二 つ の 不 思 議
造物主なる御神の人類救贖の御経綸において、彼が被造者のこの大業に参与、協力する事を望まれるという、これほど大いなる不思議はありません。しかも、人がまたかかる大いなる栄誉を卑しめ、等閑に附して顧みないとは、これまた驚くべき悲痛事であり、不思議であります。
この悲哀と悲劇とは、神の聖なる預言者たちの口を通して、幾度となく彼の聖なる頁に映し出されているのでありますが、神は彼らを通してその厳粛なるご悲嘆を洩らし、一人の同情者をも、禱告者をも、使者をも、救い手をも、相談相手をも、ないしは救い主をも尋ね出したもう事ができないと仰せいたもうのであります。今、そのような聖言の七つばかりをお示しいたしましょう。
一、 憐 憫 む 者 な し
譭謗わが心をくだきぬれば我いたくわづらへり われ憐憫をあたふる者をまちたれど一人だになく 慰むるものを俟たれど一人をもみざりき (詩篇六十九・二十)
主イエスが衷心の感情や愛情を露骨に現したもうた事は稀でありますが、いくつかの例外がありました。主はただに群衆を憐れみたもうたばかりでなく、弟子たちを御許に召し寄せて、しか語りたもうたと記されております。それは明らかに、失われたる者、滅びる者に対して同じ憐憫が彼らの心にも注がれるようにとの願望の起されるためでありました。ここに私共は詩人を通して、キリストが御自身の圧倒せられるばかりの御悲哀の中に、憐憫を懐く者を見回し求めたまいつつも、その一人をだに得られたまわない御有様を見せられる次第であります。
二、 苦 難 む 者 な し
我はひとりにて酒榨をふめり もろもろの民のなかに我とともにする者なし われ怒によりて彼等をふみ忿恚によりてかれらを蹈にじりたれば かれらの血わが衣にそゝぎわが服飾をことごとく汚したり (イザヤ六十三・三)
もちろん、キリストと偕に神の怒りの酒榨を踏むことのできた者は一人もありません。この恐ろしい工はただ神ご自身のみが、その化身の独子の人格において、能く成し遂げ得たまいしところであって、ちょうど彼の顕現の時、世の贖いの書の印を解くに堪える者が彼のほかに一人もなかったがごとくであります(黙示録五・四、五)。さわれ、ゲツセマネにおいてお選びの三人は、主の御悲哀に与るを許されながら、一人として主と偕に一時をも守り得る者がありませんでした。ダビデの三勇士は敵陣を衝いて天晴ベツレヘムの井の水を汲み来りましたのに(サムエル後書二十三・八〜十七)、救主の三勇士は、いぎたなくも皆まどろみ眠って不覚を取ってしまったのであります。彼と偕にする者なし、一人もあるなし。主は酒榨を踏みたもうことばかりでなく、そこに至る道程をもただ一人、踏みしめたまわなければならなかったのであります。
三、 福 音 を 携 え 往 く 者 な し
たれか初よりこれらの事をわれらに告てしらしめたりや たれか上古よりわれらに告てこれは是なりといはしめたりや 一人だに告るものなし一人だに聞するものなし 一人だになんぢらの言をきくものなし われ豫じめシオンにいはん なんぢ視よ かれらを見よと われ又よきおとづれを告るものをヱルサレムに予へん われ見るに一人だになし かれらのなかに謀略をまうくるもの一人だになし 我かれらに問どこたふるもの一人だになし かれらの爲はみな徒然にして無もののごとし その偶像は風なりまた空しきなり (イザヤ四十一・二十六〜二十八)
『一人だに告るものなし』、『一人だに聞するものなし』、『一人だに……きくものなし』、『よきおとづれを告るもの……一人だになし』、『謀略をまうくるもの一人だになし』、『みな……無もののごとし』、『空しきなり』。
『感謝せよ』と預言者はなおも語を続けます。『わが僕わが心よろこぶわが撰人をみよ……かれ異邦人に道をしめすべし』。ああ! 今日のこの明るき時代においてさえ、キリストに代わりて全権大使となり、栄光の主と偕に同労者たるの栄誉に応え奉る者の如何に尠き事でありましょう!
四、 答 う る 者 な し
わがきたりし時なにゆゑ一人もをらざりしや 我よびしとき何故ひとりも答ふるものなかりしや わが手みぢかくして贖ひえざるか われ救ふべき力なからんや 視よわれ叱咜すれば海はかれ河はあれのとなりそのなかの魚は水なきによりかわき死て臭氣をいだすなり (イザヤ五十・二)
神は人に向かって語ることを愛したまいます。そして幾度となく呼び掛けたまいます。しかし、ああ! 如何にしばしば神『われ呼たれども汝らこたへず 手を伸たれども顧る者なく』と仰せたまわざるを得なかった事でありましょう(箴言一・二十四)。
友の呼ぶ時、どんなに欣んで私共は応答いたしますか。地上の君主の求める時、どんなに速やかにその臣下たちは返答を致しますか。義務のかかる時、何かこの世の危険の叫ぶ時、名声、流行、富、快楽などのその声を揚げて呼ぶ時、百千の人々は聞こうとして待ち構えております。しかし、偉大なる能力の神、ご慈愛に富む私共の天の御父、彼が自らを卑しくして語りたもうのに、一人もこれに応答える者がないというのであります。
五、 禱 告 す 者 な し
ヱホバは人なきをみ中保なきを奇しみたまへり 斯てその臂をもてみづから助け その義をもてみづから支たまへり (イザヤ五十九・十六)
福音書の言は、キリストが人々の不信仰に驚かれたもうた事を告げておりますが、ここには、神が中保なきを奇しみ、また神が真に顧み、真に救わんと憧れ、また事実赦しを喜びたもうのを、信ずる者のない事を驚かれたもうと記されております。
神の聖言は私共の祈禱において三重の切願(せがんで止まないこと)を示しております。即ち、私共自らのために(ルカ十八・一〜七)、他の人々のために(ルカ十一・五〜八)、および神の栄えのために(出エジプト記三十二・七〜十四)であります。
神は私共が他の人々の欠乏に無関心であり、また神を祈禱り負かす力のような大いなる家督の権を軽んずる事を奇しんでおいでなさるのであります。
六、 神 を 捕 う る 者 な し
なんぢの名をよぶ者なく みづから勵みて汝によりすがる者なし なんぢ面をおほひてわれらを顧みたまはず われらが邪曲をもてわれらを消失せしめたまへり (イザヤ六十四・七)
聖書の中に、これほど私共の心を奪う御言はありません。塵をもって創造られた微弱なる受造物たる人が、全能の造物主を捕らえ奉る能力と特権とを持つことができると。実にこれは一切の想像に超絶した御言葉であります。人が自らを励ましてこの驚くべき一事を為そうとしないのを、神が驚異をもって啣ちたもうのも、実に当然の至りであります。人は殆ど超人ごとと思われる事をさえなそうとして、あらゆる努力を惜しみません。しかしこの一事、あらゆる超人ごと中の超人ごと、しかもまた幼児さえもなし得るこの一事を、人は全く卑しめ、また無視し終わるのであります。
七、 破 壞 處 に 立 つ 者 な し
我一箇の人の國のために石垣を築き我前にあたりてその破壞處に立ち我をして之を滅さしめざるべき者を彼等の中に尋れども得ざるなり (エゼキエル二十二・三十)
墻垣を繕う者、即ちイスラエルのために仲保す者が一人もなかったばかりでなく、ああ! 神は一人のやぶれの間隙に立つをも見出し得ないというのであります。
昔、アブラハムは、平野の町々のために禱告して垣を繕い、かくしてロトを滅亡より救い出しました。しかし、もし彼が、更に一歩を進めて破壞處に立ちふさがり、罪のソドムに宣べ伝えたならば、彼はもっと何かなし得たではなかったでありましょうか。主イエスは、単に祈るアブラハムばかりでなく彼らに宣べ伝えるヨナ──天よりの兆──さえあったならば、ソドムも早く麻を着、灰を蒙って悔い改めていたであろうとの意を洩らしていたもうのであります。
フランシス・コイラードは著しい事を言われました。「キリストの世を救いしは単に栄光の中にあっての禱告によってではない、彼は自らを与えたもうたのである。世界教化のために我らの祈禱も、自らは自ら痛痒を感ぜぬ程度のものを与え、犠牲的の事の前にたじろぐようであっては、せっかくの祈禱も苦々しき矛盾に過ぎない」と。
願わくは神の寶座よりのこれらのご悲歎、永遠よりのこの悲痛事、機会を怠り、特権を軽んじ、使命を無視し、これらの私共の手の間より速やかに逸して永遠に失い去られんとする地上のこれらの悲劇、私共の心を奮い起こして神の恵み深き召命に応答え奉らしめたまわんことを。アーメン。
昭和十年十二月二十日発行
昭和二十九年九月一日再版 定価金八十円
------------------------------------------------------------------------------------------
【不 許 複 製】
訳 者 小 島 伊 助
東京都武蔵野市境一四一六
発行人 落 田 健 二
東京都千代田区神田鎌倉町一
印刷所 東陽印刷製本株式会社
------------------------------------------------------------------------------------------
東京都武蔵野市境一四一六
発行所 バックストン記念霊交会
| 目次 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 |