雅 歌 霊 解

          ビー・エフ・バックストン講述
          米   田   豊   筆記



総   論



 聖書全体の大意は神のご慈愛であります。神は聖書の聖言みことばによりて私共わたくしどもにその愛を表したまいとうございます。神は断えず私共を愛したまいます。断えず私共に対して燃え立つほのおのような愛をっていたまいます。しかるに私共がそれを経験せぬのはこれを信ぜぬからであります。神は聖書の聖言みことばによりて私共の目を開き、私共にその愛を表して愛の交わりを与えたまいます。神が私共にそのご慈愛を表して、何を願いたまいますかならば、ただ愛のみを願いたまいます。宗教はただ愛の問題であります。心の中に愛がありますならば、その人は真の宗教の人であります。また格別にその愛によりて、神と交わり、また人と交わることを得ます。

 聖書の中、ことに雅歌の書に神のご慈愛が表れています。また雅歌によりて私共は神とうるわしい愛の交わりのできる道を教えられます。私共はこのたびこの集会において、続いてこの雅歌の書を研究することによってどうぞ主のご慈愛をだんだん知り、またそれを経験し、だんだんその愛に動かされて、主との親しき交わりに入ることを願います。これはまた主の願いであります。

 愛の中にいろいろの階段があります。子供は父に対してうるわしいきよき愛をっております。私共は神に対してそのような子供らしい愛をっているはずであります。また友達どうしの間にもうるわしいきよき愛があります。主は十字架によりてそのような愛をあらわし、その友のために生命いのちてたまいました。またそれによって私共の愛を引きたまいとうございました。実にそのような愛はうるわしい愛であります。けれどもそのような愛よりも更にとうときよき愛は何でありますかならば──更に熱い愛は何でありますかならば、新郎と新婦の愛であります。また聖霊はこういうたとえをもって私共に主イエスと私共各自の間の交わりと愛を教えたまいます。私共は今まで或いは正しい愛をもって神を愛したかも知れません。けれどもこのたび聖霊の感化によりて、聖霊がこの聖言みことばを用いたもうことによりて、主イエスの新郎たる愛を知りこの主に対して新婦の愛をもって生涯を暮らしとうございます。主イエスと霊的結婚のような新しい関係をち、どうぞ断えずキリストにおり、またキリストが断えず私共のうちいましたまわんことを願います。

 聖書の中の彼方此方に、こういうたとえをもってキリストの愛を示されています。詩篇四十五篇の一節から終わりまでにも、そのようなたとえをもって、私共にイエスの愛が示されております。しかし格別に十節、十一節をご覧なさい。

むすめよきけ 目をそゝげ
なんぢの耳をかたぶけよ
なんぢのたみとなんぢが父の家をわすれよ
さらば王はなんぢの美麗うるはしきをしたはん
王はなんぢの主なり これを伏拜ふしをが

ここに主は新郎の愛を表して、私共を引きたまいとうございます。またイザヤ書六十二章四節、五節、

人ふたゝびなんぢをすてられたる者といはず再びなんぢの地をあれたる者といはじ かへりてなんぢをヘフジバ(わがよろこぶところ)とゝなへ なんぢの地をベウラ(配偶)とゝなふべし そはヱホバなんぢをよろこびたまふ なんぢの地は配偶をえん わかきものゝ處女をとめをめとる如くなんぢの子輩こらはなんぢをめとらん 新郞にひむこ新婦にひよめをよろこぶごとく なんぢの神なんぢを喜びたまふべし

私共はこのたび格別にこういう愛を知り、こういう喜悦よろこびを経験しとうございます。ヨハネ伝三章二十九節にもまた同じ譬えが記してあります。

新婦はなよめをもてる者は新郞はなむこなり 新郞はなむこの友たちてその聲をきかこれよりて喜び多し われいまこの喜び滿みつることを得たり

またエペソ書五章二十五節にも、黙示録の終わりにも、このうるわしいたとえが示されてあります。そうですからどうぞ聖霊の光の中に、その深い意味を悟りとうございます。

 私共がイエスを知ることに、いろいろの階段があります。第一、主イエスを教師として知ることを得ます。弟子等は第一に主の御言みことばを聞き、主イエスをラビ、すなわち教師と申しました。しかしだんだん時が過ぎてから、十字架に懸かりたもうた主イエスを知ることを得ました。私共も第二にあがないをなしたもうた主イエスを知ることを得ます。すなわち十字架にのぼりたもうた主イエスを喜びます。されどもだんだん深く主を知ることを得て、第三には昇天したもうた主イエスを知ることを得ます。すなわち私共の王であり、また祭司の長である主イエスを知ることを得ます。格別にヘブル書によりて、昇天したもうた我らの祭司の長たる主イエスを知ることを得ます。また第四には、新郎たる主イエスを知ることを得ます。格別に再臨の時に、そのように主イエスを知ることを得ますが、しかし今でも心の中に主の再臨を待ち望む心がありますれば、新郎たる主イエスを知ることを得ます。私共は主の再臨に対する仕度したくを致しとうございますならば、そのように主イエスを知らなければなりません。このように親しい交わりをもって、絶えず主と一つになりますれば、新郎が再びきたりたもう時のための仕度したくが、最早できたのであります。私共は今毎日、新聞を見ますれば、主の再臨の近くなったことの兆しを明らかに見ることを得ますから、この雅歌を読んで、その深い意味を尋ねることは、この場合に適当のことであると思います。私共はこの書を読むことによりて、真正ほんとうに主の再臨のために心の仕度したくを致しとうございます。

 雅歌を読みますれば、種々のたとえまたは雛型が書いてあります。しかし一つのたとえとその次のたとえとは、所によって、あまり関係がありません。また私共はこの書を読みます時に、表面の文字でなく、そのことばうちにある深い霊的の意味をたずねなければなりません。天路歴程を読みます時に、その表面のことばのみを読みますれば、その意味がよく解りません。雅歌もそのように表面のことばを読むだけでありますれば、よほど難しい書で何の利益もありません。されども聖霊の光にりてこの書を読みますれば、その意味が明らかになりその中にあるいろいろのうるわしいたとえや雛型によって、主イエスのご慈愛を知ることを得ます。

 雅歌は始めより終わりまで、霊的の関係と順序があります。私共はこのたび格別にその霊的の意味をたずね、その順序に従って、いよいよ主との親しき交わりに入りとうございます。この書の中に私共は如何にして主に近づき、また主を深く知ることができるかについて、いろいろなたとえや雛型をもって記してありますから、聖霊の光によりてこれを読み、聖霊ご自身に導かれますならば、いよいよ主と深い交わりに入ることを得ます。



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