第四章 人間の診察──その意志


 
 暗黒の中から救われた人々の生涯のあかしを聞く時、それが罪と失敗と絶望の長い目録であることがわかる。そしてその最初の部分は、ほとんどとりこにされた悩める意志の記録である。しばしば罪については特別な自覚を持っていない場合でも、狂った欲望の残酷な結果として来る悲惨や、憎しみと情欲と邪悪とを播いた結果として得た刈り入れとに悩まされて、『だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか』と悲鳴を上げるようになるのである。彼らは敗北した魂のもがき苦しむ経験をしているのである。
 これには想像も及ばない過酷さをもって自らを打ち叩く仏僧がいる。あるいはまた、断食と苦行をもって寺院を参詣して歩く者もいる。そこには仏典と儒書をむさぼるように学ぶ人がいれば、またその悲惨からのがれようとして自殺を企てる者もいる。中には自殺だけが欲情の鎖から解き放つものと信じている者がいる。
 この章においては、とりこにされた意志について学びたい。更に詳細に言えば、その四重の束縛、すなわち偏見と欲情と高慢と恐れについて学ぶのである。
 その前に、そこには第一原因があることを力説しておきたい。これらの束縛の背後には大いなる悪の原因であるサタンがいる。聖書は明らかに、人々がその意志においてサタンに捕らわれていることを示している。どんな方法によってとりことして束縛するにせよ、サタンこそわたしたちの桎梏の創造者である。このことを悟るとき、わたしたちは祈りと願いとに自らを託すようになる。すなわち神のみがこの力に対抗でき、勝つことができることを悟るからである。
 数年前、ひとりの仏僧がわたしたちの集会に来たことがある。彼は数回の話を聞いて救いを求めるようになり、ついに救われた。その変化には著しいものがあった。(彼はいま救世軍士官である)。彼はその老母を連れて集会に来るようになった。わたしはその老母ほど暗黒の偏見と迷信に捕らわれた魂に今まで会ったことがない。数ヶ月間福音を聞いたあとでも、極めて単純な教えの一つでも握ることができない。彼女に対しては誰も匙を投げるほかはなかった。全くサタンのとりこにされていたのである。ちょうどその時、英国からひとりの熱心な神のしもべがわたしたちのところに遣わされて来ていた。彼女はこのことを聞いて、本国へ祈りを乞う手紙を書き送ったのである。このように祈り始めてから一ヶ月も経たないうちに、この老母は不思議にも驚くべき方法によって解き放たれたのである。ちょうど閃光のように彼女の暗黒の心の理解は照らされ、幼子のようになってゆるしと救いとを求めた。かくて迷信の牢獄から解き放たれ、強敵はその餌食を手放したのである。六か月ののち、彼女はガンのために死に、今は主のみもとにあって、祈りをもって彼女を悪い者から解き放った人々を待っているのである。
 わたしたちは、人の意志をとりこにするサタンの力を悟ってのみ、祈りをもって人々を救うという断乎とした信仰を持たなければならない。しかし、今は人をとりこにする第二原因について詳しく学ぶことにしよう。

 一 偏見の束縛

 『もし‥‥‥知ってさえいたら‥‥‥しかし、それは今おまえの目に隠されている』(ルカ福音書十九・四十二)
 『彼らは理由なしにわたしを憎んだ』(ヨハネ福音書十五・二十五)

 偏見は無知以上のものである。もし無知が刑務所の壁にたとえられるならば、偏見は鉄筋コンクリートのようである。ひとりひとりの魂がもしこの偏見から解放されるなら容易に救われるのである。しかし彼らは堅くこの鉄の鎖に縛られている。多くの悔い改めた者のあかしを聞いて驚くことは、ほとんど何も知らないのに、ただ盲目的なわけもわからぬ偏見によってキリスト教を嫌っていたということである。その偏見は出口も入口もない刑務所の壁のようなものであった。牢に監禁されたペテロでも「その内なる無知と心の硬化とにより、神のいのちから遠く離れ」、無知な偏見にとりこにされた魂ほど近づきにくいものはなかったのである。
 わたしたちがこの仕事に成功しようとするならまず魂の実状を診察することを学ばなければならないということは、何度繰り返してもなお足りないことを感ずるのである。もしそうでなければわたしたちは霊的な藪医者となってしまうことは確かである。さまざまなことをやってみても、それはちょうどドン・キホーテのように神学的風車に向かって槍の仕合を挑むようなものである。
 この無知と偏見とをどう取り扱うかについて更に一章を加える余裕がないので、ここに一、二の観測を述べることにする。わたしは彼らが偏見を棄てて神に帰る前に、さらに深い悩みに沈み込む必要をしばしば認めた。数年前、今は天国にいるひとりの青年が伝道館にやって来て、初めて救いの福音を聞いた。
 それは、彼には何の興味もなく、また何の感動も与えなかった。数か月後、彼は大きな悩みと難問題にぶつかった。彼は一度聞いた話を思い起して宗教的慰めを求めることを決意した。しかし何ということもなくただキリスト教が嫌いで、その偏見のために仏教に行った。しかしそれが頼りにならない傷ついた葦であることを知り、再び絶望に沈み、ついにせっぱ詰まって自殺を企てた。ここまで行き詰まったとき、彼は初めてその偏見を投げ棄てて、一度は侮り憎んだナザレ人に助けを求めに来て、ついに救いを受けたのである。一般的に言って、偏見の桎梏から解き放つものは、訓練や教育ではないことを記憶する必要がある。クリスチャン・ジャーナルの記者エリスは言った。「驚くべき現代の技術も機械も、人々に新しい心を与えるためには全く無能である。近代的洋式教育を受けた日本の貴族たちが、シルクハットをかぶりフロックコートを着て外国製の靴をはいて神社にひざまずいているのを見た‥‥‥」と。迷信と偏見とは容易には死なない。ただ神の御霊により新生命が入って来る時にのみ、致命傷を与えることができるのである。
 憐れな無知な偏見に捕らわれていたサマリアの女に、主イエスはいのちの賜物を提供された。安息と満足のないパリサイ人のニコデモは、更に知ることができれば自由を得られると考えて救い主のみもとに来た。彼は、『先生、わたしは‥‥‥知っています』と言ったが、主はその言葉をさえぎって、『だれでも新しく生まれなければ』と言われた。解き放たれる道は「知る」ことではなく、「ある」ことであり、「知恵」ではなくて「いのち」であり、「真理」ではなくて「力」があなたには必要だと言われたのである。
 わたしは長い間の経験によって、偏見の牢獄の扉を開く最も有効な手段は「きよい心から出る愛」であることを認めて来た。謙遜なキリスト者の心から流れ出る聖霊による愛の喜びの流れは、長い間監禁されていた偏見の牢獄の壁の下を掘り穿つのに十分な力があることが証明された。
 メソジスト教会のテーラー監督は、インドにおいて、彼が新約聖書を読むように勧めたひとりの金持ちのペルシャ人のことについてたびたび語った。そのペルシャ人は深く感動して言った。もしこの書の説くように生活を営むキリスト者を見いだすなら、自分はこれに帰依する、と。彼はまず白人の間にこのようなキリスト者を捜したが、ひとりもいなかったと告げた。そこで彼は更にインド人の間にこのような信者がいないか捜した。しばらく経って、彼は感激に溢れて、この書にふさわしい生活を営む男女を見いだしたことを告げた。そして彼自身キリスト者になり、そのため財産も御名のために失ってしまった。そしてボンベイにおいて虐殺される時、「イエスのために死ぬことは嬉しいことだ」という最後の言葉を遺して死んだ。
 数年前、ひとりの悔い改めた人の貧しい家を訪問したことがある。その家では老母が危篤状態になっていた。そこでミッションの病院に交渉したところ、夜具と着るものさえ用意できれば入院させてもよいと言うので、いろいろ準備し始めた。ところが、それを隣家の、無知で迷信に捕らわれ、大酒飲みでばくち打ちの車夫が煙管を加えながら見ていた。わたしたちはその車夫を雇って老母と寝具とを病院に送り届けた。その男は、日本の伝道者たちが何の縁もないのに、また何の利益にもならないのに一生懸命に尽くすのを見て驚いた。嫌っていたキリスト教に対する偏見は打ち破られた。そして彼自らこの愛の神に対して悔い改めるまで安んずることができなくなった。彼はその後、熱心な伝道者となって、罪人の救いのためによい働きをした。
 おそらくユダヤ人ほど偏見に捕らわれた民族はあるまい。しかしキリストの子とされたひとりによって現された愛に対する感受性もまた顕著である。わたしが以前働いていた町で、ひとりの若いユダヤ人が悔い改めたが、彼のキリスト教に対する偏見と憎悪は並大抵のものではなかった。彼は霊的な話や聖書にかかわることを拒んでいた。彼の著しい悔改は、彼が会ったキリスト者を通して与えられたキリストの幻によったのであった。彼はその経験を次のように記している。
 「旅行を始めてしばらくあと、わたしの注意は数名の宣教師たちに引きつけられた。彼らの様子を見、彼らと語り合って感じたことは、彼らがまだわたしの知らないものを持っているということであった。それが何だと言うことはできないが、接してみて何とも言えない良い気持ちのするものがある。彼らはその品性において堅実であり、その言語動作が落ち着いて平静である。もちろんわたしは聖書も読まず、またきリストについても知らなかったので、彼らとキリストを結び付けて考えることはできなかったが、何となく慕わしいものがあった。そこでとうとうそのうちのひとりの婦人に、平和な生活の秘密はどこにあるかと尋ねないわけにはいかなかった。すると彼女は次のように答えた。
 『それは、わたしたちが心配事や悩みに閉ざされてしまう場合にも、打ち明けて慰めをいただくことのできる友があるためですよ。彼はわたしたちの痛む心に喜びを与えて下さるのです。同時にまた、わたしたちの心が喜びに満たされたときは、その幸福を共にすることができるのです』と。
 この答えが、どのようにわたしの魂に響いたか、わたしはよく覚えている。それならそのような友を持てば、どんな問題に出会っても落ち着いていることができると見える。どうにかしてそんな助けの友を知りたいという願いが心にいっぱいになって来た‥‥‥。」
 ある人が言ったように、どんな不信の者でも読む聖書は、からだを持つ生きた人である。この生きた聖書を熟読することによってのみ、偏見の鎖は粉砕され、とりこはそこから解き放たれるのである。

 二 肉欲の奴隷

 『あなたがたは自分でしようと思うことを、することができない』(ガラテア五・十七)
 『だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない』(ヨハネ福音書十四・六)

 もし偏見と無知が魂の牢獄であるなら、悪い肉欲はその鎖である。至るところに悪慾の桎梏に繋がれている人々を見る。やがてその束縛からのがれようと欲するときは、すでに完全な奴隷となりきっていることに気付くのである。このような人々を取り扱う場合は、ほかの更に望みのない場合の者とを区別する必要がある。肉欲の奴隷となっている者は、これをそのままにしてキリストに連れて来ることさえできるなら、他の場合より、比較的たやすく解き放つことができるのである。一つの著しい実例がこれを証明する。
 英国のある軍隊の駐屯地の兵士のために設けられた宿舎で集会をしていた時であった。ある日曜の夜、ひとりの指導者のあかしを聞いた。そのあかしが最もよくこの真理を証明しているのである。
 そのあかしというのはこうである。彼は酒飲みの両親の間に生まれ、自らも二十二歳までは大酒飲みでしばしば留置され、読むことも書くこともできず、都会の荒波に漂う寄る辺のない浮き草に過ぎなかった。しかし憐れな妻の懇ろな助けによってようやく誘惑の潮流をのがれ出て、路傍説教を聞いたのである。説教者のひとりが彼の後ろに来て親切に肩をたたいて救い主を求めるように勧めた。しかし、半ば絶望していた彼は憤って、「いつも酔っぱらっている俺に信仰なんかできるか。ウィスキーは俺ののどに流れ込み続いているんだ。悪いとは知っててもやめることなんかできないよ。こんな俺がクリスチャンになれるもんか」とはね返した。説教者はローマ人への手紙五章六節を引いて、この文盲の憐れな奴隷に『わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである』というところを読んで聞かせ、弱いことと不信心との関係を指摘して言った。「あなたが弱く、酒の奴隷となっているのは、あなたが神のない生活を送っているからだ。あなたが神に立ち帰るなら、神は悪習慣をやめさせて下さる。あなたが罪から離れてキリストに来るのではない。そのままでお頼りするのだ。キリストはちょうどあなたのような人のために死んで下さったのだ」と。憐れな彼は驚いてしまって、福音をそのまま受け入れることができず、急いで家に帰り、夜更けまで神に叫び、やっと覚えたローマ人への手紙五章六節を訴えて、ありのままの姿で祈った。このことばは彼にとっては勝利の切符のようであり、天国への約束のようであった。彼の鎖は落ちた。彼はその時から自由になり、以来多くの酔っぱらいをキリストに導くために用いられたのである。
 束縛されている魂を導く場合は、彼の中に解放されたいという願いがあるかどうかを正しく判断し、そしてその悪欲をそのままキリストによって神のもとに携えて来さえするなら、その意志はたちまち解き放たれて、『狩人のわなと、恐ろしい疫病』(詩篇九十一・三)より救い出されることを心得ていなければならない。いかにしばしば天国のことを教えられていない学者先生が、欲と罪の奴隷となっている魂に対して、まずキリストに来る前にその罪を捨て去るように勧めることが多いことだろうか。彼らはヨブの友人のように、無情な慰め人である。

 三 高慢の奴隷

 『心を入れかえて幼子のようにならなければ、天国に入ることはできないであろう』(マタイ十八・三)

 偏見や肉欲の束縛よりも更に絶望的なのは、高慢の奴隷である。ここにも救霊者として心に留めなければならない大切なことがある。それによってのみ、彼らの桎梏を砕くことができる。決心することや、意志を働かすことによって助けは来ない。それはただより深く束縛の中に追い込むだけである。『だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない』と主は言われた。ただキリストだけが救うことができるのである。わたしたちのなすべきことは、ただ人々をキリストのみもとに連れて来ることである。
 忍耐深い診察ののちに、導こうとする魂の束縛が、肉欲や偏見でなく心の高慢であることを発見し、また彼が救いの必要を自覚していることを見いだしたら、わたしたちのなすべき唯一の仕事は、彼が幼子のようにへりくだってその心の高慢を救い主に携えてくるように主張することである。こうすることによって、わたしたちは強い者の武装にもなお弱点があることを見いだすであろう。わたしたちが攻撃を集中しなければならない所は、その点である。
 熱心な祈りとこの一点を常に強調することは成功に必ずつながる。ここに一人の実例がある。彼は強い高慢な皮肉屋で、自己満足している人であった。しかし彼にも一つの弱点があった。彼は時々酒のとりことなった。彼は勝利を得ようと決心した。彼は、ミッションスクールで学んだこと、また彼の妻の友人に熱心な信者が多くいたことから、キリスト教についてはよく知っていた。しかし彼の意志は高慢のために束縛されていた。どうしても彼は救いを要する罪人として、キリストによって神に来ることができない。彼の解放の物語をわたしの日記の中から抜粋することにしよう。
 「この夜、最も喜ばしいことは、高慢なパリサイ人であって、今はキリスト・イエスにあって全く改造された謙遜な主のしもべに会ったことであった。
 彼は優れた機械技術者であって、一ヶ年ほど英国に滞在していたのであるが、そこではキリスト教について何の印象も受けず、また少しの求道心も起さずに帰ってきた。彼の回心は実に目覚ましく、全く聖霊のお働きによるものである。祈りに答えられる神が今もなお天にいますことを信ずる人々の励ましのために、ここにあかししておくことにする。
 彼の英国滞在中、彼の妻は神戸伝道館でキリストの救いを受けた。彼女もまたわたしたちも彼の救いのために祈っていたのである。その後、東京に引っ越すことになった。彼は誰にも打ち明けなかったのであるが、はなはだしく悩みを覚え、瞑想によって救い出されることを努めた。一日彼が無念無想の境地に入っていると。『信ぜよ、信ぜよ、信ぜよ』という声が聞こえる。驚かされた彼は、『何を信ずるのです』と叫んだ。声は答えて『主イエス・キリストを信ぜよ』と言った。深く動かされた彼は、『信じます、信じると決心します』と言った。彼はその決心を誰にも告げなかった。しかしある日、彼の放蕩な甥が来て、生涯を改めることについて相談を持ちかけた。彼はイエス・キリストを信ずるように願った。甥は驚いて『なんですと、あなたからそんな勧めを聞くとは案外です。あなたは自分では信じていないくせに人に信仰を勧めるのですか』と言った。彼はすぐに答えて『いや、わたしは信じているのだ』と言った。甥はなおも疑問が解けず、『あなたは一度も人の前に信仰のことを言ったこともないのにそれでキリスト者と言えますか』と言う。もっともなことなので、『それでは近くの教会に一緒に行こう』ということになり、さっそく二人で出かけた。そして集会のすきを見計らって、少しも知らない人々の前に立ち上がって、何の申し訳もしないで、イエス・キリストを信ずることを告白した。その瞬間、彼の心は言うことのできない、そして栄えある喜びによって満たされた。聖霊は、彼の霊と共に彼が神の子であることを証して下さったのである。彼はいたるところで救い主をあかししている。」
 彼はこのように高慢な心を携えて、ありのままの状態でキリストに来ることに応じた時、驚くほどあざやかに解き放たれたのである。

 四 恐怖の奴隷

 『自分の十字架を負うてわたしについて来る者でなければ、わたしの弟子となることはできない』(ルカ十四・二十七)

 ここにも主イエスの厳粛な「‥‥‥することはできない」の一つがある。わたしはしばしば、人が偏見と高慢とより救い出されても、「恐怖」というもう一つの鎖のために縛られているためになお罪の力からのがれられないでいるのを見る。悪魔はもうこれ以外にそのとりこを繋いでおく方法を持たないのである。恐怖は苦しみを持つ。天国には恐怖というようなものはない。これはただ地獄の鉄床においてのみ鍛えられるものである。
 わたしは、人々が偶像に対する何の信仰も持たなくなったときにおいてさえ、これが人々の心を捕らえる不思議な力を見て驚かされるのである。
 恐怖は二つの異なった形において現れる。
 (一)迷信。或いは信仰を変えることからの悪い結果を怖れること。(二)人を恐れること。この二つの間には区別がある。
 第一のものは驚くほど深い位置を占めていて、キリスト者の心の中にさえ、なお痕跡をとどめているものである。事業の失敗、病気、生別、死別等は、異教徒によって祖先からの神を捨てた祟りであると考えられている。たびたび教えと導きにおいて誤った場合には、キリスト者の中にすら、心の中にそのような疑惑を持つ者がある。異教徒の心の中にはこれが実に金城鉄壁のようにかまえている。意志の力をもってこの不思議な迷信を破壊してしまうことはほとんど不可能である。このような困難に遭遇するとき、ただ祈りと神の言葉によってのみ、そのみじめな桎梏を砕くことができることを発見する。わたしたちは、これが地獄において鍛え上げられたもので、人の心をとりこにする最も力強い悪魔の武器であることを覚えておく必要がある。
 先頃信仰に入ったばかりのひとりのキリスト者が自分のいっさいの事業で失敗をした。神がすべてを破壊されてしまうかに見えた。わたしは彼の妻に、その失敗の理由は明白で、『まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう』(マタイ六・三十三)とのみことばに従わないためだと説明した。彼女は答えた。それは「ほんとうだと思います。わたしもそう話したのですが、主人はやはり親戚の人の言うように、先祖の神を捨てた祟りだと考えているようなのです」と。「異教徒は物質を先に求めて成功するかも知れない。しかし神は、キリスト者に神を辱めることを許されない。神は彼らが『まず神の国』という幸いな原則を学ぶようになるまで、すべての企てをいつもさえぎってしまわれるのだ』ということを語った。しかし彼は容易に承服しなかった。
 第二の恐怖も、同様に麻痺的である。これはキリスト教国においてもありがちな、人を恐れることである。『人を恐れると、わなに陥る』(箴言二十九・二十五)。これは中国やアフリカや日本においてのようにロンドンでも同様である。これは魂の最も恐るべき敵の一つである。多くの魂が、恐れるものであるために今も地獄に行っている。彼らは『臆病な者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者』で、火と硫黄の燃えている池が、彼らの受くべき報いである(黙示録二十一・八)。
 この点の診察を誤ってはならない。十中の九までは求道者はこの事実を隠している。これが彼らの承認する最後の点である。わたしたちはしばしば回心した魂の進歩の遅々としていることを驚くのであるが、多くは人を恐れて、人々の前でキリストを告白しないためであることを見いだすのである。西洋でも東洋でも『口で告白して救われる』との根本条件を主張する絶対の必要を痛感する。しかし異教徒は道徳的にはさらに臆病のようである。彼らは面目を失うことを嫌う。人を恐れることは彼らを束縛する大きな力である。個人主義は彼らには新しいことで、家族や両親を離れてその宗教を変えるというようなことは、社会とその民族的習慣に対して重大な躓きとなっているのである。わたしたちがもしこの点に着目しないならば、ただむやみに脇道にそれて、ありもしない影を取り扱うこととなり、なぜ魂の進歩が鈍いのか訝りながら空しく過ごすことになるであろう。
 結論として一言注意しておきたい。それは、人々の意志を取り扱う場合に、決して議論をしないように警戒することである。あの偉大な救霊者チャールズ・フィニーは、困難は人々の頭ではなく意志にあると主張し続けてきた。わたしたちは種々雑多な状態の人々に出会うであろう。全く世的で、霊的なことに無関心な者(ルカ十二・十七〜二十一)、自分を正しいとする者(ルカ十八・十八〜三十)、自分を正しいとする求道者(ヨハネ三章)、悪く不敬虔な者(ルカ十九・一〜十)、詭弁を弄する者(マタイ二十二・二十三〜三十三)、政治的宗教家(マタイ二十二・十五〜二十二)、自己欺瞞の熱心家(ルカ九・五十七〜六十二)、渇いているが覚醒していない罪人(ヨハネ四章)、覚醒した罪人(ヨハネ八・一〜十)、臨終の回心者(ルカ二十三・三十九〜四十三)など、数えることができないほどである。
 もちろん、これらの者に対しては、それぞれ異なった取り扱いを要する。しかしそれが誰であり、また何であるにしても、その問題は主として服従しない意志にかかわっていることを心に留めなければならない。それゆえ、議論と争論とは常に効果がなく、かつ不幸な結果を生む。真の疑いはいつも耐えることのできない苦痛を伴う。このような真剣な懐疑者(極めて稀であるが)に対しては、注意深く懇切にその疑いを解いてやらなければならない。しかし多くの場合は、疑いとはただ罪の申し訳に過ぎず、少なくとも救い主に委ねたくないところから来ている。
 数日前、二人の青年が神のことについて教えを受けようとしてやって来た。彼らは難しい問題を提出してそれで困っているということだった。もしこうした問題が満足に解決されるなら、信ずるというのである。わたしは彼らがキリスト教についてすでに知っていることを見いだした。また彼らの質問は、虚飾された詭弁に過ぎないことを発見した。わたしは彼らに告げた。もう聖書を知っているのだから、必要なのは人の教えでなく上よりの光であり、そのためには神の前にへりくだり、罪を告白して上よりの助けを祈り求めることである、と。これは彼らの舌にはあまりに苦すぎるように思われた。
 もう一度繰り返したい、いっさいの論争を警戒することを。インドにおいて著名な宣教師が、導こうとしていた人々から公開の論議をする一つの集会を開くように要求された。彼はそれを承諾し、その議論に勝った。しかしそれ以来、魂が来なくなった。言葉の争いで勝っても、魂を失うなら何の益があるだろう。
 わたしたちの唯一の目的として、ただ人々をキリストのもとに携えて来ることをしなければならない。もし彼らがありのままの姿でキリストによって神に立ち帰りさえするならば、どんなに迷ったかたくなな偏見に捕らわれた意志であっても、たちまち新たにされ全くされることを、回心者の心に繰り返し繰り返し刻みつけるように努めなければならない。キリストだけが唯一の癒し主である。確かに、キリストお一人だけである。
 さらに深く、さらに肝要な、人々の良心と愛情とを取り扱う仕事については、別章に述べることにし、本章では混乱している願望、くらまされた理解力に続いて捕らわれた意志について述べた。
 わたしたちの前に置かれたこの仕事は実にすばらしいものである。ジョン・バニヤンの不朽の作である『聖戦』は、この仕事がどんなに荘厳で、また困難であるかを教えている。わたしたちはこの譬えに示されるように、人々の願望も理解力も意志も全く敵の手に縛られ、全能の王とその王の子インマヌエル将軍に対して反逆していることを深く悟るのでなければ、十字架の使者となることはできない。
 人道をまつりあげてわたしたちの贖い主の栄光を地に堕とすような近代神学者の気の抜けた議論やドイツ神学者の物語は、ひとりの酒飲みでもその酒癖から、街の女をその醜業から、自殺者をその絶望から、皮肉屋をその高慢から、さらに異教徒をその堕落と迷信の暗黒から救い出すことは断じてできないのである。
 


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