第三章 人間の診察──その理解力


 
 『その無知な心は暗くなったからである。彼らは自ら知者と称しながら、愚かになり』(ローマ一・二十一、二十二)
 『主は人の悪が地にはびこり、すべてその思いはかることが、いつも悪いことばかりであるのを見られた』(創世記六・五)

 魂の願いが、今までの沈み込んでいた沼の中から幾分救い出され、その渇望を満たすものがかすかに見え始めたとしても、それは仕事の手始めである。その魂が救い主に対して信仰を働かすようになる前に、その理解力が啓発されなければならない。
 前章では人の願望の堕落について全般に渡っての考究が不可能なので、ただその神に向かう態度についてだけ学んできたが、本章においても、人の心を蔽う暗黒のすべてを記す余地がない。今はただ、生まれつきの心が全く無知である宗教上の四つの大きな事柄について述べたいと思う。すなわち、神の存在、神の賜物、神の前における状態、神に立ち帰る道についてである。わたしたちはこれらの根本原理に関して全く無知である事実を十分に認めなければならない。そして常に研究と祈りと質問と、そのほか可能な限りの方法をもって、どうしたら人の理解力を啓発できるかを知ろうと努めなければならない。ではこの四つの問題に注意力を集中して考えることにしよう。

 一 神を認めない

 『この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった』(第一コリント一・二十一)

 キリスト教国と呼ばれる国においては、だれでも神の存在を知的には認めている。したがって、一度覚醒すればすぐに神に向かうようになる。良心はすでに働く材料をもっているのである。良心はすぐに人々の心と意志とを動かす梃子として用いることができる。しかし異教の諸国においては全く異なる。魂がその危険と必要とに目ざめたときにおいても、そこは全く暗黒であって何の光もない。かつて暗黒の中にあり今は敬虔な伝道者となっているひとりの人の証言は、この事実を例証するものとして非常に興味深い。彼は言う。
 「わたしは十歳の時、初めて死ということについて考え始めた。忘れもしないが、ある夜、床の上に起きあがって死について考え出した。わたしは自分が死骸になって棺に入れられている状態を想像した。そうして葬られたのである。そこは実に暗い。わたしの心は耐えられないほど苦しいが叫ぶこともできない。こんな疑問を解いてくれるのは人間ではなく神のほかにあるまいと思って、さまざまな神について考え始めた。一つひとつ数えてみれば数限りないほどたくさんある。その中の一番偉い神でなければならないと考えた。わたしにはそれが誰であるかわからない。またどうすればよいかもわからない。ただむやみに熱心に『おお神よ、助けたまえ』と叫んでみたが何の手応えもない。ついに疲れて寝てしまった。翌日学校に行って先生に尋ねてみた。先生は、神というのは昔の英雄で今は死んだ人の魂だと教えてくれた。何という失望であったことか。助けを求めた神もまた死んで葬られた人に過ぎないというのだ。わたしには、死んだ人よりまさった者の助けが必要であったのである。月日は流れた。しかしわたしは暗黒の中に悶えた。ひとりにさえなれば、しきりに考え込むのであった。しかし暗黒は増すばかりで望みはなかった。わたしの父は孔子の教えを学んでいたので、『天』についてよく語っていた。そこでわたしは庭先に出て、天を仰いで叫んでみた。求めるなら、天が助けてくれると考えたからである。しかし、それはただ空虚な青空に過ぎなかった。」
 これが幾世紀の間、自然宗教が霊魂のためになしてきたことである。覚醒した魂に対して、天にいます生ける神の存在という、真の宗教の初歩の真理をさえ悟らせることができないのである。
 異教徒は神を知らない。その精神には霊的内容がない。キリスト教国において「神」といえば、驚きと畏れと美しさの連想を伴うものであるが、彼らには空虚な音響に過ぎない。日本では、偉人を祭り上げたに過ぎない場合が多い。唯一の神の知識は霊魂の中から抹消されてしまったのである。もし神の存在が没却されたとすれば、宗教の力は失われたのである。もし神がなければ、そこには罪もなければゆるしもなく、救いもなければ人生の目標もない。ただ「わたしたちは飲み食いしようではないか。明日もわからぬ命なのだ」(第一コリント十五・三十三)となっていっさいは空しくなるのである。
 異教諸国における霊魂の暗黒は実に甚だしい。ほとんど絶望状態である。しかしまたそこに光のひらめきを見ることもある。わたしは救われた魂に、異教徒であったころどのような神観念を持っていたかを尋ねることにしているが、励まされるような実例は非常に少ない。時には神についての極めてかすかな漠然とした考えが影のようにその心にとどまっている魂に出会うこともある。その思いは極めてかすかで、彼らも自覚していないほどであるが、何か危険があったときか、福音に接したときに喚起されてくるのである。それはアテネの町に設けられた「知られざる神に」の祭壇のようである。暗黒と迷信の中でも、時にはこれを見いだすことができる。しかしそれも極めて稀であることを付け加えておかなければならない。しかしまた、時には神がその絶対の恵みをもって、人の手を借りることなく異教徒の心を照らされることを見て驚かされることもある。これはわたしには実に悲しいことと思われる。なぜなら、神はその救いを与えられるのに人を用いられるということが、しばしば聖書の中に明記されているからである。それなのに、教会はこの光栄ある責任を負うのにあまりにも怠慢であるから、神はしばしばそのみことばによって、夢を通し幻を通して異教徒の魂に御自身を啓示されるのである。
 私はここに一つの実例を挙げよう。その人は、殺人罪を犯して終身懲役に処せられ、二十五年間獄窓にあって、いま福音を伝えている。彼は恐るべき刑務所の状態を述べ、更に話を続けて次のように言っている。
 「私はこのような状況下にあって、心もからだも全く打ち伏せられていた。ある時ふとしたことで、何も自分に知らない一つの出来事のために非常な辱めを受けた。わたしは烈火のように怒り、気も狂わんばかりになった。その夜は激しい怒りのために眠ることもできない。告げ口をした者に対する憤りはますます強くなった。その時、不思議なことにわたしの心に一つの思いが浮かんで来た。それは、もしこの世の中に全知全能の神があるとするなら、昨日のこともすっかり知っておられて正しい審判をされるに違いない。自分は別に悪事をやったわけではないのだから。よし、いっさいを神の手に任せよう。その思いは、夢か幻のようにしてわたしの心に入ってきたが、しかしはっきりしていた。そこでわたしの心は静められて、ぐっすり眠り込んでしまった。翌朝、目がさめてみると昨夜の恐ろしい思いは雲のように消えている。神はいっさいを知っておられる、自分は神に任せるのだという思いがいっぱいになっていた。次に考えたことは、この神をもっと知りたいということであった。それから新約聖書を読み始めた。このようにして、初めてわたしに宗教心が起こったのである。マタイ福音書を一ページずつ読んで、山上の垂訓の箇所に来たとき、一言一句が心に触れて来た。そして十一章二十八節の『すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう』との言葉に接したときには、飛び上がって喜んで叫んだ。『これこそ信頼のできる神だ』と。わたしは今まで多くの書物を読んだが、何の助けも得られなかった。しかし三十三歳のこの年になって、初めて真の信仰を見いだしたのである。『健康な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである』(ルカ五・三十一、三十二)とのことばも強く心に響いた。これらのことばによってはっきり悔い改め、へりくだってキリストに来て罪のゆるしを求めるようになったのである。」
 このように神は時には直接に魂に語って下さることもあるが、その御旨は、人のくちびると生涯とを用いることにある。したがってわたしたちはわたしたちの果たさなければならない仕事に帰って考えることにしよう。

 二 神の賜物を知らない

 『もしあなたが神の賜物のことを知り、また「水を飲ませてくれ」と言った者が、だれであるかを知っていたならば、あなたの方から願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう』(ヨハネ福音書四・十)

 神を知らない当然の結果として神の賜物も知らない。神が在すことを知らないで、どうして神が偉大な与え主であることを知ることが出来ようか。ここに福音の大いなる根本原理の一つがある。太陽が照らさずにおられないように、神は与えずにはおられない。もしわたしたちが最善の賜物、すなわち霊の賜物を与えられることを妨げたとしても、神は物質上の祝福を良い者にも悪い者にも与えて下さるのである。
 わたしたちの生まれつきの心がいつも誤りやすい、ある宗教上の原則がある。人の心は不思議にも、極めてわかりきったありふれたことにすら、全く盲目なものである。聖霊は常に「間違ってはいけない」という前提のもとにこのような事実を述べておられる。たとえば『まちがってはいけない。神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる』(ガラテア六・七)のようなみことばであるが、最もはっきりした例の一つは、神が与え主であることについてのみことばである。『愛する兄弟よ。思い違いをしてはいけない。あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない』(ヤコブ一・十七)。
 もし人が、このようなわかりやすい日常のことにおいてもこのように無知であるとするなら、神の霊の賜物について知ることがないのは当然である。神の造物主であることや、その正義と力とは認めることができても、悪い者、いや反逆する者にさえ与える賜物を持っておられるというに至っては、これを理解することも信ずることもできない。このように人の心は眩まされたのである。どうかわたしたちにこのことを悟らせて下さい。そうしてわたしたちはこの大切な題目について、人の心を照らすことができるようになる。しかもこれは頭脳の問題でなく、心の無知の問題であることを承知してかからなければならない。神が、恩知らずの値打ちのない愛する価値のない悪者にまで与えることを願われるということは、人の性質ではほとんど認識することができないことである。人の性質は堕落しているために、自分の愛する者とか、恩義のある者とか、良い者とか、関係のある人の繋がりによって求める者とかに与えるという以外は考えることができないようになっている。この考えは極めて深く心に根ざしていて、醜いものである。悪い者、恩を忘れる者に対する神の慈悲と憐れみとは、わたしたちの生まれつきの理解には全く縁がないことなのである。わたしたちが抜き取らなければならないのは、この害毒である。これこそ追い出さなければならない暗黒である。わたしたちは神の恵みによって、神が与えて下さるという栄えある福音の光を人々の心に照らす働きをしなければならない。わたしたちは人の心の真の状態と、真の必要と、またわたしたちの果たさなければならない仕事の性質とを深く悟るようにならなければ、これをなすことはできないであろう。
 このことについての心の無知は、新生していない魂にとっては普通のことである。人の心の暗さには、実に甚だしいものがある。神については、その初歩の真理に対してすら全く無知である。この実状を深く悟って魂に接しないならば、わたしたちの伝道は空を打つように、人の心に入らないであろう。

 三 人は自分の真相を知らない

 『あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない』(ヨハネ黙示録三・十七)

 新生していない魂は、神の前における自己の真の状態を悟ることができない。人は哲学や神学や経済学などの難しい問題を考えることができるとしても、自らの神の前における霊的状態については、神の助けなくしては診察できない。わたしたちの第三の仕事は、このことについて人の心を照らすことである。
 わたしが初めて日本に来たとき住んでいた町に、ひとりの愛すべき乞食がいた。きたない襤褸を纏いながら物乞いをしているが、非常に朗らかである。聞いてみれば、彼は憐れな狂人であって、自ら天皇陛下だと思い込んでいる。彼は悩める貧しいけがれた狂人であるが、その実状を少しも悟っていない。わたしは、人の心の道徳的に暗黒なことを考え、黙示録三章十七節の『あなた自身、気がついていない』とのみことばを思い起した。確かに人の思いと理解とは全くの暗黒状態にある。
 異教徒の間にあっては、最も熱心な信心と甚だしい不道徳とが平気で同時に行われる。さまざまの神々に熱心に祈願を立てながら、同時にさまざまの罪悪を犯して不思議とも思わない者が極めて多い。
 仏教の僧侶が遊郭を訪れて読経をやり、その商売の祝福を祈る。それをだれも不思議と思わない。人の心は全く思い違いをしているのである。救霊者は、そのような暗黒に坐する者の救いのために熱心に祈る前に、まずこのような恐るべき事実に直面し、その実情について知らなければならない。
 人々を救いに導こうとするときに、その人々が、自分たちの真の状態を知らないということほど、難しく面倒なことはない。彼らは国の法律を破るということ以上に何の罪の意識もない。わたしは彼らに全く罪の自覚のないのを見て、心を痛めて立ち去ることがしばしばである。一般的に言えば、罪が患難と悲惨と恥辱との結果を生み出したときだけ、罪の恐ろしさを悟るものであって、それも聖なる神に対する罪として悟るのではない。
 この罪に対する無知は神を知らないことの当然の結果であるが、更にその必要についての無知は神の賜物と慈愛とを知らないためである。『もしあなたが神の賜物を知ったならば』と、救い主は憐れなサマリアの女に言われる。人々は『約束の安息』『生ける水』『神の力』『永遠の生命』などについてかつて聞いたことはない。そのため、疲れた者、渇く者、無力で滅びてしまう者であることをただぼんやり了解するに過ぎない。彼らに、心の安息とは何か、キリストの与えられる生ける水とは何か、真の自由とは何か、来らんとする怒りからの救いとは何かを悟らせなければならない。もしそうするなら、強い必要の感覚がたちまち呼びさまされるようになるであろう。
 わたしがここで最も強く主張したい要点はこれである。すなわち功利的見地から判断して、いかに罪の悪い結果と道徳的邪悪とに対する感覚が強烈であっても、きよい神の前における罪の感覚は全く欠乏しているということである。この点において、彼らは望みのないままに暗黒に座しているのである。
 彼らをこのことで覚醒させるのはただ聖霊のみのお働きで、わたしたちはその道具に使われるに過ぎない。
 どうかわたしたちがこの事実に直面し、それを深く感ずることができるように。そしてこの仕事の困難さを見させてください。それによってのみ、わたしたちは人々をやみから光に立ち帰らせるこの仕事のために武装されるため、祈りと研究に携わることができるようになるであろう。

 四 道を知らない

 『彼らは平和の道を知らない』(ローマ三・十七)
 『もしおまえも、この日に、平和をもたらす道を知ってさえいたなら‥‥‥しかし、それは今おまえの目に隠されている』(ルカ十九・四十二)

 すべての無知の中で最も不幸なものは、この憐れみと恵みと平和とを、魂から蔽い隠す暗黒である。人々を導くとき、すでに救いの必要と、自分の罪と、神から遠ざかっていることとを知っている者であっても、どうしたら救われるかを尋ねるときに、その返答に驚かされることが多い。中には神のみことばを読んだり、学んだりしている者もあるが、その答えは、「悔い改めること」「最善を尽くすこと」「祈ること」「キリスト教を研究すること」「教会に加わること」「洗礼を受けること」等である。これも「わたしは救われるために、何をすべきでしょうか」という大切な問題に対する答えである。馬車に乗っていた宦官のように、熱心に神を信じ聖書を学びながら、ことにいのちの道について記したイザヤ書五十三章を読みながらなお悟ることができない。生まれつきのままの人は、あがないの道や、身代わりの死や、神の御子の流された血による罪のゆるしの恩寵について知ることができない。この霊的盲目についての最も顕著な実例は、日本にある敬虔なひとりの宣教師の経験であろう。ここに、彼女の働きについて記した小冊子がある。ここから彼女自身のあかしを抜粋しよう。
 「わたしはアメリカで一つの学校を教えているとき深く自分の罪を悟りました。時には重荷に耐えかねて、放課後ひとり教室に残って、この恐ろしい重荷を取り去ってくださるように祈り求めました。どうしたらこれからのがれることができるか知りません。わたしは全く無知で、ただ罪を告白してそのゆるしを求める以上のことを知りませんでした。時は移りました。しかし心の重荷は依然として去りません。友人はキリストを信じることを告白して教会に加わります。わたしも志願して試験を受けることになりました。わたしは自分が真に罪人であること、キリストを世の救い主として信じ、またわたしの主として受け、聖書を自分の指導書とすることを告白することができました。それは受け入れられ、洗礼を授けられました。しかし罪の恐ろしい自覚はなおわたしの上にあります。わたしは牧師や長老たちにこれを話したのですが、彼らはそれはだれでも同じことで、死ぬまで続くもので、それこそ罪に対する識別力のできたしるしで、恵みに進んだためであると言いました。
 わたしは熱心に働きました。捨てるべき罪はいっさい捨て、すべての悪に対して断乎として立ち向かいました。わたしは聖なる働きに携わり、教師であり指導者である立場に置かれたのです。これは、今思い出しても戦慄を覚えます。神は実にわたしのような罪人に対して憐れみ深い方であられたのです。
 学校や教会では、女子青年会や日曜学校や時には特別集会などに携わり、ついには日本に遣わされることになったのです。この間非常に多忙で、話をしたり教えたりするためにいろいろのものを読みあさり、さまざまな材料を集めて間に合わせていました。
 この間にも罪の自覚はなお去りません。全く無知で、死んだらのがれるものだろうと、覚束ない望みを持っていましたが、いよいよ働くことにも嫌気がして来ました。
 日本に来ても、説教をつくることに骨が折れ、一生懸命やってみても聞きに来る者に何の変化も起こりません。ただ計画ばかり先行して心は焦るばかりでした。そればかりでなく、聖書はわたしにとって閉じられた書で何の味もありません。太平洋を越えて帰国の途中、バックストン氏が出エジプト記二十八章を開いて祭司の衣について話されるのを聞きました。わたしには何のことかさっぱりわかりません。しかしこの神の人がわたしの持っていないものを持っているということだけは分かりました。
 なお幾年か、このような失敗の年が続いて、この重荷はいよいよ重くなるばかりでした。そこで今度の休暇を延長してもらって、もっと神学や科学を学び、聖書の光も与えられ、人を導く力を得たいと考えました。しかし休暇の前にわたしは健康を害してしまい、帰国してからはその回復のために時を費やさなければなりませんでした。
 やがて時が来て再び日本に向かいました。罪の恐るべき重荷は依然として取り去られません。日本に到着してからは、旧に倍する熱心をもって聖書を教え、教会を形成するために懸命に働きました。
 ほむべきかな。神はそこでわたしを捕らえて下さいました。神はひとりの日本伝道隊の教師を遣わし、わたしの病み疲れた魂に信仰による救いの道を知らせて下さったのです。カルバリの十字架の贖いはわたしのためであり、そこでわたしの悲惨な罪の重荷は処置されている。イザヤ書五十三章六節をわたしのゆるしのために受け入れたとき、忘れもしません、今このあかしを書いているこの部屋で、午後四時、聖霊はわたしに臨み、罪を知らない方がわたしのために罪となって、わたしを神の義とさせるために死んで下さったという真理を、手に取るようにはっきり示して下さったのです。主イエスをこのように信ずると、すぐ、長い間背負ってきた罪の重荷がたちどころに取り去られました。ハレルヤ。
 更に一年が過ぎました。古い重荷は取り去られました。しかしまだわたしの試みが終わったわけではありません。罪はなおわたしの肢体を支配していて、これに対する勝利がありません。わたしにはなお世俗的なところが残っていました。神は憐れみをもって、その使者を通して古き人が処置されなければならないことを示して下さいました。これはわたしにとって実に新しい教えでした。それまでわたしは、人の性は本来善なるもので、適当に教育されれば、そのままキリストを主として認めることによってすぐに教会に加わることができるもので、そこには罪の遺伝性もなく、贖いの必要もない。ただ主の御足の跡に従いさえすればよいとだけ信じていました。罪の存在する理由は、幼少のころに十分な、そして適当な訓練を施さないためであると考えてきましたので、わたしが生まれつき罪のかたまりだということを聞かされたとき、その驚きはたいへんなものでした。しかしわたしは二十一年の長い年月の間、罪のために悩まされて来ました。自ら罪人であることは十分承知しています。この罪がわたしの全存在、すなわち思いにも、ことばにも、感情にも、全部に浸透しているという事実を拒むことができません。ことに聖書がそれを語っているのですから、もはやのがれることはできません。恐ろしい暗黒の力はわたしを圧迫します。何とかひとりで祈りたいという願いでいっぱいになりました。心の反逆と、世のものに対する執着と、さまざまの大小の偶像とが一つになり、ただ一つの『自我』として示されました。
 このような罪人のかしらに授けられる恵みがなおあるだろうかと考えました。しかし神の約束のことばはわたしを励まします。一日、朝早くから夜遅くまでひとり神とともに過ごし、聖言を学び、信仰と告白と祈りとをもって神に語りました。こうしてわたしは死に、神とともによみがえったのです。聖霊は来たりてわたしの全存在に臨み、罪の身が滅んで内住の罪から解放され、御手の中に生きる者であることを明らかに自覚させてくださいました。
 以来、主の食卓にあって、いつもふるまいにあずかっています。わからなかった出エジプト記二十八章もしばしば開かれ、常に新しい光を与えられています。肢体の中に働く誘惑にもみごとに勝っています。おお、神を頌めよ。神は勝利者です。神とともに歩むことは勝利です。わたしは自分の険しい働きを休みました。今は神が働いてくださいます。永遠の安息はわたしのものです。」
 これは実に厳粛なことである。わたしたち自身の経験に当てはまらなくても、わたしたちの奉仕において深く探られる必要がある。聖書によって教えられて来たキリスト教国に生まれた者ですらこのようであるとすれば、異教国の民がこの点においていかに誤りやすいかを知ることができるだろう。
 わたしたちはこのような明白な事実を多少は心得ているし、人の心の暗黒がいかに甚だしいかを、救霊者になろうとする人々に更に深く悟らせたいのである。再び繰り返して言う。わたしたちはこれらのことを感じなければ、この戦いにおいて必要な力も決心も、また天的な知恵も奪われてしまうであろう。このことをわたしたちが悟るときにおいてのみ、この働きのために武装され、人々に救われるべき光を与えることのできる神のことばと人の道を学ぶことを求めるようになるだろう。
 人々は神を知らない。また神が与え主であられることも、神の前においての自分の真相も、また神に立ち帰るべき道をも知らない。
 『彼らの知力は暗くなり、その内なる無知と心の硬化とにより、神のいのちから遠く離れ』(エペソ四・十八)
 


| 目次 | 序文 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 |