第六章 任 命


 
 『わたしは、神の力がわたしに働いて、自分に与えられた神の恵みの賜物により、福音の僕とされたのである。すなわち、聖徒たちのうちで最も小さい者であるわたしにこの恵みが与えられたが、それは、キリストの無尽蔵の富を異邦人に宣べ伝え、更にまた、万物の造り主である神の中に世々隠されていた奥義にあずかる務がどんなものであるかを、明らかに示すためである』(エペソ三・七〜九)

 これまでの各章において、わたしたちの奉仕が宗教的な遊戯にならないように診察の必要なことを考えてきた。そして前章では、わたしたちの仕事の助けになると思われる四つの事柄を暗示しようと努めた。本章では、さらにこの題目を続けて、実際の働きにおいて最も重要な四つの原則を提示しようと思う。そのほかにも欠くことのできない研究があるが、できるだけ簡単明瞭にするために、次の四項目としたい。
 一、どのようにして魂を覚醒したらよいか。
 二、どのようにして理解させたらよいか。
 三、どのようにしてその意志をサタンから神に転向させたらよいか
 四、どのようにして、人々に永遠の生命の賜物を受けさせたらよいか。

 一、霊魂の覚醒

 わたしたちが人々に知能の光を与え、その意志を悪の力から救い出して神に向けることを求める前に、まず第一にしなければならないことは、その魂を目ざめさせることである。このことを成し遂げるために、二つの道から人の心に近づくことができるということは、ほとんど指摘の必要もないほど明白なことである。すなわち、一、必要な感覚を呼びさますこと。二、咎と罪との自覚を起させること。このことは非常に分かりきった真理ではあるが、しかしまた大切なことであるから、次の二章でさらに詳しく述べたいと思う。本章では、ただその要点を暗示するだけにとどめておく。
 この二つのことができなければ、満足な真の回心は望むことができない。しかし必要な質問は、どちらが先か、ということである。この点を誤るなら、大きな妨げとなるであろう。主イエスは憐れなサマリアの女の魂を呼びさまそうとした時に、まずその必要の自覚を訴えられた。主は彼女の心を満たす唯一のものに対する願いを喚起させられた。この事が成って、彼女が『主よ、わたしがかわくことがなく、また、ここにくみにこなくてよいように、その水をわたしに下さい』と叫んだのち、たちまち題目を変えて彼女を罪の自覚に導かれた。こうしてその必要と罪とを悟ってこれを告白したことにより、御自身を救い主とし、神を父として啓示された。もしわたしたちが魂の必要について十分に悟らせないで、いきなりその罪を指摘するならば、或る場合は、わたしたちが捕らえようとする獲物を取り逃がしてしまうことになるだろう。
 わたしたちは、悔い改めない魂の願いがどれほど堕落しかつ反逆し、また悪くなっているかを知る必要がある。しかし、これから導こうとする魂に近づく場合、よりまさっている方法は反対引力を生じるようにすることであって、彼の心の前に生命の輝きを示して、真の満足に対する渇きと願いをそのうちに創造することである。こうしてわたしたちは容易に罪と不義とのさらに深い問題に移ることができるのである。
 わたしはいかに多くの魂が何ら罪に対する感覚がないままにキリストに来て、その信仰を全うしているかのようにしているのを見て全く驚かされる。この点で、最も著しい実例がある。この青年は、回心後数年にして、栄光に輝いて天の故郷に帰ったのであるが、彼は次のように書いている。

 「わたしは放蕩の生活に入って間もなく、その悪い道に何の幸福もないことを発見した。わたしは、人生に果たして生きる価値があるかどうかを真面目に考えるようになり、ついに今年の三月一日十時半に自殺を決心した。わたしは毒薬を用意して家を出て、簡単に見つけられない場所で死のうと考え、山へ登り始めた。そして墓地のそばを通っている時、マタイ福音書十一章二十八節が突然わたしの心にひらめいて来た。それは神戸の伝道館の壁に掲げられていたのをただ一度見たものであった。わたしはその伝道館に入って腰を掛け、『僕は重荷を負っていなければ疲れてもいない。こんな宗教に何の用事もない』と自らに語ったことをはっきり記憶している。そして今、自殺しようとしている時、その言葉が心に食い込んでくる。わたしの心は呼びさまされた。そこで自殺を思いとどまり、伝道館に訪ねて行った。そこでHさんがわたしを歓迎していろいろ話を聞かせてくれたので、その夜の集会にも残ることにした。その時の説教の一言一句はただわたしにだけ語られているように感じた。集会のあとで、HさんとKさんがわたしの祈りを助けて救い主に導いてくださった。そこでわたしは神との和らぎを得た。」

 彼はまず自分の必要のみを悟って、キリストに来たのである。そしてその後に、罪と、神に赦しの恵みの大きさと、その救いの力とを学んだのである。
 主イエスが罪人に近づいて(パリサイ人ではない)、福音を提示された方法を学ぶ時、この点を例証することができると思う。主は回心していない魂に対しては、彼らの利他心に訴えないで、その利己的本能に訴えられているようである。近代の神学者は、利他心が生まれつきの人の心にもあるものとして、それを訴えの唯一の土台とするのである。しかし、主キリストが利他心に訴えられた場合は、神の霊がすでに働きを始められている者に対してか、或いはまた主と青年の場合のように、その自己欺瞞を曝露しても回心しない者には、きよい利他心というものが最善の状態でもその心に全くないということを知らしめられた時である。
 日本でわたしの会った回心者のすべての中で、だれひとり利己的動機によらないでキリストに来た者を見たことがない。感謝なことではないか。このようにキリストに来る時、彼はこれを改造し、神の利他心をその心に植え付けられるのである。そのゆえに、新生している者に対して、きよめられた品性の最高の特質に対するような訴えをなすことができるのである。
 しかしわたしはここで少し細かな点を考えてみたい。この利他心に対する訴えも、もし正しく用いるなら、魂を呼びさますことができる。主イエスはこれを用いられた。したがってわたしたちもまた彼のなされたようにするならば、用いることができるはずである。
 ウェスレーは言う。自然宗教と天啓宗教との著しい相違は、人に関する教理である、と。自然宗教は言う。人の中にはある程度、善の性質がありまた悪の性質がある。だから大切なことは、その善性を磨いて悪性に打ち勝つことなのだ、と。天啓宗教は言う。人は全く堕落している、利他心のように見えるものも、実は飾られている利己心に過ぎないのだ、と。
 もしわたしたちがこのことを心に留めておくなら、利他的訴えの武器でも、魂の覚醒のために用いることができるのである。
 だれでも、自分自身だけで生活することはできない。彼らはその後ろに、悲惨と恥の足跡を残すか、祝福と平安との感化を残すものである。このようなことを人々に徹底させるとき、しばしば覚醒することがある。夢のような自己満足の道を歩みながらも格別な罪についての自覚がないという人々が、たびたびこのような訴えによって呼びさまされるのである。あなたの生涯はどうか。あなたの感化はどうか。あなたは誰かの祝福を与えているか。だれかを幸福にしたか。世はあなたの存在によってよくなったか。だれがあなたを喜んでいるか、と。しかし、異教の国において、人が聖霊によって新生するまで、このような訴えが功を奏することは、悲しいことであるが実に稀なことであることを告白しないわけにいかない。もちろん自己満足、自己義認に脹れ上がったパリサイ人に対して、その裸の恥を曝露して、その真の必要を悟らせるためには有効であるとも考えられる。
 この重要な題目を終わる前に、他の種類の求道者のことを述べてみよう。この場合、求道者と呼ぶのはふさわしくないが、それは少しばかり学問をして頭のふくれ上がった青年のことである。彼は、神の存在ということすら知ることはできないことだ、と決め込んでいる。彼は自分の満足のために議論をすることを好む。伝道者など眼中にないが、真面目な求道者のように偽装するのである。彼は真面目な疑惑をもって真理を探究する者のようである。このような者を警戒しなければいけない。若い伝道者は、このような者に引きずられて不必要な論議に時を無駄に費やすことがある。このような求道者に有効な即効薬はローマ人への手紙一章である。これを突きつけることを恐れてはならない。神を拒むことの効果はたいへんなことである。神の存在について議論してはならない。罪について語らなければならない。罪の門にその戦いの矛先を向けるのだ。神についての問題を、頭によらないで、心と良心によって語るのだ。その道から光が入らなければ、他のどんな道によっても決して届くことはできないのである。

 二 理解させること

 魂を覚醒させるために、その堕落の状態を教え諭そうと努めるより、その願いをそそるような目的物を提示するほうがよい、ということを見てきた。
 わたしたちの第二の仕事は、覚醒している者を照らすことである。どうしてこの仕事を進めたらよいか。どのように教えたらよいか。どのように、神の御存在やそのご要求、その御力などを悟らせたらよいか。この場合でも、わたしたちはわたしたちの模範であるかたに行くのである。主は多くの場合、たとえ話によって教えられるのであるが、いつでも心の管を通して、その理解へ届いておられることを見るのである。たとえば、放蕩息子の話のように、実に深遠な哲学を含んでいる。すなわち、生きておられる神のご存在、御愛、ご要求、御力などが極めて平易な言葉によって語られている。そこには弁証的な言葉はない。最も強い訴えは、良心と意志と心の愛情に向かってなされているが、それが有無を言わさないでその理解を照らし、人々を十分納得させる力をもっているのである。
 単なる知識と教訓とは、人々に実行をさせる力がない。人々に実行をさせる原動力は四つのことに限られている。恐れと望みと信仰と愛である。日常生活のすべての行動は、これらのもののいずれかに源を発している。貧窮、苦難、失敗、恥などを恐れるためか、成功、富、知恵、安楽を望んでいるためか、自己、友人、事情、環境を信じてか、またはより高尚な動機として、満足や同情を愛してか、である。これらは人々を刺戟して行動をさせる隠れた力である。宗教上のさらに重要なことに関してもまた同様である。
 「理性が何も知らないことに対しても、心は理論を持っている」とは、パスカルの不朽の言葉である。
 神の存在についての論議や、三位一体や、その創造者であることについての形而上の理論などは、暗くなっている理解を照らすのに有効な道ではない。これによって認罪と回心に至らせることはできない。
 キリスト信仰の大問題について魂に光を与えようとするならば、それはいつも同時に良心と意志と愛情とに届く言葉と思想によらなければならない。ああ、しかしこの点において多くの失敗が繰り返されている。
 エデンの園の例を取ることを許されるなら、神学的田園(むしろ砂漠か)より知識の木の実を持って来て、ちょうど生命の木の実であるかのように、飢えた魂に与えているのである。しかしそれはいなご豆であり(ルカ十五・十六)、風であり(ホセア十二・一)、灰であって(イザヤ四十四・二十)、そうして覚醒した魂がもう一度眠りに陥るのである。その題目が何であっても、神の存在、霊魂不滅、または主イエスの受肉降誕、死、復活、昇天などについても、求道者の良心と意志と愛情とに対する訴えと密接に結び付けて提出しなければならない。
 単に人を教え、また興味を持たせるような説教は、ただ人の理解をくらますだけである。わたしは長い間、異教徒に語られるいわゆる伝道説教と称する回りくどい話を見聞きしてきた悲しい経験から語っているのである。このことについて聖書を学ぶことを若い働き人に熱心に勧めたい。
 一例を挙げれば、神の創造者であることを語った箇所として、聖書を学ぶ者はただちにイザヤ書四十章に帰るであろう。この章の書かれた目的は何であろうか。ただ喜ばせたり、教えたり、興味を持たせたりするためであろうか。そうではない。その目的は、一方では偶像礼拝の罪と愚かさを示すと同時に、祈りにこたえて下さる神の確かさとその力を知らせるところにある。全章の結論は、神を待ち望むことについての最も力強い訴えである。これは極めて実際的であって、魂に激励と確信とを与えるところのものである。
 わたしは、学校の教室で学んだ説教学に当てはまったような説教の憂鬱な結果をたびたび見せつけられる。いまわたしたちの中の有力な伝道者となっているひとりが、このような種類の説教を何年間も聞いていたのである。彼はこれを聞いている間は、ただ議論したくなるばかりで、神に立ち帰ろうという願いも決心も起こらなかった。しかしふとしたことから、或る晩わたしたちの伝道館に来て、彼の言葉のように心に届く話を聞いた。彼は直ちに悔い改め、主に立ち帰って救いを得た。またこのことによって、どのようにして他の人に届き得るかも学んだ。しばらく後に、彼は次のように語った。
 「神戸ではわたしは造船所に勤めていて、毎日同労者にあかしをしている。昼食の時はトラクトを配布する。彼らはわたしを『ヤソ』と言って嘲るのであるが、わたしは決して議論をしない。ただ受けた救いを証しするだけである。信仰は議論ではない。これは実際的経験である。ひとりの青年が『聖書は神からの黙示か』と尋ねた。わたしは『そうです。そしてこれはわたしたちにいのちの道を教えます』と答えた。彼は『それこそ全くの迷信だ』と言って行ってしまった。しかし数週間後、彼は熱心な求道者になった。」
 確かに彼は、人は決して三段論法や冷たい論理学によって救われるものでなく、またそれによって死んだ魂が覚醒し照らされ新生するものでないことを学んだのである。
 もう一つの著しい例証がわたしの心に浮かんでくる。ひとりの熱心な伝道者であり、また謙遜な救霊者であった人のあかしをここに紹介しよう。
 彼は回心するまでは全く無学な造船所の職工であった。ジョン・ウェスレーは神の恵みはよく人を紳士にすると言ったが、この人こそ、不作法な廃物同然な望みのない者が立派な聖徒と変わった著しい実例である。彼はあかしして言う。

 「わたしの父は、わたしをある大きな製造所に入れた。わたしはそこで大人になるまで働いた。父はわたしを真面目な人間にしようと願っていたにかかわらず、わたしはその工場の悪い友達に感化されて全くの放蕩者となってしまった。父は明治三十八年の六月に死んだ。それからのわたしはいよいよ悪くなるばかり、ついに母や弟も置き去りにしてしまった。その夏、わたしは恐ろしい罪を犯して大阪にいるのが恐ろしくなったため、神戸に逃げてきて川崎造船所に入った。わたしは母と弟とを捨てて居所さえ知らせずに、不義の縁を結んだ女といっしょに生活していた。
 翌年五月二十日、わたしは伝道隊の伝道館の前を通りかかり、勧められるままに中に入って話を聞いた。その話の題は『放蕩息子のたとえ話』であった。わたしは非常に感動した。その一言一句何かわたしに当てはまった。わたしは確かに放蕩息子である。説教者は二つの点を強調した。一つは放蕩息子の心、一つは父の心である。わたしに最も深い感動を与えたのは、神が真の父であるということであった。わたしは今までこのようなことを少しも知らなかった。わたしは父を恐れていつも逃げ回っていた。しかしここに理想的な父の姿が現れている。これこそ真の父のあるべき当然の状態であろうと考えた。放蕩息子の状態は手袋のようにぴったりわたしに当てはまった。しかしここにはそれ以上に、わたしの必要に応ずるものがあることを知った。これはほんとうのことだろう。そうだ、ほんとうでなければならない。そこでわたしは信じる決心をしたのである。
 わたしはあとに残り、罪を悔い改め、イエス・キリストによる赦しの恵みを受けた。神はすぐにわたしを救ってくださった。」

 多くを語る必要はない。このあかしはわたしの言おうとするところをよく説明している。ここにキリスト教についてイロハさえ知らない者がいる。それが救い主のたとえ話によって自らの姿を見て、その必要に目ざめ、議論でなく理屈でなく、天啓教の原則を学ぶことによってでなく、ただ心の管によって、神の存在と力と愛とを悟るようになったのである。彼の理解は彼の愛情に従ったのである。彼はキリスト教弁証論を学ぶ必要がなかった。

 三 意志の解放

 使徒パウロに与えられた大いなる任命の第三の仕事は、人々をしてサタンの力を離れて神に帰らせること、すなわち換言すれば、人の意志を捕らえてこれを奴隷としている、悪魔から解放することである。
 すでに述べたように、魂を診察する場合、それが悪い欲や肉情の奴隷となっているのか、それともさらに恐るべき高慢の束縛のもとにあるのかを確かめることが必要である。もちろんいずれにせよ、解放の道は唯一であって、キリストご自身によるほかない。
 わたしたちの仕事は、彼らに罪を捨てさせようと努めるのでなく、ただそのままのありさまで神に携えて来ることである。わたしはかつて著名なキリスト教青年会の指導者によって導かれて、集会に出席したことがある。毎夜の説教は実に立派なもので、また感動を与えるものであった。いよいよ最後の夜となって、多くの青年がキリスト者となる願いを告白してあとに残った。説教者は単純な三つの勧告を彼らに与えた。一、罪を捨てよ。二、日々に聖書を読め。三、日曜ごとに聖書研究のクラスに出席せよ、と。それで彼は彼らを残して去った。わたしはこの第一項を聞いて心のうなだれることを感じた。それこそ多くの青年が、自分でなすことができないでもだえている点である。彼らは牢獄にいたペテロのように、手も足も全く汚辱の鎖に縛られている。確かにわたしたちの福音は、桎梏のままキリストに来て、その束縛を砕いていただくことである。その祝福は放蕩息子のように襤褸のまま父の所に帰るところにある。その意志が肉情と悪欲の奴隷になっている魂に接するときは、いつもこのことを心に留めておく必要がある。
 数年前、ひとりの青年がキリスト者になることを求めてわたしのところに来た。しかし彼の頭はいろいろな難問題でいっぱいである。彼は断ちがたい束縛の中にあって自由になることができない。わたしたちの間に次のような問答が繰り返された。

 「どうしてひとり静かに主イエスのもとに行って、いまわたしに話したことを告げないのですか。」
 「しかしたぶんわたしは偽善者です。」
 「そうです。そのことを彼に告げるのです。」
 「わたしは自分がほんとうに熱心なのかはっきりわかりません。」
 「何でそれをその通りに告げませんか。」
 「しかしわたしは意志が薄弱で、とても長く保つことができそうに思えません。」
 「それも彼にその通り告げたらよいことです。」
 「しかし‥‥‥たぶん‥‥‥あの‥‥‥」
 「そうです。それもそのまま話せばよいのです。」
 「主イエスに何でも告げさえすればよいと言われるのですか。」
 「そうです。それが今さしあたりあなたのなすべきことです。そのままのありさまで、あなたの知っているだけの悪いことも弱いことも罪もすっかり事実をお告げなさい。」

 彼はいささか疑っているというありさまで立ち去った。たぶんあまり簡単な解放の道に驚いたのであろう。数週間後、一通の手紙が届いた。

 「わたしはあなたが命じられたとおりにしました。そしてそのことが真実であることを知りました。わたしの持っていた質問はまだ答えられません。それはまだそのまま残っています。しかしもはや何の心掛かりにもなりません。それはとげがなくなりました。きばを抜かれたへびのようです。どうしてあなたに感謝してよいかわかりません。その後も二つの試練に遭いました。以前ならば、ひとたまりもなくこれに負けたのです。そのほかまだあなたにさえ言わなかった重要な事柄もあったのですが、しかしわたしどもが真を告げさえするならば、いっさいを解決してわたしどもの卑劣を癒して下さるおかたがあるということは何と幸いなことでしょう。
 わたしを彼に紹介して下さったことについて、何と感謝してよいかわかりません。」

 これは実に重要な題目であるから、煩わしさを厭わないで他の方面から述べることにしよう。意志の解放とは悔改の別名にほかならない。
 普通に考えられていることは、罪の赦しと永生の賜物とは神より賜わるものであるが、悔改は罪人自らなすべきわざであるということである。もちろんそれはある程度まで真実であるが、全部そうではない。罪の赦しと永遠の生命との場合のように悔改も、挙げられたキリストの賜物である(使徒行伝五・三十一)。敬虔なひとりのキリストのはしためのあかしはそれと全く反対である。今ここにしるしてみよう。彼女は次のようにしるす。

 「罪の赦しだけでなく、悔改もまた神の右にある。わたしはそこにこれを見いだした。わたしたちは、罪に赦しは神から賜わるものであるが、悔改は自分で作り出さなければならないと考えやすい。わたしが回心した時に、わたしのうちに悔改はなかった。わたしはただ一人わたしの部屋にひざまずいたその日をよく記憶している。わたしは救われようとは思っていなかった。わたしはこの世を心いっぱい求めていた。わたしはまだ若かったので、この世が実に美しく見えた。神はわたしを、いずれかを選ばなければならないところに導かれたが、わたしはその時、世を選んだ。わたしは年老いてのちか、または臨終の床において救われようと願った。わたしはひざまずいて、だれもささげたことがないというような貧弱な祈りをした。すなわち『わたしは救われたくありません』と神に告げた。しかし立ち上がる前にわたしのために十字架の上に死んで下さった救い主はわたしに悔改の心を与えられた。」

 ここに単純なしかも驚くべき救霊の秘訣がある。わたしたちは彼らがそのままキリストに来ることを言い張らなければならない。ここに旧約と新約との相違点がある。旧約は「こうしなさい」または「こうしてはいけない」であった。罪人の意志がいっさいをしなければならない。新約においてはわたしたちの意志の努力の代わりに「信仰によって受けたキリスト」である。キリストはわたしたちのなすことのできないところをなされる。彼は「わたしがなす」と言われて、「あなたがたがなせ」とは言われない。わたしたちはただ信じたいと願うだけである。
 富める若い青年は、救い主の厳格な条件を聞いて次のように叫び出すはずではなかったろうか。「主よ、わたしは永遠の生命を得るためにもう少し教えられる必要があると思いながらみもとに来ました。ああしかし、わたしは主の命じられることをすることができません。今は知っています。わたしに必要なのは神である救い主であることを。わたしの意志は奴隷になってお従いする力もありません。わたしはただ叫びます。わたしを救ってください。そうしなければ死んでしまいます」と。その瞬間ほむべき救い主は、いのちに至る悔い改めを与え、そのうちに働いて志を立て、事を行わしめ、そのよい御心に従わしめられたであろう。数時間後、同じ財布の奴隷であったザアカイは、前者と異なって自ら罪人であることを悟ったために、すぐに救われることができた。

 四 霊魂の救い

 わたしたちの任命のこの最後の項目については、なお語らなければならない多くのことがあるので、あとの章でさらに述べたい。わたしたちが伝えるために任命された主キリストの救いは二重である。それは罪の罰と力とからの救いである。すなわち、罪よりの救いの恩寵ときよめられた者の中にある嗣業とである。しかしそれについては後で述べることにする。
 この章では、わたしたちがこの任務を果たすために必要な唯一のことを語りたいと思う。わたしたちは魂を覚醒し回心させるために召された者であって、ただキリストにある救いを人々に語るだけでなく、またこれを受け入れさせるために召されたのである。これは実に驚くべきことであって、以下この一点に集中して記したいと思う。
 まず心をこめて考えてみることにしよう。わたしたちはこの驚くべき任命の達成のために、一方において魂の実状を奥深く詳細に調べなければならない。また一方、神の御霊の導きのもとに、その求道に適確に当てはまる真理を聖書の中から探り出すことができなければならない。しかしそれだけではまだ足らない。神はわたしたちが他の魂に信じさせることを助ける特権を与えた下さった。信仰の手をもって彼らを支え、これを助けて天国へと携え入れるのである。このことについて、前世紀における著名な神のしもべジョン・スミスの言葉を引用することは最善の方法であろう。彼の伝記の著者は言う。

 「罪は誰かによって悔い改められなければならないというのが、彼の堅い自覚であった。もし罪人が自ら悔い改めることをしないなら、神の民はその代わりに悔い改めなければならない。したがって、人々の罪を自分の罪として告白することは、彼にとっては定まった原則で、もし説教者が日々にその重荷を負わないなら、彼は罪人が多く神に立ち帰るのを見ることはできないだろう、と言っていた。彼はまた、信仰についても同様な原則を携えていた。彼は言った。悔い改める者のために信ずることはできると。そしてその意見を確証するために、彼が悔い改めた者のために信仰を働かせている間に真の信仰が罪人の心に生じて来て、救いの喜びがその中に湧き上がり、二人ともに喜んだという実例を多く述べている。更に言う。わたしたちは他の人のために働くことができる。神の感化力はすべてのキリスト者に連結されている。神とキリストはわたしたちにこれを要求される。わたしたちは神とともに彼らに対して能力がある。彼らの状態はできるだけ詳細にこれを見なければならない。贖いは彼らのために信じられなければならない。聖霊の感化の約束は彼らのために懇願され、また獲得されなければならない。そうすれば、彼らの頑固と汚れと高慢と無頓着とは逃げ去るであろう」と。

 この真理は極めて重要であって、これを失うならわたしたちにとっても他の人にとっても永遠の損失となる。わたしはここにもうひとりの驚くべき救霊者ウィリアム・カーバッソーの生涯から一つの例を取ろう。彼の伝記の著者は言う。

 「彼はキリストが徹底的に救いのわざをされるという真理に対して強い信仰を持っていた。『信じなさい』ということばが、誰に語られたものより力強く響くのを覚えた。他の人が悔い改める者に対して『信じなさい』と言っても格別何の反響も起さないが、ひとたび彼がこれを言うと、神の知恵がそこに現れ、簡単な言葉で語られた福音の真理がしばしば全世界を動かす梃子のように働くのを見た。こうして彼の手にかかって、束縛されていた魂がたちどころに自由を得たのである。」

 おお、このような力ある神の人に学びたいものである。人に託された任命の中にこのような栄えある、また驚くべき結果を生ずるものは他にないであろう。
 もし余白があるならば、偉大な救霊者の生涯から、非常に有益な、しかも反省を与える実例を紹介して、どのように彼らが魂を恋したってそれを得たか、また最も栄えあるは名の冠は常に涙によって潤っているものであることを例証することができるであろう。聖パウロは、魂をキリストに導くことを出産の苦しみに比えた。聖霊は確かに、デイビッド・ブレイナード、ウィリアム・ブラムウェル、ジョン・スミス、ジェイムズ・ターナーやそのほかの多くの神のしもべの中に働いて、魂を再び産み出すために、言葉に表せない切なるうめきをもってとりなしてくださったのである。
 数年前、わたしはこの国で有名になった犯人のひとりに接する機会を与えられた。その犯人は三つの犯罪のために死刑の宣告を受けていた。殺人罪(そのうちのひとりは子供)は最大の罪状であった。彼はミッションスクールで教育を受け、両親ともキリスト者であり監督教会の会員であった。
 彼は獄中で聖書や信仰書を熱心に読んでいた。わたしは三十分間、三人の看守の立ち会いの上で面会を許可された。看守の一人がわたしの言うことをみな筆記していた。その後一度も会わないので、果たして彼がキリストの救いを受けたかどうかは知ることができない。彼が父親に会ってくれと言うので会うことにした。このような、言うことのできない憂いと苦痛とを覚えたことはかつてなかった。処刑の日、彼はわたしに聖書を贈ってくれた。今もそれを持っている。
 わたしはその訪問について、ひとりの敬虔な祈りの人である同労の婦人宣教師に詳しく話した。その後数日間、犯人の処刑の日まで、彼女が祈りの中でもがき苦しんだことをいつまでも忘れることができない。彼女は悲しみ叫び、涙を流して神の前に訴え祈った。もし彼に天国で会うことができるとすれば、それはあの聖徒の苦禱によるものであろう。
 終わりに、この章で述べた四つの項目を繰り返してみよう。
  わたしたちはまず魂の眠っている本能を覚醒させ、これを満足させる唯一のものを求める願いを起させるために、どのように、力のある生き生きとした言葉と思想とをもって、この題目を人々に提出したらよいかを知らなければならない。
  わたしたちの第二の仕事である彼らの心を照らすことも、また同様に困難な働きである。わたしたちは彼らに罪の自覚を起させ、なおこれを実行させるために真理を提出する必要がある。魂はただ真の救いに対する願いを起させられただけでなく、またそれが理解されて実行されることが可能であることを納得させられてから、わたしたちと別れなければならない。
  意志を解放する第三の仕事においては、最も望みのない魂の中にも希望が燃え上がるようにキリストを示さなければならない。意志のもだえと努力の代わりに、ただ彼らがありのままで主のみもとに来さえすれば、その内に働いてその御旨をなして下さるという、いつも近くにおられる十全の救い主を提供しなければならない。
  わたしたちの第四の仕事は、たぶん最も困難な働きであって、不信仰を砕き、信仰の霊を創造し、人々に神の賜物を受けさせることである。こうするためにわたしたちのなさなければならない分は、一般に考えられているより、はるかに重要かつ厳粛なものであることを示そうと努めてきた。
 これが任命である。これが主より与えられたものであることを知る者にとっては真に動力である。聖パウロのように、どうしてこのような栄誉が託されたのかと驚きいぶかることであろう。これは我らを駆り立てて密室に入らせ、塵灰に伏してへりくだり、力と柔和と上よりの知恵を受けるために神を求めて彼を待ち望ませるようになる力である。
 わたしたちは自ら生ける水を飲み、約束の安息に住まい、キリストの賜う自由に中に立ち、来るべき永遠の望みと現れようとする生命とを待ち望んでいなければ、魂の深い渇きを満たすに足る神の救いをほかの人々に提供することはできない。
 キリストの救いとその臨在の光とがわたしたちにとって生ける輝ける事実でなければ、わたしたちは暗い魂を照らすことができない。
 わたしたち自らが解放されていないなら、すべての悪の束縛から解き放つ完全な救い主としてキリストを示すことはできない。
 すべてにまさってわたしたちの心が彼らを慰め、これに同情し、イエスの名による信仰をもって彼らの弱さを助けることのできる余裕と力を持っていないなら、他の魂を信仰の手をもってたぐり寄せることはできない。
 このような任命を果たす上で、わたしたちの失敗が涙とともにわたしたちを密室に退かせ、そして切に主に訴え祈り求めるのでなければ、成功ある人間の漁師として、いと高き神の大使として、人々を神に和らがしめるこの職務を果たすことはできないのではないだろうか。
 


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