『わたしは救われるために、何をすべきでしょうか』(使徒行伝十六・三十)
わたしは救われるために、何を知ったらよいか、というのが前章の題目であったが、この章で述べることは「何をしたらよいか」である。わたしたちは、ここでも目ざめた魂を取り扱っていると仮定しておく。今までの筋道に従って、求道者が、神とその賜物と罪とその癒しとの四つの真理について悟らされ、そしてわたしたちに向かって、「それなら、わたしは救われるために、何をすべきでしょうか」と尋ねたとする。
これに答える場合、四つの原則的行為があることを認めなければならない。事実、悔い改めた者が救いの確信を受け、神に受け入れられる前に、彼らが果たさなければならない四つの義務があるのである。ここでこのことを順を追って述べることにしよう。
一 罪の告白
『もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる』(第一ヨハネ一・九)
ピリピの獄吏から『わたしたちは救われるために、何をすべきでしょうか』と質問されたとき、聖パウロは『主イエスを信じなさい』と答えた。ちょっと見れば、必要と罪との告白が不必要であるかのように見える。しかし事実は決してそうではない。なお確実に彼を導くために『神の言を語って聞かせ』、罪人であることの公然の表明であるバプテスマの水にまで彼を連れて行った。彼がその必要と罪とについて深刻な告白をしたのは当然のことである。
長い間多くの人々を導いてきた経験から、悔い改めた者の側で罪の告白をすることは非常に重要なことであることを見いだして来た。そのことによって、わたしたちは罪を負うおかたとしてのキリストを受け入れるのである。わたしたちの不義がイエス・キリストの上に移されたということが、これによって納得させられるのである。こうして信仰をもってイエス・キリストをわたしたちの救い主として受け入れることができるのである。
わたしたちはこの点をあくまで主張しなければならない。求道者は、いまだかつて祈ったことがなかったのかも知れない。それはこの際問題ではない。その祈りと告白とが、どんなに簡単でありまたかすかなものであっても、とにかく祈らなければならない。『神様、罪人のわたしをおゆるしください』という叫びだけでも、それが心から出たものであれば十分である。
現在、この大切な義務の代わりにさまざまな他の事をもってしようとする危険な傾向がある。人々は真理を悟ることにより、または教会に加わることにより、あるいは決心することにより、罪を捨てることによって救われるように考えている。
また伝道者の側においても、今まで祈ったこともない者が直ちに罪の告白などすることは不可能のように思う傾向がある。このような愚かな考えにいささかも感化されてはならない。むしろわたしたちは、悔い改めた者が、この義務を最初から果たすように励まさなければならない。更にわたしたちが罪人と共に祈るときに、彼らが単に憐れまれるべき者であるとの印象を与えないように警戒しなければならない。もちろんそうであるに違いない。密室では彼らをそのような者として祈るのである。しかし彼らに対して、彼らが罪人であるということは悟らせなければならない。チャールズ・フィニーはこの点について非常に強くかつ適切な考えをもっていた。
この点を説明するために一つの例証を挙げよう。ひとりの学生がキリスト者になりたいという願いをもってわたしのもとにやって来た。彼は八年間教会に通ってキリスト教を学んだが、なお信仰を決する前にはっきりしておかなければならない二、三の点があるというのである。わたしはそこにあった時計を取り上げて、どのようにして救われるかについて、八年間も要らない、八分間でその道を示すことができると告げた。彼は驚いてどうするのかと質問した。わたしはヨハネの第一の手紙一章九節を開いて読み、そして付け加えて言った。君がもし心を低くし、その必要と罪とを告白するならば、神は必ずすぐに救って下さるであろう、と。これは彼の心を刺戟したようであった。彼は急にほかの約束を思い出したようで、明日また改めて来ると約束して、そこそこに立ち去ったが、その後顔を見せなかった。もしわたしたちが理屈っぽいパリサイ人をどのように取り扱ったらよいかを知るならば、多くの労力と時とを節約できるであろう。
いま一つの例を述べることにしよう。前章においてわたしたちは大酒飲みの漁師で、今は熱心な伝道者となている者のことを述べたが、彼の回心はこの題目についての著しい実例であるから、その後のことをもう少し述べよう。彼は覚醒され、照らされ、悔い改め、多くの罪を捨てて神に立ち帰ろうとしている。
しかし、彼の悪習慣が彼を捕らえているのである。彼はまだ救われていない。酒癖はとうてい断つことができないように見えた。彼はたびたび泥酔して集会に来た。私はそれまで個人的に一度も会ったことがなかったが、ある日彼の住んでいた町に行ったので、彼を招いて会うことにした。彼はしらふでやって来た。聞いてみると、ほとんどすべての根本原理を信じている。その地の伝道者によく教えられていたのである。彼は救われたいが自分自身をもてあましている。彼は何のためにこのように酒の奴隷であるかを知らない。彼は切に主に立ち帰ってバプテスマを受けたいと願っている。最後に私は彼に聞いた。あなたは憐れむべき罪人として、神の御足のもとに来て、その不義を告白し憐れみを求めたことがあるか、と。彼はまだないと答えた。酔いどれであっても、心の高慢がこれをさせないものと見える。わたしはこの点を強く言った。彼は今まで祈ったことがないと言う。わたしは今それを始めなければならないと彼に迫り、そこの伝道者と一緒にひざまずいて祈り始めた。ついに彼は額から豆のような汗を流しながら、彼の必要と罪との告白をやった。たちまち信仰は彼の心に湧き上がってきた。
すぐに彼の桎梏は砕かれ、彼は救われた。以来今日に至るまで二十有余年、彼は一滴の酒も飲まず、救い主なる神を喜びながら魂を導いている。このことは極めて重要であるから、この理論をいくつか付け加えることにしよう。「もし罪を告白するならば」であって、「もし罪のゆるしを求めるならば」ではない。そのことは、第一に神のご性質、第二にキリストの犠牲のみわざ、第三に魂の状態について考える場合、大きな違いとなるのである。
一 神のご性質 神はキリストの十字架によって、わたしたちの罪について十分な満足を持たれるのであって、これ以上なだめの必要を感じたまわない。わたしたちが真実で正しくあることを求められる必要はない。それはキリストの死によってすでに擁護されまた表明されている。神には御心を罪人に向けさせるために、これ以上何事もなす必要がない。
二 キリストの犠牲 わたしたちが罪のゆるしを求める場合、しばしば罪のゆるしのための完全な土台である十字架を見忘れてしまう危険がある。わたしたちの罪の赦しを願う祈りがどれほど熱烈であっても、わたしたちの罪をゆるして下さる真実と義の根底となされることはない。
主の祈りにおいて、わたしたちは罪のゆるしのために祈るように告げられているが、それはむしろ手抜かりの罪についてであって、負債と称せられている。もし積極的な罪がある場合、へりくだった心をもって確実に罪の告白をしなければならない。そのことさえなされるなら、わたしたちはたちどころにキリストの贖いの血によって安息することができるのである。
三 魂の状態 告白は自己審判を含む。一般的に言って、罪のゆるしを求めることは、赤裸々に恥ずかしい罪を告白するよりもはるかに容易である。子どもが罪を犯した場合にも、ゆるして下さいと言う方が、その悪いことをありのまま告白することよりもはるかにやりやすい。
わたしはこのことについての実例を最近の帰国の際に見せられた。私はそれまで数回にわたって聖別会を持っていた。その集会のあとで、ひとりの婦人がわたしのところに来た。そこでわたしの話した一語が、数年来の彼女の悩みを解いて、完全な自由を与えられたと言うのである。それはどんな言葉だったか、と尋ねると、彼女は次のように答えた。「あなたは言われました。もし神があなたのうちにひそむ罪と必要とを示されたら、何をするにしても、救われるために神を叫び求めることだけはするな、と。わたしはその変な言葉に驚いて、次に何を言うのかと思って怪しみながらあなたを見上げましたが、あなたは続いて言われました。神は『もし救いを叫び求めるならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる』とは言わない。『もし、自分の罪を告白するならば』と言われます、と。わたしはその相違と今までの自分の誤りを悟って家に帰り、自分の部屋に入って神の御前にひざまずいて、長い間救いを叫び求めていたがなお得られなかったことを申し上げました。わたしはその時から叫ぶことをやめて、その代わりに正直な罪の告白をしました。その夜、神はお約束を成就してわたしを解き放って下さいました」と。
罪人に対しては、このように導かなければならない。神のお約束に対して信仰を働かすことを勧める前に、この根本的な義務を果たすことを主張しなければならない。『救われるために、何をなすべきでしょうか』と聞かれる場合、彼が全能の神の御前にへりくだってその罪を言い表し、心を砕いて救いの恵みが必要であることを告げることが最も必要であることを示さなければならない。これこそ救いを受けるための第一の最も重要な条件である。
二 神の賜物を、約束に対する信仰を通して受けるべきこと
『それらのもの(ご自身の栄光と徳)によって、尊く、大いなる約束が、わたしたちに与えられている。それは、あなたがたが、世にある欲のために滅びることを免れ、神の性質にあずかる者となるためである』(第二ペテロ一・四)
『彼の勧めの言葉を受け入れた者たちは、バプテスマを受けた‥‥‥』(使徒行伝二・四十一)
『心に植え付けられている御言を、すなおに受け入れなさい。御言には、あなたがたのたましいを救う力がある』(ヤコブ一・二十一)
わたしたちは、前の章で、救霊者の目的は、人々に神の賜物である永遠の生命を受けさせることであることを学んできた。その媒介として神が定めて下さったものは彼ご自身の御言である。わたしはこの神のみことばの必要を、どれほど強調してもなお足りないことを覚える。
神の言葉は、照らし罪を悟らせるだけでなく、それによって神の命が人の魂に注がれる道となる。これは生ける水の流れる管である。これは溺れそうな魂に投げ与えられた生命の綱であって、それにすがりつくことによって、陸地に無事に引き上げられることができる。魂が神の約束を信じて安息することは、とりもなおさず神御自身を信ずることである。わたしたちは時には他の何事かをなすように誘われるかも知れないが、決してその代わりをこしらえてはならない。
わたしたちも勧め、警戒し、解明し、祈り、あかしし、信ずるように人々を励ますのはよいことだが、しかし神のみことばを植え付けることを決して忘れてはならない。時には信仰の試錬が来て、すべての感情、熱心が消失するようなことがあっても、魂は永遠に保つ生ける神の聖言に安息することができるのである。
瞬間的に神の賜物である永遠の生命を受けさせるために、適確な約束のみことばを提示しなければならないことはもちろんである。単に漠然と勧めることや、一般的な真理を提示するだけでは効果がない。わたしたちは明白な、そして適当で確実なみことばを選んで、悔い改めた者に再三読ませて記憶させる必要がある。そうすればいっさいが忘れられた時にも、それは留まって根を下ろし、永生の実を結ぶようになるであろう。
霊的経験を持つわたしたちとしても、時には死の陰の谷を歩むような場合があったが、みことばの笞と杖とはわたしたちを慰め、生命と栄光の所へと携え出した。そこにはその代わりとなるものはない。『わたしは救われるために、何をすべきでしょうか』と悔い改めた者が尋ねる場合は、『心に植え付けられている御言を、すなおに受け入れなさい』と答えなければならない。種蒔きのたとえ話の中にも、『信じることも救われることもないように、悪魔によってその心から御言が奪い取られる人たちのことである』(ルカ八・十二)と記されている。神の言葉がその心に植え付けられるのでなければ、救われるべき信仰がその中にないことは事実である。それを取り去りさえすれば、深い印象も、良い決心も、キリスト教の真理に対する了解も、何の益するところなく、彼らは風の吹き去るもみ殻のように吹き散らされ、砂漠のように荒らされることを彼はよく承知しているのである。永久にとどまるものはただ神の御言である。祈りは溺れようとする者が助け求める叫びである。助けの綱を投げ与えるのはわたしたちの仕事で、その綱が神の約束の言葉である。どのように強く握ってもすがりつくべきものがなければ、彼は空をつかむようにして滅びるほかない。
キリストの血に対する信仰を働かすこと
『もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんなことでもできる』(マルコ福音書九・二十三)
行為すなわち意志の確実な働きとしての信仰と、確信の賜物としての信仰と、魂の習慣としての信仰とは、三つの全く異なったものである。
使徒ペテロのいわゆる「尊い信仰を授かる」というのは確信の賜物であって、神から与えられるものである。信仰の習慣とは、聖霊によって保たれる魂の幸いな状態である。しかし行為としての信仰は、悔い改めた者自身の働きである。そしてこれこそここで言おうとするところの信仰である。この信仰の操作によって神は与えられることが可能になるのである。罪を告白することもみことばを植え付けられることも共に必要である。しかしそれがこのような信仰の操作にまで至らせることをしないなら、魂はなお救われずに残る。
このような信仰はまずいくつかのことを前提のうちに置く。魂が信仰の目当てとするところのお方、その信仰の媒介となるもの、信ずる理由、獲得しようとする目的のもの、安定すべき基礎などがそれである。信ずるところのお方は、言うまでもなく神である。その媒介は神の言葉また約束である。その理由は彼の罪とその必要である。獲得せんとするところのものは救いである。そして彼が依り頼んで安息すべき基礎工事というのは、救い主の贖罪の死である。求道者をしてその注意を向けしめ、その意志を働かせてその上に安息させるよう言い張らなければならないのはこの点である。神の霊が更生の力をもって働かれることができるのは、ただその点においてである。天路歴程におけるクリスチャンのように、十字架を仰ぐ時に罪の重荷は転げ落ち、三人の輝く者が現れて、彼に新生の衣を着せ、神に受け入れられたとの確信を与えるのである。
すべてのアダムの子孫が、十字架に対する信仰の代わりにさまざまの代用物を持ち出そうとする悲しむべき傾向のあることを記憶しておかなければならない。わたしはしばしば聖霊の満たしを求めている熱心なクリスチャンが、このような間違った土台の上にその信仰を据えようとしているのを見た。今ここに紹介する例証は、たびたび霊的な本の中に誤って用いられている場合が少なくないものである。
神の賜物の満たしはちょうど溢れている貯水池のように、信者の心は空の器のように譬えられる。そしてその中間に水管があって両方をつないでいる。もし水が流れ込まないなら、管の中に物が詰まっているのを見いだすであろう。その邪魔物さえ取り除かれれば、水は自然に流れ込んで器は満たされるというのである。これは一面大いに助けになる例証ではあるが、しかししばしばその適用法が誤っている。邪魔物を取り去る道は悔改と献身であると言われるが、それはとんでもない間違いである。悔改も献身も、決して自然に神の霊に満たされる道ではない。ああ、いかに多くの人がこのような道により神の霊を受けて至聖所に入ろうとして空しく労したことであろう。しかしこのような道によって入ることはできない。神はただ一つのことに対してのみ答えて下さる。それはイエスの血に対する信仰である。悔改も献身ももちろん必要である。しかし聖霊を心の中に招き入れることのできるのは、贖い主の犠牲に対する信仰を働かすことによってのみ可能である。血はこの賜物をあがなうために注がれた。このまたとない尊い価を崇め、頌め、信頼し、訴える信仰だけが神に受け入れられるのである。それにのみ彼は答えて、その大きな賜物を与えられるのである。
しばらく前、ある宣教師のための集会の時に、この点を高調する機会が与えられた。集会のあと、出席していたひとりの熱心で敬虔な人が、これは全く新しい啓示であったとわたしに告げた。彼は長い年月、悔改と献身をもって約束の恵みを受けようとしていたのである。彼は常に邪魔物を取り除くことだけに時を費やしていたが、いっこうに神の霊の灌漑を経験しなかったと言った。しかし、その集会中のある夜、夜中に目がさめてただ一人でいたときに、主はイスラエルの子孫がヨルダンを渡った物語を思い出させて下さった。彼はいくら身をきよめても、そのことによってカナンの地に入ることはできなかった。ただ祭司の担いだ契約の櫃だけが水を二つに裂いたのである。こうして彼らは乾いた河床を通ったのである。この信仰の道を彼はどんなに喜んだことであろう。彼は神と共に急いでヨルダンを渡ったのである。
救いにおいても同様で少しも違ったところはない。わたしたちは何ものにもまさって、悔い改めた者が意志の働きにより、あがないの血に対する信仰を働かすように言い張らなければならない。それこそ彼らが絶望の恐ろしい穴より、罪の泥の中より引き上げられて、その歩みを堅くされるために足を踏むところの岩である。これによって再び悪の泥と恥の穴とに滑り落ちることから守られることができる。この義務を求道者に提出する場合、この信仰の操作が、ただ一度なすべき単純なしかも確実な意志の働きであることを、明らかに示す必要だある。そしてその信仰が確実なら、感謝と讃美にこれを言い表すようにすべきである。
すでに述べたように、この点においてわたしたちは彼を助けることができる。わたしたちは彼らと一緒に彼らのために信ずる必要がある。わたしたちは彼が信じなければならないことを含んでいる確かな約束の言葉を示さなければならない。ただ単にカルバリの犠牲とキリストの身代わりの死について語っただけでは足らない。そこにはキリストの救いに対する認識がなければならない。信仰の操作は確実で単純、また即刻になされなければならない。この点を強調せよ。この場合、わたしの説明より証人の言葉がよく語ってくれると思う。
ひとりの青年が田舎の大学で学んでいる間に、ユニテリアン風の信仰をもったひとりの雄弁な神学者がキリスト教について講演するのを聞いた。今まで一度も聞いたことのなかった彼は、これは良いものであると考え、その地にある組合教会の牧師の所に行って、教会加入を申し込んだ。人のよい牧師は、たぶん教会員の数の増えるのを望んだためであろう、彼が有神論を受け入れ、またキリスト教に賛成だというので、次の日曜日にバプテスマを授けてしまった。
数か月の後、わたしたちの伝道していた市に来て造船所に奉職した。彼はそこでたちまち罪と歓楽の渦に巻き込まれて、持っていた宗教の貧弱な断片を投げ棄ててしまった。しかし彼はある日、わたしたちの伝道館に来て再び捕らえられ、そこで初めて罪とあがないとについて聞いたのである。彼はもっと現実的で永久的なものを得ることができれば、ということで第二の集会に残った。あとになって彼はしばしばその夜のことを語ってくれた。「わたしには十字架の目的とその意義とはよくわからなかった。T氏がヨハネ第一の手紙一章七節を突きつけて、このほかに救いの道がないと繰り返すが、わたしにはそんなことはたいして大切な問題ではないと考えられた。しかしあまり熱心に、それ以外に神に近づく方法はないと強調するので、よくはわからなかったが、とにかくイエスの血に信頼を置いて信じてみることに同意した。しかしそれが実はわたしを救ったのである。その夜、神はわたしのすべての罪をゆるし、わたしを彼の子どもとし、キリスト・イエスにあって新たに造られた者として下さったのである」と。
四 口でキリストを告白すること
『人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである』(ローマ十・十)
魂の救いを確かめるためにもう一つに重要な義務があることを認めなければならない。神の霊のあかしが与えられる前に、その信仰の事実をあかしする単純な服従の行為を神はしばしば要求されるのである。こうするときに聖霊のあかしが与えられるのが普通である。
この義務を果たすのにはさまざまな道があるであろう。洗礼を受けることを主の弟子である唯一のしるしと心得ている者もいる。しかし悔い改めた者が洗礼を受けることを教えられるよりはるか前、その回心の日にキリストを告白することが最も必要である。偶像を砕くこと、日曜を守ること、古い友人と歓楽と罪の場所に行くことを断ることなども、キリストを告白する絶好の機会である。どんな形式によっても、徹底的にこれをなすように強調しなければならない。『邪悪で罪深いこの時代にあって、わたしとわたしの言葉とを恥じる者に対しては、人の子もまた、父の栄光のうちに聖なる御使いたちと共に来るときに、そのものを恥じるであろう』(マルコ八・三十八)。回心者は背水の陣を布かなければならない。その立場を告白しなければならない。これは彼自身を救うだけでなく、またおそらく彼に聞く者も救うことができるであろう。救世軍はこの点をよくやって来た。回心の当時から、ほかの人を救うために救われた者であることを教えられる。あかしをなすことの必要と価値は三重である。
一 回心者の信仰と勇気と品性とを強める。
二 キリストに栄光を帰する。
三 救いと祝福とを他に与える。回心の当初よりあかしの必要と力とを明白に説明し、彼らが神に従いその救い主を公に言い表すように励まさなければならない。
彼は罪の告白によって、キリストを罪を除くお方として受け入れるのである。彼はその口で言い表すときに、キリストを主として王として受け入れるのである。いかに多くの回心者がこの公の告白をしなかったために、その後の歩みにおいていっこうに進まないことであろう。
ここに紹介するひとりの伝道者は、これから語ろうとしている真理を裏書きする著しい例である。
彼は新聞屋をやっていて、早朝の三時から九時まで働くのである。彼の母と二人の姉妹は結核で倒れ、彼もまた少し肺を冒されていた。彼の回心の当時、ちょうど博覧会が開かれていて、わたしたちは毎日午後の二時から十時まで天幕集会をやっていた。彼はそれに毎日出席していた。聞けば、映画館と仏教の説教会とわたしたちの集会にかわるがわる出席するのが、彼の毎日の娯楽であるというのである。
彼は大酒飲みで、映画の奴隷であった。こうした物が彼の心の空虚を満たそうとしたいなご豆であったのである。彼はいつも最前列の席に腰を下ろしていたので、わたしたちの誰もがよく知っていた。
わたしたちは彼のことをしばしば話し合ったが、しかしとても信用のできる人物とは思えなかった。彼は嘘をつくのが平気である。しばしばいい加減な名前を決心者カードに記したり、また、全く見当違いの住所を記したりしていた。それでわたしたちも彼には何の望みも持たなかった。
最後の夜、特別な説教者が来て、この集会中に救われた者は立つようにと告げた。すると驚いたことに彼が一番に立ったではないか。わたしたちはまた狂言をやっているなと思った。しかしあとであかしをしたが、彼はキリストに対する信仰を告白しようとして立ち上がった時に、彼は生まれ変わりの経験を得たのであった。その瞬間、聖霊は彼をキリストにあって新たに造られた者とされたのである。
その後の彼の生活の変化は、その夜の経験の真実を証明するものであった。すなわち飲酒の悪い癖は全く取り去られ、映画の熱はなくなり、心の浮動は安定し、病は癒された。彼の貯蓄はその負債を全部支払うために銀行から引き出され、残りの少なくない金額を為替にしてわたしたちの所へ郵送してきた。その送り状には次のように記してあった。「地獄へ行かなければならない罪人、イエス・キリストの恵みによって、博覧会の天幕集会で救われた者より」と。彼はその後献身し、修養の後、この同じ福音の宣伝者となったのである。
これらのことは、悔い改めた者が永久的な救いの経験を得る前にしなければならないこととして教えなければならない、簡単ではあるが重要な義務である。わたしたちはこの信仰と服従との道に彼らを進ませるために、彼らを助けて率直にまた強く勧めなければならない。何もわきまえていない幼稚な回心者でも、これを信じこれに従うことができる。もしわたしたちが、失われた者を救おうとしておられる良い羊飼いの手に信仰をもって彼らを携え、正しく導くことさえするならば、福音を聞いたその場でもこれに従うことができるであろう。
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