完 全 に 進 む べ し
(ヘブル書六章一、二節)
ヱホバ、アブラハムに顯れて之に言たまひけるは 我は全能の神なり 汝我前に行みて完全かれよ (創世記十七・一)
私はヘブル書の六〜七章と創世記十四〜十七章を対照し、その光をもって「完全」というこの語の意味を見、またその秘訣を学びたいと思うのでありますが、今その論旨をわかりよくするためにこの主題を四つに区分して述べることに致しましょう。(一)完全(それは何を意味するや)、(二)完全の秘訣、(三)この秘訣を学ぶ道、(四)失敗と最後の勝利。
一、 完 全 (その意味)
ヘブル書の六〜七章を研究し、創世記の十七章と比較してみますれば、この完全は多く実を結ぶことの完全を言ったものであるように見えます。神はアブラハムをこの御目的をもって導きつつありたまいましたが、その時アブラハムにはまだ子がありませんので、この地を嗣ぐべしとの御約束も必然空しいことのように見えておりました。けれども今エホバは彼と契約を立てたまい、『大に汝の子孫を增ん』(二)と約し、『汝は衆多の國民の父となるべし』(四)、『汝を衆多の國民の父と爲す』(五)、『國々の民を汝より起さん』(六)、『王等汝より出べし』(六)と仰せられ、『汝の後の子孫』ということを三度も繰り返したもうた後(七、八)、ついにサラについても『我彼を祝み彼をして諸邦の民の母とならしむべし 諸の民の王等彼より出べし』(十六)と仰せられました。かくのごとく実を結ぶことがアブラハムに対する神の御目的であったのであります。
結婚の実を結ぶことによって完うされ、果樹の結実によって完全となるごとく、基督信徒も実を結ぶことなしには完全ではありませぬ。
神の我らに対する御企図御目的もまた、我らが往きて果を結び、その果を保たしめる事であり、我らが『死人の中より甦へらせられ給ひし者に適き、神のために實を結ぶ』ことであります(ローマ七・四)。しかし神の側において、かく我らを完うしたもうには、我らの側においても信仰を全うする事が必要であります。されば全能の神の御言も、まず『我前に行め』しかして『完全かれよ』でありました。なぜなれば『ヱホバは全世界を徧く見そなはし己にむかひて心を全うする者のために力を顯したまふ』(歴代誌下十六・九)からであります。かくて神は我らを安息の地に導き入れたもうばかりでなく、御自身のほまれと栄光のためにそこにて大いに繁殖せしめんとしたもうのであります。
もし我らの側において信仰に完全でありさえしますれば、全能の神はその御工において忠実でありたまいます。すべての生命の創造者なる神は、我らをして必ず御自身の栄光となるべき霊的子孫を産ましめたもうに相違ありませぬ。
されどアブラハムの場合において、多くの子孫の与えられる前に、まずイサクが生まれねばならなかったように、我らにとっても、真のイサクなるキリストが、まず我らの衷に形成られねばなりませぬ。パウロの場合における如くに、我らにも、キリストを宣べ伝えるために神は『御子を我が内に顯す』(ガラテヤ一・十六)ことを可しとしたもうのであります。またアブラハムがイサクに由ってのほか子孫を持つことができなかった如く、我らもまた内住のキリストなしに実をもつ事はできませぬ。
二、 完 全 の 秘 訣
完全うされる秘訣は、少なくとも我らに関する限り、信仰の完全より外ではありませぬ。
アブラハムの信仰の秘訣は至高き神の祭司メルキゼデクに対する彼の態度であったという事が、創世記の記事からうかがわれます(この事はなお後に論じますが)。今この十四〜十七章にある神の二つの御名に注意して頂きたい。十七・一では主はアブラハムに顕れて『我は全能の神(エル・シャッダイ)なり』と仰せられていますけれども、十四章においてメルキゼデクがアブラハムに顕れた時に、彼は『至高神(エル・エリオン)』について語っており、この御称号はこれら数節のうちに四度繰り返されています(十八〜二十二)。さてまた詩篇九十一・一を見れば、そこに『至上者のもとなる隱れたるところにすまふその人は全能者の蔭にやどらん』とあります。『至上者』と『全能者』の二つの御名が一緒になっております。神をば全能者、即ち我らをして多くの果を結ばしめ、子孫を殖やし得る御方として経験的に知り奉りたいと思う者は、まず至上者、即ち『高くあがれる御座に坐し給ふ』(イザヤ六・一)御方として知り奉り、その隠れたる所に入り、またそこに住まわねばならぬ次第であります。
ルカ一・三十五には主の御母マリアにつきて『至高者の大能なんぢを庇ん。是故に爾が生ところの聖なる者は神の子と稱らるべし……蓋神に於は能ざる事なければ也』(元訳)と言われております。ここにも至高者と全能者(能わざる事なき神)の御名が結び付けられております。ここがすなわち『隱れたるところ』であります。ここでこそ聖霊の御工が成されるのであります。
キリストがすべてのものを越えて、遙かに高く神の右に挙げられ、至高者となされた時に、聖霊を受けて、これを待ち望みおる教会に注ぎたもうたのであります。そのペンテコステの日に教会は至高者の隠れたる所に入り、神が全能者にていまして、救うことも大いに殖え増さしめることもなしたもう事を実験したのであります。
されば完全の秘訣は、確かに神の右に挙げられたまえるキリストに対する全き信仰のほか何でもないのであります。しかして十字架の主、復活の主を知ることは、共に昇天の主、即ち高く挙げられたもうた主を知り奉るように我らを導く次第であります。ハレルヤ。
三、 こ の 秘 訣 を 学 ぶ 道
我らは既にアブラハムの完全き信仰の秘訣は彼のメルキゼデクに対する正しい態度によるという事を指し示しました。されば今その話に帰らねばなりませぬ。その事は創世記十四章に録されておりますが、不思議にそれが復活の主と密接な関係を持っております。どちらにも全うせられた犠牲の表徴が見られ、どちらもキリストが天地の主にています事を示します。何となれば、天にても地にても一切の権がキリストに与えられおるからであります。またどちらにも新しい力が礼拝者の上に与えられております。即ちアブラハムはソドムの誘惑を斥けることを得、弟子たちは神殿の庭で、その敵等の前で喜ぶことができたのであります。メルキゼデクはアブラハムが戦闘に疲労した時に顕れ、真のメルキゼデクにていますキリストは弟子等の恐れ惑うておる時に顕れたもうたが、いずれにおいても信仰は勝利を得せしめました。アブラハムは祭司メルキゼデクとその言を信じ、そのしるしとしてすべての物の十分の一を与えました。しかして『天地の主なる至高神は汝の神なり』というメルキゼデクの告げは深くアブラハムの霊魂に徹したので、ソドム王の誘惑する申し出に耳傾ける何の趣味も願望も持たなかったのであります。弟子等もまたそのごとく、彼らは主を信じ、礼拝し、受け、また満足したのであります。
完うされた犠牲を表すところの復活のキリストを信ずる信仰は、全能の神を知る最肝要なる秘訣であります。
四、失 敗 と 最 後 の 勝 利
ここにおいて読者の心に疑問が起こると思います。アブラハムがかくもメルキゼデクを受けまた尊んだならば、どうして十六章に記されているあの悲劇は起こったか、もし彼が復活のキリストの型であるメルキゼデクに対してかくも驚くべき信仰をもって応えたならば、後に彼の信仰が衰え、サラの言に従い、常識の議論に聴き、その地の律法(ハムラビの法典)に従い、肉の方法をもって神の約束を成就せんことを求めたのは何故か。哀しいかな、彼の信仰はまだ完全より遙かに遠かったのであります。しかり、アブラハムは少なくとも至高神の秘訣の二つを学んだけれども、完全にその隠れたる所に入らなかったのであります。
詩篇の第百十篇にはその隠れたる所について書いてあります。旧約聖書においてメルキゼデクの事の録されおるはただ二箇所で、その一つは創世記第十四章、今一つは詩百十篇でありますが、前者は復活のキリストを描写し、後者は昇天のキリストを示しております。アブラハムは復活のキリストの型として彼を受け、信じまた順うた。けれども哀しいかな、完全に進まなかったのであります。即ち彼はサレムの住居にメルキゼデクを求めて、その助言と教訓を受けるために彼を待ち望むことをせず、却って霊的目的、天的約束をば肉の手段、この世の仕方をもって成就せんといたしました。
かくてアブラハムは約束の天的子孫を生ずるためにとて、哀しいかな、その妻の婢女を娶ったのであります。ハガル(彷徨者)はその名、エジプトはその故郷、奴婢はその業! さても!
しかして彼のこの誤りから如何なる悲劇が生じたか。今日の基督信者にはあまりよく知られぬけれども、基督教の上にかつて臨んだ最大の鞭は、この結果として生じたマホメット教徒で、起源六三四年にはシリアにおいて、六七八年には北アフリカにおいて彼らが基督教会に加えたる打撃の実に甚大であった事は歴史の語るところであります。
さりながら神は如何にも優しくまた恩深く、今一度アブラハムに顕れて、完全に進むように彼を勧めたもう。神は再び彼と契約を立て、もし彼がこの後全く神に信頼するならば、彼の子孫を繁殖しまた永続せしむべき事を約束したもうたのであります。
終わりに、私は神がアブラハムに不思議な聖奠を命じたもうた事を申したい。いつでも神が契約を立てたもう時には、その徴となるべき聖奠を与えたまいます。ノアには虹を与え(創世記九・八〜十七)、イスラエル人には安息日を与え(申命記五・十五、エゼキエル書二十・十二)、ダビデには日月星を与え(エレミヤ記三十一・三十三〜三十七)、我らにはパンと葡萄酒との幸いなる徴を与えたまいました。されどここにアブラハムの場合には、不思議な苦痛の聖奠、すなわち割礼の儀式を与えたもうたのであります(創世記十七・九〜十四)。それは何故でありましょうか。アブラハムは肉の方法を通じて神の約束を成就せんと努めましたから、彼の肉の上、しかり、すべてのイスラエル人の肉の上に、代々を通して、アブラハムの罪の記念がなければならなかったのであります。
しからば、これによって我らの学ぶ教訓は何でありましょうか。我らもアブラハムのなしたように失敗しませんでしたか。しかり、実に幾度それを繰り返したことでありましょうか。さらば我らの霊魂に割礼の必要がないでありましょうか。しかり、実にそれを要するのであります。されども最も驚くべきことには、神の溢れる恩寵によりて聖霊は幸いなる秘訣を我らに示したまいます。即ち『汝らはまた彼に在りて手をもて爲ざる割禮を受けたり、即ち肉の體を脫ぎ去るものにして、キリストの割禮なり』(コロサイ二・十一)とあるのがそれであります。
パウロはこの幸いなる経験の深さと効力を表すためにアペクデュセイ(脱する)という語を特に用いています。この語はギリシャ古文学にも見出されぬ語で、肉の体を我らから取り除くことを意味しているのであります。
ここに救治の道が備えられております。昇天したもうた我らの主は『汝の心……に割禮を施こし汝をして心を盡し精神をつくして汝の神ヱホバを愛せしめ……たまふべし』(申命記三十・六)と約したまいました。かくて我らは至上者の隠れたる所に入り、昇天の主としてキリストを知りまつり、神は我らをして完全に至るまで実を結ばしめたもう全能の神にています事を経験的に知るのであります。ハレルヤ。
されば我らをして速やかに『完全に進ましめよ』。我らのメルキゼデクなるキリスト、復活せるキリストは、すべての肉性の亡ぼされる道を備えたまいました。しかして主ご自身は神の御右において高きに挙げられ、常にメルキゼデクの位の大祭司として、すべての敵をその承足となるを待ちおりたもうのであります。
さればキリストと偕に甦らせられたる我らをして、上にあるものを求めしめよ。キリストは彼処にありて神の右に坐したもうのであります。しかして我らをして至上者の隠れたる所に入り、全能者の蔭に宿らしめよ。
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