第五 キリストを求める熱心
甦りたもうた主はあなたを求めたまいます。これは幸いです。私共はこの集会に何のために来たかと問われますならば、主を求むるために、また聖霊のバプテスマを求むるために参りましたと答えましょう。けれども事実はその反対で、主があなたを求め、あなたにご自身を表したまいとうございますから、そのために摂理をもってあなたをここに導きたもうたのであります。主はこのたびここであなたに聖声を聞かせ、あなたをご自身に導きたまいとうございます。そうですから私共は心から主を求めなければなりません。
第 三 章
二章八節以下の前の一段において、主は新婦を求めたまいました。今この三章一節よりは新婦が主を求めております。主が私共を求めたもうことが解りますならば、私共も主を求むるようになって参ります。この二つのことは大概一緒に経験いたします。私共は主を求めなければ、真正に主のご慈愛に与りません。また主の甦りの力にも与りません。三章の始めに四度『わが心の愛する者』という語があります(一節、二節、三節、四節)。すなわちもはや心の中に幾分でも愛があります。この愛のために主を求めます。義務的の考えからでなく、愛のために、主を見付けなければ満足ができませんから、そのために主を求めます。
一節『夜われ床にありて我心の愛する者をたづねしが尋ねたれども得ず』
『床にありて』すなわち怠けて、己を励ます事なくして主を求めましたから得ませなんだ。主を求めるには熱心でなければなりません。しかるに少しも熱心でなく、力を尽くす事なく、自らを制する事もなくして求めますならば、必ず主を得ません。主はそのような人に決してご自身を表したまいません。おお兄弟姉妹よ、今まで床にある有様にて主を求めましたならば、いま悔い改め、己を励まし、力を尽くして主をお求めなさい。床にありて主を求める事は大いなる罪であります。
『尋ねたれども得ず』。そうですから、必ず大いなる失望があったでしょう。けれども或る人は、尋ねて未だ主を得ないのに、もはや得たろうと思います。これは大いなる間違いであります。祈禱の中に求め、或いは聖書を読む事によりて求め、または他の信者と交わる事により主を求めて、心の中に何か幾分か経験がありますと、すぐ主を得たのであると思います。しかし主が真正にあなたの中に来りたまいましたなら、必ず確信があるはずです。主は必ず堅い確信を与えたまいます。未だ主を得ませんならば、もはや得たと自ら欺いてはなりません。未だ主を得ませんならば、どうぞ涙を流して、砕けたる心をもってそれを懺悔して、いま力を尽くして、主をお求めなさい。
二節『我おもへらく 今おきて』
今幾分か心を励まします。今までの失敗を感じ、今までの不足を感じて、
『今おきて邑をまはりありき わが心の愛するものを街衢あるひは大路にてたづねんと』
他の人に遇うことのできる途で主をたずねました。すなわち基督信者の集会に参りまして、信者等と交わり他の人の談話を聞いて主を尋ねました。けれどもそのためには主を得ません。
『乃はちこれを尋ねたれども得ざりき』
そうですから第三に三節をご覧なさい。
三節『邑をまはりありく夜巡者らわれに遇ひければ汝らわが心の愛する者を見しやと問ひ』
この夜巡者等は牧師や伝道者であります。この人々は忠実なる働き人でありまして、この人の心の有様を知って助けようと思うてこの人を尋ね出しました。(日本訳に『遇ひければ』とありますのは、英語では『見つけ出した (The watchmen …… found me)』とあります。)しかし、こういう人々はどうしてそのような苦しんでいる魂を助ける事ができるかと申しましと、自分で主を見た事があれば助ける事ができます。この人はこの夜巡者等に『汝らわが心の愛する者を見しや』と尋ねました。すなわち私共は主に面会しましたならば、そのような苦しんでいる魂を助ける事ができます。けれども未だ主を見ませんならば、すなわち言い換えれば、未だ主と親しき交わりを結びませんならば、決して苦しんでいる人々を助ける事ができません。おお愛する兄弟姉妹、何故私共の群に中にただ数人だけが、聖霊のバプテスマを求めている者を助ける事ができますか。何故多くの人々はそれができないでしょうか。私共は皆度々聖別会に参りました。度々恩恵を得ました。度々十字架の効能を実験し、御血潮の聖潔を受けました。また自分は聖霊のバプテスマを受けた者であると思います。しかるに何故聖霊のバプテスマを求めている者を助ける人が少ないでしょうか。何故かならば、始終主を見ておらぬからでありますまいか。おお私共は始終主を見ていますか。悩める魂は私共に『汝らわが心の愛する者を見しや』と尋ねます。今日ここであなたが祈禱の時に真正に主に近づく事を得ますならば、この山より下る時に、あなたは迷える信者を助ける事を得ます。すなわちその人に聖霊の恩恵を受ける道を示す事を得ます。
この夜巡者等はこの人を助ける事ができませなんだ。けれども幾分か助けを与えました。次の節を見ますと、この人はこの夜巡者等と別れて間もなく主に遇いましたから、この夜巡者等に遇ったことは幾分か助けになったと思います。
四節『これに別れて過ゆく間もなくわが心の愛する者に遇たれば之をひきとめて放さず』
ついに主に遇いました。今まで三度主を求めましたけれども得ませなんだが、今四度目に漸く主を得ました。主はついにご自身をこの人に表したまいました。この人は主の属となったことを感じました。そうですから『之をひきとめて』、すなわち自分の心の中に主を宿して、止めて置きます。かのエマオに行きました弟子等が、主が共に行きたまいましたけれどもこれを知りませなんだが、主が行き過ぎんとしたまいました時に、熱心に『我儕と偕に止れ』と願いましたように、『之をひきとめ』ました。しかして、
『遂にわが母の家にともなひゆき 我を產し者の室にいりぬ』
ただ主に遇っただけでなく、心の中に主を宿し、いつまでも主と交わり、主に伴い行く事を願います。ただ主に遇った事だけで満足せず、どうかして母の家に主を伴い行きとうございます。すなわち教会の中において、他の信者にもご自分を表したもうように、熱心に願います。エマオに行きました二人の弟子等は、甦りたもうた主に遇ったことだけでは満足せずに、エルサレムに帰って、集まっていた信者にそれを証しました時、主はその集合の真中にご自分を表したまいました。私共も主に遇いましたならば、母の家に伴い行かねばなりません。
この人はそのように主を得、主と深く交わることを得ましたから、五節において他の信者がそれを妨げぬように厳しく申します。
五節『ヱルサレムの女子等よ 我なんぢらに獐と野の鹿とをさし誓ひて請ふ 愛のおのづから起る時まで殊更に喚起し且つ醒すなかれ』
このようにこの三章一節より五節までに、甦りの主を求め、この主に遇う事のできる順序が書いてあります。ヨハネ伝十四章二十一節に書いてありますように(『我誡を有ちて之を守る者は即ち我を愛するなり 我を愛する者は我父に愛せらる 我も亦これを愛して彼に自己を示すべし』)、主は愛の人にご自身を表したまいます。どうぞ主イエスを得るまで、怠らずして主をお求めなさい。
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