第九 主の苦しみに与る生涯
前の一段において学びましたように、この新婦たる信者は大いなる恵みを受けました。キリストと偕に甦りキリストと共に天の処に坐し、主との親しき交わりを受けました。この人は真正に大いなる恵みまた高い恵みを得ました。主はそこまでこの人を導きたまいました。これは実に幸福であります。或る人はそこまで導かれますれば、『後に在ものを忘れ前に在ものを望み』てただ走ります(ピリピ書三章十三節)。今まで受けた恵みにも満足せず、それを忘れて更に前にあるものを求めて参ります。けれども或る人はそうではありません。今までの恵みに満足しますから休んでしまいます。この人は己を励ますことをせず、休んでおります。もはや力を尽くして主を求めません。力を尽くして祈りません。また力を尽くして十字架を負いません。
二節『われは睡りたれども』
眠っております。三章の一節において、床に臥している有様を見ましたが、もう一度ここで同じ有様を見ます。今まで恵まれ、また主のご栄光を拝見いたしました。けれども今休んでおります。そして偽りの満足の中に憩うております。おお兄弟姉妹よ、これは実に危うい事であります。恵まれた兄弟姉妹の中で、多くの者がこのように今までの恵みに満足してしまって、臥床の上に行きて臥して眠っております。潔められたには相違ありません。聖霊を受けたには相違ありません。けれども今その心の有様は眠っている有様です。おお兄弟姉妹よ、私共の中にこういう心を有っている者はありますまいか。こういう人がありますれば、主は是非その人の目を醒しとうございます。或いは主がこのたびこの集会を開きたまいました目的は、そのように臥床に眠っている者の目を醒すためであるかも知れません。
ここでこの臥床にある者は、もう一度その愛する者の声を聞きました。主は懇ろに近づいて、もう一度その聖声を聞かせたまいました。そのように主はこのたびここで、眠っている兄弟姉妹に懇ろに近づいて、その心の中にその聖声を響かせたまいます。どうか心の中に深くそのことをお考えなさい。主はあなたの心の中にその聖声を響かせたまいましたか。実に残念なことは、いま主はここで戸の外に立っていたもうことであります。主はこの人と共に在したまわずして、ひとり戸の外に立っていたまいます。すなわちこの時にこの人は真正に主と交わりません。主とこの人との間に隔てができました。今までそのような隔てがありませなんだ。一節を見ますと、真に美わしい交わりがありました。主と共に園の中において楽しく交わる事を得ました。けれどもその得た恵みに満足し、恵みに馴れ、また怠りましたから、今この人と主との間に隔てができました。おお、けれども感謝すべき事には、そのように隔てができました時にさえ、主はその人を尋ねていたまいます。近づいていたまいます。是非その人の目を醒しとうございます。
『われは睡りたれどもわが心は醒ゐたり 時にわが愛する者の聲あり 即はち門をたゝきていふ わが妹わが佳耦 わが鴿 わが完きものよ われのために開け わが首には露滿ち わが髮の毛には夜の點滴みてりと』
主は愛の繋をもってこの人を引きたまいとうございますから、『わが妹わが佳耦よ』と愛の声をかけたまいます。今この主は戸の外に在して、『われのために開け』よと求めたまいます。主は戸の外で夜の恐ろしい暗黒を経験し、夜の嵐の中に立って苦しんでいたまいますのに、この人は安らかに、心持ち良く臥床に伏しております。主は重荷を負うて悲しんでいたまいますのに、この人は床の中で暢気に休んでいます。
今までこの人は甦りの主イエスを得ました。また栄光の主をも得ました。また恵みを与える与え主なる主をも得ました。けれども未だ悲哀の人なる主を得ておりません。未だ悲哀の人なる主と交わる経験を有ったことがありません。この人は最早キリストと共に甦らされて、天の処の生涯を経験しました。けれども未だ悲哀の人と一緒に地の処を経験いたしません。悲哀の人と一緒に地の処を経験するとはどういうことでありますかならば、ゲツセマネの経験であります。審判の座を経験することです。十字架の経験であります。天の処を経験することは実に幸福であります。また私共はまず第一にそれを経験せねばなりません。けれども続いて第二の地の処をも経験せねばなりません。ゲツセマネと審判の座と、十字架を経験せねばなりません。今日にても神の御子、主イエスは、このように重荷を負うていたまいますが、この世にいたまいました時にも罪人のために重荷を負うて、これを憐れみ、その身代わりとなりたまいました。おお兄弟姉妹よ、私共この世に在る間、主と共に生涯を暮らしとうございますれば、主の御足跡を踏みとうございますれば、そのように罪人のために重荷を負い、亡びつつある彼らを救う目的を有っていなければなりません。他のことには目をつけず、主イエスの目をもってこの世を見、主イエスの目をもって罪人を見て生涯を暮らさなければなりません。主と共に行きとうございますれば主と共にゲツセマネの園の中に伏して祈らなければなりません。人の罪を負うて、罪人の上に降るべき苦しみを深く感じて、暗黒の中に伏して祈らなければなりません。主はそのような有様でいたまいます。
『わが首には露滿ち わが髮の毛には夜の點滴みてりと』
主はそのような有様で戦いに出でたまいました。主と同じ心を有もっている者は、そのように主と共にゲツセマネに入る事を得ます。兄弟姉妹よ、主は貴き召しをもって私共を召してご自分の新婦としたまいました。必ず未来において神の御子と一つになります。けれども今でも主とその新婦とは一つの心、一つの考え、一つの精神を有っているはずであります。神の御子は格別に神の羔でありました。人を憐れむために己を犠牲とする事は、その御心、ご性質でありました。私共もこの主の新婦でありますれば、こういう心があるはずです。新婦が新郎と親しい交わりを願いますれば、自分の心の中に新郎の心を有っていなければなりません。すなわち私共はゲツセマネに行く心、カルバリに行く心を有っているはずであります。しかるにこの雅歌の婦は今そんな心を有っておりません。潔められた者であります。また幾分か聖霊を得た者でありました。けれども未だ悲哀の人なる主を受け入れておりません。おお、どうぞ私共各自自分の心を探りとうございます。
主イエスはこの世に在したもうた時、ピラトやヘロデの審判の座に立たなければなりませなんだ。そこで偽りの証人の証を聞かなければなりませなんだ。そこで罪人の攻撃を受けなければなりませなんだ。おお主はそこでそのように苦しめられたまいました。けれどもそれは何のためでしたかならば、罪人を憐れんで救いの道を開くためでした。またそのために進んで十字架に上りたまいました。十字架上においてそのお身体は死にたまいました。またそれのみならず、十字架上において悪魔の力と戦いたまいました。表面より見れば悪魔の捕虜のごとくなりたまいました。おお主は十字架上において罪人の代わりに刑罰を受け罪とせられたまいました。父なる神に遠ざけられて、暗黒の中に入りたまいました。私共も罪人を救いとうございますならば、暢気な生涯を暮らすわけには参りません。一粒の麦が地に落ちて死なずば必ず多くの果を結ぶことができません。人を救う道は今でも死の道であります。十字架の道であります。おお主はただ今私共の心の中にそれについて聖声を響かせたまいます。『わが愛する者の聲あり 即はち門をたゝきていふ』。
英国のエフ・ビー・マイヤーは英国における恵まれた牧師の一人であります。或る時こんな試験をいたしました。或る朝早く眼を醒しました時、自分は十字架の苦しみを得たか否かという問いが、その心の中に起こりました。たびたび十字架のことを宣べ伝え、またたびたび献身について語りました。けれどもその朝、自分は果たして十字架に釘けられたかという声を聞いて、自らを探り、真正に主と共に十字架に釘けられて十字架の苦しみに与ることを跪いて熱心に神に祈りました。主はその時近づいて死の経験を与えたまいました。またその時から神はミスター・マイヤーを大いに用いたまいました。おおあなたは悲哀の人と共になりましたか。心の中に真正に十字架の主を受け入れましたか。何卒今朝御各自の心をご判断なさい。
この人は三節を見ますればその聖声を聞きました時に、心の中にいろいろの申し訳が起こりました。
三節『われすでにわが衣服を脫り いかでまた着るべき 已にわが足をあらへり いかでまた汚すべき』
あなたが主の聖声を聞きました時に、心の中に申し訳が起こるのは当然であります。悪魔はそれを与える事が上手であります。神がモーセに聖声を響かせたまいました時に、モーセの心の中に出エジプト記三章十一節にあるような申し訳が起こりまして、主と共にイスラエルを救いに行くことを好みませなんだ。おお皆様、あなたの心の中に何か申し訳がありますか。真正に主と共に十字架を負うことを好みませんならば、必ずいろいろの申し訳が起こります。けれどもどうか真正に心から主と共に十字架の道をお踏みなさるようにお勧めいたします。
申し訳の起こるのは何のためですかならば恐れのためであります。苦しみを恐れ、困難を恐れ、耻を恐れ、人間の迫害、人間の面を恐れるために、いろいろの申し訳が起ってくるのであります、おお恐怖!、これは神と人を妨げる最も強い者であります。悪魔の一番強い誘惑は恐れしめる事であります。何か恐ろしいものを見せて、私共を恐れしめ、それによりて神の道を踏む事を断らしめんとします。おおそのために働き人がたびたび妨げられました。心の中に恐れが起こりますならばそのために神はその人を用いたもう事ができません。
英国の急行列車は真に速うございます。一時間に八十哩、或いは九十哩も走る事があります。或る時その急行列車が停車場に停車しております時に、私はちょっとその機関士に話してみた事があります。あなたはこのように急行列車を運転して速く走る時に恐怖が起こりませんかと問うてみますと、その人はちょっと黙ってから申しますのに、否そうではありません、急行列車を走らせる時に心の中に心配があり或いは恐怖が起こりますれば、急行列車を運転させる事はできません。少しも恐怖を抱かずに運転させなければなりません。もし運転士の心の中に幾分にても心配や恐怖がありますれば必ず失敗します。またよし失敗しませんでも、その人は決して急行列車の運転士たるべき人ではありません。また上の役人は運転士の心の中に恐怖や心配がありますれば、それをすぐ知ってその人より急行列車の役を取り上げて、貨物列車の役を与えます。おお兄弟姉妹よ、神はこのために多くの人に貨物列車の役を与えたまいました。けれども神はあなたに急行列車を与えたまいとうございます。しかしもしあなたの心に恐怖や心配が起こりますれば、その貴い役に適わしくありませんから、貨物列車の役を与えたまわなければなりません。どうぞこの三節のような申し訳の起こらぬように悔い改めて気をお付けなさい。
四節『わが愛する者 戶の穴より手をさしいれしかば わが心かれのためにうごきたり』
幸いに私共の愛する者は私共の心を動かす道を知っていたまいます。あなたの心の関木の運転をよく弁えていたまいます。主は『戶の穴より手をさしいれ』たまいます。十字架の前の晩、晩餐の宴の時、主イエスは是非ユダの固い心を開かせとうございましたから、一撮の食物をユダに与えたまいました(ヨハネ十三章二十六節)。これは親しき友に対する愛の兆でありました。すなわち主はその手をユダの心の戸の穴より差し入れたもうたのであります。けれどもユダは断りました。頑固なる心をもって、主の御手の動きを断りました。主はただいま御各自の心の戸の穴より御手を差し入れたもうたと思います。あなたはその御手を受け入れますか、断りますか、いかがです。
主はまたペテロが、遠く離れて従いましたために堕落しました時、是非その心を動かしたまいとうございました。すなわちペテロが主を知らずと三度申しました時に、身を返してペテロを眺めたまいました。これも同じ事でペテロの心の戸の穴より手を入れたもうたのであります。ペテロはそのために心が熔かされ、砕かれ、いたく憂いて哭き、涙を流しました。このたび主はあなたの心の戸の穴に手を入れたまいますから、どうぞこの愛の兆のために心を動かされて、悲哀の人を受け入れなさるようにお勧めいたします。
五節『やがて起いでゝわが愛する者の爲に開かんとせしとき 沒藥わが手より 沒藥の汁わが指よりながれて 關木の把柄のうへにしたゝれり』
起きてどうかして十字架の主を受け入れとうございます。起きてどうかして十字架の主と伴い行きとうございます。主と一緒に苦しみを得、主と一緒に迫害を得とうございます。そうですからその手に没薬が流れて参ります。没薬は死の雛型であります。真正に己に死にまた世に対して死ぬることを得て、そのような精神をもって主のために戸を開きとうございます。主は今もこういう心を願っていたまいます。私共は今こういう心を有っておりますか。真正にカルバリ山の心をわが心としておりますか。自分の心の中に没薬──すなわち死の香がありますか、己に死に、世に死に、自分の経験に死んで、ただ十字架の主に従いたい心がありますか。
私が大学校におりました時、私よりも二年上の級に一人の学生がありまして、その人は当時成功していた者でありました。これは三十年前のことでありますが、当時世界一の自転車乗りでありまして、競争者の中で有名な人でありました。またそればかりでなく社会の地位もよく、英国の公爵の息子でありました。また学問もよくできる人でありまして、二十四歳ぐらいの時、ケンブリッジ大学の教授となった人でありました。その人が或る時十字架の主を見ました。自分は今このようにこの世に属ける幸福を得ているが、主イエスは天国を捨ててこの憐れむべき世に下りたもうたのであるということを深く心の中に感じました。その時、或る人がアフリカの南の方のエドンという町の事を話しました。そこの人々は回教徒の人々でありますから、なかなか主イエスの事を受け入れません。またそこは気候の悪いところでいつも暑く、またそこの周囲はただ砂の荒野ばかりありまして、日光の強いところであります。けれどもそこには未だ福音の伝わっておらないことを聞きまして、その人は世につけるあらゆる望みを捨ててそこに伝道に行き、一ヶ年半後にそこで死にました。その人は悲哀の人を心に受け入れたのであります。おおあなたは十字架を負う道を踏みますか。ここで主を受け入れて幸福を得とうございますか。それは潔い心であります。けれどもそれと一緒に、主を受け入れましたならば、この悲哀の人なるイエスと一緒に生涯を暮らすべきはずであることを忘れてはなりません。
近頃、或る若い人が主のためにアフリカの真中の、コンゴ川の付近に参りました。そこは土地の悪いところで、多くの宣教師はそこで死にました。そうですから、その人は英国を出る前に、或る人に向かって、私はアフリカに行く前に私の生涯の最後の暇乞いに母の家に参りましたと申しましたから、その人が何故そのようなことをおっしゃいますかと尋ねますと、ご存じのとおり彼処は身体のために悪いところであります故、たぶん一、二年の中に私は死にましょうから、死の覚悟をもって参りますと申しました。おお愛する兄弟姉妹よ、私共は主の重荷を負うて伝道しますれば、このように十字架を負うことを願います。私共はこのように喜んで伝道の戦争に出ますか。いかがですか。このように喜んで戸を開きて、悲哀の人を受け入れますか。おおどうぞ自分の心をお探りなさい。ただいま主はあなたに聖声を聞かしめたまいます。
だんだん主の再臨が近づきました。十字架を負うて御用をいたしました者は、その時に冠を得ていつまでも主と共に幸福に与ります。けれどもその後には再び戦争に出て十字架を負う機がありません。再臨の後にはもはや身も魂も献げて死に至るまで十字架を負うことができません。兄弟姉妹よ、もし私共が床に臥したままでおりますならば、再臨の時どうでしょうか。必ず失望いたしましょう。その時再び戦場に出て再び主のために戦いたい心が起こると思います。けれどもその時にはもはやできません。そうですからどうぞ、その時に失望する事のないように、ただいま気を付けなければなりません。
この間このたびの恐ろしい戦争に、或る若い士官が重傷を受けました。だんだんその傷が治りましたので英国に連れて帰られました時、私の友達がその人を訪問に参りました。その士官はキリスト信者であります。その時幾分か話をいたしましたが、暫くしてただ涙を流して何も申しません。その士官は涙を流す事は兵卒らしい事でないと思って、それを隠しとうございましたが、隠すことができません。ついにその士官がこう申しました。私が戦場におりました時、私の同僚の士官がありました。私はその人にたびたび遇いましたが、主イエスのことをついに一言も話しませなんだ。幾たびも話す機がありましたが、話しませなんだ。ところが私が傷を受ける一週間前に、その人はついに戦死しました。神は私にその人に救いを与える機を与えたまいましたのに、私はそれを怠りました、と言ってその人は涙を流したそうであります。おお兄弟姉妹よ。再臨の時あなたの心の中にこういう失望が起こりますまいか。おおどうぞいま心の戸を開いて悲哀の人をお受け入れなさい。十字架の主をお受け入れなさい。どうぞ主と共に十字架の苦しみ、ゲツセマネの苦しみを受ける事をお求めなさい。どうぞ喜んで愛のために身も魂も献げて主ご自身をお受け入れなさい。
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