第一章(前半)



 聖書の中に二つの創造を見ます。一つの創造はこの一章に記されてあります。それは早く亡ぼされました。そうですから神は未来において、新しき天地を創造したまいます。今この新天地の創造を始めたまいます。その始めはどこですかならば、キリスト信者の心の中であります。私どもは第二の創造の始めです。神は未来において新天地を創造したまいます。そうですから、あるいは三つの創造があると言われます。すなわち過去現在未来の創造です。この三つの創造のために、神の能わざるところなき力がなければなりません。たとえば私どもの心の内に、幾分にても信仰が出来ますならば、幾分にても聖き心が出来ますならば、創造の力が働いた故であることがわかります。
 この三つの創造によって、ほかの引照を見とうございます。過去の創造について詩篇百四篇三十節、イザヤ書四十三章一、七節をご覧なさい。神のすべてのものを造りたまえることは、ただ神学の説のようなことではありません。それによって自分も神のものであると感じます。それによって自分も神と親しく交わることを得ます。また神は自分を守り養う責任を持ちたもうことがわかります。そうですから第一の創造を深く観じとうございます。これは心霊上の生涯に密接なる関係があります。神は創造者であることをわかりますならば、私どもの生涯に大いなる助けとなります。
 けれども神は未来において、なお美わしき天地を創りたまいます。イザヤ書六十五章十七節、黙示録二十一章一節をご覧なさい。未来の天地は新しき天地といわれます。そうですから現今の天地によく似ております。未来の天地は現今の地と現今の天のごときものです。けれどもなおなお美わしき有様があります。そうですからこの世は漸次美わしき世となるのではありませんことがわかります。漸次神の国が出来て参りません。神は再度創造の力を出して、新天地を創造したまいます。主の再臨の時に再度その力を伸ばして、そんな美わしき有様を創造したまいます。けれども幾分か私どもの心の中にその創造を始めたまいました。コリント後書五章十七節、エペソ書二章十節、四章二十四節をご覧なさい。そうですから今でも私どもは心の中に、その新しき創造を経験することが出来ます。それは信仰の助けとなります。自分の力にあらずして、神の創造の力によって、聖き者となることが出来ます。私どもの熱心と私どもの計画に従わずして、神の熱心と神の全き計画に従って、私どもの心の内に働きたまいます。
 創世記一章に、格別に過去の創造の話を見ます。けれども神はいつでも同じように働きたまいます。そうですからこれによって未来の創造の順序がわかることが出来ます。またこれによって現今の創造の順序、すなわち神はどうしてただいま私どもの心中に働きたまいますか、どうして漸次私どもの心を変えてご自分にかたどらしめたもうかを悟ることが出来ます。
 けれどもこの章を読むときに、第一に神はいかにしてこの世界を創造したもうかを悟ります。ヘブル書十一章三節をご覧なさい。神の天地を創りたまえることを信ずることは、信仰の第一の働きです。これを信じませんならば、創世記第一章を悟ることは出来ません。言葉を換えますれば、創世記一章一節を信ずる信仰がありませんならば、全体の創造のことがわかりません。
 或る人は自分の知識をもって、この一章を悟りとうございます。けれどもそれは出来ません。私どもは神の創造を悟りとうございますれば、信仰がなければなりません。ここで建築師は自分の計画を示したまいます。家の造り主の計画をわかりますならば、家の有様を悟ります。けれどもその人を信じませんならば必ず家の有様を悟りません。私どもはこの世にあるすべてのものを深く悟りとうございますならば、第一に信仰がなければなりません。神を信じ神を悟り神の言葉を受け入れることは第一に大切です。
 ここで世界の創造主は、ご自分の目的を示したまいます。またいかにして万物を造りたまいましたかを示したまいます。また聖書のほかの書を見ますならば、未来においてこの世界はいかなるものになるかを示したまいます。この世を建築せる神は私どもを教えたまいますから、私どもは信仰と敬虔の念をもって学ばなければなりません。
 或る人はこの世界を造りたもうた御方はちょうどこの聖書を録すに適する御方ですと申しました。すなわち世界を創造したまえる者と聖書を録したまえる者とは同じ神であるという主意です。


一  節

 これは太古の創造でした。本節はこの章の全体の創造を指しません。この一節は全き天地が創られたことです。神が初めて造りたまいし天地は、この一節の天地であります。どうぞ二節をご覧なさい。『地は形なくむなしく、闇が淵のおもてにあり』とあります。神は必ずこのような天地を創造したまいません。これは亡ぼされた有様であります。また何のためにかく亡ぼされましたか。それは確かに知ることは出来ません。けれどもたぶん天使の罪のためであると思います。必ず第一の創造は完全なる創造でありました。イザヤ書四十五章十八節をご覧なさい。いたずらにこれを創造したまわず。これは形なく、むなしきものに創造したまわずの意味です。そうですから神は必ず二節のごとき有様にて天地を創造したまいません。これは堕落の有様でした。ヨブ記三十八章四〜七節をご覧なさい。ここに第一の創造の全き有様を見ます。それは全き創造でありました。その創造については少しもわかりません。未来においてそれがわかると思います。けれどもその全き有様が亡くなりました。罪のためにこの二節のごとき有様となりました。
 本節において神は造り主であることを見ました。神はものを造るためにただ言葉を出したまいました。人間を贖わんがために聖血を流したまわねばなりません。その区別を味わいとうございます。能わざるところなき神も、人間を贖わんがために、自己を苦しめたまわねばなりません。ただご自分の息によって人間を造りたまいました。人間にご自分の生命の息を吹きたまいました。けれども堕落せる人間を贖わんがためには、ご自分の生命を棄てたまわねばなりませんでした。
 物を造りたもう時には神は聖手を示したまいました。聖手の力と聖手の工を示したまいました。けれども人間を救うことによって、その聖意を顕したまいます。私どもは創世記一章によって格別に神の力を見ます。けれども、新約によって格別に神の聖意を見ることができます。


二  節

 イザヤ書三十四章十一節をご覧なさい。この『荒廃』(文語訳では『みだれ』)と『混乱』(文語訳では『空虛むなしき』)の言葉は原語にて『形なく、むなしく』の言葉と同じです。三十四章九〜十五節を見ますならば、罪のための滅びを見ます。人間の堕落の例話を見ます。三十五章を見ますならば神の救いの力を見ます。エレミヤ記四章二十三節をご覧なさい。これは罪の堕落の例話です。これは表面の有様ではありません。エレミヤは心の眼でこんな有様をみました。これは本節と同じ言葉です。この世は始めに罪のために、このようになりました。『形なく、むなしく』それはいかなる意味ですかならば、少しも綺麗なことはありません。実の結ぶことはありません。光はありません。けれどもこれに反して、詩篇二十四篇一節をご覧なさい。『地と、それに満ちるもの』これはむなしきと反対の言葉です。すべての綺麗なること、すべての価値あること、また生命あること、これは地に満ちることを指します。
 今はこの世界は幾分か、罪のために空しくあります。未来において神は再び罪を追い出して、この世界を改めたまいます。そうですからこの世はなおなお美わしくなります。けれども現今でもこの創世記一章二節よりは地に満ちるものが多くあります。
 またここで罪の恐ろしき結果を見ることができます。ここで世の三つの有様を見ます。形なきこと、むなしきこと、暗黒です。罪人はこのような者です。第一に形なき有様です。すなわち自己を統治することは出来ません。神は始めに人間に種々の肉慾を造りたまいました。けれども罪人はただ自分のためにそれを使用して罪を犯します。全き人間の中にも、幾分か種々なる肉慾のあることを見ます。たとえば、主でも怒りたまいました。主でも食事をなしたまいました。けれども罪人はかかることにおいて形なくして、それを使用します。すなわち自己を統治することなくして、妄りに使用して罪を犯します。ローマ書一章二十九〜三十一節をご覧なさい。これは人間の堕落の有様です。あたかも創世記一章二節のごとくであります。形なくむなしく暗黒のうちに生涯を暮らしております。
 第二にむなしきこと。罪人は格別にむなしくして生涯を過ごします。エペソ書二章十二節をご覧なさい。すなわちキリストなく契約に与りなく望みなき神なき有様です。四つの要点についてむなしき者です。ほんとうの価値が少しもありません。海の深きがごとく罪人の心の中の欠乏も深うございます。
 第三に表に暗黒もあります。エペソ書四章十七〜十九節をご覧なさい。これは創世記一章二節を説明する言葉です。格別に暗黒についてこの十八節によくわかります。心暗き者、知るところなき者、かたくななること、神の生命に遠ざかること。このように罪人の心の中に暗黒のみがあります。知識がありません。喜びがありません。平安がありません。ただ暗黒の中に生涯を暮らしております。
 その時にこの世の有様を見ますならば、望みがありましたでしょうか。この世は再度綺麗な世となり、神と人間の住まいとなる望みは少しもありません。世は自ら望みは少しもありません。世は自己を改めることは出来ません。この形なきを統治し、あるいはこのむなしきを満たし、あるいはこの暗黒を照らす力はありません。罪人は自分から救われる望みがありません。けれどもこの二節の終わりに実に望みの源があります。またこれによりて神の恵みをわかります。神の霊が水の面を覆っていた。これは実に幸いです。神はこの空しき形なき暗黒の世界に近づきたまいます。神は一定の計画をもって、それに近づきたまいます。神はそこでご自分の知識とご自分の力を顕したまいます。それは堕落せる世の望みの源です。またその望みは大いなる望みです。今堕落した人間を見、その汚れたところを見ますときに、神は必ず彼らを棄てたまわぬことを知ることが出来ます。罪人はいかに形なき者、むなしき者、暗黒の中に歩み、その心の中に暗黒がありましても、神の霊がその上に臨みたまいます。これは実に幸いです。格別に神のご用を勤める私どもは、それを覚えねばなりません。私どもは時によって、失望と不信仰に陥りますときに、どうぞ暗黒の面に神の霊が覆いたもうことを覚えとうございます。
 そのために夕が朝になります。ご存じの通りこの一章においてたびたび夕となり朝となったの言葉があります。聖霊はその面を覆いたまいますから、夜は漸次昼になります。ここで珍しきことはいつでもまず夜があって、それから朝があることです。心霊上の生活においていつでもそんな順序です。たとえば聖き心を求め、あるいは聖霊を求める信者がありますならば、第一に暗きを経験します。そうしてのちに光を得ます。聖霊の感化によりて、罪人の心の夜の有様は変わり夜明けとなります。神の霊が水の面を覆っていた。この覆っていたという言葉は、雌鶏がその卵と雛鳥を覆うごとく覆うという言葉です。そのためにこの堕落したる世界は漸次神の聖意にかなう美わしき世界となります。主イエスは実にこの堕落したる世界を覆わんがために降りたまいました。形なくむなしく暗黒なる世を変えて、立派なる世となさんがために降りたまいました。けれどもその時に罪人はそれを断りました。マタイ伝二十三章三十七節をご覧なさい。創世記一章二節の言葉を借りて申しますれば、形なきむなしき暗黒の有様を見て、それを覆いたまいとうございました。けれども人間はそれを好みません。そうですから、新たに造りたまうことが出来ません。今でも主はそのように罪人を新たに造りかえたまいとうございます。けれども罪人は主の翼の下に自己を委すことを好みませんならば、能わざるところなき主でも何もすることは出来ません。すべての権威を持ちたもう主でもかかる者には何もすることが出来ません。
 けれども神の霊が水の面を覆うために、漸次この世は立派になりて、ついに二十六節のごとくご自分の像が見えて参りました。それは今人間の心の中に働きたもう霊の目的です。だんだん心の中に働きたまいて主イエスの像にかたどらしめたまいます。
 けれどもここでの聖霊の働きは、ただ心霊上の働きのみではありません。聖霊の働きによりてこの世界はすべての生命を得ます。またすべての美しさを頂戴します。イザヤ書三十二章十三節以下をご覧なさい。これを見て霊の意味に取ることが出来ます。けれどもその第一の意味は文字通りの意味です。聖霊が降りたもうことによりて、世界の表面の有様が綺麗になります。私どもはそれを覚えねばなりません。今どこでも美わしき収穫を見ます。それは聖霊の働きです。私どもは美わしき世界の有様を見ますときに、これは聖霊の働きの結果であることを覚えねばなりません。格別に春の時に新しき生命の結果を見ますならば、聖霊の働きを感ずる筈です。詩篇百四篇二十九、三十節をご覧なさい。聖霊はすべての美わしきことを造りたもう御方です。
 けれどもこの一章の有様を見ますれば、聖霊はいつでも神の言葉と共に働きたもうことを見ます。聖霊は単独で働きたまいません。いつでも神の言葉と同時に働きたまいます。また時によりて聖霊の働きと神の言葉の働きは同じことであることを見ます。神の言葉は聖霊なくして働きたまいません。聖霊は神の言葉なくして働きたまいません。この二つはいつでも一緒に働きたまいます。またその結果は同じことです。エペソ書五章十八〜二十一節とコロサイ書三章十六節を比較しなさい。聖霊に充たされている有様と、神の言葉に充たされている有様と同じことです。これは心霊上の生涯にきわめて大切なることです。ペンテコステの霊に充たされたる者は続いて聖書を味わわねばならぬことはないと思う人があります。けれどもそれは間違っています。聖霊はいつでも神の言葉と一緒に働きたまいます。そうですから続いて聖霊の働きを経験したくありますならば続いて神の言葉を受け入れねばなりません。堕落せる人間を救わんがために、神はこの二つを用いたまいます。すなわち第一に聖霊の働き、ヨハネ伝三章八節にこれを見ます。けれどもただ霊の働きのために人間が救われますならば、すべての人間は救われます。けれども別のことがあります。その罪人は神の声を聞かねばなりません。創世記一章において、神はただ聖言を出したまいしことによってこの世界は飾られました。けれども人間の心に働きたもうときにはそれだけではいけません。人間は神の言葉を受け入れねばなりません。たとえば神が聖言を出したまいましても、人間がそれを受け入れませんならば何の結果もありません。ヨハネ伝五章二十五節をご覧なさい。これは今主の声を聞くことです。ヨハネ伝十章三、四、十六、二十七節をご覧なさい。わが声を聞くの言葉を見ます。罪人は神の声を聞きませんならば、いつでも罪の中にとどまります。いかに宗教を研究しましても神の声を聞きませんならば無益です。ただ神の声を聞くことによってのみ罪人は生命を得ます。他の人を導く私どもは格別にそれを覚えねばなりません。人間は神の声を聞きませんならば、私どもの説教、私どもの勧め、私どもの訪問は全く無益です。私どもの本分は何ですかならば、罪人に神の聖声を聞かせることです。
 またこの一章を見ますならばこの堕落せる世界は、いかにして再び美わしき神のかたちを得ますかならば、自分の力にて自然になったのではありません。しかるに人間はいつでもそのようにだんだんに自分の力、自分の悟り、自分の知識、自分の修養によって立派な者とならんことを努めます。人間はそういうむなしき望みを持っております。もはや悔い改めて新生した者でもだんだん自分の修養でキリストのかたちになることを望みます。けれどもここで神はたびたびご自分の言葉を出したまいました。その世界は自然にだんだんに主のかたちになりましたことはありません。神はたびたび働きたまいます。たびたびその聖声を出したまいます。私たちはだんだん生長したくありますならば、だんだん神のかたちになりたくありますならば、ただ一時のみではありません。たびたび神の声を聞かねばなりません。
 神のかたちが造り出されるまでに、六つの大切なる時期がありましたことを見ます。また心霊上の生涯においてもいつでもそういう大切なる時期があります。またその時にいつでも夕べから朝になりなす。だんだん暗くなりそれからだんだん夜明けになります。これは心霊上の順序です。すでに生まれ変わった者が聖霊を求めますならば、だんだん暗さが出て参ります。だんだん自分の汚れと罪とを深く感じて、心の中に暗さが出て参ります。けれどもだんだん夜明けになります。夕となり、朝となった。第一に悔い改めがあります。第二に信仰があります。そんな順序があるはずです。
 この六つの時期を見ますならば始めの三日は格別に分ける時期です。
 第一 光より闇を分ける  四節の下
 第二 水と水とを分ける  六節の下
 第三 地と水とを分ける  九節
 それから次の三日は完成する時期でした。神はその順序に従って私どもの心の中に働きたまいます。必ず分けたもうことのみではありません。完成なしたまいます。心の中に光をもめぐみをも与えたまいます。私どもの心の中にほんとうにそれを分別することは神の目的です。アブラハムの生涯を見ますならば、たびたびそんな時期を見ます。第一に彼は自分の故郷と家族に別れねばなりません。第二にロトに別れねばなりません。ロトにカナンの地の美わしきところを任せておかねばなりません。第三に自分の愛するイシマエルを放ちました。第四にイサクを壇に献げました。神はかように私どもの心の中にも働きたまいます。私どもは必ず一度献身せねばなりません。けれどもそれから後にたびたび時期に従ってまたものを別たねばなりません。またその分によって私どもの心の中にだんだん働きたまいます。またその後ほんとうにそんな働きが成就せるときから私どもを全うしたまいます。だんだん実を結ばしめたまいます。だんだん私どもを完成してご自分のほんとうのかたちにかたどらしめ、ご自分の心にかなわしめたまいます。


三  節

 光は神の造りたまいし始めの業です。神は第一に光を創造したまいました。ここで光は神の御手の業であることがわかります。光は珍しきものです。その中に七つの色があります。けれども平常はその各種の色は見えません。ただ白色を見ます。けれども光のうちにあるその各色の色のために、私どもは物質の上に各種の色を見ることができます。光によりて私どもは美わしき感情と妙なるうるわしさを頂戴します。
 この珍しき光は神の聖手の業です。光は実に弱きものです。けれどもいちばん力ある働きをします。光のために草木は生長します。光のために私どもは身の力を得ます。光のためにこの世は回転して参ります。光は実に弱きものですがいちばん力ある業をします。神はいつでもそのように働きたまいます。弱きものを撰びて大いなる働きをなしたまいます。また光は音のないものです。けれどもそのような大いなる働きをいたします。人間は大いなる機械を造りますならば、大いなる音をして働きます。けれども神は音のなきままに働きたまいます。
 神のいちばん力あることは何ですかならば、ご自分の静かなる小さき聖声です。
 私どもは毎日の光のよりて神の恩を見ることができます。マタイ伝五章四十五節をご覧なさい。そうですから日ごとの光は神の恩のしるしです。それを見て心の中に神の恩を感ずる筈です。もし神が恩の光を与えたまいませんならば、この世界は闇のみです。日ごと夜明けを与えたもうことはただ恩のためです。
 神が心の中に働きたもうならば第一に光を与えたまいます。コリント後書四章六節をご覧なさい。これは神の奇跡です。私どもは暗がりがありました。堕落した世のごとくに少しも光を頂戴すべきものではありませんでした。けれどもその光が暗黒を通して参りますならば、これは神の奇跡です。私どもは福音を宣伝するときに、神の言葉の力によって、その心の中に光を照らすことはほんとうの伝道です。それを覚えますならば、必ず自分の力で出来ぬことを感じます。
 第一に光が照りますときに、それによりて世界の形なきむなしき有様がわかります。心の中に初めて神の光を受けますならば、自分の罪と汚れをわかります。ほんとうの悔い改めが出来て参ります。その時まで喜んで豚の豆莢を食しました。それが美味と思いました。けれども光が照りて参りますならば、それはほんとうに豆莢であったことがわかります。また自分は豚のような汚れたるものなることがわかって、喜んで罪を棄てて父に帰ります。使徒行伝十六章二十七〜三十節をご覧なさい。神の光がこの人の暗黒を照らしましたから、自分の恐ろしき有様がわかりました。自分の亡び、自分の汚れを急に知りました。今まで暗黒のうちにありました。けれども今急に救いを求めました。私どもは霊の力をもって神の言葉を宣べ伝えますならば、このように光は人間の心を照らして人間に自分の罪を悟らしめます。また今まで少しもキリスト教を聞きませんでも神の光の中に自分の恐ろしさがわかりまして、救われんがために何をなすべきかと叫びます。
 そのように光によりて自分の有様をわかりましても、光を頂戴することは何よりも美わしきことです。伝道の書十一章七節をご覧なさい。ある人は光を憎みます。けれども光は快きものです。ヨハネ伝三章十九、二十節をご覧なさい。光は快きものです。また実に楽しきものです。けれども罪人は闇を好みますから、かえって光をことわります。光は天よりのものです。神より来るものであります。
 その時にこの世界は堕落のままで暗黒におりました。暗黒は自然の有様であるはずではありません。神は光ですから光は自然の有様であるはずです。暗黒はいつでも罪の結果です。神はこの三節において初めて光を造りたまえることではありません。けれどもその時はその暗黒を取りたまいました時です。そうですから世の方からは初めて光を受けた時です。神は永遠限りなき時から、光のうちに住みたまいました。また必ず光を放ちたまいました。これはものの自然の有様です。けれども罪のために闇が参りましたから、神はもう一度暗黒のうちに光を照らしたまいました。私どもは初めて光を受けたときに、これはほんとうに神のもの、天来のものであることがわかります。証拠を出さなければならぬわけは少しもありません。光を見ますならば光であることをわかります。神の恩の光を心に受けますならば証拠を要しません。


四  節

 未だ闇が残っております。けれども神は光を見たまいます。それほどの光が暗黒を照らしましたから、それを善と見たもうて喜びたまいます。
 初めて悔い改めた時に、未だ心の中に暗黒が残っております。けれども残っている暗黒を見たまいません。得たる光を見て喜びたまいます。私どもはたびたびその反対です。かえって新しく悔い改めたる者に残っておる暗黒に目を付けて、その者を信用せぬかも知れません。けれども神はその得たる光に目を付けてそれを喜びたまいます。またそれを善しと見たまいます。
 これは神の喜びでした。私どもは生まれ変わりの時から神を喜ばすことが出来ます。それは幸いです。ただ少しだけの光を得ますならばそれは神の慰めと喜びです。


五  節

 いつでも神はその聖業に名を付けたまいます。すなわち神は無責任にものを造りたまいません。注意してその性質に応じて名を付けたまいます。名を付けたく思いますならば、そのものの性質を知っておらねばなりません。名を付けますならばそれを注意して見ます。また後にそれを知ることが出来ます。名を付けますならばその物とほかの物との区別をわかります。みな同じ通りに見えません。
 また神が名を付けたもうならばその物と神とは関係があります。神がその物を造りて捨て置きたまわずして、つづいて顧みたもう関係があります。詩篇百四十四篇三節をご覧なさい。神が名を付けたもうならば、私どもはその名を知ってその物の性質をわかるはずです。たとえば神はあるいは罪、あるいは聖潔、あるいは贖いの名を付けたまいますならば、私どもはそれによって神の思想を悟ることが出来ます。また神は昼と夜を分かちたまいしごとく、善と悪とを弁えたもうならば、私どもも神の思想に従いて、同じ思想をもっているはずです。私どもはすべてのものにおける神の思想はいかなるものかを知り、神が名を付けたまいしごとく、私どももその名を呼びとうございます。



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