『彼らが罪のゆるしを得、わたしを信じる信仰によって、聖別された人々に加わるためである』(使徒行伝二十六・十八)
イエス・キリストの働き人としての最高の仕事は、死んでいる魂に永遠の生命を与えるために、主の御手のうちにあってその器となることである。
使徒パウロに授けられた大いなる任命を検討して、とがと罪とに死んでいる罪人を目ざめさせ、照らし、回心させる働きについて学んできた。しかしこれらのすべてのことは主な目的への単なる入口に過ぎず、魂に神の賜物を受けさせるための準備にほかならない。
主イエス・キリストの救いは罪よりの救いである。そしてその中にはすでに指摘して来たように四つの異なる意義がある。すなわち、その有罪であること、その行為、その習慣、その性質である。これらのいっさいよりの完全な救いを主イエスは備えて下さったのである。したがって、この救いがまずわたしたち自身に、そしてまたそれを聞く者に十分に了解されるまでは安心してはいけない。
他の言葉を用いるならば、神の御子によってわたしたちのために得られた救いとは、まず神と人とに対してとがめのない良心を持つことであり、第二は、聖霊によって新たにされた心を持つことである。これは義認と聖潔である。それは罪のゆるしと新生を意味する。この二つの幸いな神の賜物は、経験としては同時であるとしても、その事実と意義においては全く異なっている。前者は犯した罪とその罰とを取り扱うものであり、後者はその習慣と状態とにかかわっているものである。
したがって、わたしのこれから述べようとすることを、罪のゆるしの四項目としてまとめることは了解を助ける方法であろう。
一 罪の責めよりの救い
『神に対し‥‥‥良心に責められることのないように』(使徒行伝二十四・十六)
チャールズ・フィニー教授は、そのリバイバル講演において、説教者は人々の良心に訴えなければならないことを強調しているが、それは当然のことである。一例を挙げよう。
「説教者は人々の注意を喚起するためにある程度まで感情に訴える必要もある。しかしそのあとは必ず彼らの良心に迫らなければならない。感情に訴えるだけでは罪人を回心させることはできない。もし説教者が感情だけに訴えるとしたら、人々を興奮させることはできても、感情の波は全会衆を浮き立たせ、ついには偽りの希望を持たせるようにしてしまう。健全な回心をさせる唯一の道は良心を取り扱うことである。もし注意がゆるんだと見たら、感情に訴えてこれを引き立てるがよい。しかしほんとうの仕事は良心に対してなされなければならない」と。
このように回心において重要であることは、救いにおいても同様である。わたしたちの取り扱わなければならないのは人々の良心である。目ざまされ、罪を知った者に対しては、その良心に安息を与えるように導かなければならない。その心は変わらなければならない。しかしその前に傷つけられた良心は主イエスの傷によって癒されなければならない。
ここで道を誤りやすいのである。良心は、うっかりすると悔改や弁証や改革によって満足してしまう。それらのことも、人に対しての良心のとがめを除くためにそれぞれ必要なことではある。しかし、神に対する良心のとがめを除き去ることはできない。
神に向かって良心のとがめがないということは、単に罪の意識がないということだけではない。それももちろん必要なことである。『たといわたしたちの心に責められるようなことがあっても、神はわたしたちの心よりも大いなるかたであって、すべてをご存じだからである」(第一ヨハネ三・二十)。しかし心にとがめがないということが真に神に向かって良心のとがめがない状態とはならない。そう考えることは途方もない間違いである。いかに多くの人々が、隣人に対する実際上の悔改や、また時には、犠牲や謙遜の価を払って良心のとがめを取り去りつつも、なお神に向かって良心のとがめのない状態から生ずる、思うところ願うところにまさる平安を得ていないことであろう。それはただ主イエスの血によってのみ得られるものである。罪のゆるしによって良心の安息は来るものである。わたしたちの栄光ある仕事は、人々をここにまで至らせ、ただ罪のあるままに来る者を救ってくださるキリストに連れて来ることである。
しかしこれは最も難しいことである。人々は良い決心、熱心な努力、新生涯に入るという約束によってキリストのもとに来るが、その罪をもって、へりくだりと率直な罪の告白をもって来ることを好まない。これはすべてにまさって、人々の嫌うところである。しかしこのほかには道がない。主キリストはただ罪人を救うために来られたのである。わたしがいつも求道者に語っているように、もしその人が罪人でないなら、この世においても永遠においても救われる望みはないのである。
もしわたしたちがこのように人々をキリストに導くことに成功したとしても、彼らの罪を救い主と共に残して置かせることは更に難しいことである。彼らは何度か来て、その重荷を自分から取り返すのである。彼は信じても喜びも平安も得られないことを不審に思って、主のみもとにいっさいを永遠に置き去りにすることができないのである。別の言い方をすれば、罪人を導いてキリストの血に対する確信に至らしめることは、救霊者にとって最も困難なことである。血潮を差し置いて、その代わりに自分の努力や決心や骨折りや悔改や献身などを持ち出すことは、聖霊を憂えしめることで、憐れみ深い神が備えて下さったこの最高絶対の癒しの道を受けるまでにはならないのである。もしそこにあがないの教理に対する知的理解があっても、キリストとともにその心が閉じ込められるまでは、良心の呵責はただ鈍くされただけで、善でも悪でもそのなしたことに従って審判を受けるかの日に、良心は再び悔やんでも間に合わない苦悶の中に目ざめるであろう。ジョン・ウェスレーが魂の安息を求めていた時に、ドイツにおいて、アービッド・グラディンと長い会話をしたことがある。グラディンは自分の経験を語ったあとで、ウェスレーの願いによって、実にすぐれた信仰の確証についての定義を述べた。その言葉は次のとおりである。
「キリストの血に安らい、確信をもって神に頼り、その恵みを堅く信じ、すべての肉の願いより解き放たれ、いっさいの内住の罪より断ち切られて、心に言うことのできない静けさと安息を持つ」と。
この驚くべき定義は、もちろん聖潔の経験であって、救いの初めに味わうことができないことは明白である。しかし救いのすべての段階において、わたしたちの良心を死の行ないよりきよめて神に仕えさせる唯一の力あるイエスの血を携えて来て、その傷つけられた良心に癒しを得させるのは、わたしたちの主要な務めである。
二 罪の行ないよりの救い
『人に対して、良心の責められることのないように』(使徒行伝二十四・十六)
本書の読者が、悔改に合う実を結ぶことについて述べるところが少ないことを不審に思っておられるのではないかと思う。
わたしは何度も何度も、求道者が自己の力で罪のきずなを断ち切る代わりにキリストのもとに持って来ることを強調して来た。この点について更に詳細に述べることにしよう。罪の行ないと罪の習慣との間には著しい相違がある。罪の習慣は、新生の際、聖霊の働きによってのみ取り去られるものであるが、罪の行ないは、罪人自身の悔改の行為によって処置されなければならないものである。
一つの場合を想像してみよう。ここに放蕩な習慣を持った青年があり、酒とそのほかの罪の奴隷であるとする。彼は覚醒され照らされ、罪を自覚し悔い改めて、このように自らをとりこにしている悪習慣から解放されたいと願う。彼はこれまで何度か、あらゆる方法をもってその鎖を断ち切ろうとして失敗を繰り返した。さらに深く彼の生涯を探ってみれば、彼はよくない行いをしているのである。すなわち仕事には不正直であり、悪い友人と交わり、親には不孝で恩知らずであり、雇い主には不真実である。こうしたものは習慣ではない。これは悔い改めて捨てなければならない不義の行為である。彼は悔い改めなければならない。そしてそれをやめてしまわなければならない。人に向かってとがめのない良心がなければならない。そしてこのような良心は、ただ悔改の実行によってのみ得られるものである。彼が神に従ってこうした悪から離れることを拒んでいる間は、どれほどイエスの血に頼り、神の憐れみを叫び求め、その悪欲の束縛からの解放を求めても、それは空しいことである。これをなす力がないと言わせてはならない。彼には力がある。その悪習慣とこれらの行為が別のものであることを指摘しなければならない。習慣を処置するのは神のみわざである。悪い行為を処置し、悪い道をすぐに捨てることは彼自身の仕事である。
そこに救霊者の出会うさらに深い困難がある。そのことについてわたしは一言言わなければならない。実行の伴う悔改は、ただ知っている罪をその生涯から除き去ることだけではない。それには弁償、告白などの行為が含まれているものである。この点において、わたしたちは多くの恵みと知恵と思慮とを要する。
わたしは自分の経験でも、そのほか少なくない場合に、神がこの義務を回心当時に示すことをされないで、恵みに堅くされ、救いの喜びを味わったのちに、告白すべき事柄、返却すべき金銭、許しを請うべき行為、弁償すべき事柄などの記憶を呼び起こさせなさる、恵み深いお取り扱いを見てきた。時には悔改にかなう実を結ぶことを回心の当時に要求される場合もある。しかし多くの場合そうではない。何はともあれ、救霊者がその導きつつある魂の中に永久的な平和がないことを認め、そのほかにこれぞという理由を見いだせない場合は、この点に探りを入れてみることである。
多くの実例の中からただ一つのあかしを持ち出すことにしよう。今は既に天にあるひとりの姉妹は熱心に心と良心との平安を求めていた。彼女の正直な心に極めてすみやかに、神の霊は告白とゆるしを要する幼時の罪を示された。感謝すべきことに、すぐに従った瞬間、人に対しての責めのなくなった良心は、キリストの完成されたみわざに安息することができ、その完全な救いを受けることができた。卒業ののち彼女は郷里に帰り、父親の経営する病院で、暇のあるたびに病人を訪問して彼らをキリストに導いていたが、二、三年後、主にあって眠った。彼女の喜ばしい手紙の一節は次のとおりである。
「わたしは喜びに溢れています。今は讃美と感謝のほか何もありません。これはただの感情ではありません。わたしはかつて罪人であったのに、今はキリストの尊い血によってあがなわれ、また潔められて全く救われたことを納得しているからです。主はわたしを救うために苦しみ、また死んで下さいました。どうかわたしと共に神を讃美してください。あなたとわたしとの祈りを神は聞いてくださったのです。あなたとお別れするまでまだ聖霊を受けることはできなかったのですが、しかし日曜日に受けることができました。聖霊はおいでになって、わたしの心を言うことのできない喜びに満たして下さいました。あなたにお話しした罪について両親に書き送りました。あの娘たちの住所がわかったらすぐに手紙を書いて赦しを願うつもりです。まだ彼女らのゆるしは得ていませんけれど、神からのおゆるしはすでに受けています。わたしはもう罪の中にいません。サタンの子ではなく神の子です。悪魔は疑いや失望に投げ込もうとします。しかしわたしは気にしません。○○さんの熱心な祈りを聞いたとき、あの方の持っておられるような感情がないことを悟り、それは熱心の欠乏であると思って失望しました。しかし今はそうでないことを知って喜んでいます。わたしは見えるところの感情がなくても満足しています。顔かたちが互いに違って見えるように、聖霊はそれぞれ違った道をもっておいでになります。時には突然、時には静かに音もなくおいでになります。わたしには極めて静かにおいでになりました。わたしはこの喜びをほかの人にも分けようと努めています。ひとりふたりの新しい友人が、確実に恵みを受けないで過ごすようなことは一日としてない、ということを申し上げられるのは大きな喜びです。」
このような場合の取り扱いをするために、救霊者は多くの恵みと知恵と機転とを必要とする。その導き方の中にカトリックのようなやり方で魂をそこなうことがあってはならない。わたしは何度か魂を助けようとして彼らに告げた。その罪をわたしに告げるのでなく、その関係者と神にだけ告げなさい、と。もちろん、ぜひ聞いてもらいたいと願う場合は、適当な注意を与えることを得るためにこれを許容した場合もある。その他の場合において、ことに極端な罪については、わたしの心が汚れないためにこれを聞くことをお断りした。わたしは罪深い人の子たちによって行われ、語られたこのような言うことのできない汚れによって、汚れのない神の小羊が汚されないことをいぶかりつつも、このような告白をただ神にだけ言い表すように願ったのである。
わたしたちはこの仕事に対して十分の注意を要する。一方においては、人に対する悔改を実行しないで、イエスの血を信じたと考えるような状態に導くことを警戒するとともに、一方においては、魂がただ悔改だけに頼って、キリストの犠牲に依り頼まないで満足しているような状態に導くことを警戒しなければならない。
罪のゆるし、これは何と幸いな賜物であろう。この賜物こそ、人々に受けさせるためにわたしたちが召された理由である。すなわち一度に、しかも永遠にわたしたちの過去のとがを消し去り、キリストの血によってその良心はいっさいの罪の感覚から現れ、その魂は義とされ、すべての罪は蔽われ、一切の不義は負わせられず、不敬虔であった者は義人とされ、イエスに対する信仰を義と認められるようになる。これこそ神の賜物である。
この題目の終わる前に、もう一つの重要な点を述べよう。罪のゆるしの喜びのおとずれを示すにあたり、区別を明白にするために、若い伝道者たちのために高調しておきたいことである。
聖書には二つの意義が記されている。
一、初歩の経験において、反逆の武器をいっさい投げ棄てて永遠に降伏するところのもの、すなわち「神との平和」である。
二、神の子となってから、ある罪の行為や不従順によって彼を憂えさせたときに受けるゆるしの恵みである。反逆をゆるされることは一つのことであり子としてのゆるしはまた別のものである。わたしたちが導く人々が混乱と暗黒に陥ることのないよう、この点をできるだけはっきりさせておく必要がある。
三 罪の習慣からの救い
『わたしは新しい心をあなたがたに与え‥‥‥』(エゼキエル書三十六・二十六)
わたしたちは罪のゆるしや良心の洗われることを、キリストによって神がわたしたちのために備えて下さった救いの一部であるとして考えて来た。しかし厳密な意味においては、これはそこに至る門口であると言った方が更に正確であろう。救いの実質は完全な心の革新──新生──キリスト・イエスにあって新たに創造されることである。
ニコデモが主イエスのみもとに来た時には、救い主については少しも心得ておらず、ただの教師であると思っていた。主はそれに答えて、まずご自身は証人であり、また救い主であると告げられた。教師は、理論や前提や論法をもって教えるものである。証人はその見聞したことを語るのである。ニコデモは彼と同類の多くの人のように、主のあかしを受け、または罪人として救い主に来る準備ができていなかった。
引き続いての驚くべき物語の中に、すべての人々が、いずれの時においても知ることを求めている四つの大きな質問に対して答えられた。救われるとはどういうことか。どのようにして人は救われたらよいか。なぜ人は救われるか。誰が救われるか、の四つである。
この四つの疑問に対して主はだんだんに答えられる。救いとは新生である。それは聖霊のお働きである。そしてその救いは十字架によってのみ得られる。これは神の御子のみわざである。なお父なる神が、そのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さったことによってのみ救いは可能となった。これは父なる神のお働きである。そして光に来て信ずる罪人は誰でも救われるのである。
ニコデモはなお満足しないで「どうして」と質問を繰り返した。主のお答えはただ譬えの中に語られた十字架のメッセージであった。のちに聖霊はパウロを通してその秘密を啓示された。ローマ人への手紙第六章に、十字架はただ義認のためだけでなく、また人の心が聖霊によって生まれ変わるための道であることを説いている。血はきよめ、十字架は解き放つ。第二のアダムの死は第一のアダムの性質を破壊する。肉体の不自然な欲望のために望みのないほどに束縛された意志は解放される。自我はキリストとともに十字架に釘づけられる。わたしたちの苦難でなく、彼の御苦難によって、魂は新生し悪に向かう意志は変えられる。自らを喜ばせることだけを努める意志は変化する。この秘密は人知をもってしては測り知ることができない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこから来て、どこへ行くかは知らない。霊から生まれる者もみな、それと同じである。わたしたちはわたしたちの発熱した額に人の息を感ずる。それは義の太陽のおもてを隠す暗雲を追い払う。または天の彼方の岸辺から宝を満載して来る巨船の帆をはらませる。それはまたその見えない翼に永遠の生命の種を携えて来て、心のうちにこれを植え付ける。それは死んでよみがえったキリストによって心の中に吹き込まれる生命の息である。それがわたしたちの知っている全部であるが、しかしわたしたちは知りかつ感じ、その中にあって生きまた喜ぶのである。
パウロの任命の言葉の中に記されている「きよめ」という言葉は聖書の中で二つの意味に使われる。
一、一般的意義において、義と認められること、義とせられきよくせられるとの意味に用いられる。
二、特別の意義としては、生涯の義なる歩みに対して、心の純潔を指す言葉として用いられる。
第一の意味においては、すべての信者はきよめられた者、聖徒と称えられるのである。第二の意味においては、すでに聖徒となった者が全くきよめられることをパウロは祈っているのである。
この区別は極めて大切である。この点をはっきりさせるために前者を新生とし、後者を聖潔と呼ぶことは更に理解を助けるであろう。そして今、わたしたちがここで考えているのはその前者についてである。この幸いな経験は神の賜物である。それは心の中に植えられた永遠の生命である。わたしたちは、罪のゆるしによる信仰とキリストの血によって良心をきよめられることによってこれを人々に受けさせるために、任命された者である。わたしたちの罪が主イエスの血によってぬぐい去られたように、わたしたちの古い人は十字架の上に砕かれたからだとともに釘づけられた。
この讃美すべき神のみわざによって、聖霊はわたしたちの罪の習慣を取り扱われるのである。わたしたちがキリストによってありのままで来る時、不潔な習慣の破衣を剥ぎ取って、新しい救いの衣を纏わせてくださるのである。
ローマ人への手紙六章において、使徒は彼の義認の教理に対して発せられる次のような詰問に対して答えている。「もし罪のゆるしがこのように簡単で、神がこのように喜んでくださるとすれば、なぜ罪の中にとどまっていないのか」。第一の場合は、「わたしたちはキリストと共に十字架につけられて、わたしたちの意志が新たにされたために、道徳的にわたしたちは罪を犯すことができない」(ローマ六・三〜十五参照)というのである。
第二の場合は「わたしたちの良心はきよめられたばかりでなく新たにされ、今は新しい律法の下にあるゆえに罪を犯してはならない」というのである。
次の章に、彼は更に納得させる理由を述べている。すなわち「わたしたちの願いがきよめられ、わたしたちの悪い性質が取り除かれたために、わたしたちは罪を犯すことを願わない」と。
わたしはあまり立ち入り過ぎたかも知れない。たぶんこれ以上述べる必要はあるまい。その仕事、その特権、またその困難は、誰にも明らかになったことと思う、どうか、求道者が十字架の基礎の上にその罪を告白し、みことばを受け入れ、救い主のあがないの血に対する信仰によって永遠の生命を受けるようになるまで休むことのないように。
四 内に宿る罪からの救い
『わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな』(ローマ七・二十四、二十五)
魂が神の義とし新生させる恵みによって、エジプトの束縛から救出されることは実に驚くべきことである。ああしかし、わたしたち自身の経験によって、また導かれる者の経験によっても、回心の時まではまだエジプトがわたしたちの心から取り去られていないことを発見するのである。
これについては千に一つの除外例もない。神と共に働く者として、わたしたちの幸いな務めは、神の救ってくださる者たちを満ち足りた救いにまで導き入れることにある。良心は神と人とに対する悔改と、主イエスの血に対する信仰とによってきよめられ、心は変えられ、意志は新たにされ、わたしたちはキリスト・イエスにあって新たに創造された者となった。罪の呵責も行ないも習慣もこうしてみな取り除かれた。しかし内に宿る罪はなお残っているのである。この心中の罪の実在から解き放たれ、心が「内に宿る罪」「不信仰な悪い心」「肉の心」「罪のからだ」「夫」(七・二)、「すべての不義」から救われること、これこそわたしたちが渇き求める魂に提供すべきところのものである。
ローマ人への手紙五章及び六章において、きよめられ生かされた良心、キリストと共に釘づけられよみがえり新たにされた意志、生命の新しさによって歩む生命を見る。しかし七章、八章においては、生命の結合よりもさらに深きもの、すなわち結婚の結合について述べてある。それは古き夫、すなわち『わたしではなく、わたしの内に宿っている罪』が十字架によって処置されるまで持つことを得ない結合である。聖にして義、かつ善なる律法は、使徒パウロのように『わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか』と叫び出て、主イエスの傷口に完全ないやしを見いだし、その十字架に完全な罪のからだの破壊の力を経験し、その血が聖霊によってわたしたちの心に適用されることによってその汚れから完全にきよめられたことを自覚するまでは離婚を許さず、またキリストとの結婚予告の公表を承知しないのである。こうしてのち初めて、婚筵の鐘は鳴り渡り、わたしたちはただ彼と共に生命の新しさを歩むだけでなく、また霊の新しさによって彼に仕え、神のために多くの実を結ぶようになるのである。
この驚くべき経験は新生と同じように信仰によって一時に受けるものである。聖霊はその生まれ変わらせる働きのように、たちまち信ずる魂の心の宮に臨まれるのである。そこには多くの準備となる経験があるのであろう。しかし与えられる最後のわざは瞬間的である。ウェスレーの言うように、人は長い間死の経過をたどることがあろう。しかしいよいよ死ぬ時は瞬間的である。
さてこうして目ざめた者を全き救いに入らせようとする場合、その診察に注意深くなければならない。わたしたちは、その魂はすでに神の子となり、死から命に移っているかどうかを確かめなければならない。多くの渇いた魂は、神の新生させる力については何も知らない。ただ単に宗教的なものである。このような者が第二の恵みを求めることは無理である。遠慮なく言えば、もしわたしたちが彼らにこのような深い問題を語るとすれば、彼らはいよいよ迷いと混迷の闇に深入りするだけであろう。日本におけるある宣教師たちの集会においてこのことについて語っていた時に、ひとりの婦人がその最後の集会に出席した。その一回の集会に導くのでさえ、彼女の友人たちは大いに骨折ったのである。つまり彼女はこの種の会合が大嫌いであった。彼女は反抗しながらやって来たのであるが、そこで神は彼女に会って下さった。彼女の渇いた魂は大きな欠乏を自覚し始めた。それが何であるかは知らなかったが、何かが必要であるということだけは深く悟った。三日の苦しみののち、わたしたちのもとに来た。わたしは彼女の実状を診察して、まだ救いの恵みもわかっていないことがわかったので、彼女に言った。「救いの初歩からやり直す決心があるか」と。彼女は、「平安を得る道とあれば何でもする」と言う。「しかしもし、ミッションの責任者に今まで回心さえしていなかったと告げなければならないとしたらどうか」と聞くと、「神がもしわたしの悩む心に安息を与えて下さりさえすれば、何でも誰にでも告げる」と答えた。
彼女が間もなく良い羊飼いに見いだされ、救い主なる神によって大きな喜びを得るようになったことは申すまでもないことである。
わたしはここに結論として、このような魂を全き救いに導くことの必要と幸いとについて一言を付け加えたいと思う。
わたしたちが魂をキリストに導く場合、それはただ一人であるかも知れない。しかし彼を通して更に幾千の人々を導くことができるということをわたしたちは心に留めたい。このように上よりの力によろわれた魂は、光と祝福と力との中心となり、多くの人々を導くようになるものである。
ここでも一つに実例を提出したい。余白がないからただ一人を挙げることにしよう。わたしは彼の回心については前にも述べた。彼はそのあかしを更に続けて語る。
「わたしは回心後幾月かを過ごすうちに、わたしは自己の中にある悪い性質が発動することを鋭く感じ始めてきた。わたしは大いに失望した。死んでしまったと思ったがまだ生きている。わたしはエジプトから救出されたが、エジプトはまだわたしの心に残っている。
わたしが救われたことと神に受け入れられたことについての確信は明らかである。わたしはキリストにあって新たに造られたものであることは確かである。酒や娯楽に対する願望は完全に取り去られている。わたしは夜ごとに伝道館に出掛けて救いのあかしをなしていたのであるが、時を経るに従って、読みもし聞きもした全ききよめに対する渇望が強烈に湧き上がってきた。わたしは何度か聖別会にも出席して、全き聖潔の教理については納得が行った。一度ならず、思い切り贖い主のきよめる血の力を信じてみた。数日は都合良く行くが、数日の後にはまたしても元の木阿弥となる。ついにわたしはただ一人で全力をこめて主を求めようと決心した。こうして主を待ち望んでいる間に、主はヨハネの第一の手紙一章七節の意味を示して下さった。すなわちもしわたしが光の中を歩んでいなければ、全き聖潔の約束を自らに当て嵌めても駄目である、と。わたしは即刻従う決心をした。そうするためには、悔改と告白と謙りの必要があった。このような状態で約一年は過ぎたが、ちょうどそのころ教会内に混雑があっていろいろと不親切な悪口なども聞かされ、苦い感情を挑発するようなことが多くあった。その時、わたしの心の中に「人の悪を思わぬ愛」がまだないことがわかってきた。そこでわたしは徹夜の祈りをするために山に登り、新しくできた墓地を祈りの場所として選んだ。死ぬためには絶好の場所である。そうして謙りと悔改と告白をもってひたすら主に祈り求めたときに、聖霊は罪の根をきよめ去る十字架の血の力をかつてないほど明らかに示して下さった。わたしは信じた。しかして心に平安が来た。わたしは自由になった。数日後、隣の市に集会を持つために出掛けたが、その帰り道、駅で発車を待っていた時に、突然求めつつあった主が心の宮に臨んで下さった。そして言うことのできない喜びと愛で心はいっぱいに満たされた。時は夜の十一時三十分、すでに寂しくなった町を歩いたが、さながら主とただふたりで空中を歩いているように感じられた。汽車に乗ってもその一隅に座しつつ天国にあるような気持ちで家に帰った。
その後、夢幻的な喜びは静まった。このような強烈な感覚は退いたが、平和は常に心にあふれている。そして感謝すべきことには、主はこのような賤しい器を用い始められた。格別に神癒において特別の力を賜った。至るところに渇いた魂は群がって来て生命の言葉を待ち望んでいる」
五年前まで異教の闇の中にあって、大酒飲みのキリストなき魂であった者が、今は万軍の主の手にあるとぎすました矢とされた者から、このようなあかしを聞くことは実に幸いなことである。これこそは救い、これこそわたしたちの使命の言葉、これこそわたしたちの仕事である。
どうかこれを経験しこれを知り、神がわたしたちに託して下さるこの栄光ある職を果たす特権の喜ばしい感覚が骨の中に火のように燃え上がり、測り知ることのできないキリストの富を異邦人に伝え、彼らをして罪の救いときよめられた者の中にある嗣業を受けさせるようにして下さるように。
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