第五章 職 務 と 証 言


 
 『智恵ある者は人を捕らう』(箴言十一・三十=文語訳)
 『あなたは真理の言葉を正しく教え、恥じるところのない練達した働き人になって、神に自分をささげるようにはげみなさい』(第二テモテ二・十五)

 救世軍創立者ブース大将を知っている人はみな、大将の生涯の最大の熱望は魂を救うことであり、機会をうかがって一言でも語る時を決して失わなかったことを思い出すであろう。これはしばらく前、アスキス婦人がコーニル雑誌に掲載した一つの逸話であるが、彼女はある時大将と同じ汽車に乗り合わせた。大将は率直に魂の最大問題について彼女に語り、あとで共に祈った。そして、同じ汽車に乗っている乗客に向かってロッテンロー駅で下車して、そこの救世軍小隊に出席するように勧めた。もちろん旅行の途中なので、だれも降りる者はなかった。別れに臨んで、大将はアスキス婦人の本に次のように記した。
 「人生とは、天においての喜びと職務と交わりにふさわしい性質と品性を得るために神との調和の中を歩み、かつ悩む人々に真の幸福を与えるために働き抜くことにほかならない。──ウィリアム・ブース」
 ここに大将の人格が躍如としている。大将はいつも主のわざを努め、あらゆる機会に主のご要求をもって人々の心に迫らなければならないと考えていた。続く章において、異教国においての職務とあかしとに必要な資格についてさらに詳細に述べたいと思うが、今はただ大将のように忠実な神のしもべとしての心を持たなければ、だれも成功することはできないということを告げるだけで十分であろう。大将はその主の霊を深く知っていたのである。しかしわたしたちの任命の主要な責任について考える前に、二、三の予備的な考察を示すことは助けとなるであろう。
 この書をしるした主な目的の一つは、既に述べて来たように、神がわたしたちを召されたのは、ただ耕し、播くだけでなく、また刈り入れるためであることを示そうとすることにある。さらに異教国で魂を導くことは、今まで考えられていたよりもさらに早くできるものであることを示すこととしたい。この目的を覚えながら、四つの大切なことを暗示することにする。

 一 ただちに救われることをほんとうに信ずること

 『あなたがたは、刈入れ時が来るまでには、まだ四か月あると、言っているではないか。しかし、わたしはあなたがたに言う。目をあげて畑を見なさい。はや色づいて刈入れを待っている。‥‥‥わたしは、あなたがたをつかわして、あなたがたがそのために労苦しなかったものを刈りとらせた。ほかの人々が労苦し、あなたがたは、彼らの労苦の実にあずかっているのである。』(ヨハネ福音書四・三十五、三十八)
 多くの若い宣教師は、故国ではすぐに悔い改める魂を得るが、異教国ではなかなか容易に得ることはできない、長い期間教えなければ、暗黒から光の中へ携え出すことはできないというようなことを聞かされる。それによって宣教師たちの燃える心は冷たく鈍くされ、即座の救いを期待しない霊がたちまちその心に入ってくるのである。これは実に不幸なことである。もし彼が聖霊によって備えられ、その心が苦難と悲痛と罪のるつぼの中を通過した経験を持つならば、福音について何の知るところのない魂でもただ一度の話によって数時間のうちに救われることができるものだということを、堅く心に自覚していなければならない。
 これについての実例は数限りなくあって、その選択に迷うほどである。しかし彼ら自身に聞くためにその経験について書いた一、二の実例を挙げるのが最善であろう。次にしるすのは、多年熱心に伝道者として働いているひとりの兄弟のあかしである。

 「わたしはかつてキリストのことを聞いたことがなかった。ちょうど今年の六月五日の夜、多聞通の伝道館の前を通っていた時に、そこに幾人かの人が讃美歌を歌っているのを聞いた。わたしはそれほどの考えもなく、ただうっかりその中にはいってしまった。その時、生まれて初めて、イエス・キリストの救いについて聞いた。わたしは説教者の語る放蕩息子といちじくの二つのたとえ話を聞いて深く示され、その場で悔い改めて神に立ち帰った‥‥‥。」

 その時以来彼は一歩も退かなかった。そして献身したのはそれからまもなくのことであった。さらに著しい実例がある。

 「あかしを書こうとしてまず思い起すことは、どんなにわたしが無益な罪人であったかということである。わたしは両親の愛の中に何不自由なく育てられたのに、若い時から罪の生活を送っていた。
 わたしは家にいることもできなくなったので家を飛び出してしまった。両親の監督のもとを離れたわたしは、悪い仲間といっしょになって、飲む、打つ、買うのあらゆる罪を犯した。しかし主はなお憐れみをかけて下さった。
 十二月二日の夜であった。わたしは遊びからの帰途、伝道館で歌の声を聞いた。その音楽に誘われて中に入った。わたしは歌の調子に引きずられて行くうちに次のような文句に至った。
 罪を犯す人々よ、怒りと審判の恐ろしき日いま降り来らん、
 憐れな罪人、そはながこと、そはながことぞ
 その一瞬、わたしの心は底まで突き刺さるように感じた。わたしのすべての罪は目の前に幻のように浮かんで来た。説教を聞いている間も、恐ろしくて顔を上げることもできない。説教者がわたしひとりを目がけて話しているように感じた。やっとのことで首をあげてみたが、ちょうどそこの壁に掲げられた一つの言葉が目に止まった。
 『すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう』
 そうだ、それはわたしのことだ。わたしはちょうどそこで、神さまがわたしの心の目を開いて下さってその夜救われ、罪に打ち勝つ新しい生命を与えられた。喜びがわたしの心にあふれてきた。わたしは酒や煙草や悪遊びを嫌うようになった。私は古い悪友に近づくのが恐ろしくなった。今は主イエスが最善の友となられたのである。以来何者もわたしの心を覆すことはできない。ただ一つの歌と説教とを聞いただけで、一瞬間にこのように変化を受けるとは不思議なことであろう。感謝! これはわたしの決心ではない。わたしの中に働いて下さった神の力によって救われたのである。」

 ここにもなお驚くべき実例がある。これは現在聖霊に満たされて大いに用いられているひとりの伝道者のあかしである。

 「わたしの救われたのは六年前の九月二十一日であった。いま伝道館が立てられている湊川新開地の空き地に張られていた日本伝道隊の天幕に入ったが、ひとりの宣教師は『何を信じ、なぜ信ずるか』ということについて語っていた。それをわたしは昨日のことのように覚えている。一、生きている愛にして全能の神の存在、二、生きている恐るべきほとんど全能に近い悪魔の存在、三、この神が人を愛しその祈りを聞かれること、四、人はその心に罪を愛しその生涯に罪を犯すこと、五、来るべき審判のあること、六、神はイエス・キリストによって救いの道を備えられたことについてであった。
 わたしは深く自己の必要について覚醒された。わたしは今悟っているようには神に対する罪について分からなかった。わたしがどんな具合に罪を悟ったか、はっきり言うことはできない。自分に対してか、他人に対してか、神に対してか分からないが、とにかく一つの妙な罪の感覚があった。それはおぼろであり、不確実でもあったが、しかし極めて現実的であった。わたしはその夜、神がわたしを助けて下さることを信ずることができた。わたしは第二の集会に残り、今のようなはっきりしたものではなかったけれども、イエス・キリストとその贖いのわざとを聞かせられるままに信じて、キリストによってわたしを受け入れ、また救って下さるように神に祈った。
 わたしの中に来た変化は急激であり、また驚くべきものであった。わたしは今これを思いだして、驚きと愛と讃美とに圧倒されるばかりである。次の朝、わたしは全く別人となっていた。古い罪の桎梏はみな砕かれて自由になった。」

 これは多くの実例の中の二、三の見本に過ぎない。イエス・キリストは昨日も今日も永遠に変わりたまわない。スカルの井戸の傍らの、憐れな文盲の、偏見に捕らわれていた淫婦は三十分いのちの言葉を聞くことによって、その心の中からいのちの泉が湧き出た。十字架上の瀕死の盗人はそれよりなお短い時間に覚醒され、赦され新生した。ピリピの獄吏は数時間の短い間に永遠の生命を獲得した。わたしを信ずる者は『わたしよりもっと大きいわざをするであろう』(ヨハネ十四・十二)と約束されたキリストは、今もなお変わりない大能の愛に満ちた救い主であられるのである。わたしたちはこれを信ずるであろうか。このような恵みの奇蹟の可能なことを確信することができたであろうか。神はなして下さるという信仰によって即時の救いをもって見ることは極めて大切である。これがなければ、人々を神に立ち帰らせることに成功する働きをなすことは困難であろう。
 このごろ帰国中に一つの小さな宣教師の会合において、即時の救いを異教国でも期待しなければならないと力説した。ところがその中に中国に遣わされていた敬虔なひとりの有名な婦人宣教師がいた。
 その婦人宣教師は、そのころ、リバプールにほど近いところの洗濯屋で働いている中国人のために聖書研究会を開いて、福音について教えていた。そして一度即時の救いをためしてみようと思って、さっそく次の集会で信仰と祈りとをもってしてみた。そして多数ではなかったが、ひとりを確かにキリストに導くことができた。彼女はその喜びをわたしのところに書いて来た。それは数年前のことであったが、ついに二、三日前、中国に帰る途中、彼女はわたしを訪問してこの物語を繰り返し、その中国人の洗濯屋が今もなおいかに輝いたキリスト者であるかを告げてくれた。
 もちろん誰も彼もこの調子で導かれるとは限らない。多くの者はさらにゆっくり動くであろう。しかしもしわたしたちの信仰と期待と祈りとまた使命の言葉とがさらに確実で力強いものであるならば、多くの魂は死のまぎわの盗人のように、ピリピの獄吏のように、すみやかに平和の道を見いだして、主の救いにあずかることができるであろう。

 二 魂をキリストに導くために要する真理の極めてわずかであることについて

 『真理の言葉を正しく教え』(第二テモテ二・十五)

 だれでも。救われるためにはある程度の真理を理解することがなければならない。もしそうしなければ正しく信ずることができないことは明らかである。大切なのはそれがどれだけの分量かということである。すでに述べたように異教の国で成功している説教者の特長は、その人が心と意志と良心とを動かすための梃子としてどれだけの真理が心にはいるべきかを認識していることである。これは極めて大切なことで、もしそうでなければ、不必要な講義をして、霊の糧の代わりに神学的な石を与えて求道者を困惑させ、失望させることになるであろう。
 よくその状態を診察し、現在取り扱っている魂が救いの真理を受け入れるまで覚醒されて、光を与えられ、また悔い改めているかどうか、或いは単に覚醒されたのみであるか、悔い改めてはいないが覚醒されているかどうか、確実にその実情を探り、どんな真理をこれに適用したらよいかを知らなければならない。
 そしてその真理は、できるだけ簡潔で確実でしかも了解しやすいものでなければならない。事実、もし聖霊が救いの必要を感じさせておられるならば、その救いのために必要な真理はごくわずかである。
 私はひとりの青年のことを覚えている。彼はそのころ銀行員であったが、今は大きな教会の牧師をしている。彼は毎夜おずおずと福音を聞きに来て、集会の終わらないうちにそっと帰るのであった。ある夜、わたしは彼を呼び止めて自宅に来るように案内した。彼は覚醒しまた十分に照らされた魂であることを見たので、すぐに救いに導こうとした。わたしは彼が「それがわたしのなすべき全部ですか」と尋ねたのをはっきり覚えている。「そうです。それが今なすべきことのすべてです」とわたしは答えた。彼はキリスト者になる前にキリスト教のすべての真理を理解しなくてもよいということに驚いたように見えた。彼はその場で救い主に頼り、そして新生の恵みを受けた。彼はその後、主の道を歩み、ついに召命を受けて伝道者となった。
 後章で、目ざめた魂に提供しなければならないわずかの真理とは何かについてさらに詳しく指摘をしたいと思う。現在はもしわたしたちが人間を捕る漁師となり、魂を救う者になろうと欲する場合、欠くことができないものは何であるかを知らせる。わたしたちの必要とは、一言で言うなら、目ざめた魂に生命の光を与えるために、ぜひ必要な真理が何であるかをわきまえる能力である。
 この真理は救いの真理でなければならない。今日は奇妙な雑種の福音が宣伝されていて、それを社会教化の福音と称えている。その目的の一つは、ある宣教師の言うように、下層階級の民にその不満を自覚させ、これによってその社会的環境を改善し、キリスト教を受け入れるために備えさせることであるという。若い宣教師たちの中に主の任命と調和しないこの種の変な考え方をする者が少なからずあることを、しばしば発見することは悲しいことである。
 彼らの目的とするところは全くの空想である。彼らの或る者は間もなく失望し、躓いて国に帰るのである。郷里の人々も、福音が何をなすかを知らないのでがっかりする。彼らは、帰ってきた宣教師たちがひとりとして福音の宣伝によって全世界を改革したり、その国がキリスト教化されたという報告を聞かないことを残念がるのである。バプテスマのヨハネもこのような躓きに陥ろうとした。彼は弟子を送って、主イエスに真に来るべきメシアであるかを尋ねさせた。ヨハネはキリストが少数の盲人を癒し、憐れな癩病人をきよめることをもって満足しておられることに不審を抱いたのである。彼はなぜユダヤ人をローマの桎梏より解放して下さらないのか、すべての圧政を踏み砕いて全世界を改造されないのであろうか、と。キリストは答えて、『行って、あなたがたが見聞きしたことを、ヨハネに報告しなさい』と言われ、そして意味の深い次の言葉を付け加えなさった。『わたしにつまずかない者は、さいわいである』と。
 これを要約するなら、わたしたちの仕事は火を消すことではない。主イエスは再びおいでになるとき、不義と罪との猛火を消し、永遠の義を携え、鉄の杖をもって支配されるであろう。今の時代において、彼はわたしたちに任命して、その諸国諸族の中からその名の下に民を集められるのである。こうして栄光の主の現れなさるとき、彼は町々を治め、世をさばき、天使をさばき、彼とともに地上を支配するだれも数え尽くすことのできないほどの栄えある友を持たれるようになるであろう。このような福音による神の経綸の順序を明らかに悟ること以上に、救霊者にとって大切なことはほかに多くないのである。
 ここで繰り返して言う。わたしたちが知って宣べ伝えなければならない真理は救いの真理であって、いわゆる旧式の、罪から救う福音である。これこそこの世が要する唯一のものであることを深く知るまで、わたしたちは救霊者となることはできないであろう。

 三 神のことばをどう用いるかについて

 『心に植えつけられている御言を、すなおに受け入れなさい。御言には、あなたがたのたましいを救う力がある』(ヤコブ一・二十一)

 帰国してのち再びアフリカへ行ったひとりの宣教師によって次のような話が伝えられている。彼はわずかばかりの品物を現地の人々に対する土産物にした。その中にいくつかの小さな鏡があった。彼はその中の一つをひとりの老婆に与えた。老婆はそれが自分の顔をそのまま反映するものであることを知るまでは、この新しい宝を非常に喜んでいた。老婆はもちろんそれまで鏡など見たこともなかった。老婆は鏡が自分のしわくちゃな醜い顔を映すことを知って、激怒して打ち砕いてしまった。自分の真相を知ることを好まなかったのである。ちょうど寓話にある駝鳥のように顔を砂に隠すことを願ったのである。
 この寓話の意義は明白である。神の言葉は、鏡のように、神の愛と恵みだけでなく、またわたしたちの心の実情についての真理をわたしたちに示すのである。救霊者のために最も大切なことはみことばを学ぶことであろう。
 多くの宣教師は自分で罪についての経験を持っている。そのため、どのように悩める良心を取り扱ったらよいかを知っている。しかしおそらく迷信の暗黒についての経験は持たないであろう。異教徒の自覚に立ち入ってその経験を味わうことはできないであろう。したがってもし彼が異教徒の心の迷宮に立ち入ろうと欲するなら、単なる推測や学校で学んだ自然宗教の研究以上の、診察と認識とのまさった道を知っていなければならない。
 もしわたしたちが誤りのない光を持っているのでなければ、導いている魂に簡単に欺かれてしまうのである。しかし人の心を探り、その思いを知っておられる神は、人の魂を覚醒し、傷つけ、包み、癒し、照らし、救うために知らなければならないすべての心理学を、その聖なる書の中に示しておられるのである。
 第一に、そこには聖書の完全な霊感についての信仰がなければならない。わたしたち自身の経験から言えば、聖書の完全な霊感を信じない人で、成功ある救霊者だという人に出会ったことがない。実に卓越した人格を持ち、強い意志を備え、豊かな素養を有する人々を知っているが、彼らはその働きにおいて人を感化して引きつけることはできる。しかし彼らの去ったあとには、人々は世に迷い、または無頓着になってしまうのである。
 感化は力ではない。感化は人を自らに引きつける。神の力は人々を神に引きつける。しばらく前に、呪いと誓いとをもって主を拒んだペテロは、神の力に満たされることがなければ、ペンテコステの日に何の感化も与えることができなかったであろう。
 このように、満たされた救霊者は、神の言葉によって示された人間の失われた状態とその必要についての誤りない診察と、またこれが提供する、悲惨と罪とに対する万能薬とをためらうことなく信ずることができるであろう。
 すべてにまさってわたしたちは聖書を学び、聖書が示す確実な言明と診察とを受け入れる必要がある。学校で聞かされるいっさいの誇張された空論に反対して、わたしたちは人が有罪であり(ローマ三・十九)、死んだ者であり(エペソ二・一)、神の敵であり(ローマ八・七)、暗く無知であり(エペソ四・十八)、弱い者であり(ローマ五・六)、不義を喜ぶ者であり(第二テサロニケ二・十二)、悪魔に捕らえられた者であり(第二テモテ二・二十五、二十六)、生まれつき不従順な者であり(ローマ五・十九)、主の前より永遠の滅びに至る刑罰を受ける者である(第二テサロニケ一・八、九)ことを信ずるであろうか。もしわたしたちがこれらのことを知りまた感じないならば、どのようにして人を救いに導くことができるであろうか。
 第二に、救霊者はこの特別な関係において聖書を学ぶ必要がある。人と物についての知識や、人の心について知ることも大切には違いないが、聖書の忠実な研究こそ人を導くために成功させるものである。
 単に聖書に記された診断を真実であると信じるだけではたいして益がない。罪のために悩む魂を癒すために備えられたところを学ぶために、労を厭わず、心を傾け、身を打ち込んで研究しなければならない。こうすることによってのみわたしたちは目ざめさせ、傷つけ、包み、癒すためにこれを用いることができる。ひとりの雄弁な説教家が放蕩息子の話をした。次の日、魂を救われたいひとりの悩む求道者が訪ねて来たとき、当惑したその牧師は「あなたの感情を損ねてお気の毒なことをしました」と言ったという話がある。彼の知恵を傾け尽くしても、ひとりの魂を救う知恵が出なかったのである。この目的のために、格別ほかの一切の問題を離れて聖書を学ぶ必要がある。多くの人は、ほかの問題について聖書を知っているが、最も大切なこの題目について学んだことがないのである。
 第三に、救霊者はまた神の言葉を用いることができなければならない。聖書に対する単なる信仰と知識だけでは不十分である。
 たぶん一つの例証がこの意味を明らかにするであろう。数年前、極東の地においてひとりの若いユダヤ人の救いのために尽くしたことがある。彼はキリスト教については全く知らなかった。彼はキリスト教の真理の一つも心得ていない。彼はその心の満足を求めてついに降神術に引っかかってしまった。彼はこれより逃れ出た経験を次のように語っている。

 「わたしはふとしたことからU氏と知り合いになり、福音についても話を聞かされ、おぼろげながら福音の真理の大略を知ることができた。ところがその後わたしは数歳年上の青年と知り合った。その青年は心理学に興味を持っていたが、私もそれに対して少なからぬ興味を感じたので、その結果深い友情を結ぶことになり、互いに意見を交換した。彼は降神術を信ずる青年だったので、わたしもあらゆる降神術の書を熱心に読みあさった。その結果、キリストの福音と全然反対の方向に進んで行った。
 わたしが次にU氏を訪問したときには、さかんに降神術の議論を持ち出した。その議論は表面はまことしやかなものであって、全然福音の真理と相容れないものである。U氏は一言もさえぎらずに、かなりの時間わたしひとりにしゃべらせた。そしてその後で何も語らず、ただいつも傍らに置いている聖書を取り上げ、微笑しながらそれを開いた。そして驚いたことには、その中からわたしの語った議論にはっきり当てはまった言葉を次から次へ読み上げた。そして最後に末の日になって『信心深い様子をしながらその実を捨てる』者の来ることを読んだ。それは道徳的正義を称えながら神を否定する降神術に、いかにもよく当てはまっていると感じた。
 わたしは座って聖書の言葉を聞いているうちに、二千年も前に書かれたこの聖書が現代のことまではっきり言っていることを考え、これは軽々しく捨て去ることのできる書物ではない、もし真理を知りたいと思えばこの書を重んじなければならないと深く感じた。(彼はこの時まで聖書を持つことさえ堅く拒んでいた。)わたしは降神術の書を読むことをためらわなかった。それなら神の言葉だという聖書を読むことで、何でためらう必要があろうか。わたしはこの気持ちをありのままU氏に告げて、しかし聖書が神の書であるとは思えない、やはり人の手によってできたものであると考えると付け加えた。
 彼のそれに対する返答はまた極めて簡単でまた有益なものであった。彼はヘブル人への手紙四章十二節『神の言葉は‥‥‥もろ刃のつるぎよりも鋭くて』との言葉を読んで次のような例題を語った。
 わたしがここに抜き身の剣を提げてきて、これは非常に鋭いものであるからためしてみるようにと言ったとする。しかしあなたは、いやそれは杖に過ぎないと言う。そしてどんなに説明しても、なかなかその考えを変えないと仮定するとしよう。そこでわたしはあなたに、それではこれを握ってみるようにと言う。あなたはそれを握って傷を受けたらその考えを変えるであろうと。その適用は難しくない。わたしはそのときから聖書を読み始めた。そしてそれが確かに剣であって、わたし自身深く傷つけられ、わたしの魂は夜昼安息できないまでになった。」

 この点について一つの警告を付け加えることは的外れとはならないであろう。伝道地において出会う最大の敵の一つは高等批評と称するものである。その害毒はただ牧師たちの間に見られるだけでなく、一般信者にも及んでいる。わたしは若い伝道者たちに熱誠をもって懇請する。もしあなたが救霊者となることを願うなら、これに触れてはいけない。このことについては多くの実例を持ち出すことができる。しかし今はその代表的な実例として、金森氏の自ら語るところを聞くことにしよう。

 「忘れもしない一八七六年一月三十日、美しい安息日の朝、有名な熊本バンドは生まれた。その朝花岡山に登ったのはちょうど四十名であった。『北の果てなる氷の山』(英文)の讃美歌を歌い、聖書を読んだ後、当時十八歳のわたしは献身の祈りをささげ、それによって一同、神への奉仕に身を献げた。我らの最後の歌は『われ十字架を取りすべてを捨ててイエスに従う』というのであった。それはわれらにとっては文字通りの告白であった。その時まで一同かなり野心を抱いていた。わたし自身も島国なる日本の将来の必要を思い大造船家となることを期していた。他の者もその家柄の手づるによって高位高官になろうと志していた。ゆえに我らは事実上いっさいを捨てたのである。
 このことを聞き知った家族からはさっそく激しい迫害が起こってきた。ひとりの青年のごときは百日間家に閉じ込められ、その他の者もそれぞれさまざまな方法で迫害された。わたし自身も多くの迫害の末に家督の権を奪われ、着の身着のまま、ただ二冊の本を手にして家を追い出されてしまった。二冊の書とは聖書と天路歴程であった。そのころ笑いながら、いっさいを失ってもなお悪魔と戦うために大小の剣を携えていると言ったものである。
 しかし神は我らの知らない間に避け所を備えて下さった。有名な新島氏はアメリカより帰られ、京都で学校を開かれたばかりのところで、その学校に入学することができた。十三名の者は神学部に入った。三年の後、学校を出て岡山で教会を開き、そこで七年間牧師をした。その間に恩師新島博士が病気となられたので、わたしはその補助者として呼び帰され、恩師をいたわりつつ校長代理を務めた。
 その後わたしの流浪の生涯は始まったのである。その当時、新神学と高等批評というものに接触するようになった。その書の中には翻訳を通して多くの人々を毒したようなものもある。日本の高等批評についてはわたしに大きな責任がある。初めのほどはかなり手ひどい反対もあった。中には握手もしないと言った友人もいた。しかしわたしは何も構わず、むしろ誇りをもって進み、ついに信仰は全く覆されてしまったのである。徹底的な批評はわたしから聖書を奪い去り、わたしの救い主に対しても新しい見方をするようになった。もはや心には信仰なく、くちびるには使命の言葉がなくなってしまった。ほどなく新島師は亡くなり、わたしもまた学校を去り世俗のわざに携わることとなった。
 時は政界改革の時であり、国家多事の際であったので、その中に飛び込み社会改革者のひとりになった。以来十五年間、わたしは政界の嘱託として一般民衆に勤倹貯蓄の道を教えて歩いた。このためにわたしは日本国中を幾度となく旅行し、毎日幾千の人々に語った。会衆はどんな大きな建物でもなお入りきれぬほどであった。群衆は非常な興味をもってわたしの言葉を聞いた。この世の側から言えば、それは大いなる成功であった。大きな収入、その地位、その名声、その人気は大したもので、強いて贈り物を押しつけられるほどであった。しかし精神的に言えば、わたしにとって最暗黒の時代であった。心に平安なく、何をしても少しの満足もなかった。この成功の絶頂において神の御手はわたしの上に加えられ、突然愛する妻を奪われた。わたしはどこに慰めを求めてよいか当惑した。そのうちにたちまちのようにわたしの家庭に光が照り出した。それは、子どもたちが単純に『ママは神さまのところに行った』と信じて語り合っている言葉であった。その子供らしい、しかも確かな子どもたちの信仰の言葉を用いて、神はもう一度真理に引き返して下さったのである。帰ってみれば、それは救い主と神の言葉とに対する最初の信仰にほかならなかった。聖書はもはや疑うことができない。キリストは神に満てる人と言わず、トマスとともに『わが主よ、わが神よ』と言うようになった。こうしてもう一度、人の心を満足させる神の子の栄光ある福音に使命をもつようになった‥‥‥。」

 四 人心の研究

 『神はまた人の心に世界を置かれた。』(伝道の書三・十一=欽定訳)

 かつてマレーシャ(ブース大将の長女)がひとりの大学教授とともに大きなパリの図書館の中を歩いていた時に言った。こんなにたくさんの書を学ばなければならない学生が気の毒だ。私はただ二冊さえ学べばよいのに、と。教授がそれがどんな書であるかと尋ねた時に、彼女は「聖書と人の心です。だから私は決してさびしくありません」と答えたという。このようにわたしたちもまた聖書と共に人の心を深く学ぶのでなければ成功者となることはできない。若い伝道者にたいしてこの真理をどれほど強調してもなお足りないことを覚えるのである。
 私は信者や回心者に、注意深くその経験を聞くことを心がけている。何が最初に彼らに感動を与えたのか、初めてキリストに信じ頼った時の経験はどうであったか、神が最初に語ってくださったのは何であったのか、なおまたできる限り彼らの以前の偏見、迷信、無知、罪悪についても明らかにしようと努めている。
 チャールズ・フィニーによって語られた以下の言葉はこの場合聞く価値があると思う。

 「どのように罪人を扱ってその回心を確かにするかを、不断の研究、日々の熟慮と祈りの題目とせよ。魂を救うことは地上においてキリスト者のなすべき大事業である。人はしばしば、どのようにして魂を導いたらよいか分からないと言うが、その理由は極めて明白である。すなわちそれについて研究しないからである。彼らはこの奉仕にかなう者となるために骨折らない。この世の仕事においても、自らその資格をつくるために努力しないならば、どうして成功者となることができようか。このように人生最大の仕事を怠って、何のために生きているのか。どうしたらキリストの御国の建設のためによい働きができるか、励み努めないなら、あなたは益のない悪いしもべである。どの点で神の霊は罪人に迫られるかを注意深く見いだすことを努めなければならない。もしあなたがその点から心を移すなら、罪人の覚醒を破壊する大きな危険に貧するであろう。何を考えているか、どう感じているか、何について最も深く感動しているか、人の心の状態を学ぶために骨折り、その大切な点を徹底的に打ち込んでいかなければならない。他のことに注意を散らしてはならない。」

 このように問いただすやり方は回心者のためにも有益である。これは彼らの思いを集中させ、何が今まで彼らの光を曇らせて光を見えなくさせていたかを悟り、また悔改の奇蹟を了解するためにも助けを与え、彼らの心の罪深い様子と共に、神の恵みと慈しみをも知らせることのできるものであり、進んでその霊的生涯とその経験において陥りやすい点をも啓示するものである。
 それだけでなく、既に述べたように、これはわたしたちの働きに欠くことのできない条件である。このような探求の結果、どのようにして人の心に届くことができるかを知ることができる。わたしたちは片手には聖書を持ち、片手には人の心の地図を広げる。こうしてこの真理をどのように人の救いのために用いたらよいかを知るようになる。またそれによってわたしの語ったどの説教が人の心に届いたか、またどの例話と聖句とが最も有効であったかを知ることができるのである。
 しかしそれだけではない。そこには大きな必要がある。このような観察と質問の結果得たものは、他の人の良心に届くための最も貴重な材料となるのである。どのような言葉でやっても効果のないとき、個人的なあかしを告げることによってこれを覚醒することができる。これこそ聖書のやり方である。聖書には個人的なあかしが詳細に載せられていて、聖書の大きな部分を占めている。わたしはかつてグラスゴーに行って、宣教運動についての集会を持ったことがある。わたしはその話の中で、一人の憐れな酔っぱらいの悔改の物語をした。その話をかなり詳細に述べて、罪人はありのまま、正直にへりくだって、直ちに救い主に来なければならないことを強調した。このような酒飲みの回心の話にどれだけの効果があるかは疑問であったが、とにかく落ちぶれた魂の何かの役に立つかと思い、この実話をかなり詳しく書き留めておいたのである。六週間ばかりのち、ウィスキーの奴隷となっている憐れな行商人から手紙を受け取った。彼はあの集会の時、なかば酔ったままで出席していたのである。しかし、わたしの前述の物語に至ったころには、少しは酔いも覚めかけていた。彼は考えた。もし神がそんな外国の酔いどれを簡単に救うことができるなら自分だって救われるに違いないと。彼はその場所で心を神に向け、砕けた告白と信仰の祈りをもって叫んだ。神の御手は短くはない。その場で彼の桎梏は砕かれて救われた。彼の手紙は今もわたしの前に置かれているのであるが、あまりに長くて全部を書くことはできない。ただ感謝献金が同封してあり、次に出会う酒飲みの救いのために用いてくれるようにと書き添えてあった。
 わたしはその後も彼と交わってきたが、神はただちに他の酒飲みを救うために用い始められた。数週間も経たないうちに、彼は十二名の禁酒誓約者を起し、そのうち二人を救い主に導くことができた。彼の悔改から一年ばかりのち、英国を去ろうとする間際、バーケンヘッドで集会をしていた時、その行商人が微笑みながら、ハレルヤと言って自ら名のって出て来た。彼はその後も、自分のあかしによって他の人々を十字架に導いたと語っていた。遠く日本で起こった小さな話が、それほどの考えもなく蒔かれたことによって、聖霊の風で海を越えて運ばれ、スコットランドの憐れな酔いどれの心の畑に蒔かれて、そこで豊かな収穫を生ずるようになったのである。これは神が魂の救いのために用いられる、単純であるが不思議な方法の一つである。栄光を主に帰するように。再びわたしは繰り返したい。人の心を研究せよ。そしてその研究を活用せよ。観察せよ、そしてその観察を利用せよ、と。
 わたしたちは即座の救いの可能性を信じているだろうか。わたしたちは無知な魂をキリストに導くために必要な真理の中心を握っているだろうか。わたしたちは心が光と火に満たされるまで聖書を深く学んだであろうか。わたしたちの目と耳は、人の心の呻きと叫びと祈りと、また救い主を見いだしたその勝利の叫びとに対して開かれているだろうか。もしそうでないなら、おそらく成功ある救霊者となることはできないであろう。どうか聖霊がわたしたちの心を励ましてわたしたちの仕事の重大さを悟らしめ、そして魂の救いは神の奇蹟であってそのほかのものではないこと、悔い改めた者の意志の努力の結果でもないこと、また有名な宣教師たちの言うように、自らの人格を他の人格に印象づけることでもないことを知らせてくださるように。
 


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