第七 キリストに似ること
第 四 章
主が私共に恩恵を与えたもう目的は何でありますかならば、私共をご自分の状に象らせんがためであります。ただ私共の罪を赦すばかりでなく、また私共に幸福と天国を与えるばかりでなく、私共をご自分の状に象らせて、真正に全き者とならせたまいとうございます。そうですから、主は私共の心の中にご自分が有っていたもう柔和や聖潔、また力や愛を見たもうことができるまで、私共の中に働きたまいます。また私共の中に幾分にてもご自分の美わしきを見たまいますならば、そのために喜びたまいます。
この四章において、もはや新婦の中に、そのような主の恵みを見ることを得ます。これはみな恩恵であります。自分では少しもこの美わしい姿はできません。けれども主がその中に働いて、ご自分の美わしさを与えたまいます。詩篇九十篇十七節『斯てわれらの神ヱホバの佳美をわれらのうへにのぞましめたまへ』。そのために旧きを捨ててみな新しくなることを得ます(コリント後書五章十七節)。どうぞそのために全く旧き人を捨て、また自分の熱心と自分の決心に依り頼まずして、衷に働きたもう神のみに依り頼みなさい。ピリピ書二章十三節『そは神その善旨を行はんとて爾曹の衷にはたらき爾曹をして志をたて事を行はしむれば也』。
どうしてそのような品性を確かに受け取ることができますかならば、主の聖言の力によってであります。
神がこの世を創造したまいました時に『おほせたまへば立』ちましたが(詩篇三十三・九)、いま私共の心の中に新しき創造をしたもう時にも『おほせたまへば立』ちます。私共はその聖言を受け納れる事によりて恩恵を得ます。かくてすべての事において富むことを得(コリント前書一・五)、またすべての徳が私共に『衷に在て彌增』しますから、『怠ることなく又實を結ざること無に』至ります(ペテロ後書一・八)。主はそれを見て喜びたまいます。詩篇四十五篇十一節『さらば王はなんぢの美麗をしたはん』。
エゼキエル書十六章一節より十四節までのところに、一人の人が救われまた潔められ、恵まれることの譬話が書いてあります。そこで主よりいろいろの飾物を得まして、美麗が極まるとあります。『汝の美貎のために汝の名は國々にひろまれり 是わが汝にほどこせしわれの飾物によりて汝の美麗極りたればなり』(十四節)。私共も主の恩恵によりてこのようになることを得ます。
一節より五節までを見ますと、主はここで新婦の美わしき七つの点を見たまいます。第一は目であります。
一節『あゝなんぢ美はしきかな わが佳耦よ あゝなんぢうるはしきかな なんぢの目は面帕のうしろにありて鴿のごとし』
人は目によってその人の心を知る事ができます。鴿の目とは馴良しく、また柔和と愛のあることを示します。
第二は髪です。
『なんぢの髮はギレアデ山の腰に臥たる山羊の群に似たり』
髪は表面の生涯を指します。すなわち自分の性質より起こって出る、日常の多くの小さい事であります。これが主の眼の前に強くまた美わしうございます。
第三は歯であります。
二節『なんぢの齒は毛を剪たる牝羊の浴塲より出たるがごとし おのおの雙子をうみてひとつも子なきものはなし』
新婦の歯はこのように美しくて揃っております。歯は何を指しますかならば、堅い糧を受け入れることのできる力を指します。(ヘブル書五章十二節、十四節をご覧なさい。)
第四は唇であります。
三節『なんぢの唇は紅色の線維のごとく その口は美はし』
唇は言を指します。私共は言によりて格別に内なる人を判断する事を得ます。また未来の審判はこの世におる間に語った言によりて審かれます(マタイ十二・三十七)。また心の内に溢れるほどの愛がありますれば、必ずその言によりてそれを知る事ができます。『こゝろに充るより口に言るゝ者』であります(マタイ十二・三十四)。
第五は頬です。
『なんぢの頰は面帕のうしろにありて柘榴の半片に似たり』
このように美わしい豊かな頬は健康を示します。ヨハネ第三書二節にあるように『靈魂の隆んなる』有様を示したものであります。
第六はうなじであります。
四節『なんぢの頸項は武器庫にとて建たるダビデの戍樓のごとし その上には一千の盾を懸つらぬ みな勇士の大楯なり』
頸項は意志を指します。すなわち新婦の意志は、このように強いものとせられまして神の聖旨を行います。
第七は乳房です。
五節『なんぢの兩乳房は牝獐の雙子なる二箇の小鹿が百合花の中に草はみをるに似たり』
乳房は他の人を養い、また助ける力を指します。新婦はそのように人に恵みを与える者であります。
主は私共の中に、この七つの点を見たまいまして、喜びます。私共は聖書の中にこういう方面に恵みを与えられるという約束を読みます時に、謙って主に感謝し、また十字架に近づいてその恵みの源泉である御血潮を見とうございます。六節においてそういうことを見ます。
六節『日の凉しくなるまで 影の消るまでわれ沒藥の山また乳香の岡に行べし』
没薬と乳香は死の時に用うるものでありますから、すなわち死の山なるカルバリ山に行きて、そこで己に死に、また罪に死ぬることを得る事であります。私共の心の中に恩恵があれば、それは何のためですかならば、ただ十字架のため、またただ罪に死ぬる事によりて得たものであります。主は七節においてもう一度新婦の美わしきことを見て喜びたまいます。
七節『わが佳耦よ なんぢはことごとくうるはしくしてすこしのきずもなし』
主は私共をそのような美わしい、完全な者としとうございます。どうか私共の心の中に、この恵みを妨げる分子を少しも有ちませずして、断えず聖霊の内住を求めて、このように美わしい者とせられ、『榮に榮いや增りて其(主と)おなじ像に化る』ことを得とうございます(コリント後書三・十八)。
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