第八 天 の 処
新婦はもはや三章四節において愛する者に遇いました。また愛する者が自分と一緒に伴い行きたまわんことを願いました。今度はここで新郎が新婦を招きてご自分と一緒に伴い行くことを願いたまいます。
八節『新婦よ レバノンより我にともなへ レバノンより我とゝもに來れ アマナの巓 セニルまたヘルモンの巓より望み 獅子の穴また豹の山より望め』
この終わりに巓より望み、山より望めとあります。すなわち主は望むために伴い行くことを願いたまいます。主イエスは甦りたまいましたために、『諸の政と權威と能力』の上に置かれたまいました(エペソ一・二十一)。この主が今その新婦に信仰によりてご自身に伴い行き、同じ処に坐することを願いたまいます(エペソ二・六)。私共がその天の処に坐しますならば、その山の巓よりこの世の有様を眺める事ができます。またその巓よりこの世の栄え、この世の宝、この世の楽しみを望みて、その真正の価値を知る事を得ます。またこの巓より罪人の有様をも見て、そのために重荷を負う事をも得ます。
そのような巓は危うい処であります。『獅子の穴』もあり、また『豹』もおります。けれども主はもはや勝利を得たまいましたから、いま愛する新婦を呼んでそこから安心して見下ろさせたまいます。
九節『わが妹わが新婦よ なんぢはわが心を奪へり なんぢは只一目をもてまた頸玉の一をもてわが心をうばへり』
この四章八節より五章一節までの一段において、主は六度『新婦よ』と言いたまいます。今まではただ『佳耦よ』と言いたまいました(一・十五、二・十、四・一、四・七)。けれどもこの婦はもはや天の処に昇ることを得ましたから、いま主との親しき愛を経験します。そのために主は『わが新婦よ』と呼んで、ご自分の属なる事を証し、その愛を喜び楽しみたまいます。主が『わが心を奪へり』と二度まで、この節に言っていたもう事によりてそれが解ります。
『只一目をもて』、すなわち新婦が信仰をもって主を見上げる、その信仰のために主は喜びたまいます。また『頸玉の一をもて』、これはどういう意味ですかなら、新婦が主イエスの軛を負うて心から主に服従し、主と一緒に十字架を負うているのを、主は愛の御目をもって見たまいまして、その軛を『頸玉』と呼びたまいます。すなわち新婦の服従のために、主は喜びたまいます。けれどもそればかりでなく、主にとりて最も大いなる喜悦は新婦の愛であります。すなわち、
十節『わが妹わが新婦よ なんぢの愛は樂しきかな なんぢの愛は酒よりも遙にすぐれ なんぢの香膏の馨は一切の香物よりもすぐれたり』
主はいろいろの天国の喜びを喜びたまいます。けれども救われし罪人の愛に愈りて主を喜ばせるものはありません。私共が主を愛する愛を、主は最も楽しみたまいます。また私共の生涯によりて聖霊の『香膏の馨』がいたしますれば、主はそれを嗅いで喜びたまいます。十一節にも続いて主は新婦のための快楽を言いたまいます。
十一節『新婦よなんぢの唇は蜜を滴らす なんぢの舌の底には蜜と乳とあり なんぢの衣裳の香氣はレバノンの香氣のごとし』
主はここで新婦の唇や舌より出ずる言のために喜びたまいます。或いは祈禱の言、或いは証の言のために、蜜を得たごとくに喜びたまいます。マラキ書三章十六節『その時ヱホバをおそるゝ者互に相かたりヱホバ耳をかたむけてこれを聽たまへり』。
十二節『わが妹わがはなよめよ なんぢは閉たる園 閉たる水源 封じたる泉水のごとし』
基督信者は主のために新しいエデンの園であります。主は一度エデンの園を作りたまいましたが、汚れが入りましたからそれを失いたまいました。そうですから今度は罪人を救い、またこれを潔めて、ご自分のために新しきエデンの園を作りたまいます。私共の亡んだ、また荒れていた心は、美わしいエデンの園のごとくなりました。(エゼキエル書三十六章三十五節『人すなはち言ん 此荒たりし地はエデンの園のごとくに成り荒滅び圮れたりし邑々は堅固なりて人の住に至れりと』およびイザヤ書五十一章三節『そはヱホバ、シオンを慰め、またその凡てあれたる所をなぐさめてその荒野をエデンのごとく、その沙漠をヱホバの園のごとくなしたまへり、斯てその中によろこびと歡樂とあり感謝とうたうたふ聲とありてきこゆ』をご覧なさい。)主はその園の中に各様の草木を植え付けたまいました。神はその農夫でありますから(ヨハネ十五・一)、巧みにその園を治め、また注意をもってこれを守りたまいます。これは『閉たる園』でありますから、敵はその中に入ることができません。また『封じたる泉水』でありますから、その中に汚れが入りません。
十三節、十四節『なんぢの園の中に生いづる者は石榴及びもろもろの佳果またコペル及びナルダの草 ナルダ 番紅花 菖蒲 桂枝 さまざまの乳香の木および沒藥 蘆薈 一切の貴とき香物なり』
その園はこのようによく果を結びます。またその果は早く腐ってしまう果でなく、乳香のごとくいつまでも香りを出すものであります。また自分も朽ちずして他のものを守るものであります。格別にその果は神のために、また神の御前に結ぶものであります。
十五節『なんぢは園の泉水 活る水の井 レバノンよりいづる流水なり』
すなわちかかる信者はただ園であるばかりでなく、他の人々を湿す泉であります。
十六節『北風よ 起れ 南風よ 來れ 我園を吹てその香氣を揚よ』
かかる信者はただ人を湿おすばかりでなく、他の人々の前によい香気を放ちます。人に恵みを与え、よい感化を与えて、人を喜ばせます。またそのために聖霊の格別の感化を求めます。他の人々を恵むために格別にそれを願います。聖霊が北風のごとく起こって来て、寒さや苦しみを与えましても、或いは南風のごとく吹いて来て、暑さと幸いを与えましても、どちらでもとにかく聖霊がわが衷に働きたもう事によって、他の人々に恵みを与えとうございます。
主はその園を喜びたまいます。また新婦も主がその園に入りたまわん事を願います。自分が主の園である事を言い表してその園の中に主のご臨在を願い、またその果を主に献げて、主がそれを食して満足したまわんことを祈ります。
『ねがはくはわが愛する者のおのが園にいりきたりてその佳き果を食はんことを』
この果は聖霊によりて結んだ果でありますから、主がそれを喜び、それによりて満足したもう事を願います。主はそのような祈禱に必ず答えたまいます。
第 五 章
一節『わが妹わがはなよめよ 我はわが園にいり わが沒藥と薰物とを採り わが蜜房と蜜とを食ひ わが酒とわが乳とを飮り』
主はさっそく祈禱に答えて、その信者の心の中に入りたまいます。しかしてそれを証したまいます。『我はわが園にいり』。またその中にある各様の果を取りたまいまして、それによりて満足したまいます。またそれのみならず、他の人々にもそれを分け与えたまいます。
『わが伴侶等よ 請ふ食へ わが愛する人々よ 請ふ飮あけよ』
そうですからこういう信者によりて、他の人々が主の恵みを得て満足いたします。
私共はただいま主の招きを聞いて、このように恵みの山の巓に登り、そこからこの世を見下ろすことが出來るようになりますれば、このように主と親しく交わりて、他の人々をも助けることができます。
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