エ ホ バ の 聖 声
創世記第十五章を開いて頂きたい。そこから、アブラハムの生涯中の一出来事を学びたいと思います。彼は信仰の父と呼ばれました。また、ヘブライ民族の始祖であります。ご承知のように、その先祖を辿ってただ一人の歴史的人物にその起原を見出すことのできるのは、世界全民族中ただこのヘブライ民族あるのみであります。アブラハムはすべての真の信仰の模範であります。ゆえに私共は、私共の父アブラハムを振り返り見とうございます。そは『われ彼をその唯一人なりしときに召しこれを祝してその子孫をまし加へたり』(イザヤ書五十一・二)。
創世記十五章を注意して読むと、神はアブラハムの二つの質問、『何を我に與へんとしたまふや』(二節)と『我いかにして我之を有つことを知るべきや』(八節)とに対する応答として七つの異なった方法において彼に語りたもうを見るのであります。神は
一、幻示に由って(一節)
二、御言に由って(四節)
三、聖礼典に由って──星(五節)
四、過去の経験に由って(七節)
五、血に由って──犠牲の血(九節)
六、大いなる暗黒に由って(十二、十三節)
七、火に由って(十七、十八節)
語りたまいます。しかして神は今もなお同じ方法をもって今日人間に語りたもうのであります。
この十五章は『是等の事の後ヱホバの言異象の中にアブラハムに臨み』という言をもって始まっていますが、如何なる事の後でありますか。
神が語りたもうのには常に時があります。特別な使命の詞を齎したもう時において殊にしかりであります。この重要な会見に先立った事柄、殊にアブラハムをして火の中より己に語りたもう神の聖声を聞くことを得しめた事柄とは何でありましたか。
その物語は前の章に述べられておりますが、それは全く受ける価値もない一人の者のためにした献身犠牲の物語、雇傭的な報酬に対する絶対謝絶と克己との物語、メルキセデクと彼が至高き神から齎した御詞とに対する信仰の物語であります。
神はこれらの事柄に御意を留めていたまいました。多くの男女は、過去の取引や行為が未だ正当に償われていないためや、矯正せられていないことのために、神の聖声を聞き損じております。私共は如何でしょうか。これらの事柄において明るくなっておりましょうか。物質上の問題で疚しいところはありませんか。私共の金銭上の問題に狂いはありませんか。ご記憶のように、主はその談話や譬の中に、金と所有につき、またその使用と濫用についてしばしば語りたまいました。
もしも私共が私共の物質的生活のこれらの個々の実際的な事について正しくあるのでないならば、私共は神が火の中から天に属ける事柄について語りたもうのを期待する事はできません。
一、神は幻示に由りて語りたもう(創世記十五・一)
『默示なければ民は亡ぶ』(箴言二十九・十八=欽定訳)とは如何に真理でありましょう。ペンテコステの日における約束は、若者は幻影を見るべしでありました。歴世歴代これは事実でありました。エホバの言は幻示の中にアブラハムに臨みました。しかも何たる幻示でしょう。『我は汝の干櫓なり、而して汝の優れて大なる酬なり』(欽定訳)と。ここに、よく聖書にある栄えある現在時称の一つがあります。『我は……ならん』でなくして、『我は……なり』であります。これは放蕩息子の話において、兄に語られた父の言葉を思い出さしめます。『子よ、なんぢは常に我とともに在り、わが物は皆なんぢの物なり』(ルカ十五・三十一)。父はその臨在を子の良い行為の故にいたしません。『なんぢは常に我とともに在り』。悲哀はただ子がその事実の中から何も得ておらなかった事であります。その臨在は子にとっては何事でもなかった。交際の心もない、常に父が偕なりたもうとのこの福祉な事実から来る何の喜悦もない。しかし、アブラハムにとってはこれは実にその耳に奏でられる音楽でありました。ここに『神御自身が我らの酬いである』との幻示がある次第であります。これこそは心の純潔の要素、己のために他の何ものをも求める必要のない、釈き放たれたる心の要素である次第であります。
唯キリストのみ聴こゆるところ、
唯かれのみ愛せらるゝところ。
清き心とは単に罪に勝つ心というばかりではありません。それは確かに新生の印であります。否、清き心とは私共のすべての願望の純潔、私共が深く熱烈に、また熱心に彼の栄光と御国と崇めとを願う状態であるのであります。かつては断えず自らのために何ものかを貪って止む時がありませんでした。しかし今や主イエスが我らの到達点であり、我らの目的、また一切の願望である次第であります。
このような幻示において、神は私共に語りたまいましたか。
二、神は聖言に由って語りたもう(創世記十五・四)
かような幻示が与えられる時に私共の祈禱は刺戟せられます。アブラハムの信仰は直ちに躍動いたしました、『汝何を我に與へんとしたまふや』。神は聖言をもって応答えたまいます、『我なんぢに國と人(息子)と民の三つのものを與へん』と。これは全くクリスチャンの生涯の型であります。(一)安息の地、即ちすべての不安の流浪から安息せしめられた霊魂の状態、(二)内住のキリスト、および(三)衆多の霊的子孫。充全きクリスチャン生涯はこれら三つのものから成り立っております。この約束の地について一言申し上げましょう。
これは乳と蜜の流れる安息の地、即ち、今まで語ってきた主の約束である福祉なる霊魂の状態であります。『おお安息の地、それこそ私の求むるところのものであります』とあなたは仰せなさるでしょう。『地』という語は創世記から申命記までの間に五百回近くも現れて参ります。あの九州ほどもない不思議な小さい国のことであります。あの小さい国からそもそもどれほどの恩恵と憐憫とが流れ出でた事でありましょう! 私共の今日あるはこのためであります。この驚くべき聖書もそこから参りました。私の救主もそこからです。すべてのキリスト教国の一切の祝福は彼処から流れ出でました。全地の歓喜、代々の華美、皆そこより来ました。しかしてなおも地球上またとなき不思議国となろうとしております。霊魂の被聖の型として用いられるも不思議な事ではありません。
次に神は仰せられました、『我は汝
三、神は聖礼典──星──を通して語りたもう(創世記十五・五)
この驚くべき神の約束に続いてなおもう一つの聖声こえが聞こえました。主は彼を天幕テントの外に連れ出して天の星を示し、彼の後裔すえはこの天空そらに輝く星のごとく数多くなると保証したまいました。私はこの出来事を好んでダニエル書十二章三節に結び付けます。『衆多おほくの人を義たゞしきに導ける者は星のごとくなりて永遠にいたらん』と。そればかりではない、私はまたこんな想像を廻めぐらす事を好むものです。アブラハムがあの『神の營いとなみ造りたまふ基礎もとゐある都みやこ』(ヘブル十一・十)の天より降くだるを見たのは、やはりこの同じ時、彼の天幕の門辺かどべにおいてではなかったろうかと。見ていると衆多おおくの輝く星が群がり聚あつまってついにあの都の形になったのではないでしょうか! それはどうであるにしても、聖言みことばは云う、
アブラム、ヱホバを信ず ヱホバこれを彼の義となしたまへり (六節)
と。この聖言みことばは聖書の中に七度記されております。第一はこの章、ロマ書四章に四度とガラテア書に一度、ヤコブ書に一度とであります。『アブラハム、ヱホバを信ず』。アブラハムは自らそれを知りました。神もそれを知りたまいました。誰でもこの意味において神を信ずる時に、彼はそれを知り、神もまた知りたまいます。これは単なる正統派信仰でもなければ、一切すべての正統派また根本主義的教理への単なる肯定でもありません。これは活いける信仰であります。
『活いける信仰を息吹いきぶきてよ
さらば受くる者凡すべて
己おのが中うちに確証を持たん
しかして意識的に信ぜん』
この種の信仰は、今日こんにちよく見られるところの怠け切った朦朧たる信仰、何ら為なすところのない、活動はたらきの伴わぬ信仰とは、自おのずから異なっております。『アブラハムは神を信ず、而しかして其それは彼かれの義と認められたり』。それが義ではなかった、しかしそれはその芽生え、すべての義ただしきの種子たねでありました。しかして神がこの種子たねに御目おんめを留とどめたもうた時に、神はそれを現実なる実物と数えたもうたのであります。ここに義を衣きせられる事の真まことの教理があります。『アブラハム、神を信ず、而しかして其それ……』、即すなわち(キリストの地上三十三年間の個人的の御義おんぎではない、それがさながら外套がいとうのように私共を覆い包むと考えられてはならない)アブラハムの信仰が彼かれの義として彼に衣きせられたのであります。義を衣きせることの聖書の敎理おしえは、消極的には、主の贖あがないの御血おんちの故ゆえに、もはや私共の罪と悪とを私共に負わせざる事であり、積極的には、そこに聖霊によって植え付けられる信仰、主イエスに対する信仰であって、その信仰が私のために義と数えられるのであります。愛する皆様、皆様は決してこのような思想を持たれる事のないようにお勧めする、即すなわち私共はキリストの個人的の義に包まれて、怪しい点も欠点も皆そのまま覆われる事により、自ら衷うちは聖きよくなる必要がないというような思想であります。一瞬たりともかかる事を信じてはなりません。これはただ、義を衣きせられる聖書の教理おしえのもじりかえに過ぎません。
かくてアブラハムの第二の質問は続けられました、『いかにして知るべきや』と。彼は己おのが信仰への印が欲しかったのであります。真まことの確信を要求したのであります。しかして神は恵み深くもこれを許したまいましたが、即すなわち
四、神は過去の経験によりて語りたもう(七節)
神はアブラハムをして、彼を召しまた選んでカルデラのウルより導き出いだしたもうたのは、彼、エホバご自身であることを憶おもい出いださしめたまいました。携え出いでたまいし御方おかたは必ず携え入りたまいます。己おのが国を去れと命じたまいし御方おかたは、必ず他を与えたまいます。これは私共の経験においても大切な点であります。私共を聖きよめ別わかち、携え出いでたまいし御神みかみは、必ず私共を約束の地に携え入りたまいますし、またしかなしたまわなければなりません。一は他を保証するところのものであります。静かに座して過去を懐おもい、その様々なる経験を回想おもいめぐらすは大いなる事であります。それに由よって私共は神の導きの御手みてを見るを得、当時は単なる偶発事としか思われなかった事も、実は神の恩寵めぐみと仁慈なさけの致す摂理であった事を悟ることができるのであります。
アブラハムは、しかしなお満足いたしませんでした。彼はこれらの幻示と聖言みことば、聖礼典と経験とをもって堅くせられ得うるよりも、なおより深い確信を憧れておりました。そこで神は再び語りたまいますが、このたびは
五、神は犠牲いけにえの血に由よりて語りたもう(九節)
神はアブラハムに四つの犠牲いけにえを献ぐべき事を命じたまいました。これは数百年の後、かのシナイ山さん下かにおいて制定せられたあの犠牲いけにえと全く同一のものであり、偉大なる犠牲いけにえキリスト・イエスの四重の型である次第であります。酬恩祭しゅうおんさい(レビ記三・一、牝牛めうし)、罪祭ざいさい(レビ記四・二十八、牝山羊めやぎ)、愆祭けんさい(レビ記五・十五、牡羊おひつじ)、燔祭はんさい(レビ記一・十四、雛わかき鴿いえばと)。ここに確信のための大いなる秘密があります。アブラハムはこれらの犠牲いけにえを中より剖さけと命ぜられました。これは確かに『真理の言ことばを正しく頒わかち教う』べきを語っておりますが、即すなわち能力ちからある犠牲いけにえの意義を明らかに了解すべき事、それを主の前に呈出ていしゅつしてその効力いさおを訴えるべき事などであります。
アブラハムがかく為なすや否や、直ちに荒き鳥は来きたってこれを奪い去ろうと致しました。これはお互いの経験においても如何いかに事実でありましょうか。信仰もてキリストの血の功績いさおを訴えて神に近づく時、不信仰の荒き鳥は、常にこの犠牲いけにえを奪い去ろうと待ち構えております。後のちに学ぶことでありますが、聖霊の証明あかしはただこの犠牲いけにえに対して与えられるのであります。私共はこれを識ることの如何いかに遅きものでありましょう! 私共は深くこれを感じておりますか、事の全体は一にかかってここに、このキリストの十字架にあるという事を! 私共はこの事について真剣に醒さめておりましょうか。聖霊はただこの福祉さいわいなる犠牲いけにえに対して証あかして下さるのだとの一事は、私共の深い動かない信念、また自覚となっておりましょうか。御聖霊をして私共の霊魂たましいの衷うちにまで来きたらしむるもの、それは私共の降伏(全的明け渡し)でも献身でもない、主の十字架に対する信仰への応答こたえとしてであります。『我われにはわがキリストへの明け渡しのほかに誇る所あらざれ』と使徒パウロは申しません。しかし今日こんにち、なお多くの人々の誇りと尊とうとみとはそこにあります。否々いないな、パウロは、ただかの犠牲いけにえ、贖主あがないぬしの御苦難をのみ誇りと致しました。しかしてこれは神の聖言みことばの全体を一貫している思想であります。
私の受けた唯一の恩恵めぐみ、また一切の恩恵めぐみは、皆かくのごとくにして参ったものであります。私の驚くべき献身、降伏の行為に由ってではありません。否々いないな(一千度たびも否いなと申します)、そうではなくして、ただカルバリの十字架、神の愛子あいしの犠牲いけにえを通してのみ、ただそれによってのみ、我われは一切をキリストに委ね奉まつる事を得せしめられたのであります。
六、神は暗黒を通して語りたもう(十二節)
やがて太陽は沈みました。荒き鳥もその襲撃を歇やめたかと思われる間まもなく、大いなる暗黒の恐怖が始祖の上に臨みかかりました。やがて彼かれの子孫が忍ばなければならなかった、かの奴隷生活の四百年を味わわしめた不思議なる預言的前兆またその前甞まえあじでありました。アブラハムは模型かたにおいて彼らの悲哀かなしみに入れられたのであります。思うにこれは全き救いを求めて与えられたすべての者の経験でありましょう。如何いかに多くの人々がこの事実を語っておりますか。彼らは全く神に信頼し、キリストの血の潔きよめるすべての力を要求した後のちに、暫時ざんじ、疑惑うたがいと暗黒くらきの恐怖おそれに全く困惑せしめられているのであります。しかし神はかかることを通してさえ語りたもう。神がアブラハムに、その子孫たちがエジプトにおいて通過しなければならないその暗黒くらきの四百年について語りたもうたのも、大いなる暗黒くらきが彼の上に襲いかかった時においてであります。
私共においてもその通りであります。神は時に許してかかる経験を私共のものたらしめたまいます。これは後のちにまた他ほかの人々を助ける事のできるためなのであります。さて、次に
七、神は火に由よって語りたもう(十七節)
これはアブラハムに対する最後の語ことばであります。彼は鳥を駆おい払いました、犠牲いけにえは暗黒の中に展のべられております。と見る、たちまち燃ゆる焔ほのおの出いずる火把たいまつが現れ、剖さかれた犠牲いけにえの間あいだを通りました。もしも犠牲いけにえが喰くらい尽つくされ、奪い去られていたならば、火の焔ほのおは現れず、神の契約の声は決して聞かれなかったことでありましょう。『火をもて應こたふる神を神と爲なすべし』(列王紀上十八・二十四)。ここに、今一度、聖霊なる神の象徴しるしを見ます。ここに御霊みたまの証明あかしがあります。即すなわちすべての熱心なる懇求者が己おのがものとしようとして憧憬あこがれるところの確信であります。エレミア三十四章には、剖さかれた犠牲いけにえのことが録しるされておりますが(十八節以下)、契約を結んだ人々の一方が契約の条件を必ず果たすという厳粛なる誓約としてその分かたれたものの間を通過するのであります。しかし、この場合は全く異なっております。ここにおいては、神御自身、火の象徴しるしの下もとに御聖霊がこの契約の成就せらるべき事の保証者である次第であります。
『我われいかにして我わが之これ(この嗣業しぎょう)を有たもつことを知るべきや』とアブラハムは叫び出しました。エホバは火によって答えたもう、しかし重ねてご記憶に訴えたいことは、犠牲いけにえの間を通過したものは火であったという事であります。
アブラハムがキリストの日を見て喜んだというのはこの時でありましたろうか(ヨハネ八・五十六)。彼は、やがてモリヤの山において更に詳しく見させられなければならなかった真理、彼かれの独子ひとりごイサクの代わりに燔祭はんさいとして神自ら牡羊おひつじを備えたもうたあの事実の一閃ひらめきを、今、既にここに垣間見させられた事でありましょうか。
キリストの日、ハレルの詩の語るところの日、踰越すぎこし節の夜にユダヤ人の歌う詩篇、主イエスも最後の晩餐を立って彼かれの最後の御苦痛に向かいたもうたその道すがら、自ら現に口にせられたまいし同じ言葉、『これヱホバの設けたまへる日なり われらはこの日によろこびたのしまん』と(詩篇百十八・二十四)。あらゆる創造つくられしものの待ち設けし日、全世界の救贖あがないの大いなる日であります。いずれにしても、『よろこび』また『たのしむ』なる文字は詩篇百十八篇二十四節とヨハネ伝八章五十六節とに同じように用いられております。
御聖霊が私共の霊魂たましいの衷うちにおいて、この日につき、この犠牲いけにえについて証あかし、私共の心中しんちゅうにこれを点火もやしたもう時、これこそエホバの声が火の只中ただなかより私共に語りいたもうのである事を私共は知ります。その時こそ、確信は私共のものであります。私共は言い難くかつ栄光さかえに満つる歓喜かんきをもて喜ぶ次第であります。
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