第八章 罪を知ること


 
 『すなわち、彼らは、あらゆる不義と悪と貪欲と悪意とにあふれ、ねたみと殺意と争いと詐欺と悪念とに満ち、また、ざん言する者、そしる者、神を憎む者、不遜な者、高慢な者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者となり、無知、不誠実、無情、無慈悲な者となっている。彼らは、こうしたことを行う者どもが死に価するという神の定めをよく知りながら、自らそれを行うばかりではなく、それを行う者どもを是認さえしている』(ローマ一・二十九〜三十二)

 わたしたちは前章において、人類の憂いと痛みと悲惨について聖書の語るところを述べてきたが、本章は、人類の罪と愚かさと反逆に対する神のみことばをもって始めよう。
 主イエス・キリストの福音は二つのことを獲得する。すなわち、一方には人類の祝福と救い、他方には神の栄光である。したがって、前章で指摘したように、一方では憐れな飢えた男女に神の救いのすばらしさ、麗しさを示すとともに、一方きよい神に対する罪の恐ろしさと憎むべきことを知らせる必要がある。
 この両側面を提示することについては、いわゆるキリスト教国と異教諸国との間には違っている点のあることを注意しなければならない。チャールズ・フィニーのリバイバル講演集を読んで気がつくことは、いかに彼が福音の引きつける力について述べることが少なかったか、ということである。もちろん、それについて語らないわけではないが、説教の矛先は、主として神の憐れみ深いご提供を拒みさえぎり逆らう罪に対して向けられている。
 長い間キリスト教について教えられている人々は、神の恵みと祝福とについては十分承知しているはずであるから、神に対する罪こそ、最も力説しなければならない点である。しかし異教諸国ははるかに異なった事情の下にある。神の恵みを拒む罪を語る前に、その提供された恵みが何であるかを知らされなければならない。深い意味での罪の自覚を得る前に福音の恵みが提供され、彼らが必要を感ずるようにさせられなければならない。しかし、わたしは急いで付け加える。罪の自覚がなければ、永久的な救いの経験は得られるものではない、と。一般的に言えば、まず人を天に向けるものは必要を知ることというのが普通であるように思われるが、しかししばらくすればそれによって自他を傷つける罪、またきよい正しい神に対しての罪の自覚に変わって来なければならない。
 これなしに真の敬虔はあり得ない。この基礎的要素を缺くすべての回心は偽物である。それほど経たないうちに『犬は自分の吐いた物に帰り、豚は洗われても、また、泥の中にころがって行く』ようになるであろう。
 この仕事は、単に必要を知らせることに比べれば、非常に困難である。それは、彼らが反逆しているお方のご存在とご性質とその義とについて全く無知だからである。したがって、「罪」と言ってもキリスト教の言うような意味と内容がないのである。
 わたしたちが罪の自覚を起させようと努める時、道徳的腐敗や放蕩や悪癖や罪悪など、強い言い方をすることはある程度は仕方がない。わたしたちはこれを詳しく説いて忠実に取り扱わなければならない。しかしそれはわたしたちの主眼点ではない。罪の当然の、しかも恐るべき性質は、神との関係を破った点にある。わたしたちはすでに述べたように、単なる悔改でなく、神に対する悔改を伝えるように任命されている。罪の真髄は、人の神に対する反逆と、神に遠ざかったこと、神を憎むことにある。これが「世の罪」である。そのほかのものは、この悪い木から出た実に過ぎない。わたしたちの仕事は聖霊によってこの「世の罪」を悟らせることにある。
 少しも光を持っていない異教徒の心を呼びさましてこの罪を悟らせることは容易でない仕事である。しかし、事実はそれほど困難でないことを知るようになることを希望したい。
 わたしは他の場所で、神の存在とその創造者であることの真理を説く方法に注意を要することを指摘した。人の頭脳に訴えるこのような説教が聴衆の心に何の反響も起さず、豆鉄砲で軍艦の横腹を撃つようなものであることを見せられて来た。単なる知識は人を動かすようにはならない。単なる教訓は人々を罪に目ざめさせることはできない。冷ややかな論理は霊の火を点ずることができない。理論は心を砕かない。こうしたことは何度繰り返してもなお足りないことを感ずる。
 わたしは極めて単純な二つのことを提案したいと思う。一つのことは、神について悟ることなしに、真実の深い罪の自覚は起こらないということである。したがって、異教徒に真理を説こうとする場合、神のご性質とそのご要求とについて知らせるということは極めて重要で、これ以上に大切な問題はないと言ってよいほどである。第二は、この真理を提唱する目的は罪の自覚を起させるためである、ということである。
 ローマ人への手紙一章において、パウロは回心していない心の被いを剥ぎ取って、四つの戦慄すべき姿を示している。すなわちくらまされた心、言うことの出来ない欲望、不自然な情欲、さまざまな罪の行為である。しかし使徒は、これらがただ結果であって、原因でないことを告げようとしてたいへん苦しんでいる。原因として彼の指摘していることは次のとおりである。
 一、神を知っていながら、神として崇めず、感謝もせず、二、神の栄光を変えて、朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せ、三、神の真理を変えて虚偽とし、四、神を認めることを正しいとしない、と。したがって、罪の自覚がどんなに恥ずかしいことであっても、それは結果ではなく、その原因の暴露である。
 放蕩息子のたとえ話の中にもちょうど同じことを見いだすことができる。彼が遠い国で犯した罪と不義とについて多くを語らない。それはただ一言で尽くされている。ただその原因と最大の罪とが描写されている。それは彼の父に対する罪である。彼は父の愛を蔑み、その権威を嘲り、その涙を顧みず、その名を汚し、その忍耐を嘲り、その持ち物を浪費した。これこそ彼の罪であった。そのため彼が恥じ砕けて家に帰ったとき叫んで言ったのである。『父よ、わたしは天に対しても、あなたに向かっても、罪を犯しました』と。
 わたしは経験上から、このたとえ話の説明は人に罪を悟らせるために最も有効な道であることを発見した。ここに最も深い哲学がある。しかも幼児でもわかる単純な道で述べられている。
 聖書で罪を示すために用いられる一つの言葉は「不信仰」である。これは広くかついっさいを含む言葉である。これは神を拒むこと、すなわちその愛とその要求とその真理とを拒絶することを意味する。これは彼が、生き、愛し、顧み、求め、救い、祝し、守り、そしてわたしたちを喜びに満たして永遠の祝福に至らせようとなされるいっさいの恵みを全く拒絶することを意味する。これはその反逆の総計である。これからいろいろな悪が生じてくる。そしてこの罪こそ、わたしたちが聖書によって人々を呼びさまさせるために任命されたところのものである。
 回心してから数年を経た信者に、その最初の罪を知った経験を聞いてみると、彼らはその必要だけでなく、その罪を自覚して救いを求めるようになった場合でも、自分の心を分解することはできない。それは確かに神に対する罪ではなかった。また自分や他人に対する罪と言うこともできない。彼らはただ本能的に悪であると知っているところをなしたことを悟ったもののようである。神の律法は彼らの心に記されている。たとえ立法者についてまたく無知であるとは言え、しかもその誡めの痕跡を認めることができる。それはどんなに迷信のために抹殺されているとは言え、なおその良心の声に背いたことに対しあかしをなすものである。
 求道者がその初めにどんなに罪について幼稚な考えしか持っていないにしても、わたしたちは失望する必要がない。彼等がその心に記された神の律法を破ったということを悟っただけでも満足しなければならない。『父よ‥‥‥あなたにむかっても罪を犯しました』『ただあなたに罪を犯しました』ということは、あとに来るさらに深い経験であろう。神の律法を破ったという自覚は、彼らが救い主の足下に来て十字架の意味を悟るようになる時、神の破られた御心に対する自覚に所を譲るようになるであろう。マルティン・ルターはかつて言った。「わたしは、イエスの傷から学ぶまで、真の悔改を知らなかった」と。罪人であるとの自覚は、多くの場合、あとに来るものである。
 前に述べた若いユダヤ人の悔改は、この点を適切に例証すると思われるので、ここにそのあかしを紹介することにしよう。

 「この間、イエスはわたしの心には、単にユダヤのメシア、長く待っていたイスラエルの望みとだけ理解していた。しかしわたしは彼を個人的に信ずるようになった。わたしは彼を人類の偉大な医者、慰め主として見るようになり、わたしの乱れに乱れた心にとって、来なさいという彼の恵み深い招きは、なくてならない安息の港であると感ずるようになった。
 救われた初めの間は、キリストは安息のない者に安息を与え、悲しみの満ちているところに喜びを与えられる大いなる慰め主、また重荷を負って下さるお方としてわたしの魂に示されていた。しかし時の進むにつれて神のきよい言葉の光のもとに、神の御前における自らの罪の深いことときよくないこととが暴露され、こうして自己の姿が見えるとともに、主イエスの新しい方面が見えて来た。わたしはかつてないほど彼が世の罪を取り除く神の小羊にいますことを明らかに示され、カルバリの十字架の意義があざやかとなり、わたしをあがなったその価値がどんなに偉大であるかを悟るようになり、わたしの心はわたしを生かそうとして死んで下さったお方に対する讃美と感謝に溢れることを覚えた。主イエスの中に見いだしたこの罪のための身代わりは、単なる重荷を負い慰めを与えるお方として、無限に尊いものであった。それによってわたしをあがなって下さった血の真の値打ちを深く知るようになった。」

 彼の罪の自覚は、彼が必要を知ることとキリストに対する信仰とに追従して生じたものであった。異教諸国においては、多くの場合これが実際的経験の順序である。新生の力をもって聖霊が人の心に臨まれるとき、彼の臨在の安息と慰めとともに、また罪の深い自覚を与えるものである。しかしわたしたちは初歩から始めなければならない。まだ罪の自覚のない魂も懇切に取り扱わなければならない。
 それならばどうすれば、真実の悔改を人々に与えるような真理を提出することができるだろうか。わたしは全く無知な魂に四つの単純な方面を示すことが有効であることを経験して来た。一、自己を傷つけるものとして、二、他人を傷つけるものとして、三、神の律法を犯すものとして、四、神の御意を痛めるものとしての罪の真相がそれである。

 一 自己を傷つけるものとしての罪

 『わたしを失う者は自分の命をそこなう』(箴言八・三十六)

 一般的に言えば、人が罪を悟るのは自己に及ぼす結果を通してである。何度も何度も多くの男女が『罪の支払う報酬は死である』というようなみことばによって深く罪を知るのを見た。神について全く無知で、したがってその律法について何も知らない者が、このみことばを彼らの心に適用することによって聖霊による深い罪の自覚に至らせられる。これが長い年月の経験を一つにまとめた総括的な結論であるように思われる。すなわち人々はまず罪そのものよりも罪の悪い結果に目ざめさせられるのである。
 数年前、わたしが奉仕していた町に、ひとりのかわいそうな青年がやって来て、罪悪と放蕩に身を沈め、その持ち物を浪費し尽くし、ついには誰一人頼るべき友もない孤独の身となり、この上はただ自殺以外にその困難をのがれる道がないと思うようになった。そのため、彼は妻と三人の子供を殺し、自分もまた自殺しようと決心した。彼がその眠っている子供ののどに刃を突き刺そうとした時、その子供が眠りながら笑ったのを見て、思わず心おくれしてその決心を思いとどまり、今度はわずかの持ち物を売り払って、妻と子供のために切符を買って郷里に送り帰し、そして自分だけで死のうとして家を出た。ところが、思いがけなくわたしたちの天幕集会場の前を通り、何ということはなくその中に入り、入口の腰掛けの一つに腰を下ろした。彼の耳に最初に入った言葉は『罪の支払う報酬は死である』というのであった。彼はその顔を両手の中に沈めて説教の終わるまですわっていたが、一言も耳に入らなかった。神の武器庫から出た矢が彼の心を刺し通したのである。この神の鋭い矢によって聖霊は彼に罪を悟らせ、その自殺の道をとどめられた。しかしながら、彼はキリスト教の初歩の要素さえ全く知らないのである。説教者は彼が苦しんでいるのを見て、自分の説教が彼に光を与えたことを期待しながら近づいて行ったが、彼の心にも頭にもこの聖句のほかに何も入っていないのを見て、すっかり失望してしまった。深い忍耐と同情をもって説教者は彼の身の上話を聞き、そして真理を解き明かし、彼を救い主に導いた。彼は以来数週間、毎夜集会において多くの群衆の前に、彼が罪と死と地獄から救われたことをあかしすることを喜んでいた。しかし彼は、神とその律法とに対する罪の深い意義についてはわきまえていない。ただ彼は、罪が彼を滅亡の絶壁の先端にまで引きずって行ったことに気がついたのである。しかし、それは彼を神と救い主に来らせるのに十分であった。
 したがって人々に罪を知らせようと思う時、わたしたちはそのものすごい結果を強調する必要がある。『わたしを失う者は自分の命をそこなう』。ふつう何も知らない異教徒に対しては、こうした方法をまずなすべきであり、またその心に届くために非常に有効であることを見せられて来た。しかしながらここにも一つの重要な問題を付け加えることを急ぎたいと思う。求道者がここまで導かれて来たら、わたしたちは彼に罪の報酬がただ死であるということだけでなく、また神との永遠の離別であることも示さなければならない。罪は分離させるものである。わたしたちはここまで目ざめた者に、さらに深い意義を示す機会を取り逃さないように注意しなければならない。わたしたちはこの幼稚な概念を踏み石として、更に徹底した自覚へ導くように心がけなければならない。このような悔い改めた者をなかば照らされたままにして置くことは、非常に陥り易い過失である。わたしたちはそのような苦しみを利用して、罪が神に対する反逆であり、神とわたしたちを別つもの、贖いの犠牲を要するものであることのさらに深い意義を示す立場にあることを忘れてはならない。

 二 他人を傷つけるものとしての罪

 『わざわいなるかな、血をもって町を建て、悪をもって町を築く者よ。
  わざわいなるかな、おのれに属さないものを増し加える者よ。
  わざわいなるかな、その隣人に怒りの杯を飲ませて、これを酔わせ‥‥‥』(ハバクク書二・十二、六、十五)

 わたしたちは罪人の心にある他人を利することなく、他の方法で罪を悟らせることができる。すなわち、わたしたちは彼らの罪が他に及ぼす結果を指摘するのである。多くの人々は、彼らの罪深い生涯が、妻子を悲惨な状態に陥れていることに気がついて救いを求めるようになった。聖書には、罪が他を傷つける力について多く記されている。事実、主な結果はその方面に現れてきた。悪い木はその実によって知られる。したがって、わたしたちは人々の悪がどんなに残酷な荒廃をその周囲にもたらすものであるか、鋭い言葉をもって描写し、彼らに罪を悟らせるように努めなければならない。
 数年前、ひとりの人が非常な苦しみをもってわたしたちの伝道館に来て、わたしたちの宗教が彼に助けを与えることができるかを尋ねた。質問しているうちに彼は非常な短気者であることがわかった。その前日、彼はほとんどその妻を殺すところであった。もし近所の人がこれを止めなかったら、彼は殺していただろう。その怒りが静まったとき、彼がどんなに危険なところまで行っていたかに心づき、急に恐れを感じて救世軍に行くつもりで出かけた。そこで助けを得られると思ったからである。そして、わたしたちの伝道館もその支部だぐらいに思って来たわけである。感謝なことに、たまたま居合わせた伝道者が、彼がもしキリスト教について何も知らなくてもすぐに徹底的に救うことのできる救い主に導くことができた。それは数年前のことであるが、今日もなお彼とその妻は、シオンの道に熱心に働いている。罪がわたしたちを救い主に導くことは真実である。
 ここにもわたしたちは更に高い真理への踏み石を持っている。ひとりの人が、罪の他人に及ぼす恐ろしい害悪に目ざめた場合、それが更に恐ろしい意義を持っていることを示すことは決して困難ではない。わたしたちは悔い改めた者がなかば照らされて止まってしまうのを許さず、その機会を失うことのないよう警戒を要する。このような好機はまたと到来しないかも知れない。このような機会は利用しなければならない。再び繰り返して言う。わたしたちに、罪の分離の力を示し、神と魂との間に永遠の障壁を築くものであることを示すことをなさせて下さい。これが取り去られるまで、神との和合も一致もないのである。

 三 律法を破るものとしての罪

 『父よ、わたしは天に対して‥‥‥罪を犯しました』(ルカ福音書十五・十八)

 前に述べた罪の二つの方面の研究は、更に高いまた完全な研究への飛び石に過ぎないことを見てきた。神のみことばに示された罪人とは、人類の心と良心に記された神の律法を犯すことである。この点が明らかにされるまでわたしたちは休んではならない。わたしたちはたちどころにこれを見ないでも失望する必要はない。しかしいかにすみやかに、聖霊は全く無知な異教徒の心にも、或いはくらまされていたとは言え、その心に記された神の律法を犯したことを悟らせて罪を認めさせられるかを見て、驚かされて来た。わたしはたびたび、罪が自分や他人に及ぼす結果について認めず、また神の律法を犯したことも悟らない魂でありながら、また彼自身十分に言い表すことができないとは言え、道徳的罪悪に対して強烈な認罪をしているものを見て来た。もちろんこのような魂に、聖書に従い神とその律法とに対する罪の真理を明らかにすることは極めて容易である。
 昨年、わたしは百五十人ほどの信者が一週間集まる一つの小さな修養会で話をした。会衆の中に、一人のキリスト者の兄弟で、非常に無知な農夫がいた。彼は書くことも読むこともできない。彼はキリスト教についてかつて聞いたことがない。そこで「聖霊のバプテスマ」「安息日の休みが神の民のために残されている」というような題名の話からは何の益も得られそうもない。しかし第二日の集会のあとで一同に祈らせたところ、彼は非常な苦しみをもって祈りだした。彼の祈りは次のようであった。「おお神よ、わたしは全くあなたを知りません。わたしは読むことも書くこともできません。わたしは今まで祈ったこともありません。しかしどうかわたしの叫びを聞いてください。わたしは公の席で告白することもできないような大きな罪を犯しています。しかしわたしを憐れんでください」と。
 次の日、わたしが「第二の安息」についての説教を終わったあと、彼は非常な心のもだえをもってわたしの立っていた所までやって来た。彼は霊に憑かれた者のように倒れ伏してもがき苦しんだ。玉のような汗が彼の額から滴り、その苦悶は見るに堪えないほどであった。三人の者がやっと彼を静めた。わたしは罪人が義なる審判者の前に出る審判の日もこのようであろうかと思った。彼は教会の別室に連れて行かれ、一時間半ののち、贖いの主の血によって安息を与えられた。彼はキリスト・イエスにある新しい被造物として家に帰った。彼の老父はその変化を見て驚き、自分の息子の神を自分も信ずると言った。村中の者も、キリスト教の神がえらいことをしたと評判をしないわけにいかなかった。
 わたしは聖霊のお働きの早いことに驚かされた。この人はその心に記された神の律法を犯したことについて強烈な認罪を持ったもののようであった。それは普通の必要を知ることによって救い主に来たものではなかった。キリスト教の真理について教えられた人々の間にだけ期待することのできる鋭い罪の自覚によるものであった。
 このような例が稀であることは知っている。しかし、上より聖霊が注がれた時、祈りの答えとしてあり得る栄光あることである。
 どんな場合においてもこれがわたしたちの目的である。深い満足のある経験が確かめられる前に、律法を犯す罪の真相についての理解がなければならない。ユニテリアンは、天の父はその子どもたちを赦すのに贖いを必要とせず、身代わりの犠牲がなくても罪を赦すことがおできになるという。もし罪が父の御心を傷めたというだけのものならばそうも言えるだろう。もちろん罪はそれに違いないが、またそれ以上である。それは正義の永遠の法の破壊であり、天の主権に対する侮辱である。したがって、贖いの真の価値を悟る前に、神の律法を破る罪の性質についての深く徹底した自覚がなければならない。

 四 父の愛に対する罪

 『父よ、わたしは‥‥‥あなたにむかっても、罪を犯しました』(ルカ福音書十五・十八)

 わたしたちはいま、最も深い、また心を探る罪の一側面を考えようとしている。わたしたちは、罪がただ神の律法を破るだけでなくまた神の御心を破るものであることを見いだすのである。放蕩息子のたとえ話には、驚くほどの簡潔さの中にこのことが例証されている。この話は、父の事実をもって始まっている。もし彼を取り去るならば、あとは抜け殻である。もし放蕩息子に立ち帰るべき父がなかったならこの話は成り立たないのである。立ち帰る目標がなかったら、誰に向かって悔い改めることができるであろう。この話の真髄は、父とその愛である。父の存在の証拠を求めるのは冒瀆に等しい。子があることは父がある証拠である。これは常識的に考えても明らかなことであるが、世の中には神の存在を拒否するか、または神の創造された世界の外にいるかのような、賢明そうな愚人の夢物語を喜ぶような者のいることも事実である。
 『神を知っていながら、神としてあがめず』(ローマ一・二十一)息子は父を知っていても、父としてあがめることをせず、ただその持ち物を求めて行ってしまった。人は神を求めない。しかしわたしがいつも繰り返しているように、もしこの天の父の美しい概念を真実とすることができなくても、とにかくそれを信じなければならない。ああしかし、事実はどうであろう。この放蕩息子のように、実際、人はこのようなことを信じようとはせず、かえってその持ち物だけを愛しているのである。
 人々は感謝することをせず、欲は深い。『民は座して食い飲みし、また立って戯れた』(出エジプト三十二・六)というのが異教の特質であるが、これはまた放蕩息子の特質でもある。彼らはただこのような考え方で生活する。彼らにとって神々は、自分の便宜のために使用しようとしているものに過ぎない。何かを与えるものを信ずるのである。礼拝者はただ物を得ようとして祈る。神々は自分のことを顧みなければならない。
 異教の事実は、この話の中の放蕩息子の罪と正確に符合する。もしそうでなければ単なる想像と言うこともできようが、しかし実に真理を表していることを知るとき、その半面の最も美しい側面、すなわち愛の父が天におられるということもまた事実でなければならない。
 踏みつけられた愛は、地上において、おそらく最も残酷なものになるだろう。これは赦すことのできない罪である。弱いということより悪く、欲よりも、虚偽よりも、その他のあらゆる罪より悪い。愛に反抗する罪、その涙を謗り、その心痛を嘲る。これはいっさいを越えて野獣的であると言える。拒絶された愛は、悪の絶頂である。そしてこれが放蕩息子の罪である、また人類の罪である。
 わたしはテトスへの手紙三章やヘブル人への手紙二章に記されたところにしたがって、神の愛の性質について、「親切」「愛」「憐れみ」「恵み」の四方面から学ぶことが有益であることを見いだして来た。
 一 忍耐の愛(ローマ二・四)。罰することをためらって、恵み深くあるよう待つ愛、望むことのできないところをなお望んで、正義の刃をしばしとどめるもの。
 二 犠牲的愛(ヨハネ三・十六)。最も悪く、最も忌まわしいもののために、最もよく、最も輝くものを与える愛。
 三 実行的愛(テトス三・五)。新生させきよめるために、新生の力を備え聖霊を与えられる愛。
 四 義とされる愛(テトス三・七)。義に悖ることがないように、苦しみ、血を流し、死し、そしてすべての約束をして、全能の神の御言葉として永遠に変わることがないようにした愛。
 わたしは放蕩息子が『天に対しても、あなたに向かっても、罪を犯しました』と帰ってきた様子を見るとき、預言者の言葉を思い出す。

 『天よ、聞け、地よ、耳を傾けよ、
  主が次のように語られたから、
  「わたしは子を養い育てた、
  しかし彼らはわたしにそむいた。
  牛はその飼い主を知り、
  ろばはその主人のまぐさおけを知る。
  しかしイスラエルは知らず、
  わが民は悟らない」』。(イザヤ書一・二、三)

 『「天よ、このことを知って驚け、
  おののけ、いたく恐れよ」と主は言われる。
  「それは、わたしの民が、
  二つの悪しき事を行ったからである。
  すなわち生ける水の源であるわたしを捨てて、
  自分で水ためを掘った。
  それは、こわれた水ためで、
  水を入れておくことのできないものだ」』。(エレミヤ記二・十二、十三)

 以上二つの場合とも、神は父の愛を拒み侮る、すべての悪事の中で最も非人道的な罪のため、天を呼んであかしされる。放蕩息子が、「わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました」と叫んだことは、それほど不思議なことでもない。
 この最も霊的な深い罪の概念については、聖書の真理を多く教えられていない人々の間で見いだすことはほとんど稀である。しかし、そこには著しい事例もしばしば見いだされる。ここにその一つがある。
 数年前、わたしは田舎の未伝地を開こうとして一つの町に行った。ここではかつて福音が一度も語られたことがなかった。わたしはそこで十日間の集会を持ったが、初めの夜、放蕩息子の話をした。次の朝、十九歳くらいの娘がその叔母と一緒に面会を求めてきた。彼女が目ざめた熱心な求道者であることを知って、聖書を学ぶために二時間も費やした。そして最後にヨハネによる福音書三章十六節を開いたが、彼女はそのすばらしい真理の前に泣きくずれてしまった。わたしは後にも先にも、このような幼い魂がこれほど感動したのを見たことがない。彼女は美しく単純に主イエス・キリストによるこの神の賜物を受け入れ、神の約束に安心して家に帰った。主はたちまち彼女を用い始められた。集会が終わった翌朝五時頃、彼女の老父がわたしを訪ねて来た。わたしはたぶん別れのために来たものと思った。しかし、彼は娘の受けた喜びを得ようとして来たのであった。娘の話してくれたところに夜と、彼はその前夜一睡もせず、もう起きて喜びを得るために行った方がよいのではないかと聞いたそうである。感謝なことに、彼はその朝それを得た。そして数年間、主のために幸いな奉仕をなし、喜んで天の御国に昇ったのである。彼はこの少女によって導かれた最初の魂であった。彼女は今も主の豊かな愛を証しし、罪人を良き羊飼いのもとに導いている。
 私はここでこの章を終わりとしたい。今まで述べたように、かつて何も知らなかった異教徒が、キリスト教について一、二回聞いただけで、罪を自覚し理解し信ずるようになるということは、非常に不合理なありそうもないことと見えるかも知れない。しかし、聖霊によって備えられた魂にとっては、放蕩息子のような話によって真理を示すとき、生ける神に対する罪を真に悟るために決して多くの時を必要としないことを見いだして来た。
 もう一度繰り返して言わせてもらいたい。不信仰の罪は、すべての罪の中で最も恐るべきものである。『それ(聖霊)が来たら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう。罪についてと言ったのは、彼らがわたしを信じないからである』(ヨハネ十六・八、九)。ほかのすべての罪は赦されることができるであろう。しかし不信仰の罪、すなわちキリストによる神の愛の拒絶、罪の唯一の癒しの道を軽んずることは最大の罪であって、もし拒み抜く場合は、もはや赦されることはない。
 人々は罪を犯したため、或いは十戒を破ったために、いま地獄にいるのではなく、唯一の罪の赦しの道を拒絶したためである。世の罪というのは、神を拒絶したことである。人々は、神が罪の子らを愛し、顧み、祝そうとして待っていて下さることを信じようとしない。彼はただ信ずる者に直ちに答えようとして待っておられるのである。
 「正義の人々は今日その罪のために苦しむことはない』とひとりの著名な科学者が語った。もしそれが真実なら感謝すべきことである。わたしたちは救い主に至る賢い者であるために、世の人の目に狂人と見え愚人と思われることに甘んずるものである。ああ、このようないわゆる正気の者こそ、善でも悪でも、自らなしたことに従って審判を受けるかの日に、全く狂人であり馬鹿者であることが明らかにされるであろう。
 


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