
イザヤ書五十三章四〜六節を見れば、彼は我らの病患も心配も悲しみも負い(四節)、我らの愆や不義や罪をも引き受けたもう(五節)。そればかりでなく、神を讃めよ! そこに一段と幸いなことがある。
即ち迷える羊のごとく我儘気随な反逆の性質である、我らの不義そのものが彼の上に置かれることが記されているのであります。ハレルヤ!
されば大胆をもって来れ! しかしていま神の御右に坐し、すべて神の御旨を成就げんとて、備えして待ちおりたもう、昇天の主を見上げよ。
我らは勝れる約束の上に立ち、勝れる契約の中保を待ち望む。さればこれが成就以下で満足することなからしめよ。神は我らを召したまい、これをなさんと約したまいました。さればまた必ずこれをなしたまいます。アーメン、アーメン。
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