第三章(前半)



 本章において堕落の話を見ます。人間の失敗の話を見ます。これは聖書の中の大切なる章の中の一つです。これによって罪の恐るべきことと、人間の弱きことと、神の忍耐とまたその救いを悟ることができます。どうぞ深くこれを研究しとうございます。
 ここでこういうことが黙示せられましたから、必ず悪魔はこの章を好みません。それによって種々なる疑いを起こします。けれども主を信ずる者はこの章を信じてこれによって神の奥義を学びます。
 ローマ書五章十二、十五、十六、十七節をご覧なさい。創世記二章において生命の川の流れることを見ました。いま死の川の泉またその流れを見ます。この章において罪はただ一つにとどまりませずして実を結ぶことを学びます。漸く他人に及ぼして大いなる死の川のようになります。


一  節

 蛇は動物中に最も貴きものでした。人間といちばん親しき交わりができました。いま蛇のからだを研究しますならば、動物中最も賤しきものであります。けれども脳髄はいちばん発達しております。学者はその訳を知りません。何故賤しき体にかかる貴き脳髄があるかわかりません。けれどもこの三章においてこれがわかります。その時に動物の中に最も貴きものでした。けれどもサタンにその身を任せました。あるいはその蛇は動物中にサタンによく似ている者であったかも知れません。後からサタンもたびたび蛇と言われます。黙示録十二章九節、二十章二節をご覧なさい。ここに龍の言葉があります。龍という生き物はないものです。けれどもいずれの国へ参りましても、龍の話があります。太古より龍の絵画があります。その龍はサタンの伝説であると思います。この三章一節においては蛇は龍のごときものでした。その時に詛われましたから美わしき形と栄光を取り除かれました。けれどもその時にやはり龍のようなものでした。また翼も足もありましたでしょう。
 『へびは女に言った。「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」』。蛇は直ちにその果を食べるようには言いません。サタンは今でも直ちに罪を犯せよとは言いません。けれどもこのように回り路をもって漸次疑いを起こして私どもを罪に陥れます。サタンは神の与えたもうたすべての恵み、またすべての樹のことを話しません。ただ神の拒みたもうた一本の樹のことについて論じます。またそのためにエバの心の中に神の愛を疑う疑いを起こします。サタンはたびたびそのようにみなさんを誘い惑わしたと思います。神が私どもに与えたまいません恵みのために私どもの心の中に呟きを起こさせます。あるいは神の愛を疑うように導きます。私どもはそういう疑いあるいは呟きの起こりますときに、神が最早与えたもうたすべての恵みを考えますならば、蛇の誘惑を退けます。
 箴言五章三節をご覧なさい。ここで蛇の話はちょうどそのようであることを見ます。サタンは種々の体をもってそんな話をします。あるいは私どもの心の中に直接にそんなことを呟きます。その時に神の恵みを感謝しますならば、サタンが退きます。エバはそうではありませんから漸次誘われました。


二、三節

 『これに触れるな』。そうですから、エバは神の言葉に付け加えました。また神の言葉の意味を弱くしました。『死んではいけないからと神は言われました』。けれども神はなんと言いたまいましたかならば、『きっと死ぬであろう』。エバの言葉はそういう力がありません。エバは神の言葉の力と神の言葉の利きことを除きました。それ故に漸次誘惑に陥ります。どうぞ神の言葉に加減することに注意しなさい。これは罪に陥ることの二番目の階段です。箴言三十章五、六節、黙示録二十二章十八、十九節をご覧なさい。そのままに神の言葉を受け入れなさい。そのままにそれに従ってそれを成就せねばなりません。自分の心に従ってこのことを受け入れ、かのことを受け入れぬように読みますならば、サタンに誘われて罪を犯します。
 蛇はそこまで女を引きましたから、いま直接に神の真を拒むことができます。


四、五節

 全く神を偽るものとします。蛇は一節において神の愛を拒みました。またここで神の真を拒みました。また五節において神の絶対なる栄光を拒みます。汝も神のごときものとなることができるからと申しまして神の無類なる栄光を拒みます。今でもサタンは神の愛と神の真と神の栄光を拒んで私どもを誘惑します。
 けれどもここでサタンの言いましたことのうちに真がないと言われません。五節をご覧なさい。またこれは人間の大いなる望みであります。神は人間をそのごとくにならしめたまいとうございます。人間をご自分の位に座せしめたもうことは神ご自身の目的です。サタンはそのようにいつでも神の真を取りて人間を誘います。最も高貴なる真理を間違ったふうに顕します。サタンは神を間違ったふうに顕します。そのために私どもは聖書全体を調べてそれを受け入れねばなりません。サタンはたびたび一つの真理をもって、聖書の一節をもって人間を誘います。一つのことを間違ったふうに顕して私どもを罪に陥れます。
 ここでサタンの三つの偽りを見ます。
 第一、神は恵みを惜しみたもう。(一節)
 第二、地獄がありません。何もありません。神は恵みの神ですから必ずあなたを罰したまいません。死ぬることはありません。(四節)
 第三、自分の旨に従って往きますならば、汝は神のごときものとなることができます。神を忘れて自分一人にて漸次進歩して全き者となることができます。(五節)
 神はかくすれば詛いが来ると言いたまいます。サタンは、否そうではありません、詛いが参りません、なおなお幸福を得ると言います。兄姉よ、たびたび心の中にそういう戦いがあったと思います。忠実に神に従いますならば、こういう幸福を失うとサタンは申します。却って幾分か自分の旨に従いますならば、詛いが参りませずして幸福を得ます。サタンはたぶんそのごとくに皆様を誘いましたと思います。神を疑わずして全き心をもって神の言葉に従いなさい。幾分にても自分の旨に従って幸福を求めますならば、ただ失敗のみです。このときに人間は神を疑いましたから亡びました。
 サタンは間違ったふうに神を顕します。人間のためにこういう幸福があります。けれども神は人間を妨げたもうと申します。これはサタンの言葉です。人間のために限りなき幸福も智識も神になる途も具わってあります。けれども神は妬みのために人間を妨げます。これは実に恐ろしき思想です。けれども今でもサタンは私どもの心の中にそういう考えを起こしとうございます。またサタンは神は真でないものと申します。神は恵みを与えたまいます。けれどもこれは全き恵みではありません。人間のために実に大いなる幸いがあります。けれども神はそれを拒みたまいます。また神は怒りを顕したもう時にも真を言いたまいません。悪魔はこのように申します。たとえば神は汝これを取って食べるときっと死ぬであろうと言いたまいました。けれどもあなたがたは決して死ぬことはないでしょうと申して神の怒りを疑わしめます。このようにサタンは神は律法においても恵みにおいても真実にありたまわぬと申して人間を疑わしめます。
 聖霊は神は真実なる者なりと示します。その言うことが真実なることを示したまいます。神の真実は第一に信ずべきことです。これは悔い改めの源です。また第一の実です。どうぞ私どもはサタンの誘いを悟りまして、神の言葉をそのままに受け入れとうございます。
 その時にサタンが自分の形をもって参りましたならば、エバは誘われませんでしたでしょう。けれどもサタンはエバの最早慣れておる形をもって参りました。また終始交わっておる蛇の形をもってエバを誘いました。これによって悪魔の恐るべきことがわかります。もしも悪魔は自分でその真相を顕して参りますならば、私どもはそれを恐れ、それを憎みます。そうですからそういう誘いに曳かれて罪を犯しません。けれどもサタンは親しきものを使って私どもを誘います。そうですからいつでも目覚めて生涯を送らねばなりません。
 聖きパラダイスの園において、悪魔が入ることを得ましたならば、必ずこの世の今の汚れたる有様を使って私どもに近づきます。それ故に恐れをもって主に従いなさい。
 もはや神の聖潔を得たる者は、格別に恐れと謹みをもって、主に従わねばなりません。コリント後書十一章三節をご覧なさい。それゆえにこれは平生の誘惑です。英語聖書にはキリストの中にある誠実を離れんことを我ら恐れるとあります。その時にサタンは格別に智識を与えようと申してエバを誘いました。神は生命を与えたまいます。またそれから後に霊に属ける智識を与えたまいます。サタンははじめから智識を与えるように約束します。またそのように智識を得ますならば、自分の害となります。コリント前書八章一節の後半をご覧なさい。サタンはエバを誇らしめとうございます。罪人が神に対して誇ることを望みます。格別にサタンは罪人の心の中に高慢を起こしとうございます。三章の話を見ますならば、エバの心の中に漸次高慢を起こして、神に反対して自己を高くします。
 サタンは何のためにそれをしましたかならば、その種を蒔きましたからです。サタンの種は詐りです。また罪人の心の中に詐りを播いて漸次恐ろしき実を結ばします。それを改めるために神はご自分の種を播きたまいます。神の種は何ですかならば、真の言葉です。私どもは今までサタンの言葉に耳を傾けましたから、誘われて罪を犯しましたように、神の言葉に耳を傾けることによって、自己を卑しうして漸次神のために実を結ぶことができます。サタンの種の第一の実は高慢です。神の種の第一の実は謙遜です。
 またそれによりて罪人の心の中に格別に神の働きが顕れてまいります。砕けたる心がありますならば、高慢を捨てて謙遜になりますならば、必ず神はご自分の働きを始めたまいます。


六  節

 『女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから』。エバはサタンの働きによって木に目を付けました。サタンの働きによって女は深くそれを思いました。これはサタンの誘惑の始めの階段です。私どもをして深くそういうことを思わしめることです。エバの周囲に善き木また美わしき木がいかほどありましたでしょうか。また美わしき景色や味わいの美わしきものが如何ほどありましたでしょうか。けれどもサタンの誘惑によりて神の禁じたる木に目を付けました。私どものまわりに神の恵みのしるしがたくさんあります。また恵みを受ける方法がたくさんあります。けれどもサタンはそういうことを思わしめませずして、私どもを誘わんがためにかのことを思わしめこのことを思わしめます。また何程そのことによりて楽しみを得ることができるかを思わしめます。そうですから漸次手を伸ばしてその実を採ります。これは罪の道であります。罪の道は第一にサタンの声に耳を傾けます。第二に常にこれを眺めます。第三に取って自分のものとします。第四にそれを食らいます。耳によって、目によって、手によって、心によって罪を犯します。
 またこれによってすべての恵みを与えたもうた神を捨てて悪魔に従います。愛の神を捨てて自分の肉慾に従います。私どもは罪のほんとうの有様がわかりますならば実に恐るべきものなることを知ります。私どもの罪はそんなものです。漸次誘われて種々なる申しわけをつけてその罪を犯します。そうしてすべての恵みを与えたもう神を捨てて、自分の肉慾に従います。そうですからすべての恵みの源なる神を捨てて亡びに往きます。
 ヤコブ書一章十四〜十七節をご覧なさい。すべての善き賜物は神より参りますから、罪を犯しますならば肉慾に引かれてそれを犯します。また罪の価は死であります。この三章においてそれを見ます。ヨハネ一書二章十六節をご覧なさい。肉体の慾、目の慾、持ち物の誇りより出ずる驕傲があります。『食べるに良く』それは肉体の慾です。『目に美しく』それは目の慾です。『賢くなる』それは持ち物の誇りより出ずる驕傲です。すべての罪はこの三つの誘いより参ります。マタイ四章において主の試錬の話を見ます。エバはすべての善き賜物を受けながら罪を犯しました。主は飢え渇きたる有様にて罪に勝ちたまいました。エバは神の聖きパラダイスにおいて罪を犯しました。主は汚れたるこの世の中に、すなわちサタンの国となったこの地の上において勝利を得たまいました。三節は肉体の慾です。八節は目の慾です。六節は持ち物の誇りより起こる驕傲です。けれども主は全くそれに勝利を得たまいました。いつでも神の言葉をもって勝利を得たまいました。
 エバはこの罪を犯すために、食べるに良く、目に美しく、かつ賢からんがためにという三つのよき申しわけがありました。私どもは必ず申しわけのなき有様にて罪を犯しません。エバはよき申しわけがありました。心の中にいずれが好き道かと調べましたから申しわけがあると思いました。悪魔はいつでも申しわけを与えます。必ず申しわけがありませずして罪を犯しません。けれども良心に逆らうならば恐れなさい。何故にこれが罪であるかを申すことができませんでも、心の中に幾分にてもそれは罪であると考えますならば恐れなさい。
 罪を犯しますならばそれで止まりません。罪人は誘惑者となります。これは恐るべきことです。自分を汚しますならばまたほかの人を汚します。『また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた』。たぶん自分の心の中にはそれは理にかなうと思いました。罪人はそのように心が暗うございます。自分を汚しますならば愛する者を汚します。自己を亡ぼしますなれば愛する者を誘うて、あるいは亡ぼすかもわかりません。
 私どもは必ず人間の導者であります。また格別に愛する者の導者です。私どもの感化はよほど多うございます。あるいは神に導きます。あるいは亡びに導きます。あるいは幸福より幸福に導きます。あるいは堕落より堕落へ導きます。私どもは必ず他人に感化を与える者であります。格別に親しき関係にある者に感化が及びます。あるいは夫婦の関係があり、あるいは親子の関係がありますならば、格別に感化は強うございます。ある人は自分は妻に導かれぬと申します。けれどもそうではありません。妻の感化はよほど多うございます。そうですから信者は不信心者を娶ることは実に危険であります。自己を亡ぼす途です。必ず夫婦は互いに導き合います。
 一章十一節においてその類に従い果を結び、核を持つところの果を結ぶ樹のことを読みました。罪もそのようなものです。聖潔もそんなものです。二つながら拡がります。罪も自ら果を結んでほかの罪の種となります。一つの罪は多くの果を結びます。そのために一つの罪を犯すことは恐ろしきことです。罪は一つにて止まりません。罪の潮流を防ぐために、神の子は聖き血を流したまわねばなりません。時によってそういう貴き価を払いませんでも、罪を潔め罪を防ぐことはできると思います。けれどもそれはまだ罪の恐ろしきことと、罪の性質を知りませんからです。もし私どもはほんとうに罪の性質がわかりますならば、神の子が自己を捨てたもうたよりほかに仕方のなきことがわかります。


七  節

 すなわち智識を得ました。サタンの言葉のために智識を得ました。けれどもそのために幸福を得ましたか。否、そうではありません。却って恥を得ました。今まで相互に恥を覚えませずして美わしき交わりがありました。けれどもいま障隔ができました。彼らは智識を得ました。けれども聖き美わしき交わりが失われました。これは亡びの始めです。
 二章を見ますれば、もはやこの二人に智恵を与えたまいました。けれどもその智恵によってただ幸福を得ました。それによってアダムは万物の性質を悟りまして、それに名を付けました。万物の上に権威を持ちました。そのためにただ喜びと幸福を得ました。今サタンの言葉に従いましてなおなお智恵を得ました。けれどもその智恵によって実に苦き果を結びました。
 『すると、ふたりの目が開け』。ただ自分の有様を知ることは悔い改めではありません。たいがい罪人は幾分か自分の有様を知ります。自分の恥がわかります。自分の心の汚れ、心の苦しみ、心の恥を幾分か知ります。また時によって格別にそれを感じます。けれどもそれは悔い改めではありません。それによって神に近づきとうございません。かえってこの八節のごとく、神を恐れて神に遠ざかりとうございます。罪人は自分の有様がわかります。けれどもそれを替えることができません。またそれを忍ぶことができません。苦しき故に隠さねばなりません。罪人は幾分か自分の罪と汚れを知りますから、そのためにできるだけそれを隠します。できるだけほかの人々の眼よりそれを隠しとうあります。七節の終わり、すなわち『いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた』。このように相互の眼からその恥を隠しておきます。ルカ福音書十六章十五節をご覧なさい。人々の前に自分を義とします。これはいつでも罪の果です。仕方がありません。罪人は相互の有様を知りますならば、恥のために耐え忍ぶことができません。彼は人間の前に自己を義とせねばなりません。けれども悔い改めは何ですかならば、全くそれを言い表して懺悔することです。神の愛に曳かれて神の恵みに感じてその有様を全くいいあらわすことです。これは悔い改めです。詩篇三十二篇三〜五節をご覧なさい。罪人は始めに自分の罪を隠します。けれども漸次苦しくなります。漸く神の恵みに感じて罪を言い表します。そうですから平安と幸福を得ます。


八、九節

 前に申したように、罪は相互にその有様を隠しとうございます。けれどもそれのみならずして、神から自分を隠しとうございます。罪はいつでもこの二つの結果があります。人間の間の交情を破ります。また人間と神との交情を破ります。罪のために人間は自然に遠ざかって参ります。裸体なる人間は相互に遠ざかって参ります。また神を遠ざかって参ります。マタイ福音書二十五章四十一節をご覧なさい。『わたしを離れて』。これはただ審き主の宣告のみではありません。罪の果です。罪人は喜んで神を離れます。罪人が天国に入って神に近づかなければなりませんならば、地獄に入るよりは苦しうございます。罪人は甘んじて地獄に入ります。これは罪の詛いです。罪人は甘んじて神を離れて参ります。これは私どもの生来の願いでした。父を離れたいことは放蕩息子の心の願いです。これは罪の果です。レビ記十三章四十六節をご覧なさい。これは譬え話です。けれども同じことです。罪人は裸なる有様で必ず相互に遠ざかって参ります。これは罪の自然な結果です。罪人は相互にほんとうの交わりができません。私どもは悔い改めたときに、はじめてほんとうに人間の交わりをすることができます。そうですから罪のために人間は亡びに往く道を踏み始めました。
 『園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた』。神は愛をもって亡びに往く罪人を尋ねたまいます。そのように神が罪人を呼びたまいませんならば、罪人は続いて神に遠ざかって参ります。その時に亡びの途を踏み始めた二人の後より、神は彼らを呼んでできるだけご自分に近づかしめとうございます。
 私どもは昨日悪魔の恐ろしきことを知りました。ここで罪の恐ろしきことを学びました。どうぞ罪の性質をほんとうに悟りとうございます。格別に罪は必ずその類に従って果を結びますから、恐れおののいてそれを避けとうございます。
 『彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた』。たぶん今まで毎日その時分に、神と親しき交わりがありました。たぶん毎夕その時刻に、神と交わり心の最も美わしき楽しみを頂戴しました。毎日その時の交わりを待ち望みておりました。毎日その時刻はその日の中のいちばん幸いなる機会でした。また毎晩その時刻に神を待って、神の来りたもうことを聞いて神の足下に走って参りました。けれどもその晩に神を恐れました。神を憎みました。心の中に平安を全く失っておりました。聖潔のかわりに汚れが入りましたから神を恐れます。却って神を離れて逃げとうございます。神は恐ろしきものと思いました。そうですから神を恐れて逃げました。『そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した』。
 裸なる罪人はそのままで神に面会することを恐れます。これは罪人の第一の恐れです。自分の罪を隠すことができず、裸なる有様にて神の前に立つことは、人間の恐れです。かえって地獄に入って悪魔と共におることの方が幸いと思います。裸なるままにて神の前に立つことは、地獄の地獄です。黙示録六章十六、十七節をご覧なさい。これはアダムとエバの精神でした。罪のために神を恐れます。また罪のために子羊たる救い主を恐れます。これは実に奇しきことです。柔和なる心を持っていたもう子羊と名付けられたる救い主を恐れます。けれども七章九節以下を見ますれば、その人々は子羊の前に感謝して立つことを得ます。六章の者は子羊を恐れます。七章の者は子羊の前に立つことを得ます。その区別は何処にありますかならば、七章の者は子羊の血におおわれて聖き者となった故であります。
 アダムは自分の作った無花果の葉をもってその罪と恥とを隠しとうございました。けれども自分の作りましたものは役に立ちません。それをもって神の前に立つことはできません。神があらわれたもう時に、アダムとその妻は神を恐れてその裳がありましても神の前に立つことはできません。
 私どもはどうして神の前に立つことを得ましょうか。如何なるものにおおわれて神の前に立つことができますか。それはただ主の聖血によってであります。私どもは主の血におおわれて憚らずして神の前に立つことを得ます。どうぞ深くそれを感じなさい。私どもも子羊は恐るべきものでありました。けれどもその血のために、罪人でありましても、憚らずして感謝と喜びをもってその聖き宝位の前に立つことを得ます。これは実に感謝すべきことです。恥は楽しみとなります。恐れは喜びとなります。神を離れたき心がなくなって、神に近づきたき心が起こります。全き変化です。これは聖血のためであります。神の慈愛に曳かれて聖血におおわれて、義なる審き主の前に立つことを得ます。アダムはその時に神の焔のごとき眼より自分の恥を隠すことができる裳を持っておりません。けれども私どもはそんな裳があります。すなわち主の聖血であります。
 そうですからこの二人は自己を隠して神を離れて参ります。ヨブ記二十三章十五節をご覧なさい。これにはわけがあります。けれども訳のなきことです。放蕩息子は父を恐れましたわけがあります。けれども訳のないことです。すなわち一方より見ますれば罪人は神を恐れることはわけがあります。神は聖なるものですから恐るべき筈です。けれどもほかの方から見ますれば神を恐れることは訳のないことです。なぜなれば神は喜んで悔い改めて帰る罪人を受け入れたもうからです。この二人はそんな恐れをもって園の木の間に身を隠しました。この以前に裳を作って恥を隠しとうございました。けれども無益でした。そうですから園の木の間に身を隠しました。この世に居る間に人間はそのように神のかおを避けて自己を隠しとうございます。心の中に神の在ること、神の聖きことがわかりますから、種々な工夫をもって自己を隠しとうございます。ある人は自分の職業の間に神を避けます。ある人は種々なる楽しみの間に神を避けます。ある人は宗教の間に神の面を避けます。ただに偶像教のみではありませずして、基督教の間に神の面を避けて自己を隠します。全く罪を言い表しませずして、罪を吐き出しませずして、基督教をもって自分の心を和らげますならば、あたかもアダムとエバのごとく、基督教の木の間に自分の身を隠すことです。これは何の利益もありません。このようにして身を隠すことはなおなお大いなる罪ですと思います。
 この八節において神は罪人を追うて来りたまいました。これはルカ十五章のようなことです。牧者は失われたる羊を追いて来たまいました。父は遠くから放蕩息子を見て走って来たまいました。この八節において神の恵みがわかります。けれども失われた羊はなおなお逃げ去ります。放蕩息子はなおなおそのために父を恐れて逃げ去ります。羊は牧者の愛を毫も悟りませんから牧者を恐れて逃げ去ります。アダムはその時にそんなことをしました。私どもはそのような愚かなることをいたしました。そのような大いなる罪を犯しました。牧者が私どもを追い求めたもうた時に却って恐れてなおなお身を隠しとうございました。神の光の中に自分の罪と恥を見ることを厭いますから、神を離れて却って園の木の間に身を隠しました。
 『彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた』。『主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」』。
 今までは二人とも走って神の足下に参りました。その晩には参りませんから神の心の中に心配が起こりました。人間は何処に居るはずでありますか。神の足下にいるべき筈です。人間は神に曳かれて神に近づくべき筈の者です。神がご自分を顕したもう時に人間は走って参りませんならば何かわけがあります。『神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」』。神は人情を持っていたまいます。神は決して冷淡なる無感覚なる者ではありません。神は人情を持っていたまいます。神は燃ゆる心を持っていたまいます。園にご自分を顕したまいました。けれどもアダムを見たまいませんから心の中に恐れが起こりました。心配も起こりました。アダムは罪に陥りましたかという心配が起こりました。愛のためにそれを信じたまいとうございません。けれども何故この二人は足下に走って参りませんか。神は心配の声を出して、あなたは何処に居るのか。神は心の中に悲しみと苦しみと失望がありました。これは失望の声です。悲しみの声です。神はこの世の有様を見て、はなはだよしと思いたまいました。自分の心を喜ばせたまいました。この世は神の心を喜ばすもののみでした。アダムは神と交わることのできる完全なものでした。また神の像にかたどられて造られたる輝く者でした。また幸いなる身分を与えたもうて、アダムの心を喜ばすためにほかの全き者エバを造りたまいました。けれども罪が入りますならば、この全き有様がみな崩されねばなりません。神の失望は如何ほどでしたでしょうか。もし人間が永い間、巧みを尽くして美わしき機械を造りましたときに、その敵が来ましてその巧みに造られた機械を損ねますならば、その造り主の心の失望は如何ほどでしょうか。今神はその聖手のはなはだ善き業をみな亡ぼされたまいました。その愛する人間が亡ぼされました。喜びが悲しみとなりました。聖きは汚れとなりました。人間は悪魔の子となりました。神の心の失望は如何ほどでしょうか。愛する兄弟姉妹よ、どうぞ深くそれに感じなさい。今でも神は同じ感情を持っていたまいます。そういう失望に慣れていたまいません。今でも亡びたる世の有様を見て心の中に悲嘆したまいます。今でも神の心の中にゲツセマネの憂いがあります。この世の有様を見て心の中に悲しみと失望があります。私どもはいま神に同情を表すべきものであります。私どもも神と共に悲しみ、神と共に苦しみ、神と共に悪と戦うべきものであります。今まで悪魔の味方でありました。今から全く神の味方となりとうございます。
 けれどもそのために神の慈愛がなくなりましたか。否、そうではありません。人間はそのように神を憂えしめました。けれども神は続いて愛したまいます。いま愛を持って人間を呼びたまいます。
 この世の亡びの有様を見ますならば、罪の結果は実に恐ろしうございます。アダムはその罪を犯しましたときに、その罪の結果が分かりませんでした。ただ後からわかりました。罪人は自分の罪の恐ろしきことがわかりません。私どももその罪の結果が分かりませんと思います。幾分か感じます。けれどもほんとうにそれを悟りません。ただご自分の聖業のはなはだ善き有様を悟りたもう神のみが、罪のひどい結果が分かりたまいます。ある罪人は罪は実に軽いものと思いますから、神の御子の血を軽蔑します。ただ軽き罪を取り除くために、それほどのたいそうのことがなければならぬと信ずることができんと申します。そんな者は罪の恐ろしきことがわかりません。私どもは罪の恐ろしきことがわかりますならば、必ず神の御子の血がなければ潔められぬことがわかります。必ずほかに救われるみちがないことがよくわかります。
 『あなたはどこにいるのか』。幸いに神はその時から今に至るまで、罪人をご自分に呼びたまいます。今でも聖声を出したまいます。神は罪人を呼びたまいませんならば、罪人は永遠限りなく神を離れて逃げます。甘んじて永遠限りなく神を離れて亡びに往きます。けれども神は聖声を出して人間を止めたまいます。『あなたはどこにいるのか』。アダムに自分の位置を感ぜしめたまいとうございます。今あなたは私と共に居るや。あるいは私を離れて恐れをもって身を隠して居るや。最初に人間に自分の有様を感ぜしめたまいとうございます。人間を悔い改めに導くために、これは第一に必要です。『あなたはどこにいるのか』。人間は神と共に居るべき者です。神と交わって居るべき者です。愛をもって神と共に居るべき者です。そういう有様がありませんならば、あなたは何処に居るや。悲しみと恐れと失望をもって暗きに居るや。神を知らず、神を愛せず、暗黒のうちにおりますか。どうぞ第一に罪人に自分の位置を感ぜしめなさい。人間は神の光に歩むべき者です。神は人間を懺悔せしめたまいとうございます。第一に『あなたはどこにいるのか』。第二に『食べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか』。罪を感ぜしめるためにこの二つのことを尋ねねばなりません。すなわち罪人の有様と、また今までの行為です。神はどうして罪人を悔い改めに導きたもうかと深く感じなさい。初めから汝は罪を犯しましたかとは言いたまいません。汝は亡びに往く罪人であると言いてその罪の恐ろしき結果を言いたまいません。神は愛をもって静かに人間が自分の方から罪を感ずるように導きたまいとうございます。人間の良心を起こしたまいとうございます。自分の方から罪を犯しましたという懺悔を言わせたまいとうございます。神は恐れさせて人間を導きたまいません。恐れをもって罪人に自分の罪を感ぜしめることはできないかも知れません。神は罪人に自分の有様を感ぜしめて、罪のために如何なる害を得ましたか、また罪は如何に愚かなるものであるかを感ぜしめて、静かにその罪人を懺悔に導きたまいます。
 『あなたはどこにいるのか』。兄弟姉妹よ、神は私どもにこれを言いたまいます。エペソ書二章六節のごとく、天の処におりますか。各自心の中に探られとうございます。ほんとうに天の処におりますか。神と共におりますか。神と共に交わりて、生涯を暮らしておりますか。『あなたはどこにいるのか』。もし彼処におりませんならば、何か未だ汚れが残ってあります。また幾分か神を恐れる偽りの恐れが残ってあります。天の処に生涯を暮らしておりませんならば、神の愛に曳かれて悔い改めなさい。神の愛に曳かれて、その汚れ、その不従順を言い表して全く神の足下に降参しなさい。『あなたはどこにいるのか』。


十  節

 アダムはその有様を顕します。けれども罪を懺悔しません。私どもはたびたびそのように、神に答えましたと思います。自分の心の苦しき有様、心の汚れたる有様、神に離れて居る有様を顕します。祈りをもってかかることを顕します。けれどもほんとうに懺悔しません。ほんとうにこれは自分の過失であること、自分の不信仰のためなること、自分の罪の結果なることを懺悔しません。そうですから何の利益もありません。アダムが頑固なる心をもってこの十節に答えましたように、その苦しみの有様を顕します。あるいは祈禱会において、あるいは聖別会において、たびたびこの十節のような祈禱を聞きます。神は砕けたる心を求めたまいます。自分を卑しくしてその罪を白状し、自分の有様はただ罪の結果なることを懺悔し、神の聖潔を求むることを願いたまいます。ただ心の有様を顕すことは、何の利益もありません。それは悔い改めではありません。砕けたる心ではありません。裸なるによりて身を隠せりと言うことは懺悔ではありません。どうぞ砕けたる心をもって愛なる神に背きましたと懺悔しなさい。心の中に悪魔の種を入れたることを懺悔しなさい。神の種、神の真、神の命令を捨てて、悪魔に耳を傾けて、悪魔の種を得ましたと言い表しなさい。これはほんとうの悔い改めです。人間は地獄を恐れます。けれども罪を懺悔することをなお恐れます。自分の過失、自分の罪、自分の汚れをそのままに顕すことは、通常の人間のいちばん恐れるところであります。私どももそれを恐れました。兄弟姉妹も今までそんな心がありました。あるいは今でもそんな心があるかも知れません。けれども砕けたる心は、全く反対です。砕けたる心はそのままに白状することです。罪を懺悔することより罪を恐れることは砕けたる心の有様です。私どもは罪を懺悔することよりも罪と汚れを恐れますならば、ほんとうに神の前に私どもの心が砕かれました。
 今まで研究しましたことによって、罪の恐ろしきことを考えなさい。また神の深き恵みを考えなさい。また罪のためにできました頑固な心を捨てて、全く砕けたる心をもって神に近づいて神とともに歩みなさい。
 この三章は神の審判であります。神はこの二人の罪人を審きたまいました。神は何故に審きたまいましたか。何故にそのまま置きたまいませんか。これは彼らを愛したもう故であります。これは愛の審判であります。この二人の罪人はそれを恐れました。私どもはいつでも神の審判、また神の探りを恐れます。けれども神は愛をもって、私どもを探りたまいます。私どもを恵まんがために審きたまいます。神はそのままにこの二人を置きたもうならば、自然に漸次亡びに往きました。けれども審かれましたから、エデンの園を追い出されました。そうして幸福の途が開かれました。
 愛なる神はいかにして罪人を審きたもうことができますか。いかにして愛なる神は罪人をご自分より離れしめたもうことができますか。私どもはたびたびこういう疑いが起こるかも知れません。私どもはまったくその奥義がわかりません。それを悟ることはできません。けれどもこの章において神は愛をもって二人の罪人を審きたまいます。この二人の利益のために、彼らをエデンより追い出したもうことを見ます。そうですから幾分か審判と恩寵の関係を悟ることを得ます。
 福音書を見ますならば、悪魔に憑かれたる者はいつでもイエスを離れとうございます。我にかかわるなかれと言います。けれどもその時に主は恵みをもって近づきたまいます。時によって私どもも神の愛を探り、神の円満なる光を恐れます。けれども自己を卑しうしてそれを受け入れますならば、それは幸福に到る道です。
 以前に申しましたように、アダムはその有様を言い表しました。けれどもその罪を懺悔しません。詩篇三十二篇一〜五節をご覧なさい。始めにこの人は自分の罪を蔽いました。神に懺悔しません。けれども漸次その苦しみが増しました。そうですから神の愛に負けてこの人は全くその罪を吐き出しました。そうですから二節のごとく、この人は心の中に詐りがありません。神の前に心に詐りなき者とはどういう者ですかならば、全く罪を懺悔したる者です。アダムはその時に詐りのなき者ではありません。未だ自己を卑しくして罪を懺悔したることはありません。神はただ心に詐りなき者を祝福なしたもうことができます。その時にアダムは直ちに詐りのなき心をもって、その罪を懺悔しましたならば、あるいは続いてエデンの園に居ることができたかも知れません。心の中に詐りがありましたからエデンの園より追い出されねばなりません。アダムは自分の罪のために申しわけをいたします。詐りのなき者は神を義といたします。ほんとうの罪を言い表す者は、神を義とする者であります。ルカ福音書七章二十九、三十節をご覧なさい。その人々はバプテスマを受けて自分の罪人であることを全く認めました。そうですから神を義としました。これは詐りのなき心です。けれどもアダムは自分を義としました。ちょうどこのパリサイ人のようです。自らそこないて神の旨に背きました。彼は神の自分に対する宣告を拒みました。ほんとうの悔い改めは神を義とすることです。偽の悔い改めは自己を義とすることです。ほんとうの悔い改めはそのままに神の宣告を受け入れます。偽の悔い改めは申しわけの楯をもって、神の言葉を拒みます。詩篇五十一篇四節をご覧なさい。ダビデは神を義としました。これはほんとうの悔い改めです。箴言二十八章十〜十三節をご覧なさい。
 罪人は自分のことのみを考えます。アダムは神に応えますに、自分は咎められるべき者ではありません。咎められるべき者はわが妻ですと申します。妻を神の怒りに任せます。実に罪のために私欲が出て参ります。ほんとうの愛が失せて、自己を助けるために甘んじて愛する妻を神の怒りに任せます。また幾分かアダムの話の中に、自分の過失のみではありません、幾分か神の過失ですという意味を見ます。あなたは私にこの妻を与えました。こういう妻を与えましたから、私はこの罪を犯しました。幾分かあなたの過失です。サタンはたびたび私どもの心の内にそういう申しわけを起こします。実にそのために神の聖名を汚します。神は私にそんな身分を与えたまいました。こんな性質を与えたまいました。それゆえにこのことをいたしました。仕方がありません。それが罪ですならば神は私にほかの性質を与えるはずでした。そのように罪人は口実を作って神に罪を負わせんといたします。
 これは実に恐るべきことです。詐りなき心はその罪は自分の過失であると明らかに言います。神の賜物ははなはだ善き賜物です。神は私どもをよきに導きたまいます。このことを行いましたのはただ自分の過失であると真心をもって言い表すことです。
 またアダムはこのことを実に小さきことと申します。『あの女が、木から取ってくれたので、私は食べたのです』。実に些細なることです。かかることのために、このように大いなることが起こるべき筈ではありませんと言う意味です。罪人はいつもそのようです。自分の罪の小さきことを申します。私どもは罪を犯しましたときに、できるだけそれを小さきことのようにいたします。当然のことであると申します。どうぞ神の言葉に従って罪を審きなさい。神の光に従って罪の恐るべきことを悟りなさい。人間は自分を卑しうして自分は全く罪人である言い表すことを厭います。それまでに自分を卑しくすることをいたしません。自分はほかの人に誘われたからではありません。境遇のためではありません。サタンに導かれて仕方なき故ではありません。ただ自分の過失のためにこの罪を犯しましたと言い表すまでに、自己を卑しくすることはできません。けれどもそうすることのみがほんとうの悔い改めです。それまでに自分を卑しくしませんならば、偽の悔い改めです。またそれまでに自己を卑しくしませんならば、神は恵みを与えたもうことができません。私どもは罪人を導く時に、全き悔い改めに導きなさい。これは私どもの責任です。この全き悔い改めをいたしますならば、神の豊かなる恩寵を頂戴することができます。ある信者は始めから光の中に歩みます。ある信者は始めから恵みが浅うございます。何故ですかならば一つは始めから神を義として全く降参しました。けれどもほかは幾分だけの悔い改めをして、全く降参しませんでした。それゆえに神は恵みを与えたもうことができません。



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