すくい の 秘 儀



 私共は既に『内住ないじゅう基督キリスト』や『基督キリストとの合一』について考えて参りました。今や私共は『すくいの秘儀』、換言すれば、如何いかにしてこれらが私共の実験となり得るかについて考うべきであります。

 私共は屢々しばしばニコデモのごとく、『いかでかゝる事どものあり得べき』(ヨハネ三・九)と叫び出す者でありますが、神はむべきかな、彼は常にかかる質疑に応答こたうるに説明をもってせず、賜物をもってしたまいます。『いかでかゝる事どものあり得べき』、『神は……賜ふほどに……愛し給へり』(同三・十六)。『なんぢはむ物を持たず、いどは深し、……何處いづこより得しぞ』(同四・十一)、『わがあたふる水は』(同四・十四)。『いかでおのが肉を我らに……はしむることを得ん』(同六・五十二)、『世の生命いのちのためにこれあたん』(同六・五十一)。『何故なにゆゑおのれを我らにあらはして、世にはあらはし給はぬか』(同十四・二十二)、『父はほか助主たすけぬしあたへて』(同十四・十六)。『死人いかにしてよみがへるべきか』(コリント前書十五・三十五)、『愚なる者よ、……神は御意みこゝろしたがひてこれたいあた』(同十五・三十八)。

 ゆえに私はこの神の賜物を受くる条件について極めて簡単に申し上げたいと思います。この賜物とは御聖霊の人格パーソンにおいて私共と永遠とこしえともとどまりたもうキリスト・イエス御自身であります。私共は如何いかにして全く聖潔きよめられ得るか。神に立てられて私共の聖潔きよめとなりたもうたキリストが如何いかにしてそのままの御方おかたとして私共の心に受け入れらるべきか。私は四つの簡単なる条件について申し上げたいと存じます。

一、 神 の 御 旨みむね

 この御意みこゝろかなひて……我らはきよめられたり (ヘブル十・十
 主の御意みこゝろ如何いかんを悟れ。……むし御靈みたまにて滿みたされ (エペソ五・十七、十八
 おのが身を……ける供物そなへものとしてさゝげよ。……神の御意みこゝろの善にしてよろこぶべく、かつ全きことををわきまへ知らんために (ローマ十二・一、二

 聖潔きよめなる主題のもとに、私が語りまた書いたところを或いは読み或いは聞かれた方々は、献身(働き(works)の一形式)が私共の語るところの恵みを受けるための条件ではないということを如何いかに私が力を籠めて主張するかをご存じでありましょう。これは条件であるよりもむしろ結果であります。賜物に先立つものではなくしてこれに伴うものであります。しかり、偉大なる賜物、聖霊は、信仰にり、ただ信仰のみにりて受けられるのであります。もちろん、信仰といっても、真正の悔改くいあらため、ジョン・ウェスレーの名づくる「信者の悔改くいあらため」が先に行われて、何らこだわるところなき時においてのみ実際に働き出すたぐいの信仰でなければなりません。かく申して、急ぎ附け加えなければならない事は、私共は私共に対する神の要求に真剣に直面しなければならないという一事であります。彼は絶対の明け渡しと、私共の全存在の彼と彼のための奉仕とへの全的没頭とを要求したまいます。換言すれば、私共は「主の御意みこころの何たるかをらなければならない」のであります。私共がこの大いなるご要求と、しかもその合理的なることとを充分に認め知るその時こそ、私共はまたそれが私共にとって不可能であり、この献身のごとき如何いかに私共の力の及ばぬものなるかを実感するに至る次第であります。その時初めて私共はまず恩恵めぐみを受けなければならない必要を承知いたします。けだし、キリストがきたって洗いきよめ、き尽くし、御霊みたまを満たしたまいてこそ、ロマ書十二章一、二節の命令は成就せられ、また全的献身も果たされるのであります。しかし私共は誤ってはなりません。絶対の服従と従順、神への全的献身、かくてキリストが、しかもキリストのみが万事において第一であること、これが神のご要求であります。この事実を認めませんから多くの人々は求めても求めてもなおむなしいのであります。彼らは幸福を求めて聖潔きよめを求めない。おのれの不愉快な、心地しき罪からの自由は求めるが、自らの全部がみな神のためとなり『すべての罪』から救い出されるようにとの考えは持ちません。しかし私共は標準をここに置き、これをこそ私共の理想、私共の目標また目的であらしめたいものであります。

 さらばこれを私共の目の前に掲げましょう。その合理的なることを認めましょう。そしてこれが私共自らの能力ちからにおいては到底とうてい達し得られないものであることを十分に納得いたしましょう。すべてにまさってこれを熱願ねつがんし、そして神の恩寵めぐみって、るまではまず、人のあたわざるところ、それは神において可能であり、従ってキリスト・イエスにあって私共のためにも可能であると言うに至るまで、断乎だんことしてこの問題を手放さない決意もて聖前みまえに進みとうございます。

二、 御 約 束

 されば……かゝる約束を得たれば、肉と靈との汚穢けがれより全くおのれきよむべし (コリント後書七・一

 ジョン・ウェスレーは、かつて、全き聖潔きよめ教理はいつ信者に示さるべきであるかと尋ねられて、「人々が熱心にその経験を求めるようになってから」と答えたが、更にそれに附け加えて、「しかもそうする時、いつもそれにいやるよりも引き寄せるようにしなければならぬ」と申しました。すなわち、命令によるよりも約束にるというのであります。

 何人なんぴともこれが『約束の地』である事を認めるまでは『安息の地』に到達する事はできません。ゆえに必要なるは、神の御約束に心かれるようになる事であります。私共はどうでしょうか。神の約束は私共に対して引力があり魅力があり説き伏せる力がありますか。眼にはうるわしい幻示ヴィジョンですか。耳に音楽ですか。心に慇懃な囁きでありますか。神がかのおそろしいまた不可能な命令をアブラハムに与えて、家を離れ、親族に別れ、国を出て、持ち物を棄て、一切を後ろにしてしかも未だ知らざる地──ただ従順に従い行く時にのみ神が彼に示したもう地にけとおおせられた時、神はそれに添えて、また『いとおほいなるたふとき約束』(ペテロ後書一・四)をも賜わられたのであります。かの驚くべき、福祉さいわいな、心く約束は創世記十二章について読んでご覧なさい。磁力のごとくにいたのはこれであります。アブラハムをして従うことを得しめ、親愛なる一切の執着すらも離れて急ぎくを得しめたのもこれらの約束であります。神の約束が、こんな具合に私共を捕らえるまでは、私共は約束の地に向かってあまり大した進歩も見せません。命令はあまりにかたきに過ぎましょう。おお願わくばはるかに神の約束を見つつ、私共の心全くこれに説き伏せられ、これを堅く胸に抱くに至らんことを! かくてこそ私共は神の性質にあずかる者となり、我らの主との結合にらしめられるのであります。

三、 懲 戒こらしめ

 靈魂たましひの父は……その聖潔きよきあづからせんとてこらしめ給へばなり (ヘブル十二・十

 この聖句の前後を仔細に注意して頂きとうございます。つまり、次のようなことが論議の精神であることに気附かれるでありましょう。キリストはただに十字架を忍びたもうたばかりではない、罪人つみびとの反抗(誹謗そしり罵詈ののしり等々)にも耐えたまいました。「果たしてそうであるならば」記者は云うのであります、「私共は愛に富みたもう天の父の懲戒こらしめ御叱責おしかりを耐える事ができると考えられないか」と。しかし、悲しいかな、如何いかに多くの神の子供等は罪を示される事を好まないことでしょう! 如何いかに彼らはおの過失あやまちをすら、鋭くまた的確に告げられる事を嫌うことでしょう! 如何いかに彼らは懲戒こらしめやお叱責しかりを怨み、ことにそれが神の僕等しもべらの一人によってせられる時に憤らんばかりであることでしょう! 罪を漠然とした言葉でのみ表し、はっきり名を付けて認めること(いわんや告白することをや)を如何いかに不承知であることでしょうか! さもなくば彼らは聖書に約束されている内住の罪よりの救拯すくいなどというものは決してあるものではない等という、みじめ極まる神学のかげに隠れ、結局は、墓場のこちらにおいては時折の敗北、いな、もっと痛ましくもしばしばなる敗北も、ことごとく期待すべき事であると云うに落ちてしまう次第であります。悲しいかな! 自己の義と傲慢、これがこの恐ろしい不信仰の原因であるをおそれる者であります。

 私共の父なる神が如何いかに私共を懲らし責めさとしたもうとも、よろこんで御意みこころのままになさしめまつるまでは、きよむる信仰は私共の心のうちに湧き起って参りますまい。私共の中にかの「信者の悔改くいあらため」を生ぜしめるものはこの福祉さいわい懲戒こらしめであります。しかしてこれこそは全き救いに至るまで信ずる事を可能ならしめるところのものであります。

四、 信 仰

 信仰によりて彼らの心をきよめ (使徒行伝十五・九
 信仰にりて約束の御靈みたまを受けんためなり (ガラテア三・十四

 私共に対する神の御旨みむねまことに悟ってこれを受け入れること、心かれるばかりの神の御約束に説き伏せられて堅くこれを心に懐くこと、神の懲らしめたもう御手みてもとに悔い砕ける心、これらはすべて恩恵めぐみを受けるため、キリストを我らの聖潔きよめとして受け入れまつるためになくてはならない要因でありますが、なお、聖書の中に唯一欠くべからざる条件として置かれているものは信仰であります。これに関連してジョン・ウェスレーは申しております、「あなたがこれを信仰によって求めているか、それとも働き(works)によって求めているかは、このしるしによって確かに知る事ができる。すなわきよめられる前にまず何かなしたく思うならば、それはわざによって求めているのである。あなたはまず、私はこうなければならない、ああなければならない、或いはこうしなければならない、ああしなければならないと考えなさる。それならば今日こんにちに至るまでわざによって求めておられるのである。あなたがもし信仰にって求めておられるのならば、あなたはありのままで、そのままで期待せられるであろう。しかしてもしありのままにてあるならば、しからばそれを今期待せよ、信仰にって期待せよ。あなたはあなたのあるがまま、そのままにて、今、それを期待せよ」と。しかし、心をきよめて霊魂たましいをキリストとの合一に導き入れる信仰とは如何いかなるたぐいのものでしょうか。御聖霊は、そもそも、如何いかなるたぐいの信仰に応答して、常にとどまりたもうきよめる慰め主としてその心にきたることをもとめたまいましょうか。

 これを、き働く信仰、安息する信仰、および戦う信仰として表し得ましょう。しかしてかくのごとき信仰を私共の霊魂たましいうち創造つくりたもうために、神は私共のために三つの力ある武器を用意していたもうのであります。

(一) 信 仰 の 働 き

 き働く信仰とは私共をありのままでキリストのもときたらしめるところの信仰であると云うことができましょう。すなわち、神の能力ちからある御手みてもとおのれひくくする信仰、私共をして疑惑うたがい恐懼おそれの群衆をも突き抜けて肉迫する事を得しむる信仰、あたかも、昔、キリストへの接近をさえぎっていた群衆をも通り抜けてキリストに近づいた、血漏ちろうを患っていたおんなの信仰のごときであります(ルカ八・四十三以下)。

 かような信仰の土台は、まず私共が自らの霊状に関して、自らの意見に反してでも神の御診断をそのままに受け入れるにあります。彼は私共の真相が悩める者、憐れむべき者、盲目、裸である事を告げたもうばかりではなく、さらにの二つの驚嘆すべき事実を私共に語っておるのであります。すなわち、一、私共がそれを知らないでいるという事と、二、自らを買いかぶって『我は富めり、ゆたかなり、ともしき所なし』と実際信じ切っているという事とであります(黙示録三・十七)。私共が、如何いかに自らの気持ちや判断に逆らうとも、私共の真相について『忠實なるまことなる證人』(同十四)のこの恐ろしい診断を受け入れるまでは、私共は神の大能たいのうの手のもとおのれひくくする傾向を持つ事ができないのであります。

 さらばこのき働く信仰は、私共をあらゆる欠乏と貧しさと罪の中に、ありのままにて、絶体絶命、自己断罪のそのままにてキリストにきたらしめるものであります。

 さて、かような信仰をかたくするため、私共のために神の用意していたもう手段はかれの御聖霊であります。私共は御聖霊に頼らなければなりません。彼こそは私共のうちに覚醒を与えて、え渇くごとくしんの義を慕わしめ、聖に対する深刻なる願いを与え、キリストのごとくせられん事を強く願わしめるところの御方おかたであります。これがかれのお働きであり、私共が彼の臨在と御力みちからとをご期待申し上げる時に、彼は私共のうちにかの恐ろしい一物いちもつ、『微溫ぬるき』の、正反対なるものを創造なしたもうて、私共の心をかき立て、すべて神に満てるものをもって満たされずばまない憧憬あこがれと願望とを与え、如何いかに私共をへりくだらしめる御診断なりとも、それが神との完全なる交通に私共を導き入れるものならば、よろこび甘んじて受け入れまつる事のできるようになしたもうのであります。

(二) 信 仰 の 安 息

 安息する信仰とは、私共をして、罪、自己、原罪等、キリストの御許みもとに持ちきたった私共の一切を、その御足下みあしもと、十字架のふもと、墓の中に永久に残し置くことを得しむるところのものであります。

      が十字架の御前みまへ
         われはわが一切すべてを投げすつ
      しかして其處そこにその一切すべて
         われ断乎だんことして残し置く

 問題は一切を救主すくいぬしにまで持ちきたる事ではありません。それも相当困難なことではあります。しかし、問題は持ちきたったものを、信仰において、そこにそのまま残し置くことであります。幾千の人々がこの秘密を学ぶことを致しません。彼らは今日きょう、その一切すべてを持ちきたります。しかも見ていると、次の日もまた同じ手段を繰り返しております。そこに残し置かなかったことを明らかに示しております。そことは一体どこでありますか。それは十字架の御下みもとすなわち神が私共の犯罪も、私共の自己、また原罪も処置するために定めたもうた唯一の場所であります。人々は一切すべてを持ってここへ参ります。しかしまた無意識にそれを持ち帰ります。どうしてそれがわかるかと言えば、もし彼らがしんにそれを持ちきたってそのままそこに残し置いたとすれば、彼らは二度と再び同じことを繰り返す必要はありますまい。堅くそれを拒んで、かえって自らとそれらとの間にかたく十字架をて、忍耐深く神を仰ぎ、その取引とりひきしるし、御聖霊のきたりたもうたことの確信を与えたもう神の時を待ち望むに相違ありません。

 さて、この信仰の安息に到達すべきために神が私共のために用意したもうた第二の方法は、神御自身の聖言みことばであります。あたかも御霊みたまが私共をえ渇かしめ、私共をへりくだらしめ、ありのままにて主の御足下おんあしもときたることを得しめたもうように、私共の心のうちに受け入れられたける御言みことばは、私共をして御足下みあしもとにおいて安息もて御聖霊のきたりたもうを忍び待つことを得しめたもうのであります。

(三) 信 仰 の 戦 闘たたかい

 私共が安息し始めると、戦闘たたかいが始まります。戦う信仰とは、私共をして悪魔の一切の攻撃をふせぎ得せしめるところのものであります。一つの霊魂たましいが的確に、また必死な態度をもって神を信じ始めるや、敵はあらゆる策略たくみを用いて裏をかき、欺き、また必ずられるべきその勝利の場所から投げ落としてしまおうと致します。

 これに対して神がその確実なる勝利を保証するために用意したもうた方法は主イエスの血であります。『兄弟たちは羔羊こひつじの血とおのあかしことばとによりて勝ちたり』(黙示録十二・十一)。

 主がアブラハムにあらわれたもうた時(創世記十五章)、始祖かれは二つの切なる願いを呈出ていしゅついたしました。(一)なんじわれに何を与えたもうか。(二)われ如何いかにしてこれをるべきかであります。第一に対しては主は答えたまいました。われ三つのものをなんじに与えんと。国(カナン)、一人物(イサク)とたみ(多くの子孫)であります。これは確かに神の全き救いのたとえであって、清き心、内住のキリスト、および嗣業ゆずりたる霊的子孫であります。そこを見ると、アブラハムは神を信じました。神を信じたことを自らり、神もまたこれをりたまいました。これは実際的な経験、実際的な取引であって、神はこの彼の信仰を彼の義と認めたもうたのであります。

 アブラハムは早速第二の質問を呈出ていしゅついたしました。『いかにしてわがこれたもつことを知るべきや』。主はその確信の秘密と、疑い、恐れ、不信仰一切に打ち勝つ勝利の秘密とを告げたまいました。主は彼に四つの生き物を犠牲いけにえとして献げよと命じたまいました。この物語を注意して読むと、これらは何百年かのちにレビの制度のもとにあって献げられた献げ物、酬恩祭しゅうおんさい燔祭はんさい罪祭ざいさい愆祭けんさいとうに全く符合するものであることを知る事ができます。しかもこれらはみなカルバリにおけるかの偉大なる犠牲いけにえ型的かたてきに表した絵画なのであります。アブラハムは従いました。ほど経て後、大いなる暗黒くらき恐怖おそれが彼を襲った時に、光とほのお御霊みたま象徴しるし)がその切剖きりさいた犠牲いけにえあいだ通過とおりました。そこに光があらわれ、そこにこそ証明あかしが来たのであります。『かくかれ靈魂たましひとがの献物そなへものをなすにいたらば……かれはおのがたましひの煩勞いたづきをみて心たらはん』(イザヤ五十三・十、十一)。

 しかしあなたは尋ねなさるかも知れない、戦闘たたかい何処いずこであるかと。その章の十一節を見ると、犠牲いけにえを献げたのち、しかして光とほのおくだる前に荒き鳥がきたったと記されております。アブラハムを襲うためではありません。その献物ささげものを奪い去ろうとしたのであります。しかしアブラハムは警戒いたしておりました。堅くまもってこれをい払い続け、ついに日没にまで至り、かくてついにその報酬を受けました。すなわち神の能力ちからづよい約束の成就せられた確信を頂いたのであります。

 私共にとっても同様であります。神は勝利のために道を備えていたもう。私共がまず神を信じ、次に聖霊のきたるを忍耐もて待ち望む時、私共の唯一のり所、訴えの根拠はカルバリの犠牲いけにえでなくてはなりません。貴き血潮! 主の御霊魂おんたましい献物ささげもの!! かくて初めて敵の襲撃に備えられたとうべきであります。不信の思念おもい、悪魔の火箭ひやはこの荒き鳥のように襲いきたって、キリストのいとも貴き贖救あがないの血の功績いさお効能ちからに対する私共の信仰を奪い去ろうとします。しかし私共は堅く立ちたいものであります。彼をい払い続けとうございます。しかして、よしや猛襲に次ぐ猛襲をもってし、またそれに次ぐに恐ろしい暗黒をもってせられるに及びましても、私共はなお信じ続けとうございます。しかしてついに、その信仰のごとく私共にされます。主は必ずきたりたまい、かくて恩恵めぐみは私共のものである次第であります。

 世に勝つ勝利は我らの信仰なり (ヨハネ一書五・四
 なんぢらは……信仰によりて救はれたり。これおのれにるにあらず、神の賜物なり (エペソ二・八
 信仰なくしては神によろこばるることあたはず (ヘブル十一・六
 われ汝に、もし信ぜば神の榮光を見んと言ひしにあらずや (ヨハネ十一・四十

      信仰、能力ちからある信仰は約束を見る、
       しかしてたゞそれにのみ目をむ、
      不可能を嘲り、
       しかして叫びづ、そは必ず成遂なしとげらるべしと。



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