第十三章 模 範 的 実 例


 
 『あなたと話しているこのわたしが、それである』(ヨハネ福音書四・二十六)
 『わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように』(ヨハネ福音書八・十一)
 『わたしに従ってきなさい』(ルカ福音書十八・二十二)
 『きょう、あなたの家に泊まることにしているから』(ルカ福音書十九・五)

 わたしたちの研究は終わりに近づいてきた。この章において、わたしは聖書の記録をたどり、人をすなどるお方である主が、どのようにして人々の心と生涯を捕らえてその恵みの網に入れ、また魂の良き羊飼いとして、失われた者を尋ねてこれを見いだし、そのふところに抱いてこれを養い、神のご家庭にまで連れて帰られたかを学びたいと思う。福音書には、主イエスが罪人を救おうとされ取り扱われた事実が少なくとも七つある。これらの記事もただ罪人のためだけでなく、また救霊者の益のために記されているのである。その事情はそれぞれ異なっている。ニコデモは神学者であった。サマリアの女は無学な憐れな妾で、姦淫の現行犯で捕らえられた第三の婦人と共通な罪人であった。『町で罪の女であったもの』(ルカ七・三十七)というのも彼らと同類の者であったろう。若い役人は、ニコデモのように富んでいる者、地位もありかつ善良な者であった。ザアカイは富もあり地位もあったが、前のパリサイ人であるふたりに比べ罪人であり、自分でもそれを知っていた。それから十字架上の罪人、これで七人となる。彼は国法を犯して犯罪に陥り、救い主を嘲りながら死の谷を下って行ったが、その出口に至る直前に救われて聖徒とされ、救い主をたたえながら彼とともに天国を歩むためにこの世を去った。
 これらの深い教訓に富む物語の中から四つだけを学ぶことにしよう。それを選ぶ理由は、これが最も代表的であり、今まで示そうと試みてきたことがこの原則をよく例証しているからと思うからである。第一に、スカルの井戸の傍らにおいてのキリストは、罪人を目ざめさせて神の救いの恵みを渇き求めさせるようになるところの驚くべき実物教訓である。第二に、主は自らを世の光として現し、姦淫の女の良心を照らしてこれをきよめるお方であることを示しておられるのである。第三は、傍観者に対し、彼は主に良い先生として導かれる前に、神なる救い主としてその意志を変化させていただかなければならないことを教えられる。第四で、わたしたちは主が大罪人の心と愛情とを変化させなさるのを見る。言葉を換えて言えば、わたしたちは単なる原則から転じて、主イエスがいかにその驚くべき恵みによって、わたしたちが今まで学んできた事柄のすべてを果たされたかを果たされたかを見ようとするのである。

 一 かわきを起されるキリスト──命の泉

 『あなたと話しているこのわたしが、それである』(ヨハネ福音書四・二十六)

 この美しい光景を概略学ぼうとするにあたり、この物語のはっきりした特色を要約することは助けになると思う。

 (一)粗雑なダイヤモンド(大いなる彫刻師がわざをなされる材料)

 この女は偏見を持っていた。そして霊界のことについては全く無知で、その初歩すら心得ていなかった。彼女は不道徳な生活を営み、それによって生計を立てていた。
 神の恵みの働きの目的物として、これぐらい望みのないものがほかにあるだろうか。人の目には粗雑なダイヤではなかった。ダイヤどころか、一変の真っ黒な土のかたまりに過ぎなかった。しかし救い主はそのように考えられなかった。感謝すべきことである。尊い魂の救いにおいては、主の御思いはわたしたちの思いと異なり、その道はわたしたちの道のようではない。

 (二)用いられた方法(救い主によって適用された真理)

 聖霊の真理が彼女の理解することのできる言葉で示された。ラビに語られるように生命について語ることをされず、渇いた魂を満たす水として語られた。ここではひとり子を賜うことではなく、罪人の愛と礼拝と讃美とを求められるお方として、父なる神についての真理が持ち出される。御子について、ここでは十字架にあげられたお方としてでなく、人々の心を見破り、近づいて神の賜物を与えられるお方としてである。罪人としての真理は常に同様である。『女よ、わたしの言うことを信じなさい』必要と罪との告白に続いて信仰は起こる。

 (三)主のお手際

 まずなすべきしかも最も困難な仕事は、偏見を取り去ることである。主は女に助けを願われ、彼女がそれを拒んだときに賜物を提供することによってこれを成し遂げられた。もし不敬虔だというそしりを受けないで次のように言えるとすればまさにそのとおりである。このような霊的天才の驚異的な手柄がかつてあったであろうか。おお愛の道を注視せよ。こうして彼は霊的なものに対する渇きを呼び起こそうとした。『もしあなたが神の賜物のことを知り、また、「水を飲ませてくれ」と言った者が、だれであるか知っていたならば』と言われる。そしてこの哀れな無学な心がスカルの井戸の水以上に思うことができず、最期まで地につくものだけを考えている時にも、いささかも気を落とさず、賜物より与え主へ話を進められるのである。もし彼女が賜物について悟らない時でも、与え主の恵みを見ることによって救われるようになるかも知れないのである。こうしてそのくちびるよりかすかな願いが洩らされた時に、主は彼女の心の暗いところに届き、彼女の眠っている良心を目ざめさせられた。主はその驚いた心に、彼女の長い間秘めておいた隠れた罪を知っておられることを示された。しかしここで主の愛と知恵との接触を認めなければならない。他の場合におけるように、ここでも主は彼女が逃げ去る機会を与えられた。『あなたの夫を呼びに行って、ここに連れてきなさい』と。もし願うなら彼女はそのまま行って帰ってこないこともできたはずである。主の知恵を見ていただきたい。主は直接罪を指摘することをされず、彼女が自分から告白するように仕向けられた。この場合、三つの方法が彼女にあった。一つはそのまま行って帰ってこないことである。二つめは、行って彼女の夫を正当な夫のように装って連れてくることである。三つめは事実をそのまま告げることである。彼女は賜物の意味はわからなかったが、自分の前に立っておられる与え主の恵みと憐れみとを悟って、その鈍い心を捕らえられてしまった。このようなお方の前から逃げ去ることはできなかった。彼女は慈しみ深い全知のお方の前に捕らえられ、恥じらいつつもそこにとどまり、いっさいの罪を告白した。
 こうして救い主はその目標に近づかれる。偏見は去り、願望は喚起され、良心は照らされ、心の愛情は動かされた。ただ信じようとする意志だけが残されている。これは最後の最も困難な仕事である。すべての新生していない魂の中に存在する二つの根本的な誤りが彼女の心の奥底にも横たわっていた。第一は、宗教の内容は、わたしたちの側で神を求めるものだ、ということ、第二は、彼女の期待するものは遠い未来にかすかに存在するものだ、ということである。第一について主は答えて言われる。『あなたがたが、この山でも、エルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。‥‥‥父は、このような礼拝をする者たちを求めておられる』と。第二について主は言われる。それは次の時代でもなく、また年をとってからあとのことでもなく、来月でもなくあしたでもない。今ここにおいてである。『あなたと話していることわたしが、それである』。あなたの偏見を取り去った者はキリストである。あなたに生ける水を示して渇きを起させたのはキリストである。あなたの罪を知り、しかも責めなかったのはキリストである。あなたの愛を求めて待っておられる神を示したのはキリストである。『あなたと話しているこのわたしが、キリストである』。ただ信じなさい。わざはなされた。その瞬間に、おののく信仰の手は差し伸ばされた。彼女は救われた。その瞬間、生ける水はその心に湧き出た。わずかの間に、その泉は溢れてほかの人々に伝わっていく。水がめを置いて町に行き、この喜ばしいおとずれを告げた。三つの人生の悩みは取り去られた。第一に罪、第二に神に至る道についての無知、第三に望むことができなかったメシアを見ること、がそれである。『わたしのしたことを何もかも、言いあてた人がいます。さあ、見にきてごらんなさい。もしかしたら、この人がキリストかも知れません』と彼女が叫んだのも当然である。ここに聖霊を受けた三つのしるしがある。水がめを置き去りにすること、自動的にキリストを知ること、キリストをあかしし、その恵みを他に伝えようとする熱情がとがすなわちそれである。
 救霊者の心に留めていただきたい。ここに大目的である聖なるキリストがおられる。彼はすべてのすべてである。求道者を彼にまで携えてくるのでなければいっさいは失敗である。『あなたと話をしているこのわたしが、それである』。実に実に幸いなみことばである。これを記すだけでもわたしの心は躍る。わたしたちは偏見を取り去ることができるだろう。しかし失敗する。わたしたちは教え諭し心に刻ませ、キリスト教を受け入れるよう人々に強要することができるだろう。しかしなお失敗する。わたしたちがキリストご自身を携えてこないなら、そのなしたことはごくわずかである。
 数年前、一つの田舎の町で説教したとき、わたしはこの話によって人々に救い主を示そうと努めた。その聴衆の中に数年間キリスト教を研究していた一人の医師がいた。彼はキリストの神性について信じることができなかったのである。話の終わりに、わたしは力をこめて『あなたと話しているこのわたしが、それである』という言葉を繰り返した。彼は急に立ち上がって部屋を出た。この無限の恩寵に満ちた物語が、この言葉によって彼の心に確かにとどまり、その理性にまで届いたのである。彼は家に帰り、部屋に入って救い主を求めた。そしてひざまずいて「わたしの主よ、わたしの神よ」と叫んだ。彼は信じた。そして二千年前のこの罪人のように、彼は信仰と平安を見いだし、彼の心から喜びの泉が溢れ出た。
 この点で誤ることは非常に簡単である。そして自己免許の見解を新生の証拠として満足している。どうか神が、わたしたちにただ知恵と恵みとだけでなく、わたしたちの主の栄光と誉れとに対する熱望によって、どのようにキリストを宣べ伝えたらよいかを知らせてくださいますように。
 次の実例は人の仮定をもって神の確証に代用しようとする危険を示すものである。

 ある時、まだかつて会ったことのないひとりの婦人が、ある用件のために訪問して来た。会話の中に彼女はこの付近にいるひとりの人を訪問するために来たそのついでであることがわかった。それは結核患者であって、以前からの知り合いであるという。彼はキリスト者であるかと聞くと、彼女は次のように答えた。「まだ信者だとは一度も告白はしていないし、バプテスマも受けていないが、心では確かに信者で死の用意はできていると思う。彼は同情深く、いつもキリスト教の慈善事業のために援助を与えてくれる」と。わたしは重荷を感じてその名前と所を聞き取って、「訪問してみてもよいか」と聞くと、「たぶんそれはやめたほうがよいだろう。彼は内気で、特に外人は遠慮するから」と言う。彼女は長い間の友人だから迎えてくれるのだ、と言うのである。わたしは重荷を感じて他の人とも祈り、ひとりの、若いけれど経験のある日本人伝道者に訪問してもらうことにした。訪問してみれば、病勢はかなり進んでいる。親切に話してみれば、キリスト者であるどころか、実は大反対で、この問題に触れることさえ願わない。
 その後何度訪問しても断られる。時には病気が悪いからという。時には他に用事があるからと言う。また時には医者が来ているからと言う。しかし若い伝道者は祈りながら幾度か訪問した。時にはその門前でただ祈って帰るか、時には見舞い品を持ってただ届けに来る、というようにしていた。そうするうちに彼の心もとうとう開いて面会を許されることになった。簡単に言えば、結局彼はあざやかに救われたのである。そして洗礼を受け、キリスト教式の葬式をするよう遺言した。生前の彼のキリスト教反対の事実を知る友人たちは、ただ驚くほかなかった。

 あの婦人がもう少し聖書を学び、その中に描き出された人の心の状態の必要と、危険と罪と自己欺瞞について知っていたならば、いま死に臨んでいる友人が、単に偏見がなくなり慈善的でキリスト教的社会事業に興味を持っているくらいの外面のことにくらまされて、その悪いわざと心が神に反逆していることを見破ることができないようなことはなかったであろう。

 二 良心を照らしてくださるキリスト

 『わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように』(ヨハネ福音書八・十一)

 聖書の改訳者の中には、姦淫の女の物語(ヨハネ八・一〜十一)を誓書から除こうとする者もいるが、しかし聖書全体を通じてこの物語ほど啓示の証拠が明白なものはほかに多くないと思う。このあわれな女の悔改の事情は、他の実例と全然異なっている。
 これにはサマリヤの女の場合のように、主が『サマリヤを通過しなければならなかった』わけではなかった。また自ら進んで救い主を求めた『罪の女』のようでもなかった。その反対に、彼女は自分の願いに反し、主イエスを陥れようとする悪魔のような願いから、彼女に赤恥をかかせようとするパリサイ人が引っ張ってきたのである。彼女は義なる審き主の面前にはずかしめられ苦しめられ引きずり出された。しかしこの審き主こそ実は恵み深い救い主であったのである。『「だれが、君を支配者や裁判人にしたのか」と言って排斥されたこのイエスを‥‥‥神はあがない主として、おつかわしになったのである』(使徒七・三十五参照)とパラフレーズすることができる。
 この物語の終わりに、主イエスはご自身を世の光として示しておいでになる。これは引き続いて主のお話の題目となっているが、しかしまたパリサイ人と罪人とに対するお取り扱いの秘密も含んでいる。前者に対しては堪えることのできない目をくらますように光として臨んでいるが、罪人に対してはその翼に癒す力を供えた光として現れている。
 わたしたちはまず疑問の余地なく罪人であるこの女を見、そしてパリサイ人のためには審き主であり、女のためには救い主であられた主を見ることにしよう。
 罪人
 彼女はその現行犯をおさえられた。わたしたちの知り得る限り、彼女は別にその生涯を改めようとは願わなかった。彼女は強いてへりくだらされ罪に伏せしめられたのである。彼女は罰を予想して来た。訴える者に対する憎悪の念に満ちていたことは察するに難くない。世にあって望みなく、キリストなく、神なく、言い逃れるすべのない明らかな罪人で、悩まされ辱められていた。これが神が恵みのわざに着手される材料であった。しかしそこにまたちょうど救われるために必要な条件が備わっていた。彼女は罪人であって、またそれを知っていた。
 救い主
 主は言うことのできない懇切さとていねいさをもって取り扱われる。その当時の宗教家は、残酷にも彼女を引きずって衆人の見せ物にすることを躊躇せず、心ない群衆の本能は彼女の罪を見ることを憚らなかったとしても、主はとにかくそれを蔽われた。主はともかく、神以外の者の前に、彼女の恥と罪を暴露することを喜ばれないことを示された。これは最初に照り出した愛の光線であって、彼女の驚いている心に届いた。パリサイ人の嘲りにより麻痺し硬くなっていた心は、この輝きに応じた。
 罪人に対してはそれでよいとして、主はいかに律法とまたこの理屈っぽい告訴人を取り扱われるであろうか。もしゆるすこととされるなら、神の律法を破ることになる。もし罰するなら、救い主ではないことになる。実にのがれることができない板挟みである。律法の創始者である主はまたこれを補うことができないのであろうか。聞け、そして驚き崇めよ。主は一章一節を読むことなく、彼らをして彼らのよって立つ律法の書に帰らしめられた。おまえたちはモーセの書によって訴えようとするのか。ここにモーセの書がある。モーセは何と言ったか。『そのような者を殺すには、証人がまず手を下し』(申命記十七・七)とある。それなら『あなたがたの中で罪のない者がまず手を下したらよい』と。義の太陽から照り出した恐るべき光線が彼らを散らしてしまった。彼らは一人また一人と去って行ってしまった。それは女を殺すためではなく、彼らの審判者であり女の救い主であるおかたを殺そうという計画をするためであった。
 こうして主は、汚れていても尊い魂を救うわざを全うしようとして、女を顧みられた。彼はもう一度、井戸の傍らの女に対するようになされた。すなわち女に逃げる機会を与えられた。彼が地面にものを書き続けておられた時、訴えた者たちは主の目を避けて右の方へ逃げた。女はこっそり左の方へ身を隠すことができたはずである。なぜ逃げないのか。なぜためらうのか。数分のうちに群衆は彼女を取り巻いて、懲罰が加えられるかも知れないのである。しかし彼女は立ち去ることができない。その場所に根を下ろしたように立っている。このような不思議な恵みから逃げ去ることがどうしてできようか。『彼われを殺すとも、我は彼に依り頼まん』(ヨブ記十三・十五=文語訳)とヨブは言ったが、彼女の心もこれに応じて「たとえ彼がわたしを罰しても、わたしは彼を愛します」と叫んだことであろう。罪のある女がシモンの家の傍らにおいて、どんなに嘲られ蔑まれてもただ主に近づくことさえできればこれを喜びとしたように、群衆のそしりも譴責も非難も脅しも、彼女を世の光なるお方の前から追い払うことができなかった。光が彼女の心と生涯の隠れたところを探ることによって、彼女は主の愛と栄光の中にあることを発見し、主と共にあることに満足した。主は言われる。わたしはあなたの審判者である。しかし証人なしに罰することはできない。『あなたを罰する者はなかったのか』と尋ねられる。『主よ、だれもございません』と答える。これに対して、主は『わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように』と言われる。彼女はその瞬間から、良心の呵責と、罪に対する願望と、悪魔と、そしてすべての不義から免れることができた。主イエスだけが残られた。しかし女はその前に立っている。この単純なみことばの中に、なんと驚くべき恵みと力の数々が伏在していることであろう。恐れも脅かしも訴えも悲惨も疑いも罪も永遠に消え去った。残忍な訴える者たちは困惑して逃げてしまった。ただ主だけが残っておられる。愛と喜びと平和、何という幸いな救われた魂の姿であろう。
 『わたしもあなたを罰しない』という聖言は、『あなたと話をしているこのわたしが、それである』という聖言と一対である。
 くり返しくり返し強調してきたように、主の御前においての謙遜な罪の告白と、彼の愛に対する喜ばしいしかも恐れおののく確信とは、単純かつ驚くべき秘訣である。主はこの単純な条件を果たしさえすれば、誰にでもたちまちご自分を現されるであろう。瞬間に、即座に、神の恵みがこのように著しくまた完全に現された物語は、聖書中ほかにないであろう。
 彼はこの地上に肉体をもっておられたときのように、今も少しも変わりたまわないのである。次の実例はこのことを証明する。
 わたしの前には一人の人の伝記がある。この書の主人公はいま隣の町で伝道者として働いている。これはそのまま転載するにはあまりに長いから、簡潔に要点だけを記すことにしよう。
 「聖書の中にさえまれに見る神の恵みの奇蹟が亀水氏の生涯になされた。彼は今四十九歳であるが、そのうちの二十七年間は北海道の刑務所において過ごした」と書き出し、そして彼の最初の犯罪は宗教上の迷信に起因していることを述べている。続いて窃盗、強盗、放蕩、殺人、脱獄などの恐るべき罪の目録に移る。そのために終身懲役の宣告を受けて北海道に送られた。しかしそこでも彼の凶悪はますますひどく、なし得る限りの乱暴を働き、そのため刑務所の役人たちにも恐れられていた。そこで彼は書き進める。「作業から帰ってみると、二、三人の囚人が一枚の絵を眺めていた。そこに近づいて、生まれて初めてキリストの十字架の絵を見た。嘲りをもってわたしは質問した。この罪人はだれだ、と。しかるにいくぶん福音の筋道を心得ている者があって、これは救い主神の子キリストだ、彼は自分の罪のためでなく、人々の罪のために死なれたのだと答える。変なことを言うものだと思ったものの、しかし一方考えてみれば、もしキリストが自ら言われるように神の子であって、罪人の身代わりに死なれたのではないとするならば、彼は偽りのために死ねるものだろうか。人は罪を隠すために偽りを言う。しかし刑罰を受けるために偽りを言う者はあるまい。このように自問自答してこの理論の前に抵抗することができなかった。わたしは黙って深く感動した。そして何のためかまたどうしてかわからないが、普通ではない変化がわたしの心に起こりつつあることを覚えた。その場を去って十分と経たないうちにわたしは信じた。そしてわたしの心にも生涯にも一つの大きな変化が起こった。私は直ちに聖書を求めた。‥‥‥」
 こうしてその変化した生涯のあかしが述べられ、その牢獄の中にありながら神に仕え、多くの実を結ぶようになった物語が記されている。
 このように神の恵みは急激なわざをする。この亀水氏も、審くためでなく救うために、破壊するためでなく成就するために、義人でなく罪人を招くためにおいでになったお方の恵みによって打ち勝った、あの罪の女と好一対の人物である。
  すべての負い目をつぐなう恵み
  すべての罪とがを洗う血潮
  日々にしみなく保つ力
  豊かに、豊かに、わがために
  主イエスの中に備えあり

 三 意志の革新(よき主としてのキリスト)

 『わたしに従ってきなさい』(ルカ福音書十八・二十二)

 若い役人の物語を読む前に、主がパリサイ人と取税人のたとえ話をされたことに注意しなければならない。そしてここにその両者の実例が出て来るのである。第一はパリサイ人で地位のある人物である。この人は主が言われたとおりの正しい人物で、決して偽善者ではない。むしろ生活において正しく、宗教に対して真実であった。次は取税人のザアカイで、彼は祈るために宮に行ったのではないが、主イエスを見ようとして桑の樹に登ったのである。彼は主イエスを拝するまで、『罪人のわたしをおゆるしください』と祈ることはできなかった。
 第一は善良で滅び、第二は悪質で救われた人の物語である。聖霊は富んでいる役人の前には三つのたとえ、すなわちやもめと取税人と幼子の話を記しておられる。それによって生命の道は明らかに教えられている。もしこれを注意深く聞いていたら、『何をしたら永遠の生命が受けられましょうか』と尋ねる必要はなかったであろう。新約聖書の中でこの所ほど短くしかも愚かさと無知に満ちた言葉はほかにないであろう。
 『何をしたら永遠の生命が得られましょうか』。わざによって永遠の生命を受けることがどうしてできようか。しかも彼の無知はさらに深い。『よき師よ』と彼は叫ぶ。救い主はこれを止めて言われる。『なぜわたしをよき者というのか。神ひとりのほかによい者はいない』。ああ、ここに大きな誤りがある。彼は律法を全うするためにもう少しの教導が必要と思った。主は彼の言葉を捕らえて言われた。彼は自ら自分を愛するように他人を愛すると確信していたのである。主は彼が、金を神として、どのように律法の第一誡を踏みにじっているかを暴露し、また対人的な愛の誡めも実行していないことを示された。貧しい者、裸の者、悩める者は周囲に充ち満ちている。それならなぜ、彼は自分の財産を蓄えて置くのか。『あなたのすることがまだ一つ残っている。持っているものをみな売り払って、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい』と。ああ、人はその最善をもってしてもなお救いに遠い。彼のふくれ上がった財布と莫大な銀行預金とは彼をして非常な憂いによって去らしめた。それは彼が大金持ちであったからである。財産は多くの人を憂えしめていないが、しかし天国の世嗣に対してはこのようなものである。
 主は単純な罪人に対してはこのように語ることはされない。富んでいる者が狭い門に入ることはいかに難しいことであることか。主は彼を愛されたと記されているにもかかわらず、この青年のためにこの門を広くされることはなかった。
 キリストはいっさいである。この憐れむべき富める人の失敗は、この事実に対する無知によるのである。『わたしに従ってきなさい』との根本的条件であるみことばが、彼の耳にはとても不可能なことと響いた。それは彼が恵みの必要を感じなかったためである。『あなたと話しているこのわたしが、それである』、『わたしもあなたを罰しない』等のみことばも彼の耳には音楽とは聞こえなかった。従いなさいとの命令は、この場合、罪よりも死よりも地獄よりも思い堪えがたいくびきと感ぜられたのである。
 彼はその道を誤った。『よき師よ』との彼の神学はその魂に破滅を来らせた。おお不信仰よ、おまえはどこまで愚かなのか。
 彼の信仰はその祖先であるバラム、カイン、コラなどのように、その財布と自分の義と地位の誇りとにその根を下ろしていた。彼は『カインの道を行き、利のためにバラムの惑わしに迷い入り、コラのような反逆をして滅んでしまうのである』(ユダ十一)。
 やもめや取税人や幼子の物語を、どのようにして彼のように富みかつ善良にして地位のある者に適用することができるかと彼は考えたであろう。ああ、彼は神の国よりはなはだ遠くあった。
 ここにパリサイ的魂を導く知恵がある。愚かな者には愚かなように答えよ。律法的な者には律法をもって答えよ。しかもかかる懇切な知恵をもって『よき師よ』と言うその座席より引き下ろして、神たる主の足下に伏させるように至らなければならない。
 他の場所でも述べたように、魂が神学的教師として主に来る代わりに、救い主として彼を求めるならば、いかにすみやかに彼はその心と思いとを捕らえてご自身に従わしめられることであろう。善行と富と名望とにはなはだ豊かであったこの若き役人の悲しみを十分に味わい学ぶことは、いかなる国にもまさって、日本で最も必要であるということははなはだ悲しむべき事実である。
 キリストは、彼が神である救い主として、わたしたちのうちに働き、志を立て、ことを行わしめられる時にのみ、わたしたちの意志の主である。

 四 心の変化(神である救い主キリスト)

 『きょう、あなたの家に泊まることにしているから』(ルカ福音書十九・五)
 『きょう、救いがこの家にきた』(ルカ福音書十九・九)

 前の物語は救い主の不朽のみことばをもって終わった。『財産のある者が神の国にはいるのはなんとむずかしいことであろう。‥‥‥人にはできないことも、神にはできる』と。弟子たちは特にその前半が真実であることを見た。若い役人は彼のすべての善行をもってしても狭い門にはいることができなかった。彼の財布はあまりに大きく、彼の頭はあまりにふくれ上がっていたのである。彼は試みたが捨てることができないために失望して去った。主はここで仰せられる。金のために失敗したエリコにわたしと共に来なさい。神が働いて下さるならば、財産のある者でも救われることができることを示そう、と。そこで『イエスはエリコにはいって、その町をお通りになった』のである。前の物語はいっさいが人のわざであった。若い役人は自負心に満ちて救い主のみもとに来た彼は何をしたらよいかと言う。自分は多くのことをして来た。したがってあとわずかのことをするのはたやすい、と。
 しかしここではすべてが非常に違っている。初めから終わりまでいっさいがキリストである。そこには自負心のかけらもない。ザアカイが主を見るために木に登ったのは事実である。しかしそれは主と話すためではなかった。彼は、彼のような神を知らない罪人には、キリストは何のかかわりもないと思ったであろう。彼のくちびるには、『何をしたら永遠の生命が受けられましょうか』との質問はない。彼の仲間では長であったが、いっさいの見栄もかなぐり捨てて、驚くべきイエスを見たいために近くの木に登った。どのようにして恵みがこの強欲な人の心に入り込むことができるかを注目したいものである。
 ちょうどサマリアの井戸の傍らの時のように、一つの好意を求められたことから始まった。救い主は木の下に止まり、上を見上げて言われた。『ザアカイよ』(聖なる者という意)。取税人としては何とふさわしくない名であろう。確かに彼の両親はこのような商売をさせるつもりはなかったのであろう。主は彼自身指名されていることをはっきり知らせようとしておられるかのように彼の名を呼ばれた。『急いで下りてきなさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから』。これは放蕩息子を待っておられる父ではなく、失われた者を捜し求められる救い主である。しかしいつの場合でもどこでも兄たちが近くにいるのである。『人々はみな、これを見てつぶやき、「彼は罪人の家にはいって客となった」』と。ザアカイは急いで下りた。人々のそしりによって主がいま言われたことをひるがえしてしまわれるのではないかというように、悔改の実を結ぶために急ぐのである。『主よ、わたしは誓って自分の財産の半分を貧民に施します。また、もしだれかから不正な取り立てをしていましたら、それを四倍にして返します』。彼が若い役人の話を聞いたとは思われないが、彼の心の畑は不思議にもすぐに整えられた。そして芽が出、熟した実までそこで結んだのである。
 救い主は、いらだつ兄たちの前で、『きょう、救いがこの家に来た』と言われた。ただ一時の宿ではなく、きょう永遠の救いはこの家に来た、と。恵みのお取り扱いには共通な点がある。井戸の傍らの女の場合のように、ここでも救い主は最初に罪を責められない。まず純然たる恵みを提供される。そしてこれが受け入れられる時、自ら罪を捨てることが伴うのである。どうか主よ、どうして人の心を金から離して神に向けたらよいかを学ばせてください。恵みを宣べ伝えさせてください。最後の章で、救霊者に最も必要は恵みの満たしについて語りたい。この最もかわききった取税人の魂の中をさえ潤す源泉を見るのである。恵みをもって願いを目ざめさせるお方は、また恵みをもって暗い良心を照らし、恵みをもって若い役人の意志の働きをとどめ、恵みをもって大いなる罪人の心の愛をひるがえして世俗と罪とを離れさせて愛の神に向けさせることがおできになるのである。
 まだかつてキリスト教について何も聞いたことのない聴衆に、救い主の美しさを宣べ伝えることは容易なわざではないことを承知している。それは決して容易ではない。しかし感謝なことに、それは不可能ではない。わたしはいま述べたような救い主のご生涯の物語の一つを述べるときに、尊敬と恥の思いをもって、息を殺して静かに聞いているのを見たことがある。彼らは救い主の美しさに畏敬の念を起したのである。そして最後には迷信と暗黒との中にあって、以前に福音に接したことのない罪人が御足のもとに来るのを見た。
 この章はあまりに長くなったため、実例を挙げる余地がない。どうか今までの四つの話をよく学び、どのように主イエスを宣べ伝えたらよいかを学んでいただきたい。罪人の心に対する主の四重のみことばに傾聴せよ。
 『あなたと話しているこのわたしが、それである』
 わたしはよきサマリア人のようにあなたのいる所にあなたを求めて近づいてきたと言われる。
 『わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように』
 わたしはあなたを救うために来たのだ。わたしは贖い主であって、審き主でない、と。
 『きょう、あなたの家に泊まることにしている』
 わたしはあなたと永遠に共にいるために来た、と。
 『わたしに従ってきなさい』
 わたしはあなたに従う力を与えるために来たのだ、と。
 わたしは救い主の言われたこの四重の金言に中に含まれるすべての富を読者がそれぞれ集めるのに任せたいと思う。わたしたちがこれらの物語をもう一度読むとき、願いを起させる豊かな恵み、良心を照らして平安を与える豊かな恵み、意志をこの世からひるがえす豊かな恵み、心の愛情を金から離れさせて神に向けさせる豊かな恵みをも見るであろう。このキリストこそわたしたちが宣べ伝えなければならないお方である。
 先の章で、わたしたちはどのようにして人の理性と良心と意志と願いと愛情とに届くことができるかを学んできたが、この章では救い主がどのように恵みをもって堕落した人生のすべての部分に届かれるかを見せられた。わたしたちの要することは、このようなお方としてキリストを宣べ伝えることである。彼はすべての必要に応じてくださるであろう。キリストはすべてのすべてであられる。わたしたちはこのように彼を宣べ伝えることができるであろうか。わたしたちは自らこのようなお方としての彼を知っていなければ、これは不可能である。わたしたちはキリストの満たしにあずかっているであろうか。彼はわたしたちのいっさいのいっさいであろうか。彼の命の泉はわたしたちのうちに湧き出ているであろうか。わたしたちは彼の御顔の輝きに浴しているであろうか。彼はわたしたちの存在のすべてに届いて下さるお方として確信させられているであろうか。彼はわたしたちの愛を彼のみに向かわしめられるだろうか。もしそうなら、わたしたちは彼を他の人に宣べ伝えることができる。わたしたちは、キリストに占領された器が、どのようにすみやかに異教徒の心に届き、彼らにゆるしを与えて下さる神のみもとに携え帰るかを見た。
 もしそうでないなら、このような研究も益となることは少ない。方法や言葉では救われない。キリストご自身に満たされた燃える心と熱い舌だけが、罪人の暗い心の隅々まで届く道を見いだすことができるであろう。
 


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