第十四章 結  論


 
 『御霊と知恵とに満ちた‥‥‥信仰と聖霊とに満ちた人‥‥‥ステパノは恵みと力とに満ちて』(使徒行伝六・三、五、八)

 今はよく代用品を使う時代である。質よりも量をもってする危険な傾向がさかんである。人々をもって一人の人に、組織をもって聖霊に、教育をもって神の恵みに、金をもって霊力に、いわゆる品性による救いをもってキリストによるあがないに代えようとしているのである。
 活動と企業力は、商業や政治やこの世の社会においてのように、神の国でも成功の源であるとされている。
 むかしバチカンにおいて壮麗と華美に包まれた法王が、トマス・アクイナスを顧みて得意そうに言った。「ペテロの時のように、金銀はわたしにはない、と言う時代はすでに過ぎ去った」。トマスはすぐに答えて、「ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい、と言う時代もすでに過ぎ去った」と答えた。
 前の各章において、わたしたちは救霊の成功に必要な事柄を考えてきた。方法、伝えるべき言葉、診断上の注意、人と事柄についての知識、聖書と実験を通して人の心を学ぶこと、確実に取り扱うこと、中心をそれないこと、即刻の救いの可能なこと、人の良心に訴えるために必要な選択はそれであった。
 そして実例を挙げて聖書の真理を証明してきた。おそらくこのほかにも多くの必要な問題が思い起されるであろう。
 しかしすべての題目の中の中心点にはまだ触れなかった。この聖にして恐るべき、また幸いな仕事を成功させる秘訣の中で、最高でしかもいっさいを含むものは聖霊である。聖霊なくしてわたしたちは無である。彼だけが罪を悟らせることができる。彼だけがキリストとその贖いのための犠牲とを啓示することができる。彼のみ、諭し回心させる神の大能であられるのである。
 どんな方法もまた説教も、これを設けまた説く人自らが聖霊に満たされていなければ効果がないであろう。ここに救霊者の大きな秘訣がある。それゆえ、わたしはこの書を終わる前に、すべての題目の中で最も重要なこのことのために、幾ページかを費やしたいと願う。剣を握る手、ペンを走らせる頭脳、手を動かす心、言葉をださえる愛、これこそ傷つけまた癒し、語りまた救う力である。そしてこれに力を与えるものはただ生ける神の霊のみである。
 わたしは東方のある町に行っている熱心な信者の実業家を友人として持っている。彼は一人の米国の宣教師に接して個人の救霊の必要を痛感した。彼はまず自分の心と生涯をそのために備えようと努めた。そして多くの処置すべき事柄を見いだした。何通かの赦罪状も書かなければならなかった。彼は堅い決心をもってこれに当たり、いよいよいっさいが処置されたと考えられた時に、数名の同信の友人を集めて伝道を開始した。
 彼はあらゆる個人伝道法を研究した。聖書を学ぶために、手に入る限りの書物も読んだ。そして滅んで行く魂を救うために出かけた。彼は友人と冬中このような研究と働きに過ごした。そしてその終わりに集まって語り合ったが、それは失望と困惑のみであった。つまり彼らは一人も救うことができなかったのである。彼らはこのように熱心でしかもそのために労を惜しまなかったのに、何も得るところがなかったのは何のためであったろうか。
 ほとんど絶望に陥ったが、更に心を励まして、力の秘密がどこにあるのかを発見しようと決心した。彼は聖霊について何週間か学んだ。それは、力がただ神に属するもので、それは聖霊であることに気付いたからである。しかしここでも危うく道を誤りそうになった。それは彼の心に、回心当時から一つの非聖書的な考えが潜入していたのである。すなわち、新生してからあと、『上から力を授けられる』ことなどあるはずがない、エジプトを出たら直ちにそれが約束の地であって、ことさらに約束の地などというものが天国に行くまでこの地上にあるはずはないというのである。
 しかし、祈りと忍耐深い研究とによって神の力の道を捜し求めているうちに、ガラテヤ人への手紙三章十三、十四節を見いだした。さながら啓示のように彼は信仰の道を見いだした。そして謙遜な飢え渇いた心をもって断乎として信じた。その日その時こそ、彼にとっては記念の時となった。慰める者は彼の心に来て住まったのである。彼は解き放たれた鳥のようになった。キリストはその内に啓示され、彼の心はきよくなった。生ける神の宮は、今その正当な主権者をその宝座に迎えたのである。彼は聖霊に満たされた。
 たちまち生ける水は、神と小羊との宝座から流れはじめ、その日から彼は救霊者となった。
 ステパノおよびその他の執事たちが、その選びの条件は聖霊に満たされているということであった。その満たしは四重の言葉をもって言い表されている。『知恵の満たし』『信仰の満たし』『恵みの満たし』『力の満たし』の四つである。しかしこれこそ救霊者の四つの大きな秘密である。今その順序に従って考えてみよう。

     知恵の満たし(使徒行伝六・三)

 ソロモンが王位に就いたときに「聞き分ける心」を神に求めた。そして箴言の初めの八章は、その幸いな讃美すべき経験についての彼の個人的なあかしである。その民を治め導き、同情し、愛し、弱い者を助けるために、彼は真理の霊なる聖霊を要したのである。それが憐れむべき遊女であっても、あるいはまたシバの女王であっても問題ではなかった。彼は聖霊によって慰め同情し、そしてすべての者に対してその豊かな知恵を流し出す心を与えられたのである。
 まず第一に、これは確証された知恵である。聖霊はわたしたちが読みまた信ずる恵みについて、わたしたちの意識に確証を与えられるのである。これによってわたしたちは、わたしは知っている、と叫ぶことができるようになる。キリストはただ神の知恵として宣べ伝えられるだけでなく、またこのようなお方として経験することができる。これは真理と言っても、理論的な冷たい固い納得しにくいものでなく、これは直覚的な確信の知識であり、神の霊の証印である。これこそ反論できない知恵であって、神と神の遣わされたキリストを知らしめ、わたしたちが死から命に移ったことを知らしめ、主の恐るべきを知って人々を説得せしめ、わがうちに善の宿らないことを知らしめ、すべてのことは神を愛する者のために万事を益となるようにしてくださることを知らしめ、委ねられているものをかの日に至るまで守ってくださることができると確信させるものである。
 第二は、洞察する知恵である。わたしたちは人の心を見破る力を与えられたことを自覚するようになる。
 ウィリアム・ブラムウェルの伝記の記者は言った。「わたしはかつて彼のように人の性質と聖霊の働きについて深く正確な知恵を持った人に会ったことがない」と。もし聖霊に満たされた救霊者としての成功者を前世紀に求めるならば、その第一人者は、ウィリアム・ブラムウェルであった。
 これこそ笛を吹いて踊りかつ悲しむ時を知り、義とされる知恵である。
 第三に、これは神の言葉をどのように用いたらよいかを知る霊感の知恵である。ステパノのように、わたしたちの知恵も聖書の聖言に基づくものでなければならない。わたしは祈りにおいても説教においても、また個人の導きにおいても、神の言葉がさながら掘り抜き井戸から水があふれるようにその心から流出して、口からほとばしるのを聞いた。神のみことばは聖霊に満たされた人によって語られるときに特別に適切でかつ力強く響くのである。わたしは聖霊がその宮においでになるとすぐに、どんなにすばやく神の言葉を、すべての知恵を用いて豊かにその心に住まわせられるかに驚いている。もし伝道者たちがこのように富ませられて救霊のわざに用いられていることを見られるなら大きな喜びである。心と頭脳と舌とが急に神の言葉に満たされたかのように見えるのである。ここに救霊者の知恵の秘密がある。
 同様に祈りにおいても、聖霊に満たされた者は、自動的に神の言葉を自由に用いて神に語るのである。祈りも讃美も、聖霊がわたしたちに与えて下さった聖書の言葉によって言い表される時、最も力強く、また調和があるのである。
 最後にこれはあかしの知恵である。真実のあかしは魂を解き放つ。一グラムのあかしは百キロの説教や理論よりも魂を回心させるのに有効である。
 主の弟子たちは各方面にあかしのために遣わされた。それこそ多くの男女が見また聞こうと願うものである。聖霊に満たされた者は、あのサマリヤの女のように、主イエスがなして下さったこと、またなしておられることをあかししようと常に待ち構えている。十二人の神学生はその日スカルの町に行って弁当を一つ主のみもとに携えて来たに過ぎないが、このあわれな救われた女は、そのあかしを携えて町に帰り、町中の人を主の御足のもとに携えて来た。これこそ何人も拒むことのできない真の知恵である。『ただ一つのことだけを知っています』とは幸いな知識また幸いな知恵である。『わたしは盲人であったが、今は見えるということです』と、あかしの木の葉は決してしおれずまたその色もあせない。常に緑の色が満ちて、すべての国の民をいやすことができる。
 わたしは異教の人々に、これについてなお多くのことを語らせたいと思う。その言葉は、より多くの力がある。主は常に異国の民の実例をもってその民を教えられた。シバの女王、ニネベの民、ザレパテのやもめ、癩病のナアマン、ソドム、ゴモラ、スロ・フェニキアの女、ローマの千卒長の物語は、神の民の悔改と信仰を励ます材料として用いられる。わたしたちにも主の採られた方法を用いる以上のことはない。次の物語はわたしの言おうとしていることを適確に例証する。T氏は長い間ドイツ神学で満足を得ようとしていたが果たすことができず、聖霊の知恵に満ちたひとりの人を見て、自分の愚かさを悟った人である。そして彼はその人にならってこの知恵を得た。以来二十年、今もなお知恵と信仰と恵みと力とに満ちてご奉仕している。彼は語る。

 『わたしは十六歳の時、大阪で米国の監督教会の一宣教師によって洗礼を受けた。数年後、イエス・キリストの十字架による罪のゆるしの恩寵について聞かされ、それをそのまま受け入れて大きな喜びをその心の中に経験した。しかしまだ聖書的経験が自分のものとなっていないことを知り、これを得るために熱心に求め始めた。わたしはガラテア人への手紙二章二十節を主の前に持ち出してひたすら祈ったことを記憶している。しばしばわたしは熱心に叫び求めたが、それによって何も得られなかった。ついに失望して、ほかの極端な道を求めるようになった。わたしは京都の神学校に入学した。そこでわたしは、高等批評とドイツ神学とに毒されてしまって、全くの暗黒に陥ってしまった。わたしは主の御前より捨て去られるところであったが、ちょうどその時、神はその使者バックストン師を遣わされた。師は特別集会のために学校に招かれて来られたのである。五百の生徒のために来られたのであるが、神はわたしひとりを救い出すことをよしとされた。師は聖霊の力によって語った。「聖書はこう言っている」とか「神は言われる」とかいうような調子にわたしは全く共鳴できず、聞くのもいやになっていた。しかし師は真理に堅く立ち、聖霊によって語られ、その一言一言は天の熱心に燃えていた。集会は四日続いた。わたしはこのような霊的実在に触れたことはかつてなかった。そして、自分の生命のない状態を深く示され、この生命こそ私が長い間求めているものであることを悟った。わたしが師を訪ねると、ちょうどわたしがかつて求めていたガラテア書二章二十節を示され、「あなたはこれを経験しましたか」と問われた。「これがわかるか」ではない。師は私の経験を探られたのである。わたしは「いいえ、しかし求めています」と答えた。師はそれ以上語られなかった。ただ聖書をよく学ぶように勧められた。深く感動したわたしは、生涯の方向を変える決心をした。それはわたしにとってかなり重大な問題であったが、わたしは学校をやめて松江に行った。そこで聖霊による聖書の講義を聴き、それによって確実な恵みに導かれた。しかしわたしはまだ不十分である。恵みの門の外に立っている。しかし十月十四日、修養会のある夜、エゼキエル書四十七章の生命の川が、説教の中に示された。それは驚くべき時であった。聖霊は働いて、多くの者は砕かれ熔かされ、主の御名を讃美しながら叫んでいる。それは当然なことである。しかしわたしの心の中には何の反響も感じられない。わたしはまだその圏外にあることを鋭く示された。その夜はそのまま退いて床に就いた。そして朝の四時に目がさめて起きて見ると、ひとりの友人がわたしの床のそばで祈っている。彼は徹夜でそこで祈っていたらしい。わたしもまた部屋を出て山に登り祈ったが、全く砕かれ、涙の中に溶けていくばかりであった。わたしはこうして熱心に恵みを求めた。しかしその涙も告白も真の恵みではないことがわかった。砕けた心が直ちに救いとなるのではない。何も実質的なものが与えられない。数時間の砕けた熱心な祈りのあと、またしても失望してしまった。しかしなおも主よりの恵みを求めることをやめなかった。わたしは献身と断食によってこれを得ようと思い、それを受けるまでは山を下るまいと決心した。わたしは更に山の上に登って行き、履き物を脱いで大地に伏し、いっさいを主の御前に投げ出した。わたしは永遠に主に受け入れられた確信を得たいと待ち望んだ。わたしは午後の二時から夜の十一時まで待ち望んだ。その前の日から食事は少しも摂らなかった。しかしまだ答えは来ない。ある時はいっさいを壇上に献げた。しかし次の瞬間にはまたこれを取り戻している。何の変化も来ない。何度も何度も空しくただこのようなことを繰り返すだけである。わたしもとうとう疲れ果てて、もう山を下ろうという思いに誘われ始めた。しかしちょうどその時、一つのはっきりした声を聞いた。「そのためにキリストはご自身をささげてあなたのために死なれたのだ」と。おまえが自分をささげることができないために、ご自身が完全な献げ物としておまえの代わりになられたのだ。彼により彼にあってわたしは受け入れられることができる。そうだ、受け入れられたのだ。これはあまりにも単純すぎるように思われた。このように長い間の切望と期待を満たすのにはあまりにもあっけないように思われた。しかしそれは極めて明白である。天よりの個人的な談話のようであった。これ以上の光は受けることができない。そこで裸の信仰をもってしっかと握り、何の感情もなかったがそのまま家に帰った。しかし、それは驚くべき恵みであった。翌朝目がさめると、部屋には太陽の光線が満ち、わたしの心は天の光で満たされていた。
 神は真にしてきよく、忠信にして恵み深くいます。その後、ほかの兄弟たちと一室にあって恵みの満たしを受けるために待ち望んでいたとき、主はわたしの中から敵のわざを破壊された。わたしはどんなことにもどんな価を払っても従おうと決心した。主はわたしに一つの罪を告白するように導き、またその力を与えられた。そして神と人との前に告白した時、聖霊は驚くほどにわたしの心に臨んでくださった。その夜、神の臨在はわたしを圧倒し、わたしのからだは破れるほどで、わたしの骨は砕けるほどであって、実に苦しかった。しかし彼の愛はわたしの中に溢れた。その慰めはわたしの心のうちにまでしみ通った。わたしは主の愛に満ち溢れた。わたしは長い年月の間、偽りの心をもって主を憂えしめて来た。しかしついに彼は勝たれた。わたしは無知と不従順のために何度か失敗したが、常に信仰の中に保たれ、主は血により聖霊によりわたしを引き返し、以来二十年、常に聖潔の中に保ってくださった。

     信仰の満たし(使徒行伝六・五)

 聖徒が聖霊に満たされた証拠の中でこの一事は極めて確かである。しかし信仰の満たしはただ聖霊に満たされた者だけに来る。神を信じようとする努力やもがきは過ぎ去って、恒久的な安息と確信とが心に満ちる。時には露のように穏やかに、糸のように弱く見えるかも知れない。しかしそれは常に甘く力強くまた確かである。
 キリストの中に意識的に宿ると言えば、その気持ちをよく言い表すことができるであろう。安全の感覚と、一方に神聖な信頼を失うことを恐れおののく気持ち、すなわち逃れの町から迷い出て、大いなる血の復讐者である律法にもう一度捕らえられることを恐れるきよい恐怖の感覚とが入り乱れて働くのである。
 これは信仰の祈りから流出する内心の状態である。
 しかし信仰の満たしはもちろんそれ以上である。それは自分のためだけでなく、また他人のために信ずる力をも意味する。
 多くの人は自らの霊的生活の秘密としての信仰を知っているが、しかしその奉仕において結果を生み出す手段としてまだこれを経験していない。これがなくては主はわたしたちのために働かれることができない。彼はわたしたちが、活動的に意識的に積極的に信ずることを待っておられる。わたしは英国に帰ったとき、北の或る教区で集会を持ったことを思い出す。そこの牧師夫人は非常に恵まれた人であった。主イエスは恵み深くも彼女にご自身を黙示された。彼女は愛と喜びと平安とに満たされた。そしてその奉仕の上に神の力が現れ、魂は続々と救われ恵まれるものと思った。しかしそのような結果をほとんど拝することができなかった。彼女は困惑と失望をもってわたしに手紙でその理由を聞いて来た。わたしはそこで次のような返事を書いて送った。「主は、わたしを愛する者はその腹から生ける水が川となって流れ出る、とは言わなかった。わたしを信じる者は、と言われたのだ」と。
 その後まもなくひとりの宣教師は同じようにその奉仕に結果のないことをいぶかってわたしのもとに来て、自分は信仰に満ち、安息の地に入って主の絶えることのないご臨在を楽しんでいるにもかかわらず、その奉仕に実のないのはなぜであるかを聞いた。わたしはこのことのために信仰を活用すべきことを告げた。救いを与える信仰、聖潔を与える信仰は必ずしも自動的に奉仕の結果をもたらすものではない。わたしたちは救い主、きよめ主として神を信ずるだけでなく、また大能の働き主として神を信じなければならない。あがないのために払われた価であるキリストの血に対する信仰を他人のためにも働かさなければならない。このような信仰の必要を悟らない救霊者は、おそらく他人を信じさせることはできず、その結果として常に失敗を悲しまなければならないこととなるであろう。チャールズ・フィニーについて以下のようなことが言われている。

 『マーン総長は言う。この点においてフィニーはその最初の奉仕において失敗したのである。彼は罪人に全く罪を捨てさせ、過去のすべての不従順を正し、主イエスに全き献身をなさしめることにあまり成功しなかった。彼は魂をして、以後神に従う誓いをもって出発させたが、現在その心をきよめ聖霊に満たされるために主イエスに依り頼むことについては何も教えなかった。わたしたちの誓いは、聖霊が焼き尽くす火としてその心に臨み、全き愛をもって満たされるまでは、一本の砂の縄と同じようである。マーン氏は言う。フィニーが更に完全に主の道を学ぶまでは、彼ぐらい信者を厳しく訓練した者はない。リバイバルのあとに堕落者の多いのに驚かされて、彼の努力はキリスト者に堅実で霊的な生活を送らせることに集中された。それをなすために、彼はただ一つの方法だけを心得ていた。全く罪を捨てることと、神に対する献身と服従である。受けるところの信仰については一言も語らない。例を言えば、彼がニューヨーク教区を牧していたときなどは、数週間引き続いて信者の信仰完成のために特別集会を営んだ。彼の教会員のように厳格な取り扱いを受けた者はなかったであろう。数年ののち、そのほかの牧師の語るところによれば、このような取り扱いを受けた者のうち、ただ一人でもその内部の弱さからいやされた者はなかったという。これがフィニーから厳格な取り扱いを受けた結果だったのである。彼がオバーリンに行って教授の職に就いた時、彼は自分の職を完成すべき絶好の機会を与えられたことを自覚した。
 彼の前には前途ある神学生が、教師の知恵に信頼し、どんな教訓にも聴き従おうと待っている。彼は長い間、罪を捨てることについて、神に対する献身について、また服従について深刻に取り扱った。彼らはその教導と奨励とに従って、力の限りを尽くして罪を捨て、献身と服従に励んだ。その結果得たところは大同小異であった。新生命と喜びと平安と力とを期待したのに、かえって罪と死のもとに縛られ苦しめられることとなった。集会は初めから終わりまで、告白と罪を捨てることと厳粛な献身と服従の誓いが繰り返された。たぶんさらに深い決心をもってこのことがなされたであろう。しかしすべての集会は相も変わらぬ哀歌をもって結ばれた。
  我らはここにうち伏して仰ぐ
   帰れ、きよきはとよ、帰れ
 そして彼らが立ち去る時は、喜びの歌ではなく、そのうめきが聞かれた。
 彼らは力を極めて義の律法を求めたが、しかしこれに追いつくことはできなかった。なぜであったろうか。彼らは信仰をもってこれを求めず、律法の行いによったからである。それは自ら作り出せる努力と決心とであった。
 ああしかし感謝なことに、彼はついにさらによいことを学んだ。救霊者は彼の実例によって益を受ける。悔い改めた者はたとい全く罪を捨て、完全に主に献身し、すべてのことにおいて主に従い、すべてのことを是正することができたとしても、それはただ人間の側だけである。神の側のお働きである、心をきよめかつ聖霊を満たすわざをなして下さるように、彼を仰いで信ずることが重要である。彼らは慰め主がそのきよめ慰める力をもってその心に来られるまで、喜び信じ戦いつつ祈り続けなければならない。彼らは上より力を授けられるまではエルサレムにとどまっていなければならない。彼らは、神が地上の父にまさって、求める者に聖霊を与えようとして待ちわびておられるお方であることを覚えて彼を信じ、そして聖霊を受けなければならない。』

 ウィリアム・ブラムウェルは言う。「あなたの信仰のわざを土台とするのでなければ、神は決してその契約を守って下さらない。この信仰は時計の振り子のように、常に活動しながら全心を動かしておらなければならない。あなたの信仰の増し加わるに従って、よりすみやかに昇ることができ、より速く走ることができ、より多く労し、より多く愛し、より多く喜び、より大きな歓喜をもって杯を飲むことを得るであろう。」

     恵みの満たし(使徒行伝六・八)

 主イエスが聖霊に満たされて会堂で語っておられるとき、人々はその唇より出る恵みの言葉に驚いたと記されている。彼は恵みに満ちておられた。恵みの満たしは、その言葉が恵みに満ちていることによって明白である。ある者は生まれつきのはなはだ粗雑な性格やその態度を正そうとして戦っているかも知れないが、神の恵みはこれを変貌させることができる。ジョン・ウェスレーは、神の恵みを受け入れた人で、その様子が変化しなかった例を見たことがないと言っている。
 恵みの満たしは、わたしたちの伝える使命の言葉に表れる。恵みは常に「今」と言う。恵みはどんなに悪い者にもなお望みをつなぐ。恵みは救いが神よりのものであることを現実にし、その即時の救いを明らかにする。恵みに満たされた者の目に、主イエスは極めて大きく映る。彼は常に与え祝福しようとしておられる救い主について語ることを喜ぶ。恵みは常に、神がわたしたちを祝福されることはたやすいことであると言う。恵みは叫ぶ。『あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう』『きょう、救いがこの家にきた』『あなたが耳にしたこの日に成就した』『すべての用意ができました。さあ‥‥‥おいで下さい』と。確かに福音の宣伝者が恵みに満たされているかどうかは、容易に知ることができる。
 しかし恵みの満たしのもう一つの様式についてわたしは更に詳しく語りたいと思う。それは心の純潔である。近頃は奉仕の力について多く語られている。多くの人はこれを求めた。そして失敗した。それは彼らの目が力をむさぼっていたからである。神はしばしば恵みをもってこのような危険な賜物を与えることを拒まれた。恵みに十分に浸されていない魂は、力のために頭ばかりが重くなり、よろめき倒れてついに永遠の破滅に至ることがしばしばである。
 他の人々を感化し、これに祝福を与えるために用いられることは、極めて危険なことである。昔のシモンは、心をきよめる聖霊の内住を求めず、ただこれを他人に分け与える力だけを得ようと願った。このような危険は、救霊者の身辺に極めて近くつきまとっていることに気付かない者が多い。
 ここでも一つのあかしを引用したい。彼は日本での教育を終わり、のちに米国の有名な大学で五年間も学び、そして大教会を牧会するために帰ってきた。彼は神学にも哲学にも優秀な成績を上げたのであったが、しかしそれは何の力ともならなかった。彼は次のように語っている。

 『わたしはその当時、キリスト者生涯というものは極めて平凡なものと思っていた。聖書の尊い教訓も約束もただ眺めて黙想する美しい絵のように感じ、自分たちの実生活には何の関係もないように思われた。事実、わたしの日々の行動には何の感化も及ぼさなかった。昨年の暮れ、わたしの旧友できよめ派の指導者のひとりであるT氏に出会うまではこのような状態にあったのである。わたしはそれまで数年間T氏に会っていなかった。わたしはもちろんその会見を喜んだが、しかしわたしたちは全く別の世界に生きていることを知った。お互いの話がいっこうに調子が合わないのである。彼は天のことを語っているが、わたしは地に属している。彼は確かにわたしが長い年月求めて得られなかった喜びと慰めの生命を持っているように思われた。わたしは彼の持っている恵みに対して非常な渇望を起した。このような状態で数か月を過ごしていた時、W氏に紹介された。わたしがどのようにして神よりの力を得たらよいかと質問したのに対して氏は答えた。「力は危険なものだ。神は嫉む神である。神はきよくない心に力を与えられることはない」と。この言葉は剣のようにわたしの心を刺し貫いた。わたしは以前よりも更にみじめになった。氏はキーン博士の本をくれた。わたしは二週間というものは何度か繰り返して読んだ。わたしはいよいよ渇いてますますみじめになった。十二月一日、わたしはその書を携えて神を求めるために野原に出た。わたしはわたしの心に神が満足を与えて下さるまでは帰らない決心をした。おお、いかにわたしは神と争ったことであろうか。あるいは読み、あるいは考え、そしてまた祈った。「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」と叫びながら暫くの時を過ごした。ちょうど朝の九時三十分、キーン博士の本の中の一句が目に留まった。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」。突然光がわたしの心に照り込んだ。わたしは思った。そうだ。イエスはわたしの信仰の創始者であると同時にまた完成者であられる。わたしの信仰を完成するのはわたしではなく主イエスである。わたしは何もしなくてよいのだ。主イエスこそいっさいをなして下さる。ただ彼を仰ぎ、そしてあなた自身とあなたの持てるいっさいとをその御手に委ねなさい。全く彼に従い、全身全霊を彼の祭壇に置き去りにしなさい。祭壇はあなたを全くきよめる。主イエスよ、わたしはあなたのもの、全くあなたのものです。このままわたしを受け入れ、そして御旨にかなうものとして下さい。わたしはひざまずいて更に三十分間祈った。起き上がった時は、わたしの重荷は去り、心は軽くなり、一時間前とは全く変わった者にされ、わたし自身を疑うほどであった。その時その所でわたしは聖霊を受けたのである。』

 これは数年前の出来事であるが、彼は今もなお各地を歩いて、あがないの血、求めし愛、全き救いに至らされた恵みを宣べ伝えているのである。
 聖霊に満たされた者は常に力のバプテスマについて語りまた考えているのではない。そうではなく、むしろ彼をちり灰にへりくだらせ、自ら無でありまた無一物であることを常に自覚させる恵みに満たされているのである。彼は自ら用いられることよりも、神の栄光の崇められることを願っている。彼は「わたしを用いて下さい」と祈らないで、「わたしを用いられることのできる者にして下さい」と祈っている。
 キリストにある神の恵みと慈しみの感覚は極めて著しく、他人を助けることの特権はいかにも尊く覚えられ、時とわざとを神にささげるなどということはおこがましいように感じられている。ああ、わたしたちの多くはあの高楼で礼拝をしている。多くの人はあの飾られた偶像にうち伏しているが、恵みだけでなく、すべての力もまた一夜の夢のように消えていくのを発見するだけである。多くの者はデリラの膝に眠っている。目ざめた時はペリシテ人の権力下に捕らわれているのである。彼は他の人のように弱くなっていることを悟るであろう。
 ご自身の代わりに神のよい賜物を楽しもうとすることは恐るべき誘惑であって、それによって彼らのわなに陥っている。かつて善きヒゼキヤも、神が彼に与えて下さった賜物を誇って割礼のない者の前に示した。力は偶像であった。かくて恵みは蔑せられ、彼らは悩み、貧しく盲目となり、裸となったのである。

     力の満たし(使徒行伝六・八)

 知識は力であり、聖潔は力であり、信仰は力である。しかしここに特別な意味で力とされているものがある。これは知恵、純潔、信仰の力と異なり、さらにまさったものである。
 力といえば、多くの人は直ちに、罪人に罪を悟らしめ、かつ悔い改めさせる、明快で鋭い講壇上の説教と直結して考える。そうであろう。多くの場合そうであるに違いない。もちろんペンテコステの日に罪人を刺し通す力は、堂々たる大説教によってではなく、率直なあかしを通してであったことも記憶しなければならない。
 しかし神のみことばを学ぶ時、これよりも異なった型の力があることを発見する。耐えかつ忍ぶ力(コロサイ一・十二)、内なる人を強くして下さる力(エペソ三・十六)、神と共に歩みかつ働こうと欲する者が、その内なる人を強められておらなければならないことは極めて明瞭である。
 詩的、哲学的、社会的、政治的なキリストは、熱した頭脳と夢見る頭の中に宿すことができるかも知れない。しかし真実な活けるキリストは、ただ謙遜な心にのみ来て宿ってくださる。そしてわたしたちを通して罪人を救おうとされる。このような場合、わたしたちが聖霊の力に満たされておらなければならないのは当然である。
 しかしここに引照した聖句を見れば、さらに別に力を語っているように見える。それはイエスの名によって奇蹟を行う力である。
 一方聖徒としての生活を営んでいる人でこの力を持っておらないのは、他方別の力を驚くほど授けられているものがある。日本の教役者の中にも、極めて少数ではあるが、神癒の賜物を持ち、病人のために信仰の祈りをささげる人がいる。偏見なく使徒行伝を読むならば、使徒たちがペンテコステの時に受けた力は、主として祈りによって神の御手を動かす力であったようである。この力についてわたしは語りたいと思う。すなわち祈り続けて勝ち抜く祈りの力である。
 これにもまさって聖霊に満たされた確かな証拠はない。
 ひとりの校長が、聖霊に満たされることを求めてわたしのもとに来たことがあるが、わたしたちは二時間も聖書をともに読みまた話し合い、そしてひざまずいて祈った。彼はその時聖霊を受けて喜んで帰った。少し後で彼に会ってその経験を尋ねると、彼は答えた。第一に、今までかつてないほどに神のものになったという確信に満たされた、と。すなわち彼は信仰に満たされたのである。第二に、神のみことばが実に新しくすばらしく、読まないではいられないようになった、と。すなわち彼は知恵に満たされたのである。第三に、祈ることが楽しみとなり、他人のためにとりなすのに非常な確信と自由ができた、と。すなわち彼は力に満たされたのである。ウィリアム・ブラムウェルは言う。「一つのことが重要である。それは祈り続けることである。この道に精進しなければいっさいは失敗となる。できるだけ多くの時を祈りに費やし、できるだけ熱心に祈れ。期待をもって約束を仰ぎ、祝福のために信ぜよ。この義務のために力強くあれ。あなたは祈りを怠るように強い誘惑を受けるであろう。祈りに身を献げない者に対しては、サタンはその権力を常に持ち続けるのである」。
 祈りの力のない者は救霊者となることができない。人に対して力ある前に、神に対して力のある者でなければならない。ここにもまた一つの実例を記したい。

 『最も著しい祈りの応答の一つは、わたしが内なる罪からきよめられて約束の地に入れられた直後のことであった。わたしは幾年かの間、ひとりの妹を尋ねていた。彼女はひとりの陸軍士官に嫁いだのであるが、虐待のためにヒステリーになり、ついに白痴になってしまった。わたしは彼女の世話をしていたが、ある日姿を隠してしまった。以来二年の間何の手がかりもなかった。聖霊のバプテスマを受けた直後、祈りに大きな確信を得、もうひとりの信仰の友と共に妹のために夜半まで祈り続け、確かに見つけて連れて帰ることができるという確信を与えられた。
 それから二十四時間も経たないうちに、西の方に縁づいているほかの妹から電報が来た。見れば彼女が広島の救護院にいるとの知らせである。急いで行って見れば全くやせ衰えたありさまである。医者はとうてい生き延びることはできないと思い、だれか引き取る者がないか尋ねてみたが何もわからない。ただ「宮内のハセ」とそれだけを繰り返している。それが所の名か、人の名かもわからない。
 わたしの行く二日前、偶然ひとりの車夫が来て、それが自分の郷里から数里先の所の、自分のよく知っている人だと知らせた。
 それが彼女の姉で、わたしに電報を出した妹だったのである。
 彼女はわたしの声を聞くなり、戸を押し破るようにして飛びついてきた。わたしはそのいじらしいありさまを忘れることができない。それと同時に、祈りに答えて下さる神の恵みも讃美せずにはいられない。彼女は今もわたしの家にいる。からだも回復し、愚かではあるが、キリストの恵みを受け入れることができるようになった。わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さるわたしたちの神は頌むべきかなである。』

 これこそ祈り続け、祈り抜く力であって、すべての霊力の源泉であり、救霊における成功の秘訣である。
 これが聖霊に満たされたしるしである。救霊者は密室で祈ることをしなければならない。ただ退いて神の御前に心を注ぎだしてとりなし訴えなければならない。これこそ成功の秘訣である。神が聖霊を注いで知恵と力と勇気と希望と信仰と、時と霊との識別力とを与え、民に伝うべき燃えて輝く使命の言葉を授けてくださることを祈り求めるため、静かに神を待ち望むにまさって重要なことはほかにない。何ものもこれの代用とはならない。
 ひそかに神と交わり語り議するにまさる成功の秘訣はない。彼は父にいますゆえ、決してわたしたちを退けることはないであろう。さながら戸を開いて照りわたる陽光がわたしたちを包むように、天の父は信じ従うその子らを必ず顧みて下さるであろう。
 祈りの人だけが力に満たされている。聖霊に満たされた人だけが祈りの人である。
 この書も結末に近づいたが、わたしの切なる祈りは、この書を読まれる若い伝道者たちが教理や方法や奨励によって備えられることにまさって、神ご自身のみに属する力によって備えられることである。収穫場の必要は、多くの人でもなく、金でもなく、教育でもなく、頭脳の力でもない。もちろん組織や方法では決してない。必要なのは霊的指導者である。そしてこのような指導者は進級によって作られるものでなく、ただ多くの祈りと涙と罪の告白と、反省と謙遜と、任せることと、すべての偶像を投げ棄てる大胆と、倦まず臆せず十字架を負うことと、常に釘づけられたイエスを動揺することなく仰ぐことによってのみ作られるものである。
 「霊的指導者は、人によっても、人々の会合によっても作られない。また年会や評議会や宗教会議によっても作られずに、ただ神によってのみ作られる」。
 もしわたしたちが日々に聖霊に満たされてさえいるならば、年をとってから落伍する恐れはない。筆者は更に言う。
 「わたしは神に満たされた幾多の老人を知っている。彼らは若いときに迫害を受けた。しかしいつも地の塩となって四囲に味をつけた。彼らの弓は強くあり、彼らの太陽は日の真っ盛りの輝きをもって照っている。彼らは人々をして傾聴させる神からの言葉をもってこの世を満たした。長い奉仕と経験とがあなたを落伍から救うものでないことを知らなければならない。ただあなたのうちにいます神がこれをなされる。神は常に新鮮であられる。人の要するのは神である」。
 滅んで行くこの世の最大の要求は、知恵に満ち、信仰に満ち、恵みに満ち、力に満ちた人々である。このような人こそ神の求められるもの、このような人々に神は任命を与えて、地の暗い所において奉仕をさせられる。昇天された主のくちびるより直接に与えられる任命こそ心の動力になって働くのである。生ける神の言葉によって始まってこそ良い終結をなすことができる。
 『さあ、起きあがって、自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしに会った事と、あなたに現れて示そうとしている事とをあかしし、これを伝える務に、あなたを任じるためである。わたしは、この国民と異邦人との中から、あなたを救い出し、あらためてあなたを彼らにつかわすが、それは、彼らの目を開き、彼らをやみから光へ、悪魔の支配から神のみもとへ帰らせ、また、彼らが罪のゆるしを得、わたしを信じる信仰によって、聖別された人々に加わるためである。』
 このような任命がわたしたちのような、神の恵みによって救われた罪人に与えられることを思うとき、わたしたちはただ深い謙りをもってうち伏し、ハレルヤ、ハレルヤと叫ぶのみである。
    ×    ×    ×    ×
 付録として、伝道者としての召しを受けていない読者のために一言付け加えておきたい。どのような目的のために今まで記して来たか。ただ単に喜ばせ、興味を持たせるためでは決してない。わたしがこれらの恩寵の記念を記したのは、
  この書を読む人々が、目を畑に向けて、はや色づいて刈り入れを待っていることを確信させ、こうして新しく熱情と希望と信仰とにかき立てられ、地の暗い所を見ることを得せしめるためである(ヨハネ四・三十五)。
  使徒時代の聖徒が喜んだように、あなたがたをして大いなる喜びをもって喜ばしめるためである。
  キリストの無尽蔵の富を異邦人に宣べ伝える(エペソ三・八)ことの言うことのできない光栄を悟り、このようなわざに参与する特権を与えられることを叫び求めさせるためである。
  この世の宝を託された神の家令である人々が、この世の宝をもって永遠の友を得、御国に到る日、彼らがあなたを喜んで迎えてくれるためである(ルカ十六・九)。
  このような特権を退け、あの大いなる審判の日に永遠の恥をこうむることがないためである。
 わたしはあのメリー・スレッサーが恐るべき暗黒のアフリカからかつて書き送った言葉を、もう一度家の屋根に立って声高く叫ぶことを願う。「特権に飲み飽き、教会にも安息日にも飽き果てた英国よ。あなたがたが喜んで投げ棄てるところのものの幾分かをわたしたちに与えてほしい」と。
 


救 霊 の 動 力

     © 頒布価 ¥400

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  昭和10年5月10日 第1版発行
  昭和41年3月25日 改訂4版

  著 者  パゼット・ウィルクス
  発行人  落  田  健  二
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 発行所  バックストン記念霊交会

   武蔵野市境南町4丁目7−5
   振替口座 東京66649番


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