第七章 必要を知ること


 
 『貧しい人々‥‥‥囚人‥‥‥盲人‥‥‥打ちひしがれている者』(ルカ福音書四・十八)

 これまでの数章で、魂を覚醒し、照らし、回心させるために用いる方法について語ってきた。しかしこの仕事は異教の国にあっては非常に重要なことで、考えすぎるということはない。そこでさらに二章、この題目のために用いることにしよう。
 一章は必要を知ることの考察のために、次の一章は罪を知ることの考察のために費やすことにする。わたしはすでにこの両者の区別を指摘したが、これは極めて大切なことである。聖書は人間のこの二重の状態を示している。貧しい者、囚人、盲人、打ちひしがれている者と、一方で憐れむべき者として示す。他方には、罪人、反逆者、怒りの子、悪魔の子、神の限りない怒りと罰とにあずかるべき者というように取り扱っている。この二重の事実をわたしたちは強調しなければならない。それによって、わたしたちの胸中には、滅び行く魂に向かう愛と、主の栄えのために抱く怒りの熱情とが燃え上がって来る必要がある。
 働き人として成功するために、人心に近づく道を研究することは絶対の条件である。わたしたちがこのことを了解するまでは、魂に接近することができないであろう。わたしたちは、人々に近づくさまざまな方法とさまざまな道とを了解しなければならない。しかしわたしたちが神の啓示の書によって学ぶのでなければ、このことをなすことはできないであろう。もしわたしたちがこの点を理解していれば、一度の試みに失敗しても失望することはない。それは、一つの道がふさがった場合でも、なお神の御霊が入口として備えられている急所を思い出すまで、手を変えて試みることができることを心に留めているからである。
 さて罪の問題と全く離れて、必要を知ることの道によって魂に近づく四つの明らかな、また確実な道がある。神は人々の心に、四つの驚くべき本能を植え込んでおられる。それは毒され、乱されているに違いないが、福音はその毒を示して、これの癒しの道を備えている。
 第一の本能は、安息と幸福と喜びに対する願い、第二は、自らに害がありまた悪があると思われるすべてのものに打ち勝つ力を得たいという願い、第三は、光と確信に対する願い、第四は、生命の継続に対する願いである。
 これらの願いはすべて神によって植え付けられた本能である。したがって、魂を救いに導こうとするにあたっては、この本能が堕落しきっていることを示しながら、なお、これらの願いに完全に応ずるところのものを提供しなければならない。これは聖なる主ご自身の用いられた方法であった。主はこの四つの動機に向かって訴えられた。これは救いの四つの様式であって、救いは人の心のこの四つの要求に応ずるものである。これは、いずれの国でも、いつの時代でも、すべての魂に適用することができる。
 キリストはわたしたちのために、知恵となり、義と聖とあがないとになられた。別な表現をすれば、光と確信、神との平和、罪と悪よりの救い、永遠の生命、すなわちわたしたちの魂だけでなくまたからだの贖いとなられたのである。

 一 安息に対する願い

 『すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。』(マタイ福音書十一・二十八)

 ある異教の祭礼の折、街で天幕の集会をして会場のおもてにこの聖句を記した立て看板を出した。するとちょうどその向こう側にあった芝居小屋がこれを真似して、向こうを張るつもりであったのか、次のような言葉を立て看板にて出した。
 「すべて心の浮かれた者はここに来なさい。わたしがあなたがたに楽しみをあげよう。」
 悲哀はただ偽りによって打ち消されるに過ぎない。この世の提供するいわゆる快楽の賜物には多くの価を払わせられる。
 キリストはまず第一に魂の安息を提供される。キリストはまず第一に魂の安息を提供される。罪人である婦人の心に届いたのはこのようなみことばであった(ルカ七章、マタイ十一章)。わたしは日本においてこのみことば以上に罪人を覚醒するために用いられた聖句をほかに知らない。何度かその実例を見せられた。このような実話を述べるならば、おそらく一章では足りないであろう。自殺寸前にある男女が、しばしばこの言葉に捕らえられるのを見た。罪の呵責より良心の安息、罪より心の安息、反逆より意志の安息、欲望より願望の安息、罪の結果より肉体の安息、心配より思いの安息、死の恐れより霊魂の安息、この一つひとつを取って例証をもって人々の心に当て嵌めることは有効である。安息のない真の理由は、依り頼むことのできる確たるもののないことである。ちょうど、疲れた人が椅子によりかかろうとすると、たちまちその椅子が取り去られるように、この世は永久的な何物をも与えない。若い役人に「何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」と叫ばせたのもこれである。彼は富と地位と品性とをもっていた。しかし彼は、本能的にこれらのものの一つも永続しないものであることを知っていた。彼はその依り頼むことのできる、過ぎ去らない何ものかを求めていたのである。
 わたしは経験の上から、悩みや悲しみや心配などが人をキリストに導く守り役であることを認めてきた。罪の感覚ではなく、安息に対する願いが、しばしば人を天に向けさせるものである。わたしたちは人の心の中から罪と咎の悲しみを取り去るだけでなく、またこの必要にも応じてくださる救いと救い主をもつことは感謝の至りである。
 救いのこの方面を提供するためには、主の救いの事実とともに救い主ご自身について強調することが有益である。このことを発見した人々が知らないと言っても、彼らを愛し同情し助けて下さるおかたを求める心は、人心の深い本能の一つである。そしてこの本能を覚醒し、照らし、また満足させることが必要である。

 数年前、わたしが働いていた地方の一つのかけ離れた伝道地に著しい回心者が起こった。問題の人物は、今は熱心な伝道者となっているが、彼は憐れな酔っぱらいの漁夫で、読むことも書くこともできなかった。彼はすっかり堕落し果てていた。彼はその酒癖を宗教によったら止められるかと考えて、仏教の僧侶に助けを求めた。その僧侶はまじないのために頓服薬を与えた。ところがある日、たまたま寺に行ったら、その僧侶が酒を飲んでいた。その偽善を見破った彼はそれっきり宗教にもおさらばを告げた。しばらくして、ある寒い冬の夜、友人と一緒に隣村に行き、もう一人の友人を待っている間に、その隣の家から普通の会話よりは少し高い声で話す言葉が聞こえてきた。彼が門口に近づいた時、次のような言葉が耳に入った。『すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう』と。
 このことばは二度繰り返して語られたが、それが彼の心を捕らえた。彼らはそれぞれの家に帰った。ところがその夜も、また来る日も来る日もこの言葉が彼につきまとってくる。『わたしのもとに来なさい』。誰だろう。どこに行ったらその人に会えるだろう。確かに生きている人に違いない。おおその人のもとに行って、この身も魂ものろいつつあるこの悪癖から救われ、そして休ませてもらいたい。感謝、彼は罪人の友であるお方に見いだされ、そしてイエス・キリストにあって新たに創造された者となるまで休むことができなかった。

 どうか若い伝道者が、どのように安息を魂に提供したらよいか、またどのようにこの聖なる安息の与え主を宣べ伝えたらよいかを知り、こうして魂を良き羊飼いのふところに休ませるだけでなく、救い主にそれらの魂のわずらいを癒していただくように。

 二 喜びに対する願い

 『わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう』(ヨハネ福音書四・十四)

 ここに主イエスは快楽と喜びに対する願いにちょうど当てはまるところのものを提出しておいでになる。
 神が人間に与えようとされているものは、このすぐれた幸福、永遠に続く完全な喜びと快楽である。これは最も幸いな本能であって、神はこれを満たしたいと願われる。人はこれを獲得するためにあらゆる悪いわざをめぐらした。わたしたちは永遠の命、天的喜びの強壮剤を彼らに差し出すことによって、そのくちびるから毒杯を奪い去ることができる。そこにはこれに代わるものがない。ピリピの獄屋において、傷ついたからだも血の滴る手足もこれには役に立たなかった。獣のような獄吏もこれを見ては驚き怪しんで、今まで苦しめた囚人の足下に悔い改めた。さらに主のための奉仕において、今まで心配のためにうなだれていた者の心の中に喜びの湧き出るのを見、また一度は石の偶像に接吻したそのくちびるから讃美と喜びの歌が破れ出るのを見ることにまさる喜びはないということを付け加えることができるであろう。
 わたしはここにこのような人々から受け取った多くの手紙を山のように持っている。その中から二、三の例を断片的にであるが記してみよう。

 「わたしは喜びで心がいっぱいで、何から書いてよいかわかりません。わたしは時にはこれ以上は堪えきれないと思うほど喜んでいます。」
 「わたしは喜びに満ちています。心の中には感謝と讃美のほか何もありません。」
 「このような喜びがこの世にまたとあろうとも思われない。何でわたしはもっと早くこの幸いな賜物を求めなかったのでしょう。」
 「わたしは主イエスのご臨在を認めて深い喜びを持っています。そして注意深く主の御前を歩もうと努めています。」
 「わたしは今までこのような喜びを経験したことがありません。わたしは聖書がはっきり開かれてくるのに驚いています。」
 「わたしは喜びのあまりじっとしていることができません。こんな賜物を受けられようとは思われませんでした。わたしはいつも主イエスの愛を胸に抱いています。」

 喜びに満たされている男女を見ることはどこにおいても幸いなことであるが、ことに異教の暗黒の中にいた人々が大きな喜びに輝く様子を見ることは言うことができない幸いである。この喜びの福音を有効に宣べ伝えるため、わたしたちはまず自ら心の衷に湧き出る喜びを持っていなければならない。
 数年前のことである。ある避暑地において宣教師の子どもたちのために開かれた一つの集会に、ひとりの賜物ある若い幼稚園の教師が出席した。彼女は英語がよくわかった。彼女はキリスト者とは言っていたが、その心には何の満足もなく、苦々しく謗りに満ちていた。教会の会員ではあったが神の救いの恵みについては何もわきまえていない。説教者はキリストの十字架の七重の目的について語っていた。彼女のあとで告白したことによると、説教そのものには大して感じなかったけれども、その説教者の顔に現れた喜びに非常に感動したと言う。
 それは矢のように彼女の心を刺した。彼女は満足の行くまで休むことができなかった。ほとんど二週間、涙の中に主を求めた。こうして主はその聖顔の輝きを彼女に示して、その説教者の顔に現れていたその喜びを満たされたのである。
 数週間前、わたしはある西洋風の立派な日本人の邸宅を訪問した。その家の同宿者のひとりが熱心なキリスト者であった。わたしはどのように彼女がキリストに導かれたかを質問した。彼女は次のように説明した。彼女はまだ十五歳で女学生であったころ、バックストン師が彼女の住んでいた町に来られた。彼女はその集会に出席したが、話は何も解らなかったが、その顔にある輝きと喜びとが深く彼女を感動させ、主の救いを見いだすまでは決してやめないと決心するようになった、と。
 したがってわたしたちは救霊者としてまず自ら深く飲むことを求め、渇く罪深い男女にこの満足の泉を心ゆくばかり飲ませなければならない。わたしたちは人々があまりに利己的になるからと言って、この賜物を自由に提供することを遠慮してはならない。彼はこれを知ってこそ、初めて空虚な罪の楽しみと世俗の悲惨なわがままから離れることができるのである。

 三 力に対する願い

 『また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう。‥‥‥もし子があなたがたに自由を得させるならば、あなたがたは、ほんとうに自由な者となるのである』(ヨハネ福音書八・三十二、三十六)
 『自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない』(ガラテア五・一)

 世の中には安息や喜びなどに何の興味も感じない魂が少なくない。それらの人々の困難と必要とは、全く異なった方面に存在している。彼らにとっては罪の力がものすごい事実と感じられている。しかしそれは罪の自覚を意味するのではない。これは異教諸国にあっては特別にそうであって、十分教えられた魂でない限りは、罪の自覚のために圧倒されて赦しを求めるというような実例は極めて稀である。これは自然なことで、神の存在さえ知らなかった者が、神の律法を破ってその御心を傷めたというような感覚は持つことができそうに思われない。
 キリスト教国と称えられている国々では、この点は全く異なっている。数年前、わたしは神戸でひとりの英国人をキリストに導く喜びを経験したことがある。彼は深い罪の自覚のために悩んだ。彼のただ一つの叫びは「神に向かってこのような大罪を犯した者が、どうして赦されることができるか」ということであった。これは異教徒の場合と全然異なっている。彼らの叫びは『神様、罪人のわたしをおゆるしください』というよりも『だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか』ということである。
 罪人としての自覚はあとで起こることを記した。言わば魂はまず後ろに退くのである。彼は救いと生命と力と勝利とを与えられたあとで、神の国のことを教えられ、こうして初めて神の力だけでなく、彼の咎を赦して下さったその恩寵の大きさと深さとを悟るのである。あたかも昔の中風の病人のように、彼は力を求めて救い主のみもとに来た。主は『あなたの罪はゆるされる』と彼に仰せられた。
 わたしは誤解を招きたくない。わたしたちは初めから神に対する罪の大きさとその赦しの必要とを示そうと全力を傾倒する。この土台がなければすべては無駄なことになってしまう。これは主眼点である。ここを読んでおられる方の中には、わたしの言葉をさえぎって「それだからわたしたちが魂に信ずるように勧める前にまずキリスト教の真理について十分教え込む必要があるのだ」と言われる方があると想像する。それに対してわたしはいくらでも否と答える。主イエスは、良きサマリア人のようにそのままの状態で魂を救われるに違いない。
 罪の自覚の中には三つの段階があるように思われる。一、わたしたち自身に対する罪。二、他人に対する罪。三、神に対する罪。無知のために求道者の中にはただ最低の段階に達しただけの者もいるだろう。自分は憐れな酔っぱらいであり、肉欲の奴隷であることだけを知っているが、きよい神に対する罪については何もわからない。そしてたぶん自らが他の人々を地獄の悲惨に陥れていることについて、あまり気付いていないであろう。彼はただ自分が奴隷であることだけを知っている。わたしたちは、彼が霊魂の不滅と三位一体と神の聖と義と主の受肉降誕とそのご生涯と、死と甦りとの教理がわかるまで──すなわち神に対する罪についての理解を得るまで待たなければ、彼に救われるように勧めることができないのであろうか。そうではない。救いはどのように解釈してみても、それが真理の認識ではない。これは神の与えられる賜物であり、奇蹟であり、神のわざである。それは生命であって、これを受ける者のうちに働いて彼を上に向けさせるだけでなく、神の救いの力だけでなく、またその罪の赦しの恩寵の偉大さを示すほむべき光として導くようになるであろう。
 だれが神の御力を制限することができようか。神がご自身の賜物を、人が理解するまで与えられないとだれが言うことができようか。わたしたちはこのように言いたくない。神が求められることのすべては、憐れな罪人が信じ頼ることができるためにだけ必要な知識である。この知識を与えることはわたしたちの幸いな義務である。
 それなら、わたしたちがどうしたらキリストの与えてくださる自由がただ人々の慕うべきものであるだけでなく、また直ちに受けることのできるものだと信ずることのできるように提出できるかを学ばせてほしい。これを適切に提出するとき、眠っている囚人を呼びさますことができる。わたしはすでに何度かそれを見てきた。人々はそれができると信じないために求めないのである。わたしたちの仕事はその可能なこととその力とを示すことにある。
 トーレー博士のある集会に、無神論者の一群が邪魔するために入って来たことがある。集会の前にこのことを知らされたので、彼は開口一番まず聴衆に向かって質問を発した。すなわち、まずキリストを信じて罪と堕落の生涯から救い出された者は立つように、と言った。たくさんの人々がその声に応じて立った。そこで次に、無神論を信ずることによって、今まで放蕩無頼な生活を営んでいた者がたちまち生き返って有益な国民になったという者があれば立てと言った。ひとりも応ずる者がいない。ただ一人の黒人が立った。しかし彼は酔っぱらいで、よろめきながらそこから出て行ってしまった。
 わたしは幾度かこの例話を取って、この市の六十万の人々の中に、何かの宗教を信ずることによって色欲と酒の奴隷であった者、或いは絶望の中にあった者がたちどころに生まれ変わって救われたという者があるか、という風にチャレンジしたことがある。しかし二十三年にわたるわたしの経験で、偶像礼拝によって病気が治ったという者にはたびたび会ったが、罪から救われたという者はひとりとしていなかった。わたしのチャレンジに応ずるものがなかったのである。
 この自由はもちろん福音の真髄である。『その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである』。つまるところ、安息とか喜びとかいうものは、罪からの救いの結果にほかならない。わたしたちはすべてにまさって、傷つき縛られた者に、罪からの絶対的な即時の救いを提供することのできる者でなければならない。すでに示したように、その桎梏を愛している無数の魂がいる。しかし感謝すべきことには、その苦しさと痛さを悟り始めている魂もまた少なくない。このような者に対して、自由と力とに対する彼らの欲求に訴えることは、彼らを救いに至らせる効果があるのである。
 わたしたちがこの救いを提供する方法は、確実でまた力強くなければならない。わたしたちはこの救いが即座に得られるものであることを力説しなければならない。そして常に聖書の言葉を用いて押しつけなさい。これを説明し、これを例証して、最後にはまた聖句をもって迫り、これを握らせるようになすべきである。これだけが彼らに救いの知識を与えるものである。

 四 光と確信に対する願い

 『わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく‥‥‥』(ヨハネ福音書八・十二)

 主の御生涯を学んで、ことに聖ヨハネの福音書に記されたご教訓や奇蹟などを見るとき、主がいつもこの人心の本能に訴えられていることを知らされる。
 永遠の事実や死後の生命についての確信を得ようとして、多くの悩む魂が幽霊教や心霊術などの禁じられた領域に踏み込んで、永遠の破滅と恥との沼に迷い込むのである。この願いに対して、わたしたちは十分に訴えることができる。キリストは世のいのちであられるとともに、また光であられる。彼だけが未来の存在の果てしない暗黒の恐るべき不安を一掃してくださることができる。ただ彼だけがいのちと朽ちないこととに光を出された。もちろん、多くの者はこの道によって近づくことができないこともわたしは承知している。彼らは足下の糞土に没頭して光を受けようともしない。しかし感謝すべきことに、どこでも常に光と確信とを手探りしながら、魂の運命とその安全とを確かめてのみ与えられる平和を追い求めている魂がある。
 ここにもう一度あかしを持ち出したい。数年前、藤村操という優秀な学生が「人生は不可解なり」という一語を書き残して華厳の滝に飛び込んだために、日本中に衝動を起こしたことがある。世俗的な者は嘲った。しかし思慮ある人たちの間に尊敬と同情を起した。
 必要を知るようにさせるために、わたしたちはこの力ある武器を用いることができる。人の心の奥深く、永遠の生命に対する強い欲求がある。どのように仏教が涅槃と人格的消滅の教義を説いてこれを窒息させようとしても効果がない。
 ちょうど今日、わたしはひとりの同労者が三か月前にある福音未伝の町に天幕伝道を開いたときにキリストに導かれた仏僧から、次のような手紙を受け取った。彼はキリストのために非常な迫害を受けて、裸のまま家を追い出されてしまった。彼はその回心のあかしを述べて言う。

 「わたしは熱心なキリスト者である伯父伯母をもっていた。広島の学校に行っていたころ、その家にいたので、一年間日曜学校に行った。しかし仏僧の子であり自分も跡継ぎであったので、高等学校に通うようになってからは教会に行くことも許されなかった。住職になってからのちの有望な地位がわたしを喜ばせていた。わたしは哲学に深い興味を持った。そして他の青年同様、厭世観に捕らわれてしまった。仏教は実際は無神論であって、人格の消滅を教えるので、数年後、一つの事件のためにかかる極端な観念論に対する信仰が全く吹き払われるまではその教義に満足していた。
 わたしはこの世において、だれよりも愛するひとりの友人を持っていた。彼は突然病気に罹り、そしてわずか三時間のうちに死んでしまった。このできごとがわたしに非常な変化を与えた。わたしは哲学の研究に対する興味を失ってしまった。毎夜毎夜、友人のことを夢に見るのであった。昨日まで語り合った友人が、永遠に消え去ったということがあり得ることなのだろうか。彼はもはや生きていないのだろうか。彼の霊がどこかで生きていることを信じないではおられなくなった。考えれば考えるほどそう思われてくる。そしてこれを知ろうとする深い願いがわたしを捕らえた。インド哲学の研究はわたしの質問に何の答えも与えない。わたしはインド哲学こそどんな哲学にもまさって優秀なものと思っていたが、今はその信念がなくなってしまった。
 その時以来、わたしは疑惑の世界に生活した。そこでわたしは未来を教える真宗の教義を研究してみた。しかしそれも失敗であったので、次に法華経を学んでみた。この教義は、日本にある仏教各派の中でも最も奥ゆかしいものと言うことができよう。しかし一つもわたしの疑問に答え、わたしの心の欲求を満足させるものはなかった。人生の難問はついに永遠に解くことができず、ただ死だけがその解決の道であるように思われた。
 わたしは華厳の滝に飛び込んだ藤村操に深く同情した。幾度か彼のように自殺を思い立った。しかしその道からわたしを引き止めた唯一のことは、死後どうなるか、という思いであった。死は真に人生のすべての苦しみの終結であろうか。魂の死は肉体の死のように確実なものであろうか。霊魂が肉体を離れたとき、どこへ行くのだろうか。
 十年前、日曜学校でわたしの心に播かれた種がついに実を結ぶ時が来た。わたしが仏僧になろうとしてその生涯を選んだ時、すべての種はすでに全くふさがれてしまったと思っていたが、実はそうではなかった。雨と日光はついにこの芽を出させるようになった。わたしの仏教的訓練も哲学の研究も、春の前の冬のようなものであった。ついに春は来た。神がわたしの心に光を与えられたその無限のご恩寵のためにただ彼を讃美するのみである。彼は暗黒と罪より救い出してくださった。わたしの悲しみは逃げ去った。今年の三月二十一日、太陽はわたしの心にのぼった。再び没することはない。わたしは救われたのである。」

 知識は力であるとともにまた平和である。人々は自らの心の中には平和を得、一方ほかの人を導く力を得るために、神が自由に与えられるところのものを知る必要がある。
 であるから、わたしたちは早く、そのことが残酷な死の陰と暗黒にいる人々に確信と現実と知識の光を提供するものであることを学ばなければならない。

 五 永遠の生命に対する願い

 『神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである』(ヨハネ福音書三・十六)

 永遠の生命は、人の魂の最高の願いの一つであるが、なおそれに添えて、死と来るべき審判より救われたいという願いを含んでいる。
 わたしは今、この三つのものを一つにまとめて罪人に必要を知るようにさせる道としたが、実際にはそれぞれ異なった自覚として経験するものである。異教の国においては、来るべき審判についての概念は極めて漠然としている。仏教でいう地獄は、誇張された浅はかなもので、勧善懲悪のためにでっち上げられた方便と一般に考えられている。
 生ける神を知らない者には神に対する罪の感覚もなく、したがって、来るべき審判の教義に対して、合理的な反応を期待することは極めて困難なことである。もちろん求道者や回心者を教える場合に、神の怒りの恐るべき事実を強調することは極めて重要なことではあるが、しかしわたしは今、キリスト教の真理を未だかつて聞いたことのない者の中に、どのようにして必要を知ることを呼びさましたらよいかについて語っている。そこで、人を動かす方法として用いる他の二つの題目に移ることにしよう。
 人の心の奥底に、生命の永続に対する本能的執着がある。主イエスはしばしばこの条件の下に救いを提供し、この道を通して人々に届こうとされた。もちろんすべての人にこの道によって届き得るというのではないが、わたしたちの聴衆や求道者の中にはちょうどこの訴えに応ずる者が少なからずあるであろう。
 前に引用した若い仏僧のあかしは、この点にも当てはまるであろう。しかし、彼のように考え深い魂は極めて稀であって、永遠の生命に対する本能的欲求に対する訴えは、しばしば的をはずすことがある。
 一般的に言えば、死の恐れは、人々を覚醒する上においてより多くの場合に有効な、また都合の良い方法である。神は審判に至る道の道標としてこれを置かれた。『一度だけ死ぬことと、死んだのちさばきを受けることとが、人間に定まっている』。人々は知らなくても、死の恐れのとげは潜んでいる。わたしたちは死の事実を訴えの方法として用いることができる。死の恐れが異教徒の心にどんなに深く凄まじい事実であるか、もう一度あかしによって述べることにしよう。恐怖の王に対して、何の武装も用意もなく直面するということは、異教徒の心には実に戦慄すべき思想である。
 次のあかしは、のちに著名な聖徒となり、しばしば日本のフレッチャーと言われるようになった人の経験である。彼は確かに、世界中でわたしの会ったどの人よりもよく愛の使徒の霊を呼吸した聖徒であった。彼は次のように記している。

 「わたしは仏教の家庭に育った。わたしの母は熱心な仏教徒で、子どもたちを厳格な仏教の信仰によって教育した。母は、わたしが仏壇の前で偶像に礼拝し、香を焚き、念仏をとなえてこなければ、決して朝食を食べさせなかった。夕方には、もう一度家族の者が仏壇の前に集まって礼拝した。十八歳の時、わたしは大病に罹って死に瀕した。医師がもはや生きる望みがないといったので、母は、何か言い残すことはないかと尋ねた。わたしは死後にしてもらいたい二、三のことを遺言して、いっさいを運命と諦め、静かに横たわっていた。しかし、わたしはいざ死に直面という時にどうしても仏では満足できなかった。そこには現実性がない。この時まで、わたしは仏とその救いとで大丈夫だと思っていた。ああ、しかし、わたしには平安がない。
 極楽の幸福についてはよく説教を聞かされた。しかしわたしは少しも行きたくない。わたしにはその準備ができていない。そこにわたしの必要があった。わたしには満足ができない。もっと現実的なものがほしい。もっと心を満足させるものがほしい。わたしには死に対する勝利がない。しかしどうしてよいかわからないので、ただ静かにしていた。
 これが異教徒の今日の状態である。彼らは暗黒と死の陰とに座している。彼らは神なしに死んでいく。わたしは死を待った日のことを忘れることができない。このように死に直面することは恐ろしいことである。神が大きな憐れみをもってわたしの命を保ってくださり、ついに見いだして永遠の救いにあずからせてくださったことを、何と感謝してよいかわからない。」

 おお、このあかしがわたしたちの心を刺して、まだ福音を聞いたことのない人々の胸中にある悲惨が何であるかを理解させ、暗黒と死の陰にいる人々に生命の福音を提供するための励ましとなりますように。
 わたしは異教徒が死に直面する時、その心の中に抱く悲惨を示そうと努めてきた。しかし一方、わたしたちはキリスト者の死の床においての幸いな勝利をも示して、魂を覚醒するために更に力を尽くさなければならない。偶像教徒が死に臨んだ時に来る暗黒の大きな恐怖は、キリスト者が世を去る時に受ける光によって、更に恐るべき状態が曝露される。
 わたしはかつて十五歳の少女が結核のために死に瀕しているところを訪問したことがある。わたしはその光景を決して忘れることができない。彼女は残酷な病に苛まれて、見るかげもなくやせ衰えている。苦しそうな咳を続けたあと、わたしのほうに向き直って輝いた微笑を浮かべながら言った。「おおうれしい、うれしい、たまらないほどうれしい」と。「何でうれしいのか」と問えば、「主イエスさま、主イエスさま」と答え、そして苦しい中で「いえすのほかひとりもなし」と歌おうとするのである。しかし一句を歌ったあと、激しい咳が出るので続かない。未信者の医師が「少し気が違ったのでしょう」と言う。わたしは「いいえ、いいえ、気が違ったのではありませんよ。心が違ったのです」と答えた。近所の人たちは、この小さな聖徒が栄光に輝いて王の前に出る姿を見せられたのである。
 確かにキリスト者の勝利の死は、キリスト教弁証論の栄光ある一部であって、眠っている罪人を呼びさます力がある。これにより、自分を聖徒とする永遠の救いを渇き求めるようになるであろう。
 わたしはこの章において人の心を覚醒する四大方法を指摘し、主イエス・キリストの救いがこれらの人の心の大きな必要と本能を満足させることのできるものであることを述べて来た。
 これらは、すべての国、すべての場所、すべての時代において、きのうもきょうも、永遠までも変わりなく、時の続く限り、罪人のいる限り、すべての者の中にある必要である。何者もこの堕落した人性の恐るべき事実を変えることはできない。したがってわたしたちはこれに全力を傾倒し、これを生涯の重荷とすべきである。
 神はわたしたちを祝し、わたしたちの報いとして魂を与え、わたしたちの冠に星を与えられるであろう。こうして貧しい者、心の傷める者、囚人、盲人、圧迫される者は、恵まれ、包まれ、癒されて、主の救いを受けるようになるだろう。
 


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